03/05/14 14:18
>>217(888)さん (←他の方もレスをお願いします)
レスありがとうございます.
なるほどなぁ・・・って感じで.
その中でも,ちょっと質問.
>単純に考えても。「すでに救われている」なら、浄土往生の結果、
>我が体は「仏」になっていなければならない。
その場合,諸仏というもののとらえ方は,どのように考えたらいいのでしょうか.
>これを求めて一生、生きるのでしょうが、あるかもしれないし、ないかもしれない。
>それが残酷なわけです。(遠藤周作の「沈黙」(新潮文庫)はクリスチャンの小説だが、
>ここで言う残酷、が描かれている)
まあ,「なるほど」では救いでは無いかもしれない.
ところで,観経はイダイケが救われる話だったと思うのですけれど,
イダイケが「なんでやねん」(苦)って釈尊に詰め寄ったところ,
釈尊は阿弥陀の世界を見せて,「ああ,そうか」(楽)と救われたように思います.
これは,怒りや愚痴な状態から,穏やかな状態になったと考えられる気がするのですが,
これは思索上の納得から宗教的納得へと移行したように考えても良いように思います.
これについてはどう考えられますか?