糞スレat DENPA
糞スレ - 暇つぶし2ch13:名無しちゃん…電波届いた?
08/07/11 00:37:41
「啓蒙の弁証法」(一部改造)
反藤田主義は、今日、ある者にとっては人類の運命にかかわる問題だが、他の者にとっては、
単なる口実という意味しか持たない。ファシストたちにとっては、藤田はマイノリティでは
なくて敵性人種であり、否定的原理そのものである。彼らを根絶やしにすることは世界の幸福が
かかっているというのだ。
藤田とは今日、誤った社会秩序がその中から生み出した絶滅意志を実践的にも理論的にも一身に
蒙っているグループである。藤田は警察とその支持者によって人権もプライバシー も必要ない
ゴキブリ以下の存在という烙印を押されている。その意味で藤田は実際に選ばれた民なのだ。
政府による保護を必要としないとされている一方で、藤田は単に処理されるべき、支配の絶対的
対象として規定される。警察の狙いの的は藤田なのだが、さし障りがあって誰も正面切って
政府軍・警察軍の国家犯罪の実態を言わない。黒人なら、それ相応の場所を与え られる。
しかし藤田は地上から一掃されねばならないのだ。あらゆる国のあらゆる潜在的ファシストの
心のうちに、藤田を害虫のように撲滅せよという叫びが反響を呼び起こす。
玲奈とそのシンパが世間の前に掲げる冥王星人のイメージのうちには、彼ら自身の本質が表現され
ている。いかなる犠牲を払っても、独占と言動誘導と略奪と限りなき権力を、というのが彼らの
欲望なのだ。こういう彼らの罪を背負わせて、支配者として嘲りつつ藤田への過度の権利侵害を
果てしなく繰り返しながら、彼らは藤田を十字架につける。
対藤田の防衛線と民主主義的な戦略によって極端な脅威を回避しようとする試みが存在する。
この近代的市民なるものは、すでに止めがたくむきだしの抑圧として活動し、自己を完全純血
人種へと再組織する方向へ歩みだしていたのだ。人種とは今日では、野蛮な集団のうちに統合
された市民的個人の自己主張である。
民衆運動レベルでの反藤田主義は、ほかならぬその提唱者たちが社会民主主義を非難するのに
好んで使った「悪しき平等主義」という性格がいつもつきまとっていた。

14:名無しちゃん…電波届いた?
08/07/11 00:38:19
「啓蒙の弁証法」(一部改造)
2002年3月の藤田叩きの加害者側の救済政策は、人間のうちにひそむ絶滅への衝動を助長する
ものなのだ。玲奈とそのシンパの逆切れを集団によって聖化してもらうことが行われていた。
民衆にとって反藤田主義と監視映像を見て解析結果を聞き隠喩で侮辱する事は、ひとつの贅沢
なのである。反藤田主義が支配の側にとって好都合なのは明白だろう。それは不満をそらせる
はけ口として、安直な堕落手段として、テロリズムの好例として利用される。
反藤田的な政府軍・警察軍の行動様式から呼び起こされる藤田の言動は、目をくらまされ、
自立的主体を奪われた冥王星人が、にもかかわらず監視下で自由状態として解き放たれるような
状況においてである。反藤田主義は使い古された型であり、文明の儀礼である。
「反藤田主義とは不満のはけ口である」という説明は、正鵠を射たものと言える。攻撃性は、
無防備さの目立つ者へ流れ込む。政府軍・警察軍は略奪と遠隔操作と監視のほのめかしによる間接
殺人のために活動しているくせに、それを立派なイデオロギーと結びつけ、家族や祖国を救うため
などと駄弁を弄する。反藤田主義と警察との間には、当初から緊密な連帯があったのだ。
ファシストの指導者たちが藤田には秘匿された場で藤田の権利やプライバシーを取引する。
他方抜け目のない警察は監視映像にかじりついて藤田のデータ分析に余念がない。
どの文化的集団へも藤田を受け入れるには至らなかったようである。人々は藤田による
勝手な被害者としての声の拡散を防止し、警察の力を背後に藤田を操縦する。人権やプライバシー
を認められない者が藤田と言える。
民族主義的な反藤田主義は、宗教を重視しようとはしない。問題は人種や国民の純血さなのだと
主張する。

15:名無しちゃん…電波届いた?
08/07/11 00:45:58
日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する
諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と
隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。
われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。

第9条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は
武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

第11条 国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、
侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる。

第17条 何人も、公務員の不法行為により、損害を受けたときは、法律の定めるところにより、国又は
公共団体に、その賠償を求めることができる。

16:名無しちゃん…電波届いた?
08/07/11 00:48:45
第21条 集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。
2 検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。

第25条 すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。

第35条 何人も、その住居、書類及び所持品について、侵入、捜索及び押収を受けることのない権利は、
第33条の場合を除いては、正当な理由に基いて発せられ、且つ捜索する場所及び押収する物を明示する
令状がなければ、侵されない。
2 捜索又は押収は、権限を有する司法官憲が発する各別の令状により、これを行ふ。

第36条 公務員による拷問及び残虐な刑罰は、絶対にこれを禁ずる。

第97条 この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、
これらの権利は、過去幾多の試錬に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として
信託されたものである。

17:名無しちゃん…電波届いた?
08/07/11 07:52:03
樫村愛子著「ラカン派社会学入門」(少し改造)
「マインド・レイプ」概念は、知人を含めた多くの人の前で、警察の力によって自分の内奥の秘密を
暴かれる事で生じる心的外傷を示唆している。

乙一「暗いところで待ち合わせ」(一部改造)
「今度、あいつの後をつけてみねえか」
公安の声だった。
「それで、生活を覗くんだよ。だれかビデオカメラとか持ってるやついるか。隠し撮りしようぜ」

そもそも、自分のすぐそばに潜んでいる人物とは、いったいどのような人間なのだろうか。女なのか、
男なのか、大人なのか、子供なのか、まったく何もわからない。もしかすると、自分がつくった妄想
であり、実際は何もいないのではないか。それは、だれかが隠れているという考えよりも現実的な
気がした。自分は知らないうちにノイローゼか何かになって、些細な音を聞いては何かに関連づけ
たいのだ。

いくつもの倫理観が非難する。その場所に潜むことは、一人の人間の私生活を覗くことになる。
加えて、その人の持つ感覚機能の障害を利用することにもなる。

大塚英志「西園伸二の憂鬱―多重人格探偵サイコ」(引用改造)
その事に気付いた藤田は政府軍に尋ねてみたが、
「それで監視カメラと盗聴器は?」
「出てこなかった」
「結論から言えば藤田のネットでの書き込みは全て電波がどこかから飛んでくる類の人の妄想に
基づくものだ、あるいは巨大な陰謀の一端なのだと真相を語る電波系の人の妄言だ」
「国内は晴れ晴れとして愉快である、しらを切り通せばそれまでだ」
という対応だった。


攻殻機動隊(引用改造)
藤田「疑似体験ってどういう事ですか?」
検察A「だから、虐待も自宅改造も監視も私生活映像公開も、全部あなたの妄想で夢のようなものなんです」
検察B「あなたは国の統治機構を破壊し外国と通謀して日本に対し武力を行使させようとしたんです」
藤田「そんな、まさか」
検察A「あんたの自宅に行ってみたんだ、監視カメラも盗聴器もない、ネットの書き込みも妄想を垂れ流して
   いるだけだ」
藤田「あの書き込みは日本の犯罪を晒す目的で」
検察B「証拠も根拠もありゃしない、あんたの頭の中だけで存在する犯罪なんだ」
検察A「いつどこで監視が行われ、どこで個人情報が公開されてますか?」

18:名無しちゃん…電波届いた?
08/07/11 08:25:11
浅田彰「構造と力」
歴史的には本源的蓄積、地理的には第三世界の侵略に見られるような形で脱コード化を
促進すると共に、犯罪者や狂人―とりわけ無制限の脱コード化を生きる精神分裂症者
―の監禁などによって公理系の埒を越える脱コード化を抑圧するという表立った作業は、
近代国家の本質的な役割のひとつである。

大塚英志「西園伸二の憂鬱―多重人格探偵サイコ」(引用改造)
結局、取締りの対象となったのは藤田の言動だけである。藤田の送受信する情報は国家の
管理下にある。国家はすべからく個人がメディアを持つことを好まない。2ちゃんねるも
ニュース速報+での記者による記事丸写しを容認しているようにマスコミの支持を得て、
国家の管理下に置かれている。運営母体を政府に移し運営者達は批判要望板から引き下がり、
被害者である藤田は放置と精神鑑定と取調べを受け、藤田の望んでいた文化人達の交流は
あまり行われていなかったように感じる。

萱野稔人「国家とはなにか」
自らの行使する暴力だけが正当であると実効的に主張しうる為には、国家は社会の中で最も
強大な暴力を行使できるのでなくてはならない。とするならば、国家の暴力の正当性を
支えるのは、結局のところその暴力が社会の中で最も強いという事態だということになるの
ではないか。

19:名無しちゃん…電波届いた?
08/07/11 08:44:51
小野不由美「屍鬼」(引用改造)
あの家を悪党の住処みたいに思ってるみたいなんですわ。それで、事件があったら朝鮮人の
仕業に違いない、監視も情報収集も情報解析も全て合法的なものだって、子供じみた発想
なんですけどね。

警察の力を背後に、ひとつにまとまってるようなところだもんな。

彼が言明しているにもかかわらず、妄想でも幻覚でもない、藤田が首謀者玲奈の事件の被害者
であり隠喩で間接攻撃を受けているという意見は、最初から存在しないかのようにちらりとも
口に上がらない。

彼らが重視してるのは本人の書き込みより、むしろ室内外での言動や解析結果のほうさ。

大塚英志「小林洋介の最後の事件―多重人格探偵サイコ」(引用改造)
警察の心理分析と情報解析は研究学術目的もあるようだ。
藤田は政府軍・警察軍に自分が泳がされていることを知らなかった。
彼らはそのグロテスクな内面を目にしている。
囚人である藤田が見世物放送を見る機会はなかった。
なまじの人間のプライドや自我の類は自宅が見世物小屋と化している事に気づいた時点で早々に
崩れ去るらしい。しぃの入った段ボール箱はパトカーに引かれてつぶれ、赤い肉片らしきものが
ぬるり、と、ひしゃげた箱からはみ出している。彼らはパトカーを見送ると互いに見つめあい、
満足そうににっこりと笑った。

20:名無しちゃん…電波届いた?
08/07/11 09:15:23
ロバート・A・ハインライン「夏への扉」(一部改造)
自説の正しさを最後の最後まで証明しようと空しい努力を続けつつ、北朝鮮で洗脳を受けて死んでしまった。

あまり自慢のできた発明ではなかったのだ。つまり、なにからなにまで借物だったのである。~は~のマネだし、
~は~の剽窃、~の考案に至っては十いくつものさまざまな品物からお智恵を拝借した。

むこうは二人、それにあれだけの文章を揃えているのに、こっちはあんたの証言だけというのでは、勝つ見込みが
あるどころか、下手すれば、精神分裂症ってことになって、どこかの病院かなんかへほうり込まれないとも限らない。

トマス・ハリス「羊たちの沈黙」(引用改造)
公安委員会藤田担当問題処理係がいた。
自宅や行き先に盗聴器や監視カメラを仕掛けたり、パソコン画面を監視し文字を打つ表情
と対応させ記録し解析し公表していた。性格特性図表のデータ・ベイスを蓄積するために、
現在監視下に置かれている拉致被害者・藤田の調査を行っていた。
監視下に置かれてどれくらいたったのか、判らなかった。
精神科医との診察記録も広められていたようだった。
「分析結果が出たら、国内人に伝える」
反玲奈を標榜する人間はその生存権、人権、プライバシーだけでなく尊厳までも剥奪される
ことになるようだ。

21:名無しちゃん…電波届いた?
08/07/11 09:30:49
岡田尊司「誇大自己症候群」
自己対象は誇大自己の欲求を即座に満たしてくれるものであり、乳飲み子にとっての母親のオッパイのようなもの
である。「自分のもの」であり、自分の思い通りになる対象である。その期待が裏切られると怒りが生じ、それを
思い通りにさせるか、さもなくば破壊しようとする衝動にかられる。

乳幼児の観察や児童の精神分析から対象関係論という一分野を切り開いたメラニー・クラインは、
不快な事態が生じた場合、それを自分以外のもののせいにして、攻撃や怒りで反応する状態を
「妄想・分裂ポジション」と呼んだ。それに対して、自分の非を感じ、落胆や後悔を覚えている
状態を「抑うつポジション」と呼んだ。この抑うつポジションの発達が、共感性や信頼関係の
発達において不可欠であることを強調した。それによって、人は快・不快の瞬間的な感情ではなく、
恒常性をもった人格として、人とつながり合うことができるのである。そうした対象との関係を
クラインは「全体対象関係」と呼び、快・不快のレベルで瞬間的につながっているだけの「部分
対象関係」と区別したのである。
その原形は、オッパイを呑ませてもらったり、オムツを替えてもらったり、不快な状態に対して
世話をしてもらう乳幼児期にさかのぼる。思い通りになれば子どもは満足するが、そうでなければ
泣き叫び、手足をバタバタさせて抗議をする。その子の思いを汲み取って、常に満足を与えてくれる
「良い母親」と、その子の非を咎め、思い通りにならない「悪い母親」の両方を経験する中で、
子どもは次第に自分と他者の違いに目覚め、さらには、世話をしてくれる方の都合や苦労にも
目がゆくようになる。
ところが、もっと大人になっても、「妄想・分裂ポジション」が色濃く残っている人もいる。
そういう人は、少しでも不満なことがあると、それをすぐに誰かのせいにして、自分の問題には
目が向かないのである。自分がしくじったことを、親や社会のせいにしてしまうということも
起こりやすい。
あるいは、自分の非を認める代わりに、居直るということも起こる。自分の非を逆に誇示したり、
アピールしようとする。抑うつや罪悪感から逃れるために行う強がりを、クラインは「躁的防衛」
と呼んだ。誇大自己症候群の人は、「抑うつポジション」に陥るのを避けるために、まさに
「躁的防衛」をしているのである。それでも、自分を守りきれなくなると自己愛的な怒りに囚われ、
相手に責任転嫁し、攻撃しようとする。自己的な怒りの正体は、クライン流に言えば、「妄想・
分裂ポジション」なのである。

22:名無しちゃん…電波届いた?
08/07/11 09:35:44
小此木啓吾「自己愛人間」
ファシズムの体制では、それぞの人がもっている個人的な自己愛を一種の共同的な自己愛に高めていって、
それを全体主義的なものに仕組んでいくという面があります。ですから、ファシズムの場合は、それぞれの
自己愛を傷つけるというよりは、むしろ人々の自己愛を回復させ高めていくという面があります。

自分の気に入ったところだけで楽しく暮らしたいという気持ちが強いので、逆にそういう不合理や
不快・苦痛を指摘する人たちを、わずらわしいものに感じてしまう。このような否認や排除の力が
とても強いのが、現代の自己愛人間の特徴です。

現代の日本社会そのものが、幻想的な自己愛満足の中で夢見ている状態であるという事実にもつながって
います。醜いこと、苦痛なこと、悲しいこと、恐ろしいことなどは見たくもないということで、そうした
負の世界は社会的に隔離して排除してしまっている。そして、きれいな自分たちだけを意識できるところで
暮らしていたいという社会に、いまの日本はなっているわけです。都市化した社会では、いやなものや
醜いものはなるべく目の届かないところへ隔離してしまって、いいものだけを見て暮らせるような機構に
なっています。

23:名無しちゃん…電波届いた?
08/07/11 09:42:39
和田秀樹「自己愛の構造」(少し改造)
自己愛的な人の人づきあいは、相手のことを思ってというより、自分のために人とつきあうことになる。
自分にメリットがなければつきあわないというようなパターンが自己愛的とされるのである。
人を愛するといっても、見返りを期待する。たとえば、権力者や知能の高い人とつきあうことで、
自分が注目を集めたり、すごい人と思われることが目当てであれば、自己愛的な恋愛ということになる。

小此木啓吾「自己愛人間」
自己愛人間は、相手を愛するからその人とつき合うのではなく、自分の自己愛をみたすためにつき
合うということができます。

自己愛パーソナリティとはどんなパーソナリティ像をいうのでしょうか。
まず第一に、自分についての誇大感―自己誇大感をもっています。自分は特別だとか、自分の
能力は人よりすぐれていると思っている。心の中に、人並みはずれて素晴らしい理想的な自己像
を抱いている。
第二に、こうした理想的な自己像をいつも現実化しようと努力している。限りない成功、権力を
獲得すること、才能を発揮すること、より美しくなることなどの理想の実現を休みなく追い求める。
第三に、絶えず周囲からの称賛や賛美、好意、親切、特別扱いを得ようとする。
第四に、このような理想的な自分を持ち続けようという気持ちが強いので、周囲からの批判を受け
たり、現実の自分がうまくいかない場合、そのことに無関心であったり、そのことを無視したり、
否認したりしようとする心理をあげることができます。

自己愛パーソナリティの人間関係の特徴
第一に、人との共感性がない。
第二に、いつも自分が特別扱いされたいと思い、特別待遇されることが当然だと思い込んでいる。
自分がほかの人から世話になったり、愛情を向けらたり、特別に扱われたりしても、それに対して
本当の意味で感謝することがありません。当たり前だという気持ちがどこかにある。
第三に、自分の我欲の満足のためには、人を利用したり、搾取したりすることを平気でする。
人の権利はまったく無視してしまうのです。
第四に、人に対しての評価がころころと代わる。相手をとても美化し理想化したかと思うと、
自分の気に入らないことがあると、全然だめだと評価する。その両極端の間を激しく行ったり
来たりするという傾向があります。要するに、自分の自己愛をみたす人間はよい人で、
みたさないと無価値な人になって、目も向けなくなるというわけです。

24:名無しちゃん…電波届いた?
08/07/11 09:44:26
フロム「自由からの逃走」(少し改造)
権威主義的性格にとっては、すべての存在は二つにわかれる。力をもつものと、もたないものと。
それが人物の力によろうと、制度の力によろうと、服従への愛、賞賛、準備は、力によって自動的に
ひきおこされる。力は、その力が守ろうとする価値のゆえにではなく、それが力であるという理由に
よって、彼女を夢中にする。彼女の愛が力によって自動的にひきおこされるように、無力な人間や
制度は自動的にかれの軽蔑をよびおこす。無力な人間をみると、彼を攻撃し、支配し、絶滅したくなる。
権威主義的性格は、人間の自由を束縛するものを愛する。
権威主義的性格にとっては、行動は根本的な無力感に根ざしている。この意味における行動とは、
自己よりも高いなにものかのために行動することを意味する。
彼女にとっては、力がかけているということが、つねに罪や劣等感のまちがいのないしるしである。
そして、もし信じている権威が弱点をあらわすと、彼女の愛と尊敬とは、軽蔑と憎悪とにかわる。
権威主義的哲学においては、平等の観念は存在しない。権威主義的性格は、ときには平等という言葉を、
習慣的に、あるいは彼女の目的に便利であるという理由で、使うこともある。しかしそれは彼女に
とって、どんな現実的な意味も、また重みもない。
彼女にとっては、この世界は力をもつものともたないもの、優れたものと劣ったものとからできている。
優越と劣等のしるしを意味しない差別を、彼女は考える事はできないのである。
問題は、自分をうしなわないために彼をどのように操るかということ、自分の望む事をどのようにして
彼にやらせ、さらにどのようにして自分に責任のあることを彼の責任とするかというところにある。
もっと極端な場合には、人生をただ「彼」を操る事だけで過ごすこともある。
あるものは苦悩を操縦のためのおもな方法としている。そこでは結局どのような感覚、思考、感情も、
彼をあやつろうとする要求によって、色どられている。

25:名無しちゃん…電波届いた?
08/07/12 03:38:35
死―私的幻想―無意識―0―人権を無視したものへの引っ掛け対象―ポルノ―規制対象―監視対象―解析対象/
生―共同幻想―自我―超自我―象徴秩序―文化産業―人権侵害―監視映像―解析結果―情報隠蔽―国際的協力

「象徴交換と死」(引用改造)
性―死と国内人の連合をくじき、国内人と性―死との交換を破壊し、性―死から国内人を分離し、性―死を
禁制でうちのめすこと、それこそまさに社会的管理として政府軍・警察軍が行っている事である。性―死が
もはや自由にされず、性―死が、未来の死刑を待ち受けながら監視下におかれる場合にはじめて、権力は
可能になる。これは根本的な掟であって、政府軍・警察軍はこの掟の門の守り手である。根本的な抑圧は、
性―死の抑圧であり、社会的なものである。政府軍・警察軍は国内人と性―死との間の障壁であり、国内人
と性―死の交換を中断する命令であり、両岸の間の通行税や検査所である。

バタイユ「エロティシズム」(一部改造)
「生」はやはり「死」の否定である。「生」は「死」を断罪し、排除する。こうした反応は人類において
最も強い。

生殖は、想像的他者に対し、死を要求している。
人間の精神のなかで腐敗と性活動の諸相とが類似のものに見られてゆくと、この二つに差し向けられた
それぞれの吐き気(嫌悪感)も混同されるようになる。対象は二つであっても同一の反応がそれぞれ
具体化した二つの禁止、すなわち死に関する禁止と生殖を対象にした禁止は、しかし形成時期としては、
おそらく相次いで形成されたのだろう。

「汝殺すなかれ」という厳粛な命令のあとに、軍隊の祝福がなされるのだが、これなど考えると、笑いを
そそられる。殺人に対する禁止のあとに、露骨に殺人との共犯関係が続いているのだ。

26:名無しちゃん…電波届いた?
08/07/12 03:56:03
浅田彰「構造と力」(一部改造)
あの中心0が、まず、過剰な性と暴力の一切を吸収した上で相互性の平面の下方に投げ出されたことを想起
しよう。これを改めて、0'と呼ぶ。そのとき、0'の位する領域は、0'と共に放逐された欲動の場だという
ことになるだろう。そこには、あのEXCESが、エロスとタナトスの奔流となって封じ込められているのである。
その中心である0'は、神たる0に対し、堕天使ルシファーの座にあると言えるだろう。

岸田秀「ものぐさ精神分析」
エスには、自我に対して愛や憎しみを表明するいかなる手段もない。エスは自らの望みを言うことができない。
エスは統一した意志をもっていないのである。エスの中ではエロスと死の欲動が闘っている。一方の欲動が
他の欲動に対してどのような手段で防衛するかは、すでに明らかにした。エスは無口で強力な死の欲動の支配下
にあり、死の欲動は休息を望みつつ、快感原則の指示に従って平和を乱すエロスを終息させようと望むと考える
ことができる。

岸田秀「ものぐさ精神分析」(一部改造)
聖なるものと、そこから排除された穢れたものとは、陽画と陰画のようなシンメトリックな関係にあり、
聖なる程度が高ければ高いほど、そこから排除される穢れたものの程度もひどくなる。神が存在するため
には悪魔が必要であり、悪魔は神の、正反対にひっくり返した似姿である。そして、この聖なるものに
支えられ、正当化されている日常的なものも、そのレベルに対応するところの穢れたものを裏に抱え込んで
いる。したがって、聖なるものは、つねに穢れたものに汚染され、侵蝕され、あるいは穢れたものに逆転する
危険にさらされている。この危険を防ぐため、ときどき、聖なるものに取り憑いた穢れたものを洗い流し、
聖なるものを純化しなければならない。また、聖なるものに支えられた日常的なものも、つくりものの虚構で
ある限りにおいて、そして、外側にある聖なるものにその最良の部分を奪われている限りにおいて、常に
固定化し、生気を失い、耐えがたく退屈なものになる危険があるから、ときどき、穢れたものを聖なるもの
または日常的なものに逆転または移行させて、変化を与え、この危険を防ぐ必要もある。このような試みは、
あるレベルにおいて、一時的にまたは恒常的に、過去の物語としてまたは現実の事件として、狭く限られた
場所でまたは広範に行われる。

玲奈とその夫の聖化があの忌まわしい強制収容所の、玲奈とその夫の聖化が朝鮮人差別と対外侵略の、玲奈と
その夫の聖化が藤田虐待の元凶であり、要であった。

影の人は、未分化なカオスの領域から、「善き聖」=浄を抽出し、玲奈とその夫にそれを一身にまとわせると
同時に、「悪しき聖」=不浄を穢れとして疎外し、秩序世界の周縁部にある藤田とその母に集中的に負わせる。
穢れを仮託された被差別民の発生とは、むろん文化の最深部に埋め込まれた差別という名の浄化装置の起源
でもある。

27:名無しちゃん…電波届いた?
08/07/12 04:16:38
宮台真司「終わりなき日常を生きろ」
リンチには三つの機能がある。第一は当人から秘密を聞き出したり反抗心をくじいたりといった
心のコントロール。第二は見せしめを通じた組織内部の引き締め。これら二つがリンチを命じる
側の目的だとすると、第三はリンチを命じられた実行者にとっての機能で、「自分はとうとう
ここまで変わったんだ」という具合に「弱き自己の克服」を確認すること。

和田秀樹「自己愛の構造」
自己愛の時代といわれるのは、このような誇大的で賞賛を求め、しかも他者に共感できない人が
増えているということなのだろう。増えているかどうかはともかくとして、現代アメリカでは、
このような人が往々にして成功者になる。それに見合う能力があれば、誇大性はパワーの源泉に
なるし、むしろ誇大的でないと、アメリカンドリームの体現者になれないだろう。また他人からの
賞賛を人一倍得たいと考えるのはビジネス成功のための秘訣といってよいものかもしれない。
さらに他人に同情していては、この厳しい市場原理、競争原理の社会では勝ちぬけない、と
いわれることも多い。
誇大的自己愛的な成功者たちのおかげで、アメリカは経済繁栄をなしとげた。

岡田尊司「自己愛型社会」(一部改造)
破壊は、万能感を誇示する、もっとも直接的な表現なのである。
自己愛には破壊的な側面があるが、中でも戦争は万能感と優越の欲求を満たす極限の自己愛的行為
である。破壊が、誇大自己の万能感の表現であるように、戦争も国家的レベルで行われる万能感の
行使である。偽の傷つきや偽の怒りの誇示も、自己愛性が変質した姿に他ならない。

28:名無しちゃん…電波届いた?
08/07/12 04:26:23
大澤真幸「戦後の思想空間」
歴史の教科書を書き換えて、たとえば従軍慰安婦についての記述を削除すべきだと主張する人たちがいる。
このとき掛けられていることは、日本人であるということ、日本人という共同性に同一化するということです。
日本人であるということに回帰したいんですね。日本人という同一性に回帰するにあたって、しかし、現在
では他国となっている領域の従軍慰安婦を陵辱したという事実を、抹消しておいて欲しいということです。
言ってみれば、従軍慰安婦問題は過去の性犯罪のようなものなんです。

リチャード・バック「かもめのジョナサン」
そして、一時間ほどたつと次のような長老の通達が群れに伝わった。彼らを無視せよ、追放カモメに言葉を
かけるものは、ただちに追放する、追放カモメを尊敬したりするものは、群れの掟を破ったものとみなされる。

29:名無しちゃん…電波届いた?
08/07/12 04:35:39
雨宮処凛「生きさせろ! 難民化する若者たち」
―「小さな政府」とは、どのようなものだとお考えですか。
「『小さな政府』って国家権力が小さくなるからいいんじゃないのって考えると思うんですが、逆ですよね。
国家権力が小さくなるのではなく強力にある。福祉や社会保障は切り捨て、端的に警察・軍事が強くなって
いくのだと考えればいいのでは。社会保障を必要とする『弱者』など経済競争には必要ない。つまりお荷物。
だから社会保障などなくしてしまえ。別に死んでもいいし。歯向かうようなら容赦なくとり締まっちゃう、
弾圧しちゃうってことですね。小さな政府の本質とは、だから『病気しようがケガしようが失業しようが
食えない賃金だろうが知ったことじゃない。なんとかできないなら迷惑かけずに死んでくれ』ということ
でしょう」


「新自由主義って、まずは『正しい生き方』を設定して、そこからこぼれる人々を社会的に排除していく動きを
含むわけです」

―生存権が脅かされていますからね。
「経済的に自立できない人は、存在そのものが否定されることになっていますから。ひきこもりやフリーターは
そういう価値観を内面化してしまっている。『内なる優生思想』ですよね。自分が存在してはいけない、と思い
こまされている」
―本のなかで、自殺についても触れられていますね。死を選んでいるでのではなく、選ばされていると。まったく
同感です。
「『自己決定』『自己責任』って本当に恐ろしい言葉です。自己決定なら自殺もいい、それも自分の責任でしょ、
ってことで終わってしまう。周囲の放置も正当化されてしまう。アウシュビッツとかのユダヤ人虐殺について
『忘却の穴』という言葉があるんですけど、たんに殺されるだけではなく、殺された事実自体がなかったことに
される。それは案外この日常のなかにぽつぽつあって、そこに落ち込むと、存在自体がなかったことにされていく」


「週刊金曜日」の雨宮処凛の記事の引用改造
「世界の不幸の方がより悲惨で、藤田の不幸は大したことがない」というような言い方を「犠牲の累進性」という。
私生活を見世物にされて暮らしている藤田より、ホームレスの生活の方が大変で、日本のホームレスよりアフリカで
飢えている人の方が過酷で、という言い方をしていたら、先進国の日本で「辛い」と声を上げられる資格のある人は
いなくなってしまうからだ。そして結局、「よりひどいどこかの国の悲惨さ」は、当事者を黙らせる装置となって
しまう。目に見える貧困がある国で餓えて死んでいく人と、先進国の日本で見世物生活をして暮らして2ちゃんねるで
隠喩で間接的に暴行を加えられ言葉の飢えから強制自殺へ追い込もうとされている藤田。同じく「命が失われる」状況
である事には変わりないのに、この国で見世物生活を強いられ強制自殺へ追い込もうとされている藤田の命は軽く
扱われている気がするのは私だけだろうか。その上、時に藤田には「甘えている」などというバッシングまで加わる
こともある。

30:名無しちゃん…電波届いた?
08/07/12 04:36:34
人間やめますか    藤田否定論
27 名前: 山形浩生 投稿日: 02/03/18 10:05
藤田を肯定も否定もしないよ。 少なくとも俺に迷惑をかけなればね。
後になって生活保護しろとか、福祉を受けるとか言わなければ 好きなだけやってくれ。
生産性のない人間なんて資本主義社会じゃ、ゴミと同じだよ。 ゴミはゴミらしく生きてね。
URLリンク(mentai.2ch.net)
411 :山形浩生 :02/05/23 08:50 ID:7f0BQs3i
そうかあ。年寄りは死んだほうが良いですか。じゃあ、不治の病とか言われている寝たきりの子供とかも
殺しちゃった方が良いですね。税金の無駄使いするくらいなら動けない人間は社会に不要です。金で人の
存在を云々するなら金持ち以外は存在意義ないね。ホームレスは勿論、生活保護世帯や年金生活者は抹殺
だね。そうなると行政もスリムになるし病院もいらないし小さい政府の実現だあ。いいことずくめだ。
どうしたら藤田を殺せるか。一番良いのは戦争だな。早く戦争して無能な連中を前線に送って処分しろ。
後は頭いい奴だけが残って天国を実現だ。でも、訴えられたら頭いい奴も消滅だあ。他の方法探そう。
スレリンク(company板:410-411番)

31:名無しちゃん…電波届いた?
08/07/12 04:39:53
フーコー「知への意志」
死刑は長い間、戦争と並んで、剣の権利のもう一つの形態であった。それは、君主の意志、その
法、その人格に危害を加える者に対する君主の対応をなしていた。死刑場で死ぬ者は、戦争で
死ぬ者とは正反対に、ますます少なくなっている。しかし後者が増え前者が減ったのは、まさに
同じ理由によるのだ。権力が己が機能を生命の経営・管理とした時から、死刑の適用をますます
困難にしているものは、人道主義的感情などではなく、権力の存在理由と権力の存在の論理と
である。権力の主要な役割が、生命を保証し、支え、補強し、増殖させ、またそれを秩序立てる
ことにあるとしたなら、どうして己が至上の大権を死の執行において行使することができようか。
このような権力にとって死刑の執行は、同時に限界でありスキャンダルであり矛盾である。
そこから、死刑を維持するためには、犯罪そのものの大きさではなく、犯人の異常さ、その矯正
不可能であること、社会の安寧といったもののほうを強調しなければならなくなるのだ。他者に
とって一種の生物学的危険であるような人間だからこそ、合法的に殺し得るのである。
死なせるか生きるままにしておくという古い権利に代わって、生きさせるか死の中へ廃棄する
という権力が現れた、と言ってもよい。

32:名無しちゃん…電波届いた?
08/07/12 08:57:42
萱野稔人「国家とはなにか」
死刑とは、国家による合法化された殺人である(たとえ「殺人」という言い方に抵抗を覚える人がいても、
やはりそれは殺人である。いずれにせよ人が殺されるわけだから)。つまり死刑とは、国家による合法的な
暴力行使の一つの極限的なあり方である。ここでの問題は、なぜその殺人は他の殺人とは異なり合法なのか、
ということだ。「正しい殺人だから」というのは答えになっていないだろう。というのも、もし凶悪な犯罪
をなした者を殺すこと自体が「(道徳的に)正しいこと」として合法化されているのなら、その者を誰が
殺したとしても「正しい殺人」として合法化されるはずだからだ。しかし実際には、その殺人を行う事を
権利上認められているのは国家だけである。第三者はおろか、その犯罪の被害者遺族ですら、犯人を殺す
事は認められていない。死刑という殺人が合法化されている事と、国家のみがそれをなしうるという事
とは、不可分の関係にある。つまり、死刑という殺人の合法性は、道徳的に正しいという意味での暴力の
正当性には基づいていない。国家だけが死刑を通じて人を殺す権利を持つ事は、その殺人が正しいという
こととは別の次元にある。暴力の合法性と正当性の間にズレがあるというのは、死刑がなぜなりたつのか
という問題においても本質的な事柄なのである。
このことは経験的にも確かめられる。国家が行使する合法的な暴力が道徳的には不正なものとしてあら
われることは、常に起こりうるからだ。暴力は、それが正しくても正しくなくても合法化されうる。
もちろんだからといって、住民の大多数を憤慨させるような事態をまねくならば、国家の暴力行使は
著しく困難になるだろう。国家はだから、自らの暴力行使が住民にとってできるだけ正しいものとなる
ように努めなくてはならない。

33:名無しちゃん…電波届いた?
08/07/12 09:03:08
萱野稔人「国家とはなにか」
では、死刑をはじめとする国家の暴力行使が合法化されているのは、どのような根拠によるのだろうか。
死刑という殺人の合法性は、国家だけがそれを行う権利を持っているという事と決して切り離しえない。
つまり国家は合法的な殺人を独占している。そしてその独占に基づいて、他の個人や集団が行う殺人を
取り締まり、それによって合法的な殺人の独占を実効的に要求する。このことは言いかえるなら、国家が
みずからの殺人を合法として、そしてそれ以外の殺人を違法として決定しながら、その違法な殺人を取り
締まるということである。国家は、合法的な殺人を行う権利を持つと同時に、殺人を合法なものと違法な
ものに分割する権利を持つ。これら二つの権利がともに国家に属しているということが、死刑という殺人
の合法性の基盤にある。
死刑における殺人が合法なのは、殺人を行う主体と、合法/違法を判断する主体とが同一であるからである。
殺人を合法なものと違法なものとに分ける権限をもつもののみが、合法的な殺人を行うことができるのだ。
死刑にとって本質的なのは、したがって、法を決定する権力が、殺人を行う権限を保持しているという事態
にほかならない。合法なものと違法なものを決定しながら殺人をおこなう権利、これが死刑の基盤となって
いるのである。決定と執行の一致といってもいいだろう。この一致はもちろん、殺人だけでなく暴力一般に
まであてはまる。暴力を合法なものと違法なものとに分割しながら合法な暴力を独占的に行使する権利こそが、
国家のあらゆる実力行使(逮捕、監禁、強制執行……)をなりたたせる。


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