14/01/18 18:10:06.76 oK+AOyUh0 BE:2655624285-2BP(1919)
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『貧困の光景』(曽野綾子/新潮社)
食べるものがない、という人々の現実に関して、我々はほとんど無知だといってよい。
初めに私は、貧困の定義を示しておこう。
「貧困とは、その日、食べるものがない状態」を言う。
貧困から来る飢餓には、解決のめどが立っていない。
もともとその人が蓄財もなく特殊技能もなく、社会全体がまたどこを見廻しても金も物もないのだから、
明日まで待てばどこかから食糧の差し入れがあるか、生活保護を受けられるようになるかもしれないという期待もない。
村全体も親戚も皆、ようやっと生きている、というような社会である。
空腹と飢餓とは全く違う。空腹は一時的な状況をさすが、飢餓は社会的、経済的、かつ継続的状況だ。
とにかく地域全体に食べ物がない。昨日もなかったし、明日も多分ないだろう。飢餓は地域全体の瀕死の病状である。
中央政府も地方自治体も何らこうした飢餓を救済する方法を持たない。
金も物も組織力も、何も持っていない自治体と役人たちなのだ。
こうした飢餓を救うには、3つの方法しかない。
空きっ腹をかかえて水でも飲んで寝るか、乞食をするか、盗むか、である
日本は社会の格差の増大に苦しむという。
そういう人は、電気のない干ばつのアフリカ、砂漠の続く酷暑のアラビアで、まずほんの短時間にせよ、生きてみたらどうか。
そして飢えに苦しむ人々に自分の食べるパンの半分を割いて与えるという人道の基本を体験したらどうか、ということだ。