04/02/15 20:58
>>537
ぼく自身は、すべての個人にすべての機会が保障されることが差別のない世界の実現であるとは、
必ずしも考えてはおりません。
すべての個人(あるいは生き物)がそれぞれ対等な立場として対話の保障される世界が差別のない
世界であろうかと考えます。
そこに目覚めていく中で、一人ひとりが自らの人生の宿命にきちんと向き合うことを教えるものが仏教で
あろうかと思います。
ですから、儀礼的な慣習があくまでも儀礼的なしきたりとして受け継がれている分には、それを尊重します。
ちなみに、お晨朝の導師(つか調声、まあ、礼盤作法があるときもありますが)には「連枝」云々はありませんよね?