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>>149 明和と瑞陵は、歴史的にも、校風的にも、お世辞にも親和性が高いとはいえない。
Web版「五中-瑞陵60周年記念誌」 第3部 終戦から現在まで
URLリンク(www.bekkoame.ne.jp)
(抜粋)
瑞陵の性格について、旭丘へ移った先生はつぎのように見ている。
「名古屋市内で自由な校風をもっているのが第一番に菊里で、旭丘、瑞陵がこれにつぐ。
進学を重視している点では旭丘と明和だが、気質的には瑞陵と旭丘に共通するものがある。
伝統へのあこがれは旭丘の生徒に強く、一中の後身であるという意識が強く、瑞陵は五中との関係について中途半端な気持ちのようだ」
大野一英『愛知一中物語』(上)(中日新聞本社、昭和52年10月16日発行)
192ページ(肩書・年齢は当時のもの)
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【証人席】かなた剛健 こちら穏健 愛知県立瑞陵高校教頭 三谷五三(51)
(抜粋)
瑞陵高校は愛知五中の後身。五中は一中に次ぐ名門校。
歴史的には一中の県立移管におくれること三十年。明治四十年の創立。
三谷さんは昭和十九年、第三十三回卒業生である。
彼の教師生活は、瑞陵で十年、明和で五年。いま再び瑞陵へ戻っているので、
学生時代を含めると四半世紀も五中との縁がある。五中の校風なんかも的確に感得していると思われる。
「私は明和高校にいて、校風の違いを感じたものです。もともと五中が意識したのは
一中で、県一(高女)と統合して明和となる明倫中学なんか、問題にしていなかった。
明倫は一中や五中のカラーとは別ものだったんですが、良妻賢母型の県一と
いっしょになって、同窓会も県一に押しまくられている。明倫は隅っこに小さくなって
いる感じ。その点、瑞陵は五中と愛商が主体であったのが、愛商が新しい愛商を
つくって出ていったので、あくまで五中が中心となっている」