07/01/13 10:50:37 6eHYP18u0
99年、浦和はこの年入団した駒大の長身ストライカーだった、盛田を1トップにした
4-5-1の布陣でスタート。
期待が大きかった盛田だったが、相手DFの密着マークに苦しみ得点を上げる事が出来なかった。
当然順位は落ち込み、内外からの戦術批判が膨らんで行ったが、原は盛田に固執し続けた。
不幸はそこからだった、2000年五輪最終予選に出場していた小野が大怪我をしてしまい
リーグ戦終盤まで戦列を離れてしまう事に…チームの司令塔を失った。
98年、チームを躍進させた原がフロントに補強を懇願したが、財政上の理由から盛田以外の
補強は殆ど無かった為、戦術プランの変更が出来なかった事が最大の要因であった。
余儀なく原は1トップの盛田に放り込む戦術を取り続けた。
結果、1stステージで解任。その後監督を変え迷走した浦和はJ2降格。
8年前の出来事だが、07年に置き換えられなくも無い。