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1 名前:世界@名無史さん[sage] 投稿日:2013/01/01(火) 11:28:56.64 0
1923年、10万5千人余が死亡となった関東大震災の復興の最中、近代化する日本と同時に経済の閉塞感が漂う日本にある外交の歴史があった
それが『太平洋問題調査会~The Institute of Pacific Relations~(略称IPR)』である。
1925年にハワイホノルルで太平洋問題調査会というYMCAの運動の始まりで
自由主義的・国際主義的な知識人のアジア地域問題の研究をなどを目的とした機関が設立
日本は外務省、マスコミの世界進出などの煽りもあり、1925年に参加し、そしてヨセミテ会議(1936年)を最後に日本はIPRを去る・・・
1936年当時の参加国は「米国・日本・中華民国・イギリス・フランス・オランダ・オーストラリア・ニュージーランド・カナダ・フィリピン・オランダ領東インド(現インドネシア)・ソ連」
このメンバーはIPRで何を話し合ったのか?大日本帝国政府の対応は?その時国民や財界の動きはどうだったのか・・?
まさに第二次世界大戦前、環太平洋戦略的経済連携協定(TPP)のような太平洋諸国を取り巻く先駆的国際的会議が水面下で行なわれていた!
太平洋問題調査会(wiki)
URLリンク(ja.wikipedia.org)