【令和】万葉集の令和の元ネタ・張衡「帰田賦」は、愚昧な後漢の安帝と腐敗政治について嘆いた漢詩だった[04/02]at SCIENCEPLUS
【令和】万葉集の令和の元ネタ・張衡「帰田賦」は、愚昧な後漢の安帝と腐敗政治について嘆いた漢詩だった[04/02] - 暇つぶし2ch1:しじみ ★
19/04/02 18:47:36.51 CAP_USER.net
政府の説明によれば、新元号『令和』の出典は万葉集とのことですが、ネットでは中国の文人・張衡が作った漢詩『帰田賦』こそが真の出典なのではないかと言われています。確かに見比べると、ほぼ同じという印象。万葉集の時代では、漢文は知識人にとっては教養で、オマージュした歌を作るのは普通のことだったのだそうな。
■Wikipedia➖張衡 (科学者)経歴
没落した官僚の家庭に生まれた。祖父張堪は地方官吏だった。青年時代洛陽と長安に遊学し、太学で学んだ。永元14年(102年)、南陽郡守の幕僚(南陽郡主簿)となった。永初元年(107年)には、洛陽を描いた「東京賦」と長安を描いた「西京賦」を著した(これらを総称して「二京賦」という)。当初は南陽で下級官吏となった。永初5年(111年)、京官の郎中として出仕した。元初3年(116年)、暦法機構の最高官職の太史令についた。建光2年(122年)、公車馬令に出任した。永建3年から永和元年(128年 - 136年)の間、再び太史令を勤めた。最後は尚書となった。
30歳くらいで、天文を学び始め、「霊憲」「霊憲図」「渾天儀図注」「算罔論」を著した。彼は歴史と暦法の問題については一切妥協しなかった為、当時争議を起こした。安帝末期から始まり順帝時代まで続いていた宦官政治に我慢できず、朝廷を辞し、河北に去った。南陽に戻り、138年に朝廷に招聘されたが、139年に死去した。文学作品としては他に、「帰田賦」「四愁詩」「同声歌」がある。
URLリンク(ja.wikipedia.org)
■「文選正文. 3」(国立国会図書館デジタルコレクションより)
URLリンク(pbs.twimg.com)
URLリンク(image.itmedia.co.jp)
URLリンク(matomame.jp)
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