13/03/30 01:53:19.30 0ZY7ReuEO
>>779
■では、鈴木安蔵は、敗戦直後の焼け野原の中で、なぜ民主的な憲法を構想する事ができたのだろうか?
▼その原点をうかがわせる資料が、静岡大学附属図書館で見つかった。退職時に残され、未整理のまま書庫に眠っていた。
昭和初期(1936年)に自由民権運動研究のため高知(植木枝盛の故郷)に行った時の資料と、《明治時代の自由民権運動の指導者・植木枝盛》の日記の原稿や、植木枝盛に関する研究資料30点以上。
◆《植木枝盛(えもり)》(1857~92)…高知県出身。『明治憲法制定前に、「主権在民」を唱った憲法試案《日本国 国権案》起草』。明治時代の自由民権運動の指導者
1936年、鈴木は自由民権運動研究のため高知を訪れ、「当時、起草者がわかっていなかった日本国 国権案が植木枝盛によるものだった」事を突きとめる。
◆当時の新聞の見出し「明治民衆が叫んだ“自由”の草案現る-闘士・植木枝盛」
▼鈴木は「国民主権の原則」を宣言した植木の憲法案に衝撃を受け、戦前の厳しい言論環境下で、植木の憲法案について研究を進めた。
そして、「植木が、歴史の蓄積された英知から学び、フランス人権宣言やアメリカ独立宣言に影響を受けていた」事を明らかにしていく。
こうして、『植木枝盛の「日本国 国権案」を研究し、それが鈴木に蓄積され、鈴木案として日本人の英知が形になって現れた』。