戦国時代を平定した秀吉at WARHIS
戦国時代を平定した秀吉 - 暇つぶし2ch133:無名武将@お腹せっぷく
12/07/01 11:22:48.89

1/17秀吉→小早川
25日に三介殿が安土へ上国し即、御家家督に据えた。
4/12秀吉→小早川
滝川と柴田が信雄に謀反したのですぐに滝川を成敗した。
5/21信雄判物
前田玄以を京都奉行に申しつける。筑前にに尋ね、何事も筑前の申す次第にあい極めること。
11/21の家忠日記 小田三介殿が御腹めされた風聞を聞く。
2/14家康→毛利
信雄・秀吉らが公方様御帰洛を御請することを伝える。
3/3信雄→小川
自筆で申すがここのところの働きは余りにも是非なく、無念だ。
3/6信雄→吉村
津河・岡田ら、こいつら余りにもほしいままに仕置きするから成敗した。
3/7信雄→香宗我部
羽柴天下をほしいままに働き是非に及ばず。羽柴に心合う者三人を切った。
3/7織田信張→香宗我部
同上
3/8顕如上人貝塚御座所日記
三介殿が四人切り、筑州もっての外腹たちて詰問の使者を出すが
すでに15日には尾州表に軍を出す予定だそうだ。
3/9兼見卿記
斬られた者は筑州諸式国々仕合申付の人なり。この注進を聞き筑州もっての他立腹。すでに勢州へ出陣。
3/10晩に及んで羽柴上洛、諸勢ことごとくまかり上がり尾州へ出陣。

134:無名武将@お腹せっぷく
12/07/01 11:26:01.22

信雄が秀吉を父に仕える如く態度で従っていたため信雄を三法師の守役にしてから清洲会談開始。
そもそも清洲会談の時点で池田や丹羽らを味方につけて派閥を形成して
秀吉のおもうがままに会談を主導。
結果、秀吉(秀長も京以西から河内まで)が大版図を獲得し領国を形成
(大和一円も貰った筒井も秀吉に入魂になっているなど多数派工作を進めていた)
信雄と信孝が名代を争っていたから、結局、三法師後見役も決めていない。

清洲での宿老合意の原則を無視する秀吉は信長生存時からの織田家の敵と戦うことをせずに
宿老会談で政策をはかることもなく、ことごとく勝手に政策を決めていく。
そして一刻もはやく安土へ三法師を移動させることを策する(安土が再建され畿内が静謐になるまで待てない秀吉)
五畿内ことごとく人質を取って磐石な体制を構築する秀吉。
信雄有利の大河切りを秀吉は支持し、信孝有利な河切りの境目を否定し兄弟対立を煽る秀吉。
柴田は双方からちゃんと話を聞いて、奉行を派遣して話合おうと提案している。
堀は三法師ともども岐阜にいるらしい(信雄の千福の仕官話の書状から考えると丹羽も?)
柴田は堀に宿老全員合意の原則を掲げて安土へ御座を移す話をしている。
秀吉の勝手な葬儀が事実上の宣戦布告。それの批判を受けて秀吉が誰が天下の主になるか腕比べしようと挑発。
石川数正への書状によれば、重臣対立の結果、
安土へ三法師がこないことで長く、織田家督者が実質空位で立っていない状態になってので
信雄を安土へ入れ御代にするなど織田主君を秀吉の意のままに廃君し別に擁立する暴虐ぶりを発揮。
(良識に従えば三法師のいる信孝や柴田側にこそ大義名分が存在する)
しかも信孝を降伏させたあとに三法師まで人質として取っている秀吉。

信雄を擁立したが完全に傀儡で、秀吉の息がかかった者が国々の仕置きを申し付けられており
信雄はその者の専横を怒り斬っている。
秀吉にとっては、義昭がやってきたから信雄はもういらないという態度か。

135:無名武将@お腹せっぷく
12/07/01 11:26:48.76

イエズス会日本報告集
根来を攻める予定だったが、突如として信長の息子で御本殿(信雄)が羽柴に対して叛旗した。
彼は羽柴殿に人質を出していた者三人を切り三河の国主の助けを求めた。
羽柴は陰謀の経過がよくわからなかったが、迅速かつ容易にいかなる陰謀かを想像し
彼自ら敵を求める決意をした。伊勢国へ着く頃には7万になっていた。
同国に入るやただちに敵の諸城を取り囲み武力で落とし全土を抑え、長島と称する一城のみになった。
伊賀はただちに降伏したので即座に尾張へ向かった。
中略
小牧長久手の戦いが終わったのち越前・加賀・能登より3万が羽柴の援軍にきたが
かくも多くの兵力を必要としないのでただちに帰らせた。
根来の者達がこの機会に大坂を奪おうとしたが、岸和田に羽柴が中村一氏を隠していたのを知らず
奇襲され大敗し短時間に4000人以上が殺害された。
羽柴の海軍司令官の小西は敵の出陣を知ると70艘の艦隊を率いて堺の前へ出た。
豊後の国主が信長に贈った大砲一門を備えており、敵軍が通る和泉国の海岸を急襲し敵兵を殺した。
1584年6月末の書簡によれば、記述の戦ののち、三河国主も本所殿も己の城より出ることを望まず
羽柴は武力で少しづつ彼らを陥落させてゆき、今は極めて重要な城を攻めている。
難攻不落の城だったが、敵を溺死させるべく塁壁を築き、水を入れ、籠城者は恐れをなし命乞いしたが
羽柴は耳を貸さずに皆殺しにしようとしている。
彼は小西を呼び、水上からも攻撃するためであった

136:無名武将@お腹せっぷく
12/07/01 11:28:13.19

イエズス会日本報告集
御本所は三河国主を味方にして羽柴に敵対した。
彼は父の下僕が高い地位に上り、父の子である自分が羽柴の家臣に留まることが我慢できず除こうとした。
しかし羽柴は優れた武将であり、大きく優位にあったので彼らは降伏し和平を乞わざるおえなかった。
羽柴は和平を認め三カ国のうち、一カ国半を自分のために取り、一カ国半だけを彼に残し
彼の娘と三河国主の長男を人質として取った。
尾張の国で戦が始まるときに都に敵が来る事件が起きた。
都の副王(前田玄以のこと)も留守で大騒ぎになったが、都の反対側から三里のところに
羽柴が兵を配置しておいた1人の武将が助けに向かい敵は殺されたり連行され、副王が厳重に調べた。
すると都の二街の住民が逃げ出した。このことを聞くと羽柴は捕らえた者を餓死させようとした。
この中には裕福な者もいたので賄賂を贈り、内裏の太子に助けを求めた。そして仲介の労をして
街へ戻らせた。羽柴殿は尾張から戻ると坂東のほかの国主や大身も味方になっていた。
というのも彼の戦での成功を見たからである。

日本西教史
羽柴はもっぱらその帝国を堅固にせんことに励み、信長の三男は、その父の臣下が簒奪をもって
己らを制御するに堪え忍ぶことあたわず、三河殿とはかった。
中略(水攻めの話が続く)羽柴は2人を許した。

137:無名武将@お腹せっぷく
12/07/01 11:29:29.03

信雄追放について
イエズス会日本報告集
御本所と称される信雄に別な国を授けることにしたが
父の形見なのでと申し出た。
関白殿はただちに、その所領も他の国も有することまかりならぬ。
汝はただ1人の召し使いのみを残し置く。
中略
じつに従順な姿勢で願ったというのに。

日本史
関白はその返答に激怒し領国を持つことを禁止し
1人の草履持ちだけしか家来を伴うことを禁止し
中略
関白はただ1人の小者と称せられている若者しか
仕えることを許さなかった。そして日本の最果ての地に流された。

家康の関東移封がもはや現実のものとして準備が開始される中で
信雄も移封の噂が流れ、領内では諸道具の運び出しの準備が開始されたが
信雄は7月朔付け書状でも神に誓ってありえないと書き
準備する者ははりつけの刑にするとまで言っている。
さらに小田原攻めの時に清洲城や星崎城は小早川隆景に接収されている(長島城は地震で崩壊している)
そして尾張伊勢は秀次に与えられ、流された信雄は8月には常真と号して出家した。
秀吉の野心を嗅ぎ取って柴田や信孝が政治闘争をしているのがわかる。
それで秀吉が三法師を一方的に廃して信雄3を擁立。
逆らう者はすべて謀反人とレッテル貼って叩きつぶす。
その後、信雄は秀吉への屈辱から家康の後援を得て戦うと
秀吉は信雄を長島城へ追い詰めて屈服させてる。
そして北条戦では家康の岡崎城には吉川広家を入れて接収し
関東移封を拒否できないようにしている。
信雄の場合は最初から秀次を入れるために信雄を潰すつもりだったのだろう

138:無名武将@お腹せっぷく
12/07/01 11:32:01.20
当時の当主は北畠具房(具教の嫡男)であり
まず北畠具教と木造具政(晴具三男・具教の弟)の内訌において
木造が織田の力を借りて内訌を有利に運ぼうとしたことが挙げられる。
北畠に苦戦した織田は義昭の和睦調停において茶筅を人質に出して安全撤退した。
(北畠は人質を出してない)その時に茶筅の安全を守るため織田家から津田一安が付けられ、
木造からは滝川雄利(木造一族)と拓植三郎左衛門(木造重臣)が警護に付けられた。
さて成長し茶筅が「具豊」と名前を改めて文書発給を開始したのは天正元年9/20が初見。
大湊中に宛てたものだ。これは長島一向宗攻撃のために伊勢水軍に桑名派遣を命じてる。
そこには「本所よりも固く御申し付けあるべく」とあり、本所とは具教もしくは具房を指しており
信雄より先に本所からも命令文書が発給されているのがわかる。
そして具教や具房の奉公人である山室氏(9/16・10/13・10/14・10/16・10/29)や
鳥屋尾氏(10/13・10/16・10/19・10/晦)によって大湊への軍事動員書状が発給されてる。
9/20頃に伊豆の敵船が大湊入り津田一安が現地入りして糾明に乗り出し大湊諸衆と交渉してる。
しかし大湊の船主たちが軍事動員に反対して拒絶している姿が山室氏の書状で判明する(太田家古文書)
つまり大湊の船主の総意は織田に従いたくないという大前提が見て取れる。
また天正元年11月15日に山田三方中と北監物に信雄は文書発給しており
大意としては両御所様御同前に北監物(伊勢大神宮御師)の息子の
福島左京亮(皇大神宮御師)の跡職相続を認めたもの。
これも9/16・9/22・10/22に山室氏から奉書が発給済みのもの。
天正元年の信雄の具豊名での発給文書はこの3通のみ。
このように信玄が死去し義昭が追放された後になってやっと信雄の発言力が多少向上してるに過ぎない。
ここに至っても伊勢水軍が織田に服属してないのが理解できる。


139:無名武将@お腹せっぷく
12/07/01 11:35:21.48
次ぎに信雄が発給しているのは天正3年7/24から「信意」の名前で発給開始している。
つまり天正2年はまったく書状を発給していない。
よって7月の伊勢長島一揆討伐の軍事動員も具房らが主導していると見てよい。
ではなぜ天正3年から発給が開始されるのか?そして「具」ではなく「信」が使用されるのか。
それは多聞院日記6/24から信雄が家督相続して田丸城に入城してるのが判明する。
そして7月に代替わり徳政令を発布しており、津田一安が添状を発給している。そして越前一向宗殲滅戦に向かう。
津田らは茶筅と書状で呼んでおり、滝川一益の取り次ぎで信長へ書状を出している。
天正4年11月に北畠・長野・坂内・大河内らを信雄が粛清することになるが、
原因として挙げられるのは天正4年から義昭が鞆幕府を設立し、
多聞院日記には具教もしくは具房が信雄の家督相続の時期に北畠氏の大和領へ入国していたことが挙げられる。
大和宇陀一揆ら反織田勢力との合流の風聞であり、これが破滅への道となった。
天正4年12月には津田一安が滝川雄利と拓植三郎左衛門らの讒言で誅殺され
伊賀攻めで拓植三郎左衛門が討死すると木造一族の滝川雄利の独裁体制が敷かれ、
織田信包などに指示を出すほどの権勢を持つようになる。
これにより当初からの目標であった木造氏による北畠氏の乗っ取りが完了し、信雄は傀儡化されてしまうのである。
本能寺の変とともに伊勢が混乱状態になり、明智討伐などできず精彩を欠いたのは
信長の内政丸投げにより、土着権力が独自に主従を形成する弊害がモロに出てしまい
織田氏は名目上の主にしかならず、事実上の木造氏のよる支配下にあったからである。
つまるところ天正3年6月に信雄が北畠家督と継ぎ、天正4年11月に反織田で面従腹背の北畠氏粛清するも、
12月には木造氏による支配が完成してしまい、信雄の傀儡化という歴史的推移が見て取れる。

信雄は天正2年はまったく書状を発給していないことに着目し
信雄が織田家に突っ返されてしまったとする考え方もある。
そして天正3年6月に再度、伊勢入部したとする。
その後、8月の越前一向宗殲滅戦には信雄はなぜか大和衆を率いる塙を部下としているように見え
滝川一益や津田一安は信長の命に従っているように見え、信雄とは別系統とも思える。
伊勢衆は信雄の統制下にはまったく置かれてない独自行動してるのがわかる。


140:無名武将@お腹せっぷく
12/07/01 12:19:34.80
ちょっと面白い

141:無名武将@お腹せっぷく
12/07/01 12:33:25.95
武田水軍は土屋や岡部らによって作られ駿河清水に拠点が作られた(戦国遺文武田1496・1515・1625)
もともとは北条の梶原水軍を仮想的にしたものだ(本光国師日記)
元亀2年には伊勢水軍から小浜氏や向井氏を招集してるが(1748・1789)
北条との同盟によって仮想敵が徳川へ変更される。
元亀3年10月からの徳川攻撃では武田水軍も高天神城攻略にも出動していたとされ、
11月には武田水軍(伊勢水軍)が三河田原表襲撃の計画があったのがわかっている(1995)
天正2年遠江国今切に武田の兵糧船が現れ徳川の船で取り囲んだが徳川方の寺島が討死させられてる(当代記)
6月には武田が兵糧を北条領から調達しようとして北条方に押収され
翌月から武田が船手判を発行することで解決してる(静岡県史資料8の773・785)
小川雄氏は今切では伊勢から武田領への兵糧の回送が行われていたり、
三河田原表襲撃などから、武田伊勢水軍が海上でも徳川を圧倒しつつあったと論証してる。
天正7年9月に駿河用宗城が徳川に攻略され遠江へ進出することがなくなった武田伊勢水軍は(3178)
天正8年4月より北条水軍を相手に伊豆で圧倒しており(3331・3332)
北条方の水軍根拠地まで攻め込まれてる(3534・3535・3536・3372)(静岡県史資料8の1394)
要するに伊勢水軍によって織田と徳川水軍は圧倒されており、武田の兵糧の海上輸送は磐石なんだよ。

元亀4年10月朔日の勝頼書状の
戦武2184において
小浜氏は3000貫文と書かれ、
他に同心や被官を束ねて水軍を組織してるし、
天正7年10月16日の勝頼書状の
戦武3178において向井氏が1000貫文と書いてる。
また幕府旗本の中島与五郎家には
天正4年10月に三河大崎の
中島与五郎重次が
武田水軍に敗れ相良浦で討ち死にしたと記録されている。
武田水軍が織田や徳川水軍を圧倒しており、
伊勢から駿河の制海権を得ていたのは間違いないだろう。

142:無名武将@お腹せっぷく
12/07/01 12:38:40.94
第二次長島侵攻直前の天正元年(1573年)9月20日付けの塙直政の書状
信玄の西上中にも伊勢長島より出撃して岐阜にほど近い新砦を作って籠城していた日根野弘就に協力してた
伊勢大湊自由商業町の山田三方の福島親子が船を出していたことが発覚し、のち殺される。
このことからも織田に伊勢水軍が従っていたなかったことがわかる。
茶筅が「具豊」と名前を改めて文書発給を開始したのは天正元年9/20が初見。
大湊中に宛てたものだ。これは長島一向宗攻撃のために伊勢水軍に桑名派遣を命じてる。
そこには「本所よりも固く御申し付けあるべく」とあり、本所とは具教もしくは具房を指しており
信雄より先に本所からも命令文書が発給されているのがわかる。
まさに面従腹背の北畠と伊勢水軍である。
そして林通政を討たれ逃亡中に凍死続出で大敗する織田軍・・・これを受け信雄も天正2年に発給文書ゼロ。

その記述や天正元年9月の第二次長島侵攻での織田軍の退却での追撃で、
元亀2年の退却同様に大打撃を受けて、
信長公の一の長の林新次郎(道政)討ち死にも含めて、
一向一揆論の金龍静氏も、
すでに尾張国海津郡一体はほぼ全てが一向衆化していたと書いてる。
第二次侵攻時において恐怖とパニックで周りが全て敵に見える信長は、
深谷部の近藤氏は禅宗に帰依してたのに一向衆と誤認して攻撃してる体たらく。
海津郡失陥は重大な事件で、
これにより尾張から近江へ行く街道が封鎖されてしまい蒲生は敵中孤立。
蒲生が朝倉に帰属するのもうなづける。
また伊勢大湊に伊豆の大船が着岸していた事実から、
甲相同盟に基づき、
北条水軍まで伊勢湾に支援に来ていた。

伊勢での織田の支配がスタートしたのは天正3年から。
角明浩氏によれば摂津同様に信長の命令を無視して私戦を繰り返しまくって去就著しい大和衆の統御を
織田家がうまく行えるようになったのは天正2年(1574年)の蘭奢待採取と塙直政の大和守護任官が大きいそうだ。
これにより筒井衆や興福寺を始めとした大和衆の本願寺攻撃への協力が取り付けれるようになり
伊勢長島への有効的な攻撃が可能になったのだと。
(しかし同時に信玄と義昭に内通したが許された松永が
筒井より下の立場に逆転したので不満をもっており大和混乱の火種は残る)
伊勢長島攻略を完了して北伊勢での支配を確立させると信長は南伊勢への関与を強め始め
1575年に信雄が北畠家督を得て田丸城へ入り御本所と呼ばれるようになる(田丸具忠は一ノ瀬御所へ移城)

143:無名武将@お腹せっぷく
12/07/01 12:42:23.18
美濃国も一向宗の巣窟。
また信長の長島攻撃には美濃真宗門徒が一揆を組織し長島参加している。
元亀三年7/13に信長は専福寺に対して大坂にいる門徒たちを引き払わせるように命じてる。
本願寺の下間頼龍も濃州坊主衆宛に専福寺の忍悟が戦死したので跡目を忍勝に認めている。
また天正四年に安八郡長久寺が本願寺から感謝されていたり
河野門徒が濃尾門徒を指揮して石山にいたり
教徳寺の六代賢正が石山や加賀に出陣するなど
美濃本願寺教団の兵糧輸送やら出陣やらの断片的記録が遺る。
美濃国中支配者51人の僧を本願寺護持に任命している。
岐阜市内では末寺や門徒の力に応じて上中下と序列している。
川之方 上
専勝寺 上
浄土寺 中
上宮寺 下
教徳寺 中下
勅命二度目で教如もさすがに断念し信長と和睦したが美濃の一向一揆衆の戦力は非常に大きく
信玄本隊の美濃進軍は彼らの一斉蜂起により
信長は致命的ダメージを受けて壊滅するだろう。


144:無名武将@お腹せっぷく
12/07/01 12:50:03.83

>>47>>43
アホ無知の織田厨ではまともな回答は帰ってこないだろうから
俺もあまり上杉には詳しくないが回答しておいてあげよう。
斎藤朝信は謙信が二度目の上洛によって相判衆に就任したのを契機として
謙信政権に参加した。自らの城下町を持ち(柿崎景家・北条高広)
北条高広と同様に独自に判物を発給していた国人衆。
永禄2年12/26の長尾家奉書に長尾藤景・柿崎景家・北条高広と共に署判している。
それ以前の署名者は松本景繁・長尾景憲・直江実綱・吉江長資・本庄宗緩であった。
越後がまったく統一されていない状況下で、信玄・氏康らの北上の脅威に対して
一国の公権力として自立した戦国領主を政権下に取り込んでいく過程がわかる。
この事実は永禄3年になって謙信にとって3/26初の越中出兵(信玄が神保氏を後援して椎名氏を討たせていた)
この時に越中での出兵において神前筑前拘領太田上郷道場・寺家・同門前での越後軍の狼藉禁止の禁制を
北条と斉藤の連名で出してるなど、この後の謙信政権を支えていく宿老となる功臣。
神保氏を瞬殺して富山周辺を謙信は確保して背後の憂いを除くや
5/13に十一ヶ条の府内掟を出し越後府中の町人に対して諸役と地子を5年間免除し
府内を領主の干渉を受けない郡司不入の特権を与え自由都市とした。
この文書も斎藤朝信・長尾藤景・柿崎景家・北条高広が署名しており
これにより春日山の謙信は越後守護上杉氏の本拠地の府内の支配する都市法を公布できるようになった。
内政を行ったことで謙信にとって初の関東出兵を開始し柿崎景家を留守に残し
その監視役として直江実綱・吉江景資を配置し8月末に前関東管領山内上杉憲政を奉じて越山した。
12月の相模国の妙本寺への制札には長尾藤景・北条高広が署名している(謙信は厩橋周辺にいた)
天正3年6月の定書で初めて越後を統一したことが判明する。
それは斉藤朝信の他に新発田長敦・竹俣慶綱の二名の揚北衆の戦国領主が謙信政権中枢へ参加しているからである。
これにより謙信は阿賀北まで上杉政権の政治を貫徹できるようになった。
また10月には5月に長篠で敗北した勝頼と和睦し信長との対決姿勢を明確にしていく。
越後完全統一を果たした謙信にはすでに敵はなく、破竹の進撃で上洛を目指すことになる。
ちなみに天正3年軍役帳では斉藤の家格は21番目に相当しているが
面倒なので槍の数だけで言えば250の景勝(1位)、235の山吉豊守(32位)、
200の直江景綱(33位)、180の柿崎晴家(23位)
170の山浦国清(村上義清の子で2位)、160の色部顕長(9位)、に続く153である。
このように斉藤朝信は謙信政権中枢において文武において長く謙信を支えてきた功臣であるといえよう。

145:無名武将@お腹せっぷく
12/07/01 12:53:35.84

>>110
織田厨がキチガイなのは天正6年諏訪大社の遷宮で信濃一国に
造営費をかけた時に出来る限り負担したくない者が
いい加減な言い訳を書いてる文書の一部を切り抜いて
武田の悪政とか重税で民が苦しんでたとか歪曲してたところだよな。
今でこそ遷宮は諏訪市の負担だけで執行してたが
昔は信濃一国に費用が課せられていて
費用負担を嫌がって非協力的だった戦国期の国人たちも
信濃一国支配を完成させた信玄により
古来の通りにサボりを許さずに諏訪大社の復興を行っただけなのが現実。
金山が枯れはじめたというのも一次史料には存在してない妄想でしかない。


146:無名武将@お腹せっぷく
12/07/05 12:29:30.77
三法師を廃止し坂本城へ幽閉し織田家滅亡
木造家の傀儡北畠信雄政権樹立
秀吉の意を執行する家臣を信雄が殺したので降伏させる
小田原陣後に信雄を小姓1人だけしか付き添いを許さず秋田へ追放
秀吉が朝鮮役での大陣容を見せ付けたいがために旧主筋だった信雄を呼び出し息子に秀の名を与え秀雄と称させ5万石の領地を与える。

秀信13万石と秀雄5万石は関が原の戦い後に改易(どちらも織田宗家ではない)
秀信は高野山からも信長の所業を理由に拒絶され野たれ死に
秀雄は1602年に野たれ死にそうなのを聞いた徳川秀忠の好意により蔵米3000俵を恵んでもらったが栄養失調のため27で死去。
困窮した信雄は大坂城で生活保護を受けることになる。

147:無名武将@お腹せっぷく
12/07/08 19:29:11.23
信長の仇討ちを本気で考えていたのは秀吉だけ。

他の織田家臣は自らの領地が混乱してるのも
抑えられずに茫然自失してたに過ぎん。
なんせ尾張まで混乱しまくりなんだから。
しかも本願寺に頼むから協力してくれとか泣きの書状を連発してたのが
この時期の織田家臣www

16・17世紀イエズス会日本報告集
光秀は市のどこにも火を放たなかった。
重臣を1人配置して、予期される戦に備えて
2.3日後には京を離れていった。

そのころ安土では略奪が行われ、家々を荒らして家財を盗み
路上では追いはぎを働くことが横行していた。
このことは安土だけでなく、堺から美濃及び尾張までの道程
6.7日のところでも同様であり、ここかしこで殺人が行われた
これほど甚大なる荒廃をもたらす様子は
まさに地獄がこの世に出現したかと思われるほどだった。

148:無名武将@お腹せっぷく
12/07/12 16:43:31.01
道三の美濃統治は不安定なもので、
木曽川長良川の大洪水と六角や朝倉や織田の攻撃による相次ぐ戦乱により、
美濃で大量の餓死者でた天文21年6月に六角が頼芸支援で攻め込んだ。
この戦いののち道三は頼芸を追放するが
越後で長尾氏が上杉の支配機構を解体出来なかったように、
斎藤氏も土岐氏の支配機構は解体できず
かと言って道三には民政の新しい施策も全くなく結局、
重臣達により国主たる資格なしとして、
天文23年3月に道三も隠退に追い込まれる。
そして最後は甲斐を追放された信虎と同じく
追放か抗戦かの選択で道三は抵抗を選び討ち死にした。
ちなみに1554年に道三が隠退した翌年に
義龍が范可の署名を弘治元年12月から署名しており、
捏造信長公記は父殺しイメージを押し付けてるが
この使用し始めた段階ではあくまで道三は隠退しただけで死んでないし
父を殺した范可なんて人物も史記などにも存在しない捏造。

道三独裁から重臣たちによる擁立となった義龍政権は行政を刷新し
1558年を中心に義龍は施策を次々に打ち出し
最高意志決定機関の宿老制が完成し、
用水相論の裁許を重臣連署で解決(用水相論解決は一揆的結合の浅井などでも見られる)
立政寺の門前の池で鵜を飼い網を引くのを禁止した制札も連署。
これは土岐氏の官僚機構を
国人合議制により斎藤の元に奉公人制を確立させ吸収していく動きであった。
永禄三年には印判状という文書形式を導入。
知行あてがいも貫高制が導入され
重臣合議制斎藤氏の知行軍役体系が構築されていく。
さらに上洛し将軍相判衆になり美濃国主に正式に認められ、
伊勢や近衛との縁組など家格を上げる努力をしているあたりは
越後統治の正当性を求めて対立する国人を取り込みたい長尾家と同じ動きである。
信長にはできない状態の中で義龍の矢継ぎ早の改革は評価されるべきだろう。
さらに道三への援軍でやってきた信長を危険視し、
弘治三年4/19付け高政書状(義龍)などで
末盛城主織田武蔵守信成に(信勝。通称だと弟の信行)
書状を出すなど尾張での反信長蜂起を策動し改革の邪魔をさせないよう信長を牽制。

149:無名武将@お腹せっぷく
12/07/12 16:44:21.51
斎藤氏が短命で滅亡したが行政文書は義龍時代に集中して遺っている。
下々の意見をすくい取り自ら政を重臣に諮る英邁な主君であるのは間違いない。
信長とはえらい違いだ。
この改革の中で別伝の乱という宗教対立が起きる。道三は日蓮宗だったが、最後まで厚遇姿勢のままで、
土岐成頼や政房や斎藤妙椿や妙純などの妙心寺派を統制できなかった。
この宗教権威への介入のため義龍は妙心寺四派のうちの霊雲派の別伝を保護し伝燈寺を開創した。
禅宗寺院の寺統権を新設された寺燈寺に任命するやいなや
土岐や斎藤に創建され尊崇を受けて来た東海派の瑞龍寺が反発。
これに同調し聖沢派や龍泉派も怒る。
そして彼らは崇福寺の快川紹喜の主導で永禄四年1/5尾張犬山の瑞泉寺に出国して会議を行い対抗。
義龍は通達は別伝が勝手にやったこととして撤回したが、
別伝の僧籍削除には断固反対し
義龍は別伝に勅願寺と紫衣着用を奏請し、さらに4/30には将軍義輝にもこれに福書してもらうことで対抗。
しかし対立中に義龍が5/11急死してうやむやになり出国していた諸老も帰国し別伝が逐電。快川は甲斐に行った。
義龍の急死で斎藤氏の宗教統制の挫折となったのは痛かった。
しかし信長がただの不良からヤクザの親分になっただけに比べて義龍は名君であるのは間違いない。

内政すらロクにやってないアホ長と違って義龍は優秀だな。
幼君の龍興が稲葉山を乗っ取られたりと
美濃国衆が斉藤を見限り始めたりと信長はホントに運がいいな。
考えてみたら長尾家も家格を引き上げたり、
将軍から朝倉孝景に続いて白傘袋や毛氈鞍覆を下賜してもらうことで守護の同格の権利を認めてもらい
天皇から治罰綸旨を頂いていながら
為景は家格の高い上条に組みする国人と対抗した挙句に結局、上杉方に敗北してるし、
景虎時代にも同じことをして上杉行政府たる公銭方の爆弾を抱え
越後が完全統一できたのは天正3年に新発田・竹俣が謙信政権に参加した時とされてる。

信秀の時代にはすでに斯波守護権力は完全に解体されてるし
家格も財力を背景に朝廷工作して三河守まで貰ってるし
(のち三河守を家康に取られて自分が格下になったことを知り慌てた信長・・・)
すべてを解決して信長に引き継ぐ時には
道三の後ろ盾、義元とは家康を返却した時に和睦してるし
その後には内裏修繕費用を献上してもらいたい天皇の仲介により、今川方が信秀の要求に従い水野へ城を譲渡する形で信秀と和睦同盟してる。
信秀は嫡男のために心配がまったくない状態にして死んでる。

150:無名武将@お腹せっぷく
12/07/12 16:45:47.78
天文17年11月~18年の間に信秀と道三は和睦し婚姻同盟し信長の後継者確定。
天文18年11月には藤原信長と署名する初見文書により熱田へ発給している。
天文19年8月に今川5万が尾張へ侵攻とする誤伝が定光寺年代記があり、これが桶狭間の戦いのモデル。
これを信長公記は天文21年に起きた桶狭間の戦いとして脚色した(さらにデタラメ学者は永禄3年の間違いと主張w)
しかし現実では斉藤が織田側になったこともあり
今川と織田は和睦の雰囲気となってきており天文19年冬に天皇が織田と今川の和睦を斡旋しており
信秀側が義元へ和睦してもらいたいなら刈谷城を水野に返還せよとの要求をしており今川はそれを呑んでいる。
それに前後して東条松平甚二郎が織田方へなるなど織田優位なままに三河戦線も終結した。
ちなみに稲本紀昭によると神宮文庫蔵の日記断片簡に天文17~18年に弾正忠入道・尾張若殿と書かれており
信長は出家した信秀の後見を受けて家督を継いでいる可能性が高い。
そして天文21年3月に信秀は死去する。(信長公記系統では天文18年死去し21年に桶狭間とする操作を行っている)
また守護代達勝もこれに前後して死んでいるようで、天文22年に大和守勝秀の名で唯一の書状が出されている。
天文22年閏正月に平手が信長のアホぶりに失望し自害。信秀が後見につけた4人のうち
青山は稲葉城下で戦死・内藤は謎人物・林は信長を見限り弟支持に回るなど、信長の側近は崩壊。
この糞人格に不安を覚えた道三が4月に信長と会見し、舅だけは婿を見限らない宣言(娘が人質だしなw)
その後、守護斯波義統暗殺・守護代大和守信友暗殺と信長に都合がよい展開になっていたが
守山城主織田孫十郎による信長弟織田喜六郎秀孝殺害
守山城への信長弟の安房守の就任後暗殺されると、信長が逐電していた叔父の孫十郎の守山城主就任許可。
守山城を舞台として信長兄弟達が次々と抹消されていき、
信長に対抗できるのは勢力は達成(信勝・信行)だけになり疑心暗鬼になっていた時に義龍から書状が届いている。
信長の最年長の叔父織田信光暗殺(公記系では不慮の死と書いて誤魔化すが定光寺年代記に害されると書かれている)
天文23年正月、今川攻めをする信長のために道三が兵力を加勢し、水野と信長は知多半島で軍事作戦をする。
岡崎市史によれば1555年から二年の間に三河全域で国人たちの反今川大蜂起が発生しており、信長有利な展開だったという。
しかし1554年に道三が重臣に追放され義龍政権が発足し信長後見役が政権から降りると情勢は一変していく。
1556年4/20に道三が討たれた時に美濃譲り状を貰った信長だったが、義龍の尾張への謀略に悩まされ内乱に陥る。
5年後の1561年(永禄4年)8/28の快川紹喜書状には義龍が江南出勢し勝利したが現在も戦いが続いていると書かれ
(4月の浅井戦のこと。その後5月義龍急死)さらに【【美濃は尾張半国を取っている】】と書かれているのである。
(信長は義龍死去を聞いて斉藤勢が近江戦線に出張っている隙を突き即、美濃を奇襲するが大敗する)
当時の斎藤は浅井と戦っていて、六角義治が斎藤と協調しようとするのを、
土岐氏に配慮する六角義賢が、同盟不成立にさせたりと西側が不安定だったから斎藤は南下なんて考えてない。
義龍は信長同様に内政や国内整備や宗教統治政策をまったくやらずに放置した道三の悪政から、
改革を押し進めていたから、尾張を戦わずして勝つの深慮遠謀の策を以って内乱状態にさせて信長を封じつつ、宗教統制を改革中に急死。

151:無名武将@お腹せっぷく
12/08/12 21:32:41.24
織田信長という人の世間的な印象も難儀なもので、
生前から確かに「荒き大将」という評価はあったのだけど、
本能寺の後に秀吉が
「信長公は優秀だけど暴君だった!そんな暴君に忠実に使えた俺マジ忠臣!!」
という印象操作をし、江戸期になってその太閤記史観が定着して徐々に実像とかけ離れていき

152:無名武将@お腹せっぷく
12/08/21 08:35:32.95
信長は戦国でも随一の暴君だからなぁ。
数十万人は虐殺してるし
上京燃やして金を恐喝したり
略奪しまくって
桂川は死体でうまったし
越前府中の街は一面死体で
足の踏み場もなく
すっげーすっきりして気分がよいとか
信長の書状まで残ってるし。
越前虐殺においてこのすさまじい悪行が後世に伝わるよう願って
と言う仏像だか寺社だかの木片裏に利家らの残虐な私刑による
大虐殺の告発まで残ってるしな。


153:無名武将@お腹せっぷく
12/08/22 23:10:11.09
秀吉がいなければ
信長の成功は無かった。


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