12/04/19 00:26:29.20 8i/h4xui0 BE:1489152487-PLT(12120) ポイント特典
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なぜ慶應は結束が固いのか 日経おとなのOFF
日本の私学の祖、慶應の出身者は、今でも特に経済界において強い絆を持つ。
福澤諭吉をただ一人の「先生」とするその「結束力」は、既に創成期に出来上がっていた。
幕末、大坂で緒方洪庵の適塾に学んだ福澤諭吉は、1858年、故郷・豊前国中津藩の藩命により江戸に下り、
築地鉄砲洲の中津藩中屋敷内に蘭学の塾を開くことになった。これが、後の慶應義塾の始まりである。
とはいうものの、福澤が最初から、スケールの大きなことを考えていたかというと、必ずしもそうではないらしい。
当時の塾は家庭教師のようなもので、適塾の同窓生に宛てた手紙には「三、四年は江戸にいるつもりだ」と記している。
つまり、いずれは大坂に帰るくらいの心づもりだったことがうかがえるのだ。
それが大きく変わるのは、やはり3度にわたる洋行体験であると、慶應義塾福澤研究センター准教授の都倉武之さんは指摘する。
「福澤の学問の素地というものは、緒方洪庵の適塾で培われたのだと思います。
洪庵は教えるというよりは、教え子自身に考えさせる教育をする人だったようで、
自力で物事を考えるという基本姿勢は、ここで獲得したのではないでしょうか。
そこへ欧米歴訪の体験が加わります。西洋の文明を目の当たりにした福澤は強い衝撃を受け、
日本も変わっていかなければ将来はない。そのためには学問だ、と思うに至ったのです」(都倉さん)。
当初、蘭学を学んでいた福澤だが、江戸に来た翌年、横浜見物の折にオランダ語が通用しないことにショックを受ける。
時代は英語だと悟った彼は、独学で英語を学び始め、1860年、幕府の軍艦奉行・木村摂津守の従者として咸臨丸で渡米。
帰国後、幕府の翻訳方に雇われる。
さらに2度洋行を重ねるなかで、福澤はその見聞を『西洋事情』などの著作にまとめて発表する。
と同時に、国を真の意味でつくっていく人材の育成が急務であることを認識していく。
そして、そのために必要なのは、学問である、という結論に達するのだ。
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