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昭和58年12月10日 明和高校PTA機関紙「めいわ」第29号
「学校群」 中谷義明(S18・明倫中卒)
(抜粋)
私は、このアンケート結果から、中学区制を実施すべきだと考えました。
この考えに多数の人が賛成してくれましたが、具体的に地図の上で線引きを
する段になって、はたと、困難にぶつかりました。
名古屋市から猛反対が出たのです。原案では、県下を数地域に分けた案、
つまり三河部を西と東に二分割。尾張を名古屋市と郡部を組み合わせて三分割。
名古屋市は三学区に分かれるという案です。
その反対論の論拠は、名古屋市といえども県下の一市町村だから、分割はおかしい。
名古屋市は一学区にして、残りを尾張の郡部で適当に分けよというものでした。
これでは饅頭のあんの部分だけ戴くから、皮は適当に分けよというものだということで
大激論になりました。一宮や犬山からも明和や、旭丘へ進学出来たのに
ストップをかけるということで、利害が、立場の違いではっきりと対立したのです。
私は困惑しました。これは中学区制はむりだな、総合選抜方式の一つである
学校群制度の採用もやむを得ないかなと考えるようになりました。
当時東京都でこの制度を実施していましたが、私は東京都は失敗だという
判断をしていました。全都下に実施したために、都立高校はがたがたになって
いたのです。私立や国立に学力の高い生徒は、殆どもっていかれたのです。
東京都方式ではだめだ、愛知方式を考えよう、学校群制度は劇薬なのだから、
必要最小限に取り入れるべきだとおもいました。極端な学校格差のある名古屋市内、
通学圏から名古屋の影響の大きい一宮、岡崎、刈谷、豊橋。
これだけに限って実施しようと決心したのです。
(つづく)