03/05/14 00:12
(続き)
>>244 ←他の方も遠慮しないでレスしてね。
>むしろ不可思議なのは,「はたらきがどうして起こるのか」
>「はたらきそのもの」は思議しても構わないと思う
こういう事は考えた事がなかった。
こういう部分に気がつくというのは、すごい事だと思う。思考が精緻。
上の引用はややそのとおり。前回の説明の時点でズレてたかもしれないが。
◆「はたらきがどうして起こるのか」→「阿弥陀仏がいるからおこる」
◇阿弥陀仏の性質ゆえに不可思議。
〈補足〉
考えても、しかたがない事は存在する。つまり、考えた時点で無意味になるような事。
(形而上学的な事とも言えるかな)
たとえば「この地球(自分が見ているこの世界)はどうして"ある"んだろう」なんか。
現代では確かに科学的な説明が出来たりするが、すでに「ある」ものに対して考える
というのは「認識」の問題であり、「疑う」学問の哲学でさえしないこと。
「すでにある」から始めることを、哲学(現象学だけかな?)では「措定(そてい)する」と言う。
◆「はたらきそのもの」→「阿弥陀仏の一属性」
◇阿弥陀仏の性質ゆえに不可思議・・・とならざるをえない。
≠阿弥陀仏の存在そのものが阿弥陀仏のはたらきそのもの。
〈補足〉
阿弥陀については「(言葉では)語り得ない」となるべきなんだろうけど、それでは
成り立たないので、「はたらきの表現として「観音」「勢至」」、「はたらきそのもの
が「願」という形で表現」されたと思われる。
おっちゃん、おばちゃんは思索をしているわけではないので、形をもって表現するわけだ。
(続く)