桑田図々しすぎないか?at BASE
桑田図々しすぎないか? - 暇つぶし2ch184:代打名無し@実況は実況板で
06/11/07 11:10:54 VHP6Ux7i0
>>175
1984年、日大藤沢高からドラフト5位で中日ドラゴンズに入団。入団当時、野球解説者だった星野仙一は
「背番号が34で左投げというから『金田正一さん2世』と期待してブルペンを見に行ったが、ただの大柄な男で、
あまりに不恰好なモーションでコントロールもない。球も130km前後しか出ないからがっかりした」と語っている。
以後山内一弘監督時代は1軍登板がなく、1986年のシーズン最終戦で登板したのみで、
星野仙一監督が就任した1987年はルーキー・近藤真一の存在で登板機会に恵まれなかった。

1988年のアメリカ留学でロサンゼルス・ドジャースのアイク生原よりスクリューボールを習い素質が開花。
この時生原を仲介に、当時のドジャースの大エース、フェルナンド・バレンズエラより
シンカー(スクリューボール)を教わったという伝説があるが、その後本人の話で違うことが発覚。

それによると、実際バレンズエラから教わりはしたが、あまりに高度な話で全く理解できなかったため、
結局習得出来ず、1Aで不貞腐れていた(中日からそのシーズンは戦力外という扱い)という。
しかし当時、たまたま居たスペイン人の三塁手(控えの控えレベル)が、遊びで仲間とピッチングをして遊んでおり、
その選手がシンカーを投げていたのを見て、その選手から投げ方を教えてもらった後に
自分も遊びで投げてみたところ、驚くほど球が曲がったそうである。
さらにその日の試合でも決め球として使え、それ以後登板毎に使っていると
、1Aのオールスターまで呼ばれるようになり、それを見た対戦相手の数球団のスカウトが評価、
メジャーリーグのロースター入りを正式に打診された(ドジャースからは打診がなかった)。
しかし山本昌のビデオを見た星野監督が、山本昌の成長ぶりに慌てて日本に呼び戻す事を決定したため、
ロースター入りはならなかった。当時投手が足りない状況だったこともあり先発の一角に加わると、
直後に1軍で5連勝し、リーグ優勝に貢献した(もし中日球団の判断がなかったり、
ロースター入りの打診先がドジャースだった場合、野茂英雄よりも遥かに早くメジャー入りしていたことになる)。
その1988年の日本シリーズでは秘密兵器として第3戦の先発に抜擢され、工藤公康と投げ合い負け投手となるも、
将来の活躍を予感させるものがあった。


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