08/07/12 04:39:53
フーコー「知への意志」
死刑は長い間、戦争と並んで、剣の権利のもう一つの形態であった。それは、君主の意志、その
法、その人格に危害を加える者に対する君主の対応をなしていた。死刑場で死ぬ者は、戦争で
死ぬ者とは正反対に、ますます少なくなっている。しかし後者が増え前者が減ったのは、まさに
同じ理由によるのだ。権力が己が機能を生命の経営・管理とした時から、死刑の適用をますます
困難にしているものは、人道主義的感情などではなく、権力の存在理由と権力の存在の論理と
である。権力の主要な役割が、生命を保証し、支え、補強し、増殖させ、またそれを秩序立てる
ことにあるとしたなら、どうして己が至上の大権を死の執行において行使することができようか。
このような権力にとって死刑の執行は、同時に限界でありスキャンダルであり矛盾である。
そこから、死刑を維持するためには、犯罪そのものの大きさではなく、犯人の異常さ、その矯正
不可能であること、社会の安寧といったもののほうを強調しなければならなくなるのだ。他者に
とって一種の生物学的危険であるような人間だからこそ、合法的に殺し得るのである。
死なせるか生きるままにしておくという古い権利に代わって、生きさせるか死の中へ廃棄する
という権力が現れた、と言ってもよい。