12/02/26 12:55:13.17 UO0DwJqF0
>>74
関が原直後は豊臣恩顧大名にとって
豊臣天下を前提とした石田一派を除くための戦いだったし
伊達や黒田みたいな野心的な大名にとっては
当面の覇者は家康にしておくというだけの認識だった
まだ政権が安定しておらず、諸大名の掌握も完全でない当時の家康が
江戸や京をがら空きにして九州の果てまで遠征するだけの余裕はなかった
それを見越して島津は国境の防備を固めながら中央に使者を派遣し
「関が原での俺たちの戦い見ただろ?領地削れるなら削ってみろや!」
と強気の姿勢で家康と交渉した結果、家康は島津の本領を安堵せざるをえなかった
一方、200万石を超える領地を持ちながら関が原でもろくに戦わず
戦後も「石田に担がれただけだし!関が原でも戦ってないから許して!」
とひたすら無防備懇願を繰り返した毛利は容赦なく40万石に削られた