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山本茂『遙かなる村上藩』にも明治12年5月、新発田中学校村上校を
開校することを知事に申請、認可された。
同校はその後私立本町校、村上私学校へという沿革をたどって現在
の新潟県立村上高校にまでつながっている。
しかし、同書の中で小和田金吉がこの新発田中学校村上校で学んだ
ということは書かれていない。
「金吉の父ではないかとされている道蔵(匡利)について山本氏は、
維新によって職も禄も失い、明治七年七月二十八日に亡くなっている。
兵五郎の墓は村上市の西真寺にあり、道蔵の墓がこの地にあって「新潟
県貫族」(県民の意味)となっているのは、彼が三男・金吉とともに明治七
年以前に村上を離れていたことを意味する。」と述べている。
小和田金吉が新発田中学校村上校第三回生だとすれば、入学したのは
明治14年ごろ。
しかし、山本氏の著書の中では金吉は父の道蔵とともに明治7年以前
には村上を離れたと書かれている。
小和田金吉の出身校は?
小和田金吉は新発田中学校村上校で学んだのか?
小和田金吉はいつ村上を離れたのか?
またまた金吉にまつわる謎が増えた…