12/01/16 20:56:00.40 hm0wbRVF0 BE:2528244285-PLT(12001) ポイント特典
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”いわきと生きる…俺といわきは一心同体” 東日本大震災で家族全員が欲求不満に…みな一触即発状態
URLリンク(www.tokyo-np.co.jp)
「大震災が起きて初めて、田舎が自分の体の一部だったことに気付いた」
そう話す舞踊家の熊谷乃理子さん(52)=文京区=は、炭鉱で栄えていた福島県好間
(よしま)村(現・いわき市好間)で、小学校教員の両親のもとに生まれた。兄二人に弟一人。
「山を駆け回り、田んぼで基地遊びをしたり、土手に寝転んで夕日が沈むのを見たり。自然児
そのものだった」
当時の好間は人口二万人。村では全国最大で、小学校は一学年十組も。しかし、四年生
だった一九六九年に炭鉱が閉鎖、村は活気を失った。踊りが大好きでウキウキして村祭りや
盆踊りに出かけるが、「盛り上がらないから」と、しょんぼり帰宅することが増えた。六六年に
合併で村がいわき市の一部となったことも、地域行事の衰退に追い打ちをかけた。
両親と同じ小学校教員になろうと福島大進学を考えていたが、十八歳で出会ったモダンバレエ
が人生を変えた。高校卒業後、「踊りを深めたい」と上京。文教大で舞踊学を研究しつつ、舞踊家・
石井漠の孫弟子としてモダンダンスを極めた。九〇年、舞踊集団「ノマド」を旗揚げ。二〇〇一年、
文京区内に舞踊スタジオ「ブリック・ワン」を設立した。東京芸大や文教大の講師として後進の育
成にも心血を注いだ。
しかし3・11で状況は一変。いわきの実家は津波の直撃は免れたが、揺れで家の中はめちゃくちゃ。
高齢者福祉施設職員の兄と市職員の弟は不眠不休の震災対応で疲れ切り、幼いおいは被ばくの
心配から外遊びができず欲求不満がたまっていた。母も相次ぐ余震で神経過敏になり、みな一触
即発の状態だった。
「踊りなんて何の役にも立たない」と落ち込みながらも、帰省中は家族の不満の聞き役に徹した。
風評被害に苦しむいわき産の農産物を東京に運んでは、文京区内で「いわきマルシェ」を開き、
売った。区内の同郷者と「ふるさといわき応援隊」を結成、避難所へ炊き出しにも行った。