ショーペンハウエル 「女について」 at WOM
 ショーペンハウエル 「女について」  - 暇つぶし2ch149:Ms.名無しさん
12/06/02 19:29:06.63 0
 或る国語の音調を聴きわけ得るのは、その国語の
意味を理解していない人に限られる―そうでないと、示されたもの〔意味〕が、示すもの〔音調〕を
すぐさま意識の外におし除けてしまう―のと同様に、或る人の人相を鑑定しうるのは、ただ、そ
の人といまだ親しくなっていない人、言いかえると、その人と度々会ったり話したりして、その
顔に慣れるようなことの全く無かった人だけということになる。そういう人なら、或る顔につい
て純客観的な印象がつかめるし、それによって、容貌を解読する可能性を有てるのだから、厳密
に考えると、人相の鑑定は初対面の際に限るといわねばなるまい。匂いは初めて嗅いだときにだ
け感じられ、葡萄酒の味は一杯目にのみ真に味わえるのと同様に、やはり、顔が、その完全な印
象を与えるのは、ただ第一回目にかぎられる。それゆえ、最初の印象を注意深く見きわめて、こ
の印象を記憶しておかねばならない。さらに、個人的に重要な関係を有つ人物である場合に
は、その印象を書きとめておくがよい。とりわけ、人相の鑑定について自分の感じを信頼できる
ならば。その後、交際して知り合いになると、以前の印象は、とかく消え失せていくが、いつか
は、その第一印象を証拠立てるような結果が現われるであろう。

150:Ms.名無しさん
12/06/02 19:49:29.10 0
 しかしながら、わたしたちは、この場合、その第一印象なるものが、おおかた、はなはだしく
不愉快なものであるということを、自分に対して、つつみ隠そうと思ってはなるまい。―とに
かく、人が大勢いるなかでも、まあ合格といえるのは、どんなにか少ないことだろう!―例外
として、美しい、善良な、聡明な顔は、―ほんの時たま、ごくまれに、あるにはあるけれども、
―感覚の繊細な人々にとって、たいていの新しい顔は、おおむね、或る―驚きに近い―感じを
起こさせるであろう、というのは、たいていの顔がいまさらながら吃驚せられるようなものの
組み合わせで出来あがっていて、要するに、不愉快きわまる印象を与えるものなのだから、とわ
たしには信じられるのだ。実際、そのような顔は、通例、全く、がっかりさせる光景(英語でい
う a sorry sight)である。しかも、それらの顔のうえには、心構えの卑俗さ低劣さが、むきだし
に現われているばかりでなく、よくも、あんな面をしていながら外出することができるなあ、な
んだって、わざわざ仮面をかぶらずにいるのかしらと、怪訝の思いにたえられないほど―人間ば
なれのした―悟性の狭さ浅はかささえ、はっきりと刻みつけられている。実に、たった一と目見
たばかりでも、こちらまで汚されてしまいそうな感じのする顔もあるのだ。従って、特殊な地位
にいる人々が、いつも「新しい顔を見る」ことの苦々しい感じを全く回避するために、隠遁生活
にはいり面会を拒絶するとしても、これを一概に、曲解してはなるまい。

151:Ms.名無しさん
12/06/04 01:12:10.17 0
 この事柄を形而上
学的に解釈すると、人それぞれの個性というものは、まさしく、彼の存在そのものによってとり
戻し、訂正せねばならぬものであるという考えへと立ちいたる。これに反して、心理学的な説明
だけで満足しようと欲するならば、みずからに問うてみるがよかろう、けだし、長い一生を通じ
て、心の中に、ちっぽけな、低級の、けちくさい考えや、卑しい、利己的な、羨ましがりの、間
違った、そのうえ性の悪い願望のほかには、ほとんど何物をも思い浮かべてもみなかったような
人間の顔に、果たして、どういう人相が期待されるであろうか、と。そのような願望や考えは、
それぞれに、それが今ある間は、顔面に、その表現を浮かびあがらせるし、その痕跡のすべては、
しばしば反復されることにより、時間の経過するにつれて、容貌に深い皺となって刻みつけ
られて、これをすっかり凸凹にしてしまう。だから、たいていの人は、初めて見たときに、びっく
りさせられるような容貌をしているのである。しかし、そんなような顔でも、だんだんと、慣れ
るに従って、言いかえると、その印象に対して鈍感になってしまうと、それはもはや何らの作用
をも及ぼさないようになるのだ。
 聡明な容貌は、長い歳月の間に徐々に出来あがるもので、しかも、老齢に及んで、初めて、そ
の高貴な表情に達するのであるが、若い時代の肖像画には、ただ、かかる表情のほんの片影しか
認められないということの理由は、まさしく、永続する容貌の形成過程が、特徴を示す緊張の現
われては消えながらも数限りなく反復することによって、ゆるゆると行われていくことで説明
されるだろう。また、反対に、前に述べたごとく、人が、初めて見た顔に対して、驚愕を感ずる
所以は、或る人の顔が、十分に正しい印象を与えるのは、最初の時だけであるという、前記の意
見と、ぴったり相応するのである。また繰り返すようだが、かかる印象を、純粋に客観的に、か
つ、誤りなく受けいれるためには、その人とほんの少しでも関係があってはならない、そのうえ、
出来ることならあ、その人と、一度も話し合わないことが必要である。

152:Ms.名無しさん
12/06/04 01:24:50.00 0
 というのは、どんな会話で
あっても、言葉を交わすというだけで、すでに、双方を或る程度まで親しくする、つまり、或る
種の因縁を導き入れ、相互の主観的な関係が生ずる、と同時に、この関係によって、把握の客観
性は傷つけられてしまう。そのうえ、だれしも相手から尊敬されたいとか友情を得たいとか努め
るものだし、観察されていると思えば、その人は、すぐさま、すでに自分で心得ている一切の偽
装術を応用するようになり、その顔つきによって善人ぶるやら、へつらうやらして、わたしたち
を惑わすであろうから、初めて見たときには、はっきりと現われていたものも、やがて、もはや
判明せぬようになってしまうのだ。こういった見地からすると、一般に、「たいがいの人は、く
わしく知り合うほど、わたしたちをだますものだ」というほうが、正しかろう。しかも、後にな
って、悪い状況が現われてくると、おおむね、初めて見たときに下した判断が、その正しさを獲得
し、また、往々にして、その判断が嘲笑的にその正しさを主張する。そして、「親しいつきあい」
が、逆に、すぐさま、敵対しあう関係となり、同時に、親しくつきあうことによって人々は得る
ところがあるという説は、認められないことになってしまう。だが、親しくつきあえば得るとこ
ろがあるといわれることの、もう一つ月の原因は、初めて会った時に、わたしたちに警戒の念を
起こさせた人物も、話し合ってみると、もはや、単に、彼の独自な本質や性格が表われるばかり
でなく、彼の有する教義も現われてくる、言いなおすと、彼が実際に天性によって具備している
ものばかりでなくて、彼自身が全人類の共有財産から自分のものにしてしまったものまで現われ
てくるということに存する。

153:Ms.名無しさん
12/06/04 05:23:00.23 O
長文ウザイw

154:Ms.名無しさん
12/06/04 09:30:41.48 0
すなわち、この場合、彼が話すことの四分の三は、もともと彼自身
に属するものではなく、外部から取りいれられたものなのである。そうだ、わたしたちは、或る
そのような怪物が、きわめて人間らしく話しているのを聞いて、びっくりすることもしばしばあ
るのだ。
 しかも、「親しつきあい」から、さらに一歩進めて、なおも近づいていくならば、やがて、
「野獣性」が、彼の容貌から予言していた通り、「全く支配的であったことを現わす」であろう。
―それゆえ、人相を鑑定する能力を賦与されている人は、全く近づきにならなかった前に
下した―従って少しも誤りのない―鑑定判断を、よくよく尊重しなければならない。なぜなら、
或る人の顔は、直截に、その人が何物であるかを言い表しているからである。そして、もしも、
それがわたしたちを欺くならば、欺かれることは、容貌の罪ではなくて、わたしたち自身に責任
があるのだ。ところで、或る人の言葉は、単に、その人の考えていることだけを言うか、いや、
それよりも往々にして、ただ自分の学んだことばかりを語り、さらに進んでは、何かしら考え
ているような振りをして、喋っているのに過ぎないことさえある。そのうえ、なお、次のような
ことも起きる。すなわち、わたしたちは、みずから或る人と話すとき、もしくは、彼が他の人に
話しているのを聞くときにでも、とかく、その人の真の人相を見のがしてしまうのである。これ
は、わたしたちが、主要構成基質―つまり、そのまま与えられたもの―としての人相を、そっち
のけにして、もっぱら、顔面に現われる感情の判断に関する方面、すなわち、談話の際における
その人の表情の動きばかり、気を取られているからである。しかし、この場合、その人は、よ
い顔ばかりを外部に向けるように心がけているものなのだ。

155:Ms.名無しさん
12/06/04 09:42:59.43 0
 さて、ソクラテスが、或る青年の能力を検査するために、これと対坐したときに、この青年に
向かって、「話しておくれ、それによって、わたしは君を見るから」と言ったのは、(この場合、
ソクラテスは見るという語を単に「聞く」という意味で使ったのではなかった、と仮定するな
らば)、条件づきながら、とにかく、正当な言葉である。その条件というのは、話すときにのみ、
動きとなって現われてくるから、それによって、わたしたちは、直ちに、その人の知性の程度と
包容力とを、さしあたり評価し得るということだが、ソクラテスの目的も、まさしく、この点に
あったといえようしかし、立場を変えてみると、反対に、次のような議論も成り立つであろう。
第一に、この方法は、人間の―ごく深いところに存在する―道徳的特質を検するために適用する
ことは出来ない。第二に、人は、話をする際に、その表情の動きによって、その容貌を一層はっ
きりと展開させるが、この展開に即して、客観的に知り得るものを、わたしたちは、間もなく、
その人とわたしたちの間に生ずる個人的関係によって、主観的に、またもや失うようになる。
というのは、この個人的な関係が惹きおこす能力は、はなはだ軽微なものだとしても、やはり、
すでに説明しておいたように、私たちのとらわれない判断を、かき乱すからである。従って、
この最後の観点より推論するならば、むしろ、「話をせずにいておくれ、わたしが君を見さだめる
ために」と言ったほうが、より正しいのではあるまいか。

156:Ms.名無しさん
12/06/04 09:59:04.03 0
 そうだ、或る人物の真の人相を、純粋に、かつ、深く把握するためには、その人が何もせずに、
ひとりっきりですわっているとき、これを観察しなければならない。あらゆる会合や、他人との
談話は、すでに、その人の上に他人の反映を投げかけるものであり、これが、たいがいの場合、
その人に有利になる。というのは、彼が、みずからも働きかけ、まあ、他人から働きかけられな
がら、動いていることによって高められるからである。しかるに、何もせずに、ひとりっきりで、
自分自身の考えや感じにひたっている、―ただ、その時にのみ、彼は全く彼自身なのである。
こういう時に、人相の鑑定にかけて深く見抜くだけの眼力をそなえた人ならば、その人の本質を、
全般にわたって、いっぺんに補足することが出来る。なぜならその人の顔の上には、おのずか
ら〔即向自に〕、その人のあらゆる思想と努力との基調―すなわちその人が将来そうならねばな
らぬものおよびその人がひとりっきりでいるときにのみそっくりみずから感じることについての、
取り消しがたき判断―が、刻みつけられたように、はっきりと現われ出るからである。
 ところで、狭い意味での、人相は、人々のいかなる変装技術も、そこまでは手の届かぬ唯一の
ものであるから、この理由だけでも、人相鑑定法は、確かに、人間を知るための重要な手段とい
える。けだし、変装技術の応用できる範囲内には、単に、感情の表わし方を変える、すなわち表
情擬態による方法だけがあるにすぎないのだから。それゆえ、誰でも、或る人物の本質を知ろう
とするならば、相手がひとりっきりで自分のことばかり考えているときを選び、なお、その人と話
をしないうちに、相手の人相を見きわめてしまうよう、せつに、わたしは、奨めるのである。そ
の一つの理由としては、そのような場合にのみ、人々は、純粋ないつわりのない人相を示すけれ
ども、会話が始まると、たちまち、表情の動きに影響されたり、そのうちに、相手はみずから習
得したもろもろの変装技術を行使するということが考えられるし、もう一つの理由として、あら
ゆる個人的な関係は、ほんの一時的なものであっても、多少とも、わたしたちを拘束するもので、
それによって、わたしたちの判断が主観的に不純なものとなるおそれもあるのだ。

157:Ms.名無しさん
12/06/17 09:08:06.27 0
 なお、わたしは、一般に、人相の鑑定法では、或る人間の知性的な能力のほうが、その人の道
徳的な性格よりも、はるかに、よくわかるものだということを、注意しておかなければならない。
つまり、知性的な能力は、道徳的な性格に比して、ずっと著しく外部へと滲み出てくる。それは、
ただ、顔や表情の動きに現われるのみならず、歩き方にも、さらに、すべての運動に、ごく些細
な所作にさえ、現われてくる。おそらく、だれでも、愚物か、痴呆か、才能人かは、後姿だけか
らも、判別しうるであろう。船のように鈍重な動作は、すべて、愚物の特徴だし、痴呆は、その
徴候を、あらゆる身振りに示すが、才能や思慮も、やはり同様に、動作や身振りによって認めら
れる。このことにもとづいて、ラ・ブリュイエールは「どれほど巧妙に、どれほど無造作に、ま
たどれほど気づかれぬように行なわれようとも、その中に、わたしたちの本性を示す或る挙動が
少しも現われていないことは、全く無い。頭の鈍い者は、はいるにしても、出るにしても、すわ
っても、立っても、黙っていようが、つっ立っていればなおさら、才能のある人と同じように振
る舞うことなど、とても出来はしない」と記述している。
 エルヴェシウスによると、月並みの頭脳を有つ常人は、才能ある人を見つけたり避けたりす
るために、精確かつ敏捷な本能を有っているそうだが、これも、上述のことによって、説明でき
る。もっとも、これは、いささか余談にわたるかもしれない。
 とにかく、そのような事柄のもとづくところは、まず第一に、脳髄がより大きくて、その発育
が良ければ良いほど、また、脳髄に対する比例において、脳髄と神経とが、より細ければ細いほ
ど、知性ばかりでなく、同時に、四肢の動きかたや柔順さも、それだけ増大するわけだし、何と
いっても、この場合、四肢は脳髄から、より直接に、より截然と支配され、その結果、すべてが、
より多く、ただ一本の糸によってあやつられることになり、従って、あらゆる運動のうちに、そ
の意図が精密に表わされるからである。

158:Ms.名無しさん
12/06/17 09:31:06.97 0
 なお、これはすべて、動物が、生物としての段階をよ
り高く昇るにつれて、一層たやすく、或る唯一の場所だけを傷つけることによって、これを殺す
ことができるという事実に類似している、というよりもむしろこの事実と関連しているのだ。実
例を、蝦蟇類にとってみると、彼らの運動が鈍重で怠慢で緩慢であるがごとく、彼らは愚昧でもあ
り、と同時に、きわめて粘りづよい生活力を有っているが、これらすべての事柄は、彼らが、は
なはだわずかばかりの脳髄に対して、著しく太い脊髄と神経とをそなえていることから、説明が
つく。しかも、一般に歩行と腕の運動とは、主として、脳髄の佐用によるものである。詳しく
いえば、外部に出ている四肢でも、脳髄から神経を介して、その運動とそれらのあらゆる変更と
の―ごく微細な修正にいたるまで―支配を受けるのである。それゆえ、随意運動をすると、わた
したちは疲れを覚えるのだが、この疲労感は、ちょうど痛みの感じと同様に、その座は脳髄の中
にあるので、わたしたちが思い違いしているように、手足のうちにあるのではない。だから。疲
れると眠気を催すのである。これに反して、有機的生活の運動で、脳髄によって喚起されないも
の、すなわち、不随意運動、たとえば、心臓・肺臓などの運動は、疲れることなく継続している
のだ。さて、思考と四肢の管理とは、ともに同じ脳髄の任務であるから、個人の素質の如何に
従って、脳髄の働きかたの性格は、その両方にひとしく現われることとなり、そこで、愚鈍な人
間は、あたかも、あやつり人形のごとくに運動するが、才能豊かな人々では、あらゆる関節が、
きびきびと動くのだ。―しかしながら、精神的な特質は、態度や動作からよりも、はるかによ
く、容貌から認められる。詳しくいえば、それは、額の形と大きさ、顔のあらゆる道具の緊張と
運動、とりわけ、眼から認知される。―だが、眼にも、いろいろの種類があって、豚の眼のよ
うに、小さく鈍くぼんやり見ているのから、あらゆる中間の段階を経て、天才の光り輝き電の射
るがごとき眼にまで昇りつめる。

159:Ms.名無しさん
12/06/17 09:40:04.84 0
 悧巧者の眼つきは、その最も巧妙なものでさえ、天才のま
なざしと異なる所以は、前者が意志に奉仕していることの歴然たる証拠を示すのに反して、後者
はそのようなものの片影さえとどめていないというところに存するのだ。(『パレルガ・ウント・
パラリポメナ』第二巻六四ページ〔『哲学入門』第三章〕で「天才の容貌」について述べた条を
参照せられよ)―それゆえ、スクァルツァフィキィが、その著『ペトラルカ伝』のなかで、彼
がペトラルカと同時代にいたヨセフ・プリヴィウスから伝え聞いた話にもとづいて記述した逸話
は、そっくり信じてもよかろう。それによると、或る時、ペトラルカが、多くの紳士や貴族の間
に立ちまじって、ヴィスコンティの宮廷に同候していた時に、ガレアッツォ・ヴィスコンティは、
当時まだ少年であった―ミラノの第一公爵となった―息子を顧みて、その場にい合わせてい
た人々の中から、最も賢明な人を探し出せという課題を与えた。少年は、すべての人たちを、し
ばらく眺めていたが、やがて、ペトラルカの手を握って、父のもとへ連れていったので、列席者
一同は非常に驚嘆したという。そうだ。自然は、人間の中でも特に傑出している人には、その品
位の印章を、少年でさえも認め得るほど、明瞭に捺しておくものなのである。そこで、わたしは、
ふたたび、ひとりの平凡人を三十年間も、偉大なる思想家として吹聴してみいたくなったとしても、
その折には、どうぞ、ヘーゲルみたいなビヤホールの親爺然たる人相の持主を、そのために択び
出さないようにお願いする。自然は、この男の顔に、読みやすい書体で、その得意とする「平凡
人」という文字を、はっきりと記しておいてくれたではないか。

160:Ms.名無しさん
12/06/17 10:16:31.26 0
さて、しかし、人間の知性的な面に関することを、その道徳的な面、すなわち人間の性格に関
して、そのままあてはめるわけにはいかない。人相の上から、その人の道徳的な性格を察知す
ることは、知性の程度を知るのと比べて、はるかに困難である。というのは道徳的な性格は、
形而上学的なものとして、知性とは比較にならぬほど、より深いところに潜んでいるし、なるほ
ど、体質や生活機能と関係はあるけれども、知性のように、これと直接に結びついてはおらず、
また、その或る一定の部分や系統と関連しているものではないのだから。のみならず、たいてい
の人は、自分の悟性に、通常、はなはだしく満足しているらしく、これを公然と示しているし、
なお、あらゆる『機会に、認められようと努めるけれども、道徳的な性格を、そっくり、あけっぴ
ろげて、さらけ出すことは、はなはだ稀である、というよりむしろ、たいていの場合、故意に隠
匿する、そして長い間の練習は、この隠匿方法をきわめて巧妙なものにまで仕上げるからでも
ある。しかしながら、すでに述べた通り、下劣な思想と没義道な努力とは、徐々に、顔面に、そ
の痕跡を刻みつけていくが、特に、それは眼に現われてくる。それゆえ、わたしたちは、或る人
を、人相鑑定の上から判断して、、その人がけっして不朽の業績を発表し得ないということを保証
することは、たやすく出来るけれども、その人がけっして大罪を犯さぬであろうという保証を与
えることは、けだし、全く不可能であろう。

161:Ms.名無しさん
12/06/17 16:08:50.13 0
長すぎるんだよ、3行でまとめろ

162:Ms.名無しさん
12/07/09 10:35:49.95 0
噪音と雑音について

 カントは、生き生きとしているもろもろの力について、一つの論文を書いたが、わたしは、反
対に、このような力について、一つの悼辞ないしは挽歌をつづってみようと思う。というのは、
叩音、槌音、打音などで、生き生きとしているもろもろの力が余りにしばしば使用されるために、
わたしは、一生涯を通じて、毎日のように、苦しめられてきたからである。もちろん、世間には、
雑音に対して無感覚でいるため、わたしがこう言うのを聞くと、嘲笑する人がいるだろう、いや、
いるだろうどころか、きっと大勢いるにちがいない。しかし、これらの人々は、論証・思想・詩
文、また、芸術作品に対し、つまり、あらゆる種類の精神的印象に対しても、やはり、無感覚な
人たちである。この原因は、彼らの脳髄の材質が粘りづよい組成と手堅い織り方で出来あがって
いることに存する。これに反して、わたしは、噪音が思索する人々に与える苦痛についての愁訴
を、ほとんどすべての偉大なる著述家の伝記や、或いは、その他みずから書いたもろもろの作
品のうちで発見する。たとえば、カント、ゲエテ、リヒテンベルグ、ジャン=パウルなど、いず
れも、このことを嘆いている。たまたま、この方面に言及していない人があったにしても、それは、
ただ、文章の前後の関係が、著述の筆を、この方面に導いていかなかったのによるだけであろう。
わたしは、この問題を、次のように解説する。ちょうど、一つの大きなダイヤモンドを、いくつ
かに切断すると、その価格は、これらの小さな砕片の総和以上に出ないと同じく、まあ、一つ
の軍隊が、小さい部隊に分けられると、もはや何らの力をも保ち得ないのと同様に、或る偉大な
る才能も、それが中断され、攪乱され、分散され、転換されると、もはや、普通の才能以上には、
何ごとも成し遂げ得られないようになる。何と言っても、彼のすぐれた性質は、みずからのあら
ゆる力を、あたかも凹面鏡がすべえの光線を一点に集中するごとく、一個の対象に手中すること
を必要条件としているので、これが噪音によって中断されることは、精神の働きを妨害するから
である。

163:Ms.名無しさん
12/07/09 10:57:39.20 0
 それゆえ、すぐれた思想家は、常に、あらゆる攪乱・中断・転換などを忌み、とりわけ
噪音による暴力的な分散を、最もはなはだしくきらった。もっとも普通の人々は、こんなこと
で特に悩まされはしないけれども。すべてのヨーロッパ諸民族の中で最も悟性的であり最も精神
的な国民は、never interrupt という規則―「けっして邪魔するな」ということ―を、かねてより、
モーゼの十戒に次ぐ、第十一番目の戒律と呼んでいる。しかも、噪音は、わたしたち自身の思索
を中断する、というよりむしろ、粉砕してしまうから、あらゆる邪魔の中で最も不作法なものと
いわねばならない。しかし、中断されるものが全く無い場合に、噪音が、取り立てて感じられな
いのは当たりまえなことであろう。―往々にして或る―あまり強くはないが持続的な―雑音が、
わたしのはっきりとこれを意識する前に、しばらくの間、わたしを苦しめかつ妨げていることが
ある。この場合、わたしは、それが何であるかわかるまで、ちょうど足の先に石ころを乗せたよ
うに、わたしの思索の歩みが困難になっているのを絶えず感じるばかりである。―
 しかし、いまや、「属」から「種」に移って、わたしは、まず、最も許しがたき、かう最も罪深
い噪音として、都市の反響する狭い街路で打ち鳴らされる、真にいまいましい鞭の音を弾劾しな
ければならない。この音は、まさしく、人生から、一切の安静とすべての思慮とを、奪うもので
ある。鞭を打ち鳴らすことが許されているということぐらい、人類の鈍感と無分別とについて、
きわめて明瞭な概念を、わたしに与えるものは、またとあるまい。この突如として起こる、鋭い―
脳髄をしびれさせ一切の思慮を裁りきざみかつ思索を殺す―響きは、いやしくも、思考に類似す
る何ものかを脳髄のうちに持ちまわっている人なら、だれしも、苦痛を感じさせられずにはいら
れないはずである。従って、このような響きは、そのたびごとに、行く百の人々の精神の働きを、
たとえ、その働きがいかに低級な種類のものであるにしても、常にかき乱すに相違なく、いわん
や、思索家の瞑想裡に闖入するならば、首斬り刀が頭と胴体との間を通るごとく、苦痛と破壊と
が頭脳に及ぼす影響は、ちょうど、ねむり草に何かがさわった時と同様に、かなり長い時間にわ
たって消えずに残る。

164:Ms.名無しさん
12/07/09 11:20:05.98 0
 実益という最も神聖なことに対して、わたしあ、充分に尊敬を払っている
けれども、一車の砂または肥料を運んでいく男が、(街路を三十分ほど通過する間に)次々に、一
万ほどの頭脳のうちに浮かびあがろうとする或る思想を、その萌芽のうちに枯死せしめていくよ
うな特権を、運搬という若干の実益ある行為によって獲得せねばならぬとは、どうしても納得す
るわけにはいかない。なるほど、槌で打つ音、犬のほえる声、それに、子供たちの泣き叫ぶのも、
身の毛のよだつほどいやなものだが、まさに、思索を殺戮するものは、ただ、鞭の響きばかり。
或る人がやっと、時たま、よい思いつきの浮かんだ大切な瞬間を、まるっきり、台なしにして
しまうのが、この響きの使命である。車をひく動物を駆るために、あらゆる音のうちで最も忌ま
わしい鞭の響きを使用するほかに、何らの方法もない時だけは、余儀ないこととして、堪忍されも
しようが、しかも、事実は全く反対なのだ。こののろわしい鞭を鳴らす音は、馬に及ぼす心理的な作
用を主眼としたことであるが、この音を不断に濫用したために、もはや習慣になて、その作用
も、すっかり鈍くなり、ほとんど失われ、馬は、鞭の音を聞いても、歩みを早めはしないのだか
ら。その証拠には、空の辻馬車が、乗客を捜しつつ、特にゆっくり行きながらも、馭者は絶えず
鞭を鳴らしているではないか。実際には鞭を鳴らすよりも、むしろ、ほんの軽く鞭を馬の体に
触れさせたほうが、ずっと多くの効き目があるのだ。また、もし、この響きによって、鞭のあるこ
とを絶えず馬に思い起こさせておくことが、どうしても必要だと仮定しても、その目的のために
は、普通に出す響きの、百分の一ほどの弱い音で、充分であろう。だれしも知っている通り、動
物というものは、聴覚的にも、また、視覚的にも、きわめて軽微な―それこそわたしたち人間が
ほとんど気のつかないくらいの―合図にすら、注意を払う。この事実については、すでに、調教
された犬や、カナリヤが、驚嘆に値する適例を示している。それゆえ、鞭を鳴らすことは、純然
たる悪戯である、のみならず、腕で働く連中が、頭脳で仕事をする者に対して加える一種の厚かま
しい嘲笑だとも思える。

165:Ms.名無しさん
12/07/09 11:49:30.94 0
 かかる破廉恥な行ないが都市において許されていることは、大なる野蛮
であり不正である。これは、警察から、すべての鞭のくびれた末端に一つの結び目を取りつける
ように命令を出してくれさえすれば、きわめて容易に除き得ることなのだから、なおさら、そう
感じるのだ。プロレタリアをして、彼らの上に立つ階級の頭脳作業に対して注意させるのは、少
しも悪いことではあるまい。なぜなら、彼らは、すべての頭脳作業に対し、非常ななおそれをいだ
いているのだから。しかし、非番の郵便馬を連れたり、車輛から放した輓馬に乗ったりして、一
尋もある長い鞭を力いっぱいに振り鳴らしながら、人口稠密な都市の狭い街路を通行する男は、
直ちに馬からおろされて、杖で五つも性根にこたえるほどなぐられるがよい。たとえ、世界中の
博愛論者が、筋道立った理由から体刑を全廃しようとする立法団体とともに、鉾先をそろえて、
この処罰を非難したとて、わたしは説服されないつもりだ。しかも、もっとひどい実例さえ、あ
まりにもたびかさねて目にすることが出来る、それは、馬を連れずにひとりっきりで往来を通
る馬丁が、絶えず、鞭を鳴らしていることだ。不都合な寛大さのおかげで、この男には、鞭を鳴
らすことが、これほど身についた習慣になってしまったのである。何だって、肉体のため、また、
すべて肉体を満足させるためには、一般に、きわめて人情深い取扱いがなされているにもかかわ
らず、ひとり、思索する精神だけが、尊敬を受けるなどはさておき、最もわずかな顧慮をも保護
をも与えられずにいて、果たして、よいものだろうか? 荷車の馭者・荷揚人足・立ちん坊など
は、いわば、人間の社会の駄馬であるが、なるほど、彼らとしても、全く人間的に、正義・公正・
寛大・慎重な取り扱いを受けなければならない。とはいえ、ほしいままに噪音を立てて、人類の
高尚な努力を邪魔することは、けっして、許されてあってはあらない。この鞭を鳴らす音が、す
でに、どれほど多くの寛大な、また、美しい思想を、この世の中から追い払ったかを、わたしは
知りたい。もしも、わたしが命令する権限を有っていたなら、わたしは、馭者たちの頭に、鞭を
鳴らす音と、笞刑との間には、切り離し得ざる観念連合のあることを、とくと滲みこませてや
るだろう。

166:Ms.名無しさん
12/07/09 12:15:27.01 0
 ―知性のよりすぐれている、かつ、感情のより繊細な諸国民が、この点においても、
規範を示してくれ、ついて、その先例にならって、ドイツ人も同様なところまで進歩するように
なることを、わたしたちとしても希望しようではないか。
   一八五八年十二月の『ミュンヘン動物保護協会の告示』によると、ニュールンベルグでは、
  必要以上に鞭で打つことおよび鞭を鳴らすことを、厳重に禁止されているそうだ。
 ところで、トーマス=フッドは、(その著『ライン河のぼり』のなかで)ドイツ人について、
「音楽的な国民としては、わたしが今まで逢ったうちで、彼らは最も騒々しい国民である」と
述べている。
 ドイツ人が、こんなことを言われるのは、彼らが、他の国民よりも、特に騒々しいのを好むか
らではなくて、騒々しい音を、年中、聞かされなければならない人たちの魯鈍さから生まれてく
るときも、噪音によって妨げされはしないのだ。なにしろ、彼らは、めったに考えごとなどせず、
いつも煙草ばかり吸っていて、喫煙が、彼らにとって、思索の代用物になっているのだから。不
必要な噪音―たとえば、きわめて不作法な扉のあけたて、ぞんざいに投げとばす「バタンという響
き―に対する一般的な辛抱強さ、これこそ、彼らの頭脳が一般に魯鈍でかつ考え無しであること
の一証徴なのだ。ドイツでは、なんぴとも、噪音を気にかけないように―たとえば目的も無しに
太鼓を打ち鳴らすように―躾けられているらしく思われる。
 さて、最後に、この章で論じられた問題に関する適切な文献として、わたしは、推薦せねばな
らぬたった一冊の―とはいえ、立派な―詩的作品を有っている。それは、すなわち、有名な画家
ブロンツィーノが、三韻脚法で作った書簡体の詩で、『騒音について―ルカ=マルティニ氏へ』と
いう表題の本である。これには、イタリアの或る町の種々さまざまな噪音のために、人々のなめ
た苦しみが、悲喜劇的な方法で、詳細にかつはなはだおもしろく描かれている。この書簡体の詩
は、『ベルニ、アレティノおよびその他の人の滑稽な行ない』第二巻二五八頁にも出ているが、
そこに一七七一年作と記載されているのは誤りである。

167:Ms.名無しさん
12/07/09 18:21:22.10 0
電マをオマンコとアナルに根元まで突っ込んだら
二本とも抜けなくなりました。
抜き方を教えてください。

あ゛ぁ~♥ あ゛ぁ~~♥♥ あ゛ぁ~~~♥♥♥ あ゛ぁ~~~~ ♥♥♥♥

168:Ms.名無しさん
12/07/19 18:16:13.88 0
なんかすごいね

169:Ms.名無しさん
12/07/19 18:31:55.78 0
長文がウザイだけの糞スレ


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