09/10/08 14:19:22 q9RV7ygg
>>752
×江頭豊氏は確かに経営再建のために興銀からチッソから送り込まれたんだけど、
○江頭豊氏は確かに経営再建のために興銀からチッソに送り込まれたんだけど、
754:名無しさま
09/10/08 15:28:19 q6rvIiWX
>>750
では、賛成していただけますね。
・○○藩士であるという証明は、江戸時代の○○藩とのつながりの証明はいらない。
・○○藩士という証明は、戸籍(士族という記載)で十分である
私は別に江頭嘉蔵の江戸時代の身分はどうでもいいけど、
出自をいつわっているかのような言葉が気になって
チェックしてるもんで。
あと、足軽が「藩の奉公人」というのもご賛同いただけますね。
武家ではなく藩との契約だと(ソース『村上藩』)。
ま、賛同しなくてもいいんだけどね。ちゃんとした反証がないのなら、
それが妥当ってことだからして。
755:名無しさま
09/10/08 15:49:48 q9RV7ygg
よく「雅子さまのご先祖は当時支配階級であった武士である」というようなレスを
目にしますが、雅子妃の先祖ではなっかたかと推測されている足軽(同心)と
いうのは武士ではないんです。
足軽というのは基本的には一代限りで藩との雇用関係を結ぶのが建前です
が、世襲していくことも可能でした。
そのように足軽身分を世襲していた人は、明治になって卒族とされ、明治5年に
士族に編入された。
戸籍で士族と書かれているから先祖は武士であったというのは思い込みです。
>○○藩士という証明は、戸籍(士族という記載)で十分である
マスコミは小和田家の戸籍を調べなかったのではないか?というのが、これま
での流れの中での結論ですよね?
マスコミは小和田・江頭家の戸籍を調べたんでしょうか?
それから金吉はどの中学校で学んだんですか?
756:名無しさま
09/10/08 15:50:47 q9RV7ygg
>>755
×雅子妃の先祖ではなっかたかと推測されている足軽(同心)と
○雅子妃の先祖ではなかったかと推測されている足軽(同心)と
757:名無しさま
09/10/08 15:54:25 q6rvIiWX
そうですね、確かに金吉氏については確たるソースはありませんでした。
確か金吉氏には写真があり、それについて、親族が学校の知り合いと
とったものと説明があった。ただこれ「新潟の学校」としか書かれてない。
写真を撮った仲間は他県の出なので、村上の中学校には行けなかったかと。
となると新潟の小学で金吉氏と出会ったのか、中学より上か?
上だと定義できれば当然、村上の中学にも行ってたと推察できますが
(鮭の子奨学金のことを考えると村上でしょう)。
写真についてお聞きしたいなとホームページを見ると思うのですが、
妃殿下の出自をとやかく言うなんて失礼な話を年配の方にするのは
気が引けますね。
758:名無しさま
09/10/08 15:56:39 q9RV7ygg
>>701
>「優秀な」家系です。あの時代に中学(義務教育ではないよ)を出た金吉を
>はじめとして、能力値が高いですよねぇ、出てくるご先祖のみなさん。
ソース待ち。
小和田金吉はいつ、どの中学校に学んだのか?
759:名無しさま
09/10/08 15:57:56 q6rvIiWX
>>755
平成のマスコミは調べられないが、大正や昭和なら可能。
『明治過去帳』の著者の一次資料は戸籍でしょう。
あと、こんなのもあります。
URLリンク(blogs.yahoo.co.jp)
変則中学は、戸籍入手してますね。米の分配が違うのだから!おおきいぞ。
ちなみにこのサイト、変則中学は士族ばかりだったとも書いているのですが、
他にソース見つけられなくてねぇ。
確信が持てない。
760:名無しさま
09/10/08 22:00:10 wZqBNE5l
URLリンク(www.geocities.jp)
大正の戸籍法ですが、これは今の戸籍法の前のものです。
第14条を見ていただけば分かりますが、閲覧の制限は特にありませんでした。
今の戸籍法でも、制限が出来たのは後からだったと記憶しているのですが、具体的な日付は調べてみないとはっきり言えません。
少なくとも、昭和50年代には制限があったと思いますが、ソースはネット上にあるか、探してはみますが。
761:名無しさま
09/10/09 01:17:16 IS4gLP6E
URLリンク(hourei.hounavi.jp)
当初の戸籍法がこれですね。
URLリンク(hourei.hounavi.jp)
除籍に関して請求の制限を設けたのが、昭和51年です。
それまでは、正当な理由が無い限り請求があれば発行しなければならなかったという事です。
ただ、秋篠宮妃にしても皇太子妃にしても、この改正後の入内なので、ご成婚の際に戸籍を調査するのは難しかったでしょう。
この改正以前の資料なら、戸籍を確認したという可能性はあるでしょうね。
ただ、それをどう裏付けるかはかなり厄介だとは思いますが。
762:名無しさま
09/10/09 10:01:01 RuZWC0IX
>>755
>マスコミは小和田家の戸籍を調べなかったのではないか?というのが、これま
>での流れの中での結論ですよね?
また、さらっとウソを。641にこういうレスがある。
>・マスコミは小和田金吉の戸籍調査は出来なかった。
>・マスコミは小和田穀夫の戸籍情報を入手している(推測)。
その後、金吉氏についての戸籍情報入手は否定されているが、
穀夫氏については否定されていないよ。
時代から考えて、戸籍入手しないと母親の名前なんぞ分からない、
という論拠に対する反論は出ていない。
つまり、とりあえず小和田家とまとめるのはやめるべき。
個人名があるのだから、正確に個人名で話しましょ。
763:名無しさま
09/10/09 10:12:12 RuZWC0IX
ま、サイトにこんな文章もありますし。
URLリンク(anond.hatelabo.jp)
「明治過去帳」というのは、一級資料と思われます。
で、こちらのサイトには、私家版だったものが復刻される経緯が書かれています。
URLリンク(naval.way-nifty.com)
過去帳に載ってた方々全員チェックは出来なかったでしょうが、「過去帳を作ろう」
といった企画者が集めていた史料との整合性が高かったために諦めたのは
間違いないでしょう。
工業製品で言うなら、全件検査は出来ていないが、抜き取り検査では非常に精度が
高かったといったところですか。
少なくとも平成の週刊誌だの新聞だのといった、速報性が重視される
読み物より信頼性が置けると踏みました。
というわけで、「元佐賀藩士」を疑うに足る史料があれば見直しますが、
ソースは「明治過去帳」でいいという感じですね、私は。
764:名無しさま
09/10/09 10:18:47 RuZWC0IX
>>758
あ、ソースがない与太話ならできます。検証不能ですが。
小和田金吉と一緒に写真に写っている柴田義之助の学校を調べてみたんです。
で、そこ、小和田金吉が通っててもおかしくない。
柴田義之助と小和田金吉が写っている写真はいかにも卒業記念の写真という
感じなんで、可能性あるな、と。
q9RV7yggさんはアンチ雅子妃ではないかと思うので、ソースなし妄想は
いらないと思われますが、このスレの他の方々は興味があるかな?
765:名無しさま
09/10/09 18:16:50 7dgda+BM
中間について。
平凡社の『日本史大事典』によれば、中間は公家、武家、寺家などに仕える僕従の
呼称の一つ。
江戸時代は武家奉公人の一種を言い、足軽と小者の間に置かれた。侍(騎兵)がが
士分と称されたのに対し、中間は足軽(歩兵)とともに軽輩と言われた。また足軽に
はおよそ苗字帯刀が許されたが、中間にはそうしたことがなかった。
766:名無しさま
09/10/09 18:21:57 7dgda+BM
山縣有朋は長州藩の蔵元附中間でしたが、彼は16歳の時に藩校、明倫館の手子役と
なっています。手子役というのは、現代では学校の用務員に相当する役目だそうで、
藤村道生氏は、この手子役を「最下層の職」であると述べています。
藤村道生『山県有朋』 P4-P5
有朋は幼名を辰之助といい、十八歳のとき小助と改め、二十歳に小輔とした。奇兵隊
に参加したころから狂介と称し、また剃髪して素狂と号した。維新後には含雪・茅城など
とも号している。
改革の激動のなかで嘉永三年(十三歳)蔵元付打廻手子となり、目付横目役を歴任し
た。いずれも最下層の職で、手子役は今日でいえば給仕もしくは小使の職務にあたり、
目付横目役は市中探索にあたる下級警察官であった。
767:名無しさま
09/10/09 18:27:31 7dgda+BM
徳富蘇峰の伝記の中にも山縣有朋が明倫館の手子役に就いていたことが記されて
いますが、徳富蘇峰はこれを「卑職」、卑しい職務であると説明していますね。
旧藩時代には、藩校の手子役(用務員)は武家の僕従である中間が就く卑しい職務
であるとされていたようです。
徳富蘇峰『公爵山縣有朋傳』 P87
公の家格は、祖父以来蔵元附仲間にして卒族階級であったが、公は此の階級制度
に束縛せられて、青年時代より蔵元附や、代官所等の卑職に就かざるを得なかった。
768:名無しさま
09/10/09 18:33:03 7dgda+BM
>>763
明治過去帳に江頭安太郎の名はありません。
明治時代に刊行された本を見ると、いずれも江頭安太郎は佐賀藩士、江頭嘉蔵の
二男、あるいは三男だと書かれていますね。
>>764
もし小和田金吉がその学校を卒業しているのであれば、卒業生名簿等の記録が残
っているだろうし、マスコミは金吉の学歴についても紹介するでしょう。
金吉の詳しい学歴について説明した記事は一切ありませんね。
769:名無しさま
09/10/09 19:18:32 7dgda+BM
>>621
wiki記事によれば、川嶋庄一郎は明治3年4月14日、和歌山県有田郡山保田組板尾村
に生まれ、地元の開明小学校から和歌山師範学校に進み、明治24年に東京高等師範
に進学・その後滋賀や富山の師範学校の訓導、学習院教授、佐賀師範学校長、奈良
師範学校長を歴任して大正9年に和歌山に戻り、昭和22年2月12日、和歌山県海草郡
紀伊村で没しています。
URLリンク(ja.wikipedia.org)
教育者として各地の学校を転々とはしましたが、生涯76年のうち48年間を和歌山県内で
生活しています。
川嶋庄一郎は和歌山で生まれ育ち、和歌山で亡くなっているんですよ。
770:名無しさま
09/10/09 23:19:33 XsrO2Anc
>>764
小和田金吉さん、素敵なスーツ姿だね。
771:名無しさま
09/10/10 13:46:34 HCVKTVup
37 名前:名無し投票@2/15(日) 投稿日:2009/02/14(土) 19:00:38 ID:WOTw+cxR
URLリンク(members.at.infoseek.co.jp)
このサイトにある事は?
-----------------------
どれどれ、小和田家の先祖や金吉の詳しい経歴が書かれているのかと
思いきや・・
772:名無しさま
09/10/10 13:53:46 HCVKTVup
先祖の柴田義之助の横に写っている小和田金吉とは…
なんと雅子妃の先祖様。
小和田家は村上藩士。村上藩主内藤家の家臣系図で天明7年(1787年)に著さ
れた『内藤信敦分限帳』に小和田の名前は出てくる。また幕末には小和田家は本
家と三つの分家があって、明治維新後に本家と2つの分家は新潟に移り住んで
いる。当時は藩士700人が職を失って、各地に散らばる、分家の小和田金吉は新
潟の吏員になり、その後に高田税務署の税吏になっている。そして息子の小和田
毅夫が旧制高田中学の校長や高田市の教育委員を務めている。そして毅夫の息
子が小和田恒であり、その娘が雅子妃である。また小和田毅夫の妻となった田村
静(雅子妃の祖母)は、元新潟県議で自由民権運動家として有名な田村寛一郎。
金吉氏幕末生れ(明治元生まれ・明治30年代に死亡)
スレリンク(emperor板)l50
-----------------------
このサイトの管理人氏の先祖にあたる、海軍少尉柴田義之助に関する実に詳細な
経歴が紹介されているだけで、小和田金吉に関する情報は一切無し。
天明7年『内藤信敦分限帳』に記載がある小和田新六と小和田家との関係は不明
だし、小和田道助の代に分家が出て、そのうちの一つの子孫が金吉であると言われ
ているのだけど、マスコミが村上の関係者に直接取材しても道助と金吉がどのよう
につながるのか分らなかった。
結局柴田義之助に関することばかりで、小和田家や金吉に関することは何も
言ってないんだよね、このサイトは。
773:名無しさま
09/10/10 14:37:27 HCVKTVup
129 名前: 名無し草 2007/03/24(土) 20:55:08
最後に、
毅夫氏が古い墓を新しい台座に乗せるというイレギュラーな事を行なった
のはなぜか。
130 名前: 名無し草 2007/03/25(日) 21:16:58
まず小和田毅夫氏の人となりについて
昭和10年の小千谷高等女学校の「同窓会会報」に毅夫氏の寄稿が寄せられている。
国語・漢文の教師であったが、このようにも記している。
「人はパンのみにて生くるものに非ず」といふ西諺の深き意味を味ふべきであると
共に、萬物の王者を以て自ら任ずる人間には、物質以外に、精神的な、本質的な深
い欲求のあることに覚醒すべきであります」
131 名前: 名無し草 2007/03/25(日) 21:17:07
物質以外に、精神的な、本質的なものも大事にしたいと願っていた人物だという点
は興味深い。
132 名前: 名無し草 2007/03/25(日) 21:17:39
毅夫氏に墓を完全に新しく建て替えるほどの資力がなかったとは思えない。
そうしない方が普通ではない。
ではなぜそうしなかったのか。
133 名前: 名無し草 2007/03/25(日) 21:17:54
しかし「普通に」建て替えをした場合、古い墓石はどうなるのだろうか。
134 名前: 名無し草 2007/03/25(日) 21:18:21
古い、不要になった墓石は、家族の了承を得られ寺側からも申し出があった場合、
表面を削りなおして無縁仏の墓として再利用することもある。
事実、小和田本家の過去の墓石も、本悟寺においてそのように再利用されている。
URLリンク(sakura.45.kg)