03/05/13 17:56
>>217さん
こちらこそご無沙汰です.
前スレでは親鸞会会員と勘違いされて,ちょっぴりスネてしまった前スレの683です.
前スレで書いた内容は,ちょっと編集しながら書くと,こんな感じ.
不可思議という割には,はたらきの表現として「観音」「勢至」がある.
また,はたらきそのものが「願」という形で表現されているだろう.
911さんの言い方では,何も解らない,解ろうとしても無理,って感じがあるが,
むしろ不可思議なのは,「はたらきがどうして起こるのか」であって,
「はたらきそのもの」は思議しても構わないと思う.
そして,阿弥陀がpure functionならば,はたらきそのものを指していると考えられる.
また,救い自体の考え方ですが,
私の場合には,「救われる」というよりは,「救われてた」って感じです.
自分自身の存在っていうのは,自分が考えたから存在するわけでは無い.
その意味で南無阿弥陀仏があると思うのです.
だから,「あ,なるほど」っていう救いの自覚があっても良いのではないでしょうか.
です.である.が混在してますし,どうも主張自体が同じなのでは??と
思う所もあるのですが,できればレスをお願いします.