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検証 明治時代の中学校の小使は社会的に地位の高い、「社長になる
よりも難しい」職業であったのか?
江頭嘉蔵の直系の曾孫の江藤淳の著書から。
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江藤淳『一族再会』 P141
結果彼が選んだのは、明治九年一月を期して場内北堀端の旧藩校、弘道館内
生寮跡に設置された佐賀変則中学校の、小使になることであった。
これが嘉蔵にとってかなり思い切った就職であったことはいうまでもない。変則中学
には弘道館時代からひきつづいて勤めている先任の小使がいて、その旧藩時代の身
分は手明鑓の嘉蔵よりもよほど低いものとされていたからである。しかしとり立てて学
問をしたわけではない嘉蔵は、自分が教員になる資格がないことをよく知っていた。事
務員になるためにも彼は老いすぎていた。彼にこの口を世話してくれたのは、おそらく
会計を勤めていた同じ木原村出身の中島善右衛門である。
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江藤淳によれば、江頭嘉蔵はとりたてた学問はなく、小使になるより仕方が無かった
ということですね。
いくらか学問があれば、学校の会計や事務職に就けただろうに、小使になるしか術が
なかったのは、嘉蔵が無学であったからでしょう。
当時の小使の地位というものは、社会的には相当低いものであった、江藤淳は述べ
ています。