皇室のウソ、妄想を徹底検証 part4at EMPEROR
皇室のウソ、妄想を徹底検証 part4 - 暇つぶし2ch241:名無しさま
09/08/10 23:05:44 6vTX2Xvn
>>240
杉本嘉助さんが廃業したのは1988年7月。
礼宮と川嶋紀子さんの婚約内定の報道がなされたの1989年8月だから、
その1年以上前に廃業している。

■毎日グラフ別冊『秋篠宮家創立 文仁親王殿下と紀子妃殿下』
 嘉助さんも横浜工業専門学校(現横浜国大)を卒業後、満鉄入りし旧満州にあっ
た8つの鉄道工場を管理する鉄道総局工作局工場課に勤務した。敗戦後、せきつい
矯正器械を開発して特許をとり昭和30年代から一昨年まで静岡市内で指圧療院を
営 んでいた。

242:名無しさま
09/08/10 23:08:46 6vTX2Xvn
杉本嘉助さんが指圧師だと書いているのは毎日新聞だけで、朝日や読売、
その他の新聞、雑誌でも整体治療院を開業していた、と書いている記事が
多い。

神一行『天皇家の人々』

 いっぽう、紀子妃の母・和代は、静岡県在住の杉本嘉助と栄子の間に生まれた。
杉本家は同市で代々、水産加工業を営んでいる。
 嘉助は、横浜工業専門学校(現・横浜国大)を卒業した後、満州鉄道にはいり、旧
満州に渡った。終戦後、矯正器具を開発して特許を取り、整体治療院を開業してい
た。

243:名無しさま
09/08/10 23:28:01 6vTX2Xvn
あん摩もマッサージ、指圧も同じじゃん、というようなレスが多いけど、それは違う。
あん摩、マッサージ、指圧はその成り立ちも技法も全く異なる。

あん摩・・・・・・・古代中国で生まれる

マッサージ・・・・・・・16世紀のフランスで医療技術として生まれ、明治期
            にその技法が日本に紹介される

指圧・・・・・・・・大正時代の日本で生まれた手技療法

>>194
>杉本嘉助氏があん摩マッサージ指圧師の免許で開業して最終的な職業が
>それだったのだから、按摩さんだのマッサージ師だのいわれても仕方ないね。
>記事あるなしは関係ないんじゃないの?
>世間じゃいまでもその手の職業を「もみ屋」「按摩」と言ってる人がいるのだから。
>でもその国家資格もない無免許というのなら、按摩さんともいえないわな。
>自称「按摩師」「マッサージ業」とでも言うべきか。

あん摩には揉んだり、さすったり、ひねったりする技法があるけど、指圧にはその
ような技法は存在せずにただツボを圧すだけ。
指圧には揉みという技法が存在しないから、指圧師はもみ屋ではなくて、あん摩
とは全く違う技法です。

244:名無しさま
09/08/11 07:26:02 p7HBRteM
技法は違っていても、あん摩マッサージ指圧師の免許をお持ちなら、どれも出来るんじゃないですか?
あん摩だけ否定しようとするのは、差別意識の裏返しにも見えますよ。
後、杉本嘉助さんが矯正具の特許をお持ちだというソースは何でしょうか?
どういった矯正具だったのか知りたくて探したんですが、検索した範囲では2chのレスぐらいしか見つからなかったもので、ご存知の方がおられたなら教えて貰いたいのですが。

245:名無しさま
09/08/11 11:00:25 9AdRJA13
>>243 でも法的には同じものと分類されてるんですよ。
資格取得の教科をみても、それぞれが独自に学習するわけじゃない。
成り立ちは異なってもやってることは同じ施行なので
国家資格の名称も「あん摩マッサージ指圧師」になってる。
逆にこの3つをきっちり分離してやるということこそ至難の業でしょうね。
だからこの免許があれば3つとも技術的にできるはず。
あん摩師じゃないけど、指圧師です、なんて理屈は通りません。
免許もやってること一緒なのだから。

246:名無しさま
09/08/11 22:32:37 qpyf67nB
>>244
杉本さんが脊椎矯正器具の特許を取ったことは、色んな雑誌や新聞で
報道されているから、記事はすぐに見つかる。

247:名無しさま
09/08/11 22:41:15 qpyf67nB
>>245
戦後手技療法は全てあん摩に一括されたときに、我々はあん摩にあらずと
銀座で抗議のデモ行進をして、厚生省にあん摩、マッサージ以外の手技療法
であることを認めさせ、その結果「あん摩・マッサージ・指圧師法」という法律名
になった経緯があるのを知ってる?
指圧業界の関係者が、指圧はあん摩ではなくて全く違う手技療法だと主張して
いるんだから、指圧とあん摩は法律上の名称では同一とされているけど、本来
は全く異なるもの。
整体なら、なおさらあん摩とは異なる手技療法だね。

248:名無しさま
09/08/11 22:46:13 qpyf67nB
あん摩マッサージ指圧師の試験に合格すれば、どの名称で開業しても問題
ない。
だからあん摩、マッサージ、指圧の全ての看板を掲げて開業する人の方が
多い。
だけど、指圧関係の人たちはあん摩とは違う手技であるという主張をしてきた
経過からか、あん摩マッサージ指圧師免許に合格しても、あくまでも指圧師と
いう名称で自らを名乗っている人もいるようだ。

池永清
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: メニュー, 検索
池永 清(いけなが きよし、1966年 - )は、カナダを中心に活躍する日本の指圧師。
東京都生まれ。カナダ指圧カレッジ理事長、カナダBC州指圧協会初代会長/現常
任理事、日本指圧協会カナダ支部初代支部長、国際指圧インストラクター。

日本指圧専門学校浪越学園にて指圧の創始者浪越徳治郎に師事。1986年卒業後
んまマッサージ指圧師免許を取得。1996年カナダトロントに渡り、指圧アカデミーに
て指圧師兼指圧教師を務めた後、ブリティッシュコロンビア州バンクーバーに移動し
て、カナダ指圧カレッジ (Canadian College of Shiatsu Therapy)、カナダBC州指圧
協会 (Canadian Shiatsu Society of BC) を設立。日本指圧協会浪越徳冶郎会長
(当時)から初代カナダ支部長に任命される。
URLリンク(ja.wikipedia.org)


249:名無しさま
09/08/11 22:57:56 qpyf67nB
明治になってヨーロッパから日本にマッサージの技法が紹介され、それ
をあん摩師の人たちが取り入れたので、現在では両者の技法はあまり
変わらずに、ほとんど同じだといってもいい。

また、戦後になってあん摩マッサージ指圧法が制定された後、あん摩師
の人たちが指圧の技術を取り入れたこともあったらしい。

しかし、いまでも指圧には「もむ」という技法は存在しない。
だから指圧師を「もみ屋」だというのは間違っている。

250:名無しさま
09/08/12 00:47:26 h4fOvuQF
URLリンク(www.massajisi-index.jp)

あん摩マッサージ指圧師が国家資格になったのは、1992年の法改正からのようですね。
それまでは、都道府県の認定資格だったと。
URLリンク(www.shiatsu.or.jp)

レスの一部のエピソードはここからの引用でしょうか?
引用元をはっきりしてもらうと、元記事を確認出来るから助かります。

URLリンク(www.google.co.jp)

杉本嘉助 特許で検索しても、いつ頃の記事かすら分からないんですよ。
脊椎の矯正器具の特許なら、整体師のような気がするけど、元記事を確認しないとはっきりとした事は分からないですね。

251:名無しさま
09/08/12 19:49:49 6yJq0D9A
>>250
杉本嘉助氏が特許を取得した記事は、過去スレでも既出なので、自分で探す
こと。

252:名無しさま
09/08/12 19:51:05 6yJq0D9A
296 名前:名無しさん@お腹いっぱい。[sage] 投稿日:2008/10/17(金) 02:03:51
>>286
>チッソ関係の犯罪者の系譜
雅子様の祖父である江頭氏はチッソ問題の収拾のため、
政府系金融機関である日本興業銀行から送り込まれた社長であって、
問題発生当時は何の関係もなかった人ですよ。

…それに、それを言うたら美智子様の実の妹さんが第2水俣病の原因企業のひとつである、
昭和電工の創業者の創業者の孫とである安西孝之氏と結婚してます。

この人は第2水俣病発生当時、既に昭和電工の社員、それも幹部社員でしたよ?
問題が明らかになった当時、美智子様は既に皇太子妃。離婚すべきでしたね、>>286の考え方で言うと。

紀子さんは、悠仁くん妊娠当時、従兄弟が詐欺で逮捕、立件されてるなああら大変だー。
詐欺師の従姉妹が皇后、詐欺師の従姉妹の子が天皇なんて、戦前だったら考えられませんねwww

235 名前:名無しさま 投稿日:2009/08/09(日) 17:19:18 ID:4X7a3iUS
で、キコさんの伯父様は 免許を とっての開業では なかったってこと?
そう言う理解で いいのですよね。

・・ま、驚きませんが、キコ妃の お従兄弟さんも 無免許で設計事務所だかなんだか、やってて逮捕されてたし。

253:名無しさま
09/08/12 19:52:24 6yJq0D9A
週刊文春2006年3月2日『紀子さまの従兄弟が「違法建築」で告訴された!』要旨

杉並区在住の主婦、原田涼子さん(仮名)は、マンション住まいであったが子どもが出来
たことを機に家を建てようと思い、友人夫婦から「腕のいい建築士で、賞もとってる」と紹
介されたのが紀子妃の従兄弟の建築デザイナー・A氏であった。
原田さんは、2000年5月にA氏との間で自宅の設計管理業務を、250万円で委託すると
いう「設計管理業務委託契約」を取り交わした。
しかし、A氏の設計管理業務に従い、実際の原田邸の建築を手がけたB氏は無許可の
建築業者だった。
暖房が全く効かず、家のいたるところで結露が発生し、そのうちに家中でカビが繁殖。
子どもたちも気管支炎は肺炎で入退院を繰り返すようになった。
原田さんが、A氏に対して損害賠償を求めて訴訟を起こした。

文春の同記事によれば、
「原田さんがA氏を相手取った民事訴訟は現在、第一回口頭弁論を経て、建築調停
中だという。」

その後この事件については続報はないが、おそらくは原田さんとAさんの間で和解が
成立したか、あるいは原田さんが訴訟を取りさげたかの、どちらかであると思われる。
紀子妃の従兄弟・A氏は詐欺事件で立件も逮捕もされていないし、民事でも実刑判決
がおりたわけでもない。

254:名無しさま
09/08/12 19:58:53 6yJq0D9A
日本指圧専門学校HPより

指圧とは
日本独特の技法であって、あん摩、マッサージのようにもんだり、
たたいたりせず、手指や手掌で体表に圧を加える技法。

筋肉の疲労物質を除去し、筋肉を正常化し、体の均衡を保つこと
を目的に手指によって圧の操作を変化させます。種々の圧法、圧
加減等、また、加圧の速度も体の状態に応じ、ゆっくりと、ある場
合はリズミカルに操作し、中枢から末梢へと遠心性の方式で行う
特徴があります。
URLリンク(www.shiatsu.ac.jp)

255:名無しさま
09/08/12 19:59:56 6yJq0D9A
あん摩マッサージ師圧師の資格をとる為には

指圧がはじめて法的に認められるようになったのは、昭和三十年八月十二日
公布の法律第百六十一号によってである。あん摩(マッサージ、指圧を含む)
として、指圧という名称が、はじめて法律の中に取り入れられたのである。

 しかし、この法律では、あん摩のカッコ内に指圧を含むという、いかにも、あ
ん摩の枠内に閉じ込められ、付随した不合理な扱いであった。そこで、これを
不服として、指圧師たちが一丸となって運動をおこし、昭和三十九年六月三十
日公布の法律第百二十号により、あん摩、マッサージ、指圧師法と名称が改
正され、ようやく指圧の独自の手技法が認められたのである。

 指圧師とは、このように法律で定められた名称で、あん摩、マッサージ、指
圧師の免許を受けた者をいうのである。指圧師の資格を得るためには、厚生
大臣に認定された養成施設(日本指圧専門学校等)において、指圧理論、実
技その他について三年間、指圧師となるのに必要な知識および技能を修得し、
国家試験に合格しなければならない。これは、法第二条に規定されている。
URLリンク(www.shiatsu.or.jp)

256:名無しさま
09/08/12 20:07:44 6yJq0D9A
あん摩マッサージ指圧師法で、指圧はあん摩やマッサージと同じ扱いだから
指圧もあん摩も同じだろ、と言うけれども日本指圧協会は、指圧は日本で生まれ
た独自の療法で、あん摩やマッサージとは異なると主張しているんだから、指圧
関係者の主張を認めるべきだね。

指圧師となって開業するのには、あん摩マッサージ指圧師の国家試験に合格しな
ければ開業できないけど、日本指圧専門学校では、あくまでも指圧の理論や技法
を教え、将来指圧師として開業する人たちを養成しているよう。


 

257:名無しさま
09/08/13 00:18:28 SiGm0RCx
杉本嘉助さんが、指圧師であったのか、整体師であったのか、その検証が先では?
整体師であったのなら、あん摩マッサージ指圧師の資格や技法の違いは、無関係な話になるでしょ?

URLリンク(www15.ocn.ne.jp)

あん摩マッサージ指圧師の試験を行う東洋療法研修試験財団にある現在の受験資格では、所定の養成所を出ないと試験を受けられないようになっています。
当時も同じ条件だったとすれば、独学で資格を取る事が出来たのか?という疑問があります。
特許を取ったと言われる矯正器具も、整体で使用するもののようだし、整体師だったのじゃないの?というきがするのですが。
過去ログを見ろと言いますが、●が無いので見れません。
どの本にあったとか、いつ、どの新聞記事にあったとか、ヒントだけでももらえると有り難いのですが。

258:名無しさま
09/08/20 07:10:31 789hAB3X
>>202
最終職歴を持って職歴紹介とするルールはない。
最高とみなされる職歴を書くのが普通です。
川嶋孝彦氏は元内閣統計局長という例を見れば分かることだ。
杉本氏が満鉄の副参事(だっけ?)と紹介されるように。
杉本氏の「整体師」と江頭氏の「小使」が、社会的に見て「満鉄勤務者」や
「藩士」より劣るとみなされているのは事実なんだろうね、言い換えると。

藩の出勤簿に載らないようなレベルであっても、藩の構成メンバーとして
地域社会に認められているというのはそれだけの重みがあったのだろう。
まぁ実際には、藩士とやらで一番人口が多いのはこの層なんだろうし
(昔の組織ってのは大抵ピラミッド構造)、ここを否定するとなると、
「うちの祖先を否定するのかっ」という人間が大勢出てくるだろうから、
表立っての説には出来ないよねぇ。
末端藩士は藩士にあらず、というのは、ネットだからこそ成立する論だ。

259:名無しさま
09/08/20 08:39:36 789hAB3X
>>232
まず、塊よりはじめよ、だ。

>指圧や整体の民間療法家たちは知識階級の人たちが多かった。
>戦後職を失った知識階級層から指圧師になった人が多かった。そして、
>そういう人たちの活躍によって指圧に対する世間の信頼度は高まった。
>検証スレだからこういう客観的事実をコツコツと積み上げていって
>もらいたいですね。

指圧という仕事に 知識階級層の人間が多くついたという話の
ソースを教えてくれっ。
温和、気骨があるまではソース出ているから納得するけど、ここいら
あたりが急に出ても納得がいかん。
いってるそばから客観的事実を積み上げていない説を持ち出してどーするんだ?

ま、知識階級という言葉自体が実体を持たない言葉だから、そもそも
検証スレに持ち出していい用語ではないような。
wikiにすら出てこないし、検索して出てきた「インテリ」を見た限り
では現場の技術者は違うという感じだし、杉本氏を語るのには
関係のない用語では?

260:名無しさま
09/08/20 08:50:36 789hAB3X
続き。

>戦後は職を失った知識階級から多数指圧師として活躍する人ので
>てきたことも、指圧の評価を高めることになりました。

ソースがこの文章だというのならちと違う。
この文章が示しているのは、指圧師に知識階級層が多いのではなく
「活躍した人」に知識階級層が多いといってるだけです。
指圧師における知識階級層の割合が高いかどうかは不明。
そもそも指圧師というのは1対1で行うものですから、当然関わる人数は
限度があります。
マスコミ・出版の分野か教育の分野に関わるからこそ知名度が高くなる、
それを称して「活躍する」と言われるわけで、となると他の分野の知識も
ある「高学歴者」が有利なのは当然ですね。

261:名無しさま
09/08/21 10:51:46 Wr86fflQ
>>251
特許取得の記事って、毎日グラフのこと?
過去スレにはこれしかなかったようだ。
(過去スレと限定されれば、検索ワードに「ウソ 妄想」を入れられるので
楽に探せる)

 嘉助さんも横浜工業専門学校(現横浜国大)を卒業後、満鉄入りし旧満州にあっ
た8つの鉄道工場を管理する鉄道総局工作局工場課に勤務した。敗戦後、せきつい
矯正器械を開発して特許をとり昭和30年代から一昨年まで静岡市内で指圧療院を営
んでいた。
 嘉助さんの祖父、吉三郎氏のめいの夫に静岡県清水市長を務めた鈴木平一郎氏が
いる。
     『毎日グラフ増刊 文仁親王妃と紀子妃殿下』

262:名無しさま
09/08/21 10:57:49 Wr86fflQ
マッサージについていえば、現在雨後のたけのこのようにあるクイック
マッサージに資格いらないし、美容院だってマッサージしたりする。
あれ、医療行為ではないってことで許可とらずやってる。かわりに効用もうたえない。
指圧も「医療行為ではない、リラックスしていただけるためのサービス」って
ことなら無資格者でも行える。整体メイン&指圧の可能性もあるね。
まぁ、とっくの昔に廃業している仕事の判定なんて難しいでしょうな。

263:名無しさま
09/08/22 13:38:57 Q5s79KiK
那須御用邸に秋篠宮家も静養にきたようだけど、
宮家が利用する場合は職員用宿舎に泊まると何かで読んだけど、
今回もそうなの?
本来天皇家のための保養施設なのに何度も静養に利用する宮家って
かなりあつかましいと思うのですが。
他の宮家の方々はまったくといっていいほど利用してはいないのに。

それから髭の殿下が今回またアル中の治療で入院というのは本当ですか?
この方も皇位継承資格があるにも関わらず立場をわきまえない不摂生ぶりには
あきれるばかりですね。

264:名無しさま
09/08/22 17:54:36 xy3JP3Pb
キコさんのお祖父さんがアンマさんだったという
のは嘘だったんだね?

265:名無しさま
09/08/22 20:21:57 t4k3q4ea
>>258
まず、江頭嘉蔵について。
江頭嘉蔵以前の系図や史料、過去帳などは一切現存しないため、ルーツに
ついては全く分らない。
江頭嘉蔵が佐賀藩士であったとことを示す史料は全くない。
中学校の小使いをする前に何をしていたのかも分らないんだから、江頭嘉蔵
については「旧制佐賀中学校小使い」と書くしか仕方ないよ。

川口素生『小和田家の歴史』

 
 さて、江頭豊氏の祖父・嘉蔵氏は明治維新までは肥前佐賀藩主・鍋島家の家臣
であったといわれる。ところが、明治初年の二種類の佐賀藩 侍着到(註=現代の
出勤簿に相当)には嘉蔵氏の名が見えない。これについて、豊氏の甥(優美子さん
のいとこ)にあたる作家の江藤淳(本名江頭淳夫)氏は、嘉蔵氏は佐賀藩の「手明
鑓」と呼ばれるクラスの藩士ではなかったかと推測している。「手明槍」は平時は無
役だが、戦時には槍や具足を携えて戦場に赴く者たちを指す。江戸時代中期以降
は無役だった「手明鑓」も藩の役職に採用されたし、幕末維新期には多くが鉄砲を
担当して活躍したといわれる。ただ、嘉蔵氏以前の系図や史料が現存していないた
め、嘉蔵氏が「手明鑓」か否かを含めて、ルーツや俸禄などはまったくわからない。
明治維新前後、嘉蔵氏は家族とともに肥前佐賀郡北川副村木原(現=佐賀市北川
副町木原)に移り住んだ。


266:名無しさま
09/08/22 20:44:20 t4k3q4ea
>>259>>260
戦後指圧や整体に携わった人たちに高学歴の人たちの割合が
多かったかどうかは知らない。

ただ、検証スレで実証可能な事実のみを取上げるなら、キチスレ
で言われているように杉本嘉助さんがペコペコしていたという話は
聞かない。
「気骨がある」「固い」「温和」、知人や近所の人たちは、そのような評価ばかり。

また、自分の職業を憚って廃業した、というのも嘘。
毎日新聞平成元年8月27日によれば「一昨年の7月まで指圧療院
を開いていた」。
つまり礼宮と紀子さんの婚約内定のスクープが流れる1年以上も
前に指圧療院を廃業している。


267:名無しさま
09/08/22 20:50:13 t4k3q4ea
杉本嘉助さんは「昭和三十三年から三十五年にかけ、自ら開発した
脊椎矯正装置で三件の特許を取得している。当時としてはざん新な
ローラーなどを利用した治療器具の発明だった。(中日新聞 平成
元年8月26日)


杉本嘉助さんは、その他にも指圧機など数件の実用新案も取得し
ているそうだ。

268:名無しさま
09/08/22 23:42:10 Q5s79KiK
皇室ジャーナリストの書いた本には
杉本氏は「整体医」を開業し、特許を数個持ち、現在は指圧師をしている、
と書いてありましたね。(まだ生きていた頃出版したのでしょう)

廃業してるのに指圧師をしているとあるので、看板をさげても頼まれれば
指圧師をしていたということでしょうか?

それにしても「整体医」なんていう職業なんてありません。
しかも無資格のくせに廃業後は指圧メインに生業としていたかと思われる。
それにしても生きてる映像まである人なのにこれほど職業が特定できない
ということは、別の見方をすればそれだけ紀子さんの母方実家が
本当に大したことがないという証拠ですね。

そういえばその方の本には美智子皇后の生母の冨美子さんの父方は
南部藩士だったとありました。あまり身分は高くないようで、
詳細ははっきりしてません。ただ冨美子さん自身は何不自由なく育ったようで
冨美子さんも雙葉学園OGだそうです。
士族といっても華族になるほど身分は高くなく、婚約後も母方が士族だという
のはほとんど言及されなかったので、それこそ小和田家級の足軽士族じゃ
なかろうか?

高円宮久子さんの父方はその本でも父方出自は詳細不詳。
旧家とだけあるのみ。祖父の名前から祖父は次男のようだけど、
曽祖父のことなどもなにも触れてない。
紀子さんよりもさらに怪しい久子さん。


269:名無しさま
09/08/23 00:19:20 aFEPrMrK
俺ラップ・ミュージシャン目指してるんだぜっ!
Hey yo,日本人として産まれて大韓民国に土下座する事に目覚めた33歳!
侵略、強奪、慰安婦への賠償・・・・そして、過去の反省
そんな俺が毎日i-podで聴いてるヤバイ一曲、それが
韓国のヒットチャート2位
「FUCK zAPAN」
URLリンク(www.youtube.com)

韓日友好にpeace!

270:名無しさま
09/08/23 19:34:48 QIPLORiz
>>258
ここは検証スレだから江頭嘉蔵が佐賀藩士であったことを
示す資料をうpしてよ。
江頭家の出自については全く分からなくて謎に包まれてい
るんだから。

271:名無しさま
09/08/23 19:42:32 QIPLORiz
>>268
カイロプラクテクターのことをカイロプラクティック・ドクターとも
呼ぶから整体師の杉本氏をカイロプラクテクターと思ったことから来る
間違いでは?
杉本氏は独学でカイロプラクティックを学んだそうだから、整体医だと
いうのは違う。

しかし、中学校の小使いを「佐賀藩士」だと書くど厚かましさよりは
ずっと害は無いと思うけど。

272:名無しさま
09/08/23 21:00:15 Sc/lB6Yd
>>271 >>独学でカイロプラクティックを学んだそうだから、整体医だと
いうのは違う。

カイロプラティックドクターは無資格で名乗ることができますよ。
国家資格はいらないし、独学でも、専門学校行ってもなれる。
専門学校で発行する民間資格なんてあってもなくても開業可。
だからカイロプラティックドクターという意味での整体医なら問題なし。
ただし日本ではカイロ師を整体医とは普通いわないがな。

小間使いだろうと息子を攻玉社から海軍兵学校首席、海軍大優等という
スーパーエリートに育てた器量は相当評価されてもいい。
昭和初期あたりの海兵進学は日本最難関といっていいほどの超エリートだった。
東大進学なんぞよりはるかに難しい。山家他人も同様。
戦前生まれの人なら一族にそういうエリートがいる、というだけで
そこの家系に一目置くでしょうし、正直小和田家よりも上の評価。

273:名無しさま
09/08/23 23:25:06 Kb4jKiFG
>>272 問題になっているのは江頭安太郎の経歴ではないの。
江頭家の出自がよく分らない。
だからそれを検証しようよ、ということなんだけど。
過去スレで江頭家は名家だと言ってる人たちがいたけど、そん
な名家なら佐賀県の歴史書には江頭家の家系図は載ってるよね?
江頭家の出自を教えてください。
また、江頭家の家系図のうpもよろしく。

274:名無しさま
09/08/24 12:47:22 2hxuUwFp
名家の定義にもよるだろう。
いくら出自が辿れても正田家や川嶋家だって
旧皇族、華族からみたら「名家なんてしゃらくさいw」と馬鹿にされるんだから。


275:名無しさま
09/08/24 13:36:52 W/596PH1
>>270
時代が時代だし、正式に証明する文献資料がなくてもしょうがないのでは?
という気がしてきた今日この頃です。
当時の人間の身分証明は、属する地域社会が認め合っているかが基盤で、
文書化されたのはごく一部のような気がするんですね。
例えば、こんな文があります。
URLリンク(www.fan.hi-ho.ne.jp)
上士階級だけで八百戸です。その下の階層は同程度かそれ以上いるでしょう。
これらすべてを、城の文献で管理していたかどうか・・・紙は今と違って
それなりに貴重だっただけに疑問ですね。

「資料がない以上、認められない」というのをQIPLORizさんがルールとするのは
自由ですが、となると、幕末の志士も士と認めていいかどうか分からない人間が
大勢でてくるので・・・。
日本史感覚が狂うようなルールは私は受け入れがたいですね。

276:名無しさま
09/08/24 13:51:57 W/596PH1
>>266
ペコペコしていたのを否定したいのなら、関係ない「知識階級」なんぞ
持ち出すもんじゃない。低学歴だって堂々たる人間はいくらでもいる。
要は、あなたが指圧とか整体とかの職業だけじゃ物足りないんでしょうが。
だからこそ、「知識階級の人間が・・・」などと言い出す。
開拓地で地獄を見て、のどかな田舎に帰って暮らし、若い頃の知識を
生かして特許をとるという杉本氏の生き方というのはなかなか
魅力あるわけで、余計な飾りはいらないと思うんですがねぇ。

277:名無しさま
09/08/24 13:58:57 W/596PH1
>>273
伊藤博文は教科書に載ってるし、家系図もあるが、だからって江戸時代から
伊藤家が名家だと目されてたわけではないぞ。桂小五郎から手下扱いされる
ような家だ(家系図はでっちあげだろうと言われている)。

江戸時代の出自を持って名家かどうか計るってのは、要は、明治大正昭和の
時代を無として扱うってことなわけ。
何が悲しくて、皇室の話を、皇室が軽んじられた時代を基盤として話さなくて
はいけないのか。
武士に拘るのも、武士じゃないことに拘るのも、あんまり意味がないと思うんだけどね。
(あ、貴族階級に拘るのなら分からなくもない)

278:名無しさま
09/08/24 14:05:39 W/596PH1
>>271
中学校の小使いで元藩士が他にもいたらどうするんだ?
十分ありうることなんだから「あつかましい」という感情論はやめましょう。
明治初期なら中学校というのは、各県に一つくらいしかない、最高の教育機関、
つまり、地域の名士の子息が通うところなのだから、身分証明が出来る、
人格的にも安定した人間を選んだと思うよ。
郷士階級は士社会では下働き程度の仕事をやっているが、土地ではそれなりに
色々切り盛りしていて信用があるという人間だったんだから、他でも採用されてて
おかしくないと思う。

279:名無しさま
09/08/24 22:06:36 /PEMS+At
要するに「江頭家が佐賀藩士だったという資料はどこにもない」と言う事だな

長々と言い訳ありがとう

280:名無しさま
09/08/25 08:55:15 x8F6N1F1
つか、佐賀藩士と断定できたところで名家と認めるつもりもないんでしょ?
藩士もぴんきりだ、下級藩士は町人以下の生活だと
小和田家の出自でさんざん言ってたんだから。

281:名無しさま
09/08/25 14:16:06 o5ocVmwl
下級藩士の生活が、町人以下だったのは事実

ここは、ウソか妄想か検証してるんだろ

川嶋家が大庄屋:本当
松浦家が部落:ウソ
紀子妃の祖父が按摩:ウソ
紀子妃は婚前堕胎した:ウソ

小和田家が三代前が不明:本当
江頭家が佐賀藩士:ウソ

あと何かあったっけ、上記に反論したいのなら妄想言い訳
(自分の知り合いうんぬん、この時代…していたらしいから…に違いないe.t.c)でなく
ちゃんとしたソースよろしく

282:名無しさま
09/08/25 14:17:03 HJhW88A8
ま、資料がないというのは藩士で「ある」とも「ない」とも証明できないってこと
なわけです。資料がない=藩士ではない、とするのも詭弁ですな。
で、手明鑓というのは普通、家系図も出勤簿もないような家なのか?と
いうことで検索してみました「手明鑓 -皇室」と。
皇室関係のバイヤスかかった情報ぬきで、歴史感覚を知りたかったもんで。

維新の有名人、江藤新平がひっかかった!父親の名前はあるが、系図は見つからないっ。
手明鑓とは、ま、そういう家なんですね。平時は無役なら、出勤簿がないのも当然だし。
結局「藩士」という名乗りは、侍身分の端っこでも名乗って当然の身分なわけですね。
(ちなみに手明鑓は端っこではなくて、どうもまだ下がいたらしい)
ま、そうだよね、坂本龍馬だって脱藩した後、元藩士と名乗ってたわけだし
(龍馬は先祖は士ですらない)

藩士というのは、まぁ、○○社社員みたいに、団体に身分保障された存在である
という名乗りじゃなくて、せいぜい、○○社勤務という名乗りなんでしょうね。
そこの仕事をしてますよ、という程度。臨時職員でもオーケー、と。

283:名無しさま
09/08/25 14:22:10 HJhW88A8
ちなみに、こんなのを見つけました。
URLリンク(www2.ezbbs.net)
>佐賀藩は大藩であった割には藩士の系図が公刊されてをらず、中々調査が進まない状態です。

佐賀の場合系図が分からないのは、別に江頭家に限ったことではないようですね。
大隈家だって分家筋は分からないようです。


284:名無しさま
09/08/25 15:22:53 HJhW88A8
>>281
アホか。それなら、
紀子妃はは婚前堕胎した:本当
だってソースがないのだから否定できないよ。

ソースがないのなら、当人・関係者が当然そうだと認めることを通説と
するのが真っ当なルールだ。
つまり、
松浦家が部落:ウソ
紀子妃は婚前堕胎した:ウソ
小和田家が三代前が不明:ウソ
江頭家が佐賀藩士:本当

となる。

285:名無しさま
09/08/25 16:34:02 o5ocVmwl
>>284
ならん、なかった事を証明はできない
悪魔の証明をしっているか?

なら同じく
雅子妃がアメリカで同棲して堕胎した:本当→になる

紀子妃堕胎伝説が本当たるソースはどこにもない
記事になった事もなければ、実在人物が証言したという事もない
ただ、宮内庁病院でブライダルチェックを受けたというソースはある

いかが?


286:名無しさま
09/08/25 16:37:21 o5ocVmwl
ついでにどさくさに紛れて

小和田家三代前が不明「ウソ」
江頭氏佐賀藩士を「本当」にしないように

上記を主張したければ、きちんと繋がった小和田家の三代前以上の系図
江頭家が佐賀藩士だったという資料を見せてくれ

287:名無しさま
09/08/25 17:11:25 wzYcEZ+q
>>258 検証スレですから、江頭家が佐賀藩士であったということを記した
書籍の名を教えてください。



288:名無しさま
09/08/25 17:17:01 wzYcEZ+q
小和田家は、雅子妃から3代前は小和田金吉。
よって、
小和田家の3代前は不明→ウソ
小和田金吉の父母は不明なので、「3代前から先は
不明」が正しい。

過去スレで小和田金吉には2人の兄がいて、母と共に
新潟県内を転々としたから貧しかった、と書いてた人へ。

小和田金吉の両親と兄弟の名前を教えてください。
あと、小和田家は貧しくなかったという根拠を確たる資料
を元に提示お願いします。
江頭家が名家で、佐賀藩士の家系であったというソースも
お願いします。

289:名無しさま
09/08/25 17:40:45 SheXI7Op
金吉ネタは定期的に沸いてくるけど、過去レスみなよ。
さんざんでてるから。
また同じもの貼っても、不毛なやり取りをするだけ。

形勢不利になるとだしてくるよね、金吉ネタw


290:名無しさま
09/08/26 17:26:53 OG6zdD3v
金吉さんよりも、久子妃の父方の系図のほうがずっと気になってた。
旧家の出身というわりに、曽祖父の名前や、祖父の経歴も一切不詳。
父親はそれなりの実業家で身を立てた人なんでしょうけど、
母方がちゃんと調べ上げられているのになぜ父方は不詳なんでしょう?
婚約内定した頃は両親それそれの先祖のの系図はちゃんと
公表されているのでしょうか?

だれか詳細をご存知の方いますか?

291:名無しさま
09/08/27 09:13:50 UtbF3MZL
久子さんは入内当時からあれこれいわれてましたよ。
かなりの「プレーガール」だったのは有名。
雑誌に芸者の姿をした写真が掲載されたりしてましたよ。
やり手の久子妃にボンの高円宮がつかまった。
でも宮家の次男だし、検閲も甘く、結婚が認められた。
母方の血筋がまぁ悪くなかったのが救いでしたね。
父方の家系は自分もいまだにお目にかかったことないです。
地元ではずっと続く旧家とあるけど、本家じゃないのは確かで
旧家もピンキリ、エタ庄屋なんていうのもありますからね。

久子妃の奔放な血を色濃く継いだのがビッチ承子。
高円宮から皇室の頭の悪い遺伝子を継いだのが3女。
次女は折衷でなんとか普通に育ってるとか。

292:名無しさま
09/08/27 10:39:23 0GOuh08a
>>285
なかったことは証明できないが、あったことは証明できる。
江戸時代なら、身分のない人物なんぞそういないわけだからね。
江頭嘉蔵氏が実在の人物である以上、身分と生業(中学校勤務の前の)は
存在した筈。
江頭嘉蔵氏の以前の「身分と生業」を示せば、ウソという証明は出来る。
証明できないことを本当であるかのごとく語るのを、ウソという以上、
元佐賀藩士ではない、というのこそ「ウソ」だ。
(不明と語るのは本当だけど)

佐賀で、手明鑓200名の子孫みなさんに、「あなたの先祖が元佐賀藩士と
いうのは、出勤簿も系図もない、真っ赤なウソです」と言えるか?
「じゃあ、先祖は何だったというのか、失礼な」と怒られるのがオチだと思う。

「不明」なら多数の共感得られるのだから、わざわざ「ウソ」などと言うもんじゃない。

293:名無しさま
09/08/27 10:55:15 0GOuh08a
>過去スレで小和田金吉には2人の兄がいて、母と共に
新潟県内を転々としたから貧しかった、と書いてた人へ。

>小和田金吉の両親と兄弟の名前を教えてください。
>あと、小和田家は貧しくなかったという根拠を確たる資料
>を元に提示お願いします。

むちゃくちゃやなー。
なんで「貧しかった」と書いている人に、「貧しくなかったという根拠」を
聞くんだ?
聞くのなら「貧しかったという根拠」だろうに。

あと、名前を聞くのも無茶だろう?
池上四郎の家の長男の名前を誰が知ってますか?
成人前に亡くなってたら、名前なんぞ残らないって。
なんでもかんでも噛み付くんじゃない。

294:名無しさま
09/08/27 11:26:46 0GOuh08a
まぁ皇后陛下も母系は祖父の副島氏までだ、名前出てるの。
で、紀子妃も祖父杉本氏までの調査。
となると、雅子妃だけ江頭嘉蔵氏の話になるのは公平を欠くと思う。
江頭安太郎氏で十分だよね。
佐賀の20石取りの下級武士だったが私設の海軍予備校を持つにいたった
古賀家は江頭家と二重の婚姻をし、後に養子を貰ったりまでしている。
「古賀家にとって」江頭家は同格なんだろう。
それくらいの家のイメージでいいと思うよ。

295:名無しさま
09/08/27 16:46:05 /FSovmXy
紀子さんの母方って祖父の職業も正確にわからんの?
どんだけ底辺なんだよ!
あの祖父は婚約当時だって生きてたじゃん、下着姿でテレビ映ってたし。

あのド田舎で満州帰りの整体師なんていったら胡散臭すぎるぞw
国家資格持って按摩や指圧やってました、というほうがましなのに
それも違うって、もうどんだけ~っ!

宮家で妃殿下が別荘もないのは紀子さんぐらいだよな。
夏になると辛いだろうね、たかるように天皇家専用の御用邸に
泊めさせてもらって…(本当は宮家の使用はダメだったのに、あつかましいね)

296:名無しさま
09/08/28 09:47:45 MVJwoTob
459 :名無しさん@十周年:2009/08/28(金) 09:43:57 ID:Zdqj4V220
日程がほぼ固まった7月中旬、秋篠宮サイドから三つの要望。
・船で運河を巡る予定を「暑いからやめてほしい」

→「暑いから」なんていい大人が我がままだよね~

・当初予定になかったのに「動物園に行きたい」

→よりによって動物園なんて駄々こねるなんていい大人が超我がままだよね~

「警備の予定もあり、日程は早々気軽に変えられるものではない。
この急な(←どこが?)ご要望には現場担当者も頭を抱えてしまった」

・さらに、日程後半に予定されていた両殿下と随行員の食事会を
「夫婦二人だけにしてほしい」。

→側近への思いやりのかけらもない、いい大人がすごい我がままだよね~


公務のあり方を「受け身」とした秋篠宮殿下。
自分から要望を出すことはしないはずなのになぜ?

そりゃこいつらが海外公務なんて海外旅行の遊びの延長だと
思ってるから、そういう要望がでるに決まってるだろ♪

これがこいつら本性なんだって昔からわかってたから
いまさら驚かないよw

今年の静養は天皇皇后からおもいっきり距離を置かれた理由がわかったよ。


297:名無しさま
09/08/28 11:33:49 GB/Xs7Cj
>>281
>川嶋家が大庄屋:本当
これもウソに近いから、検証スレに出すべきじゃないな。
コトバンクによると大庄屋の意味はこうなってる。
URLリンク(kotobank.jp)
つまり、大庄屋というのは単なる支配地が大きい庄屋のことではない。
行政官に近い存在なんですね。
江戸時代の行政組織は藩によって違うが、紀州藩は大庄屋の任命をしている。

今のところ、川嶋家がそういう任命を受けているという情報は見ていない。
サイト検索すると一件大庄屋というソースがある。
URLリンク(kisyu21.wewe.jp)
ただ、紀子妃ご成婚の際のマスコミ情報には川嶋庄一郎氏を「県の視学」と
書いたところもあって(正しくは「市視学」なのはご存知の通り)、
マスコミだからといって間違いがないとは限らない。
川嶋家が立派な庄屋の家系というのはうなずくが、「大庄屋」となると
分からないな。

298:名無しさま
09/08/28 11:44:28 GB/Xs7Cj
むろん川嶋家が「大庄屋」の任命を受けていたというきちんとした情報が
あるのなら是非提示してください。
城下に近い場所なんで、可能性は十分あると思っております。

299:名無しさま
09/08/28 17:11:34 jSIQ4z/B
大庄屋って本陣とかをいうのでは?
川嶋家が本陣ではないのは事実。
そうならとっくにソースがでまわってる。

ただの土地持ち百姓なんでしょうね。

300:名無しさま
09/08/29 14:39:38 0pgGogxy
>>292
では江頭氏が「手明鑓」だったという確実なソースか、資料をくれ
話はそれからだ

301:名無しさま
09/08/29 20:15:23 UKLb13gt
URLリンク(www.tabiken.com)

>第4に、藩士の数が多く(1870年の華士卒族の全人口に対する比率は16.31%)、多くの下級武士は農村に住み、耕作に従事したり、城下に住む場合も宿屋をはじめさまざまな商業を営んでいたこと、
>武士と町人・百姓の中間身分として被官と呼ばれる層があったことなどがあげられる。

全人口の16.31%と言われる藩士を確認出来る名簿等は存在するのですか?
そういったものが無いのであれば、検証不可能ではないのでしょうか?
戸籍などで先祖を辿る事は可能なんでしょうが、第三者が見る事は不可能だと前にも言った記憶があるんですが。

302:名無しさま
09/08/29 23:00:35 FAdolnT3
江頭家の姻戚関係をみれば、先祖に問題なしということはよくわかる。
名家ではないにせよ、部落出身や在日なんてことはない。
これは小和田家も川嶋家も同様。
姻戚関係でだいたいの家格や出自がわかるというもの。
明治期なんて特権階級も庶民も家同士の結婚なんだから、つりあいのとれた家同士で
結婚するものだ。


303:名無しさん@そうだ選挙に行こう
09/08/30 15:17:36 FmD+TRk+
名家の定義もいろいろだからな。
ケネディ家も一代で成り上がったが、元は貧しいアイルランド移民。
政治家としての歴史も2代だけなのに、それでも名門ケネディ家で通る。

経済的なことは別問題としたら
正田家も川嶋家も小和田家も名門でも名家でもないでしょう。
かといって部落民とか底辺庶民でもない。
その程度の出自でOKサインがでたのだからいいじゃん。
旧皇族華族じゃないとなったら皇室じゃ「民間人」ひとくくりの出身なんだしさ。

304:名無しさん@そうだ選挙に行こう
09/08/30 17:03:31 yycI9FzA
>>300
292では「不明」は妥当だと書いているわけで、ソースはいらない。
ソースなし=不明。アンカー間違えたねぇ。

305:名無しさん@そうだ選挙に行こう
09/08/30 19:11:43 PEplohFI
>>304
じゃあ「江頭氏は5代前は不明はホント」だな
「不明」というのは、どこの誰かは解らないという事

江頭氏の6代前の詳しい資料求む
あったら、「江頭氏5代前は不明はウソ」になる

306:名無しさま
09/08/31 08:46:22 bP0WQT+H
>>305
はいはい、同様に皇后陛下の副島家・紀子妃殿下の杉本家の五代前も
不明、ということでよろしいですね。
江戸時代はそういう時代であったということで。


307:名無しさま
09/08/31 12:12:07 iQ9pKAb0
>>306 なまじ出自がわかってしまうのも損なところもあるわな。
祖父の職業が満州帰りの整体師&無免許指圧師なんて…(最低)


308:名無しさま
09/08/31 20:12:25 yC/FQoPN
>>306
ならないよ「江頭氏が5代前が不明」となっているのは
他ならぬ江頭淳が、自分のルーツを捜しに佐賀に行って
どうしても江頭嘉蔵以前の事が解らなかった、と自著に書いているから
江頭嘉蔵以前の系図が、全くなかった

活字ではっきりと「解らない」と発表された資料があるから
「江頭氏5代前は不明」

皇后陛下の副島家、紀子妃殿下の杉本家の5代前が不明と
活字になった確かな資料があるなら、不明でいいけど
あるの?そんな資料
ネット上に資料がないから「不明」ということにはならない
ネットにあがっていない資料もたくさんあるから
江頭淳は自分で色々調べたあげくが「解らなかった」んだから

309:名無しさま
09/08/31 21:09:42 ESwHyWig
49 :日本@名無史さん[sage]:2007/12/25(火) 14:38:32
 喜三郎は、安太郎と同じ北川副村の出身だ。
 江藤淳さんは二十六年前、北川副村に出向いた。あてはなく、偶然に見つけた岩松
軒寺という曹洞宗の寺を訪問したが、住職の奥さんに、
「寺は戦災に遭い、山門を残し丸焼けになってしまった。過去帳も残っていない」
 というような話を聞き、むなしく引き揚げたという。
 しかし、岩松軒寺の来歴を調べると、美智子皇后と雅子さんの祖先を結びつける興味
深い事実が浮かび上がる。
 江戸時代の地図を見ると、岩松軒寺は多久氏の所領の中にある。多久氏は、元来の
佐賀の領主、龍造寺一族だ。龍造寺氏は龍造寺隆信の死後、家臣の鍋島氏に実権を
奪われて逆に家臣に下り、佐賀の西方の多久の地に自治領を認められた。
「多久」といえば、美智子皇后の母の富美子さんが多久市の副島家の出身。その祖先
は多久氏の家来なのである。
 多久在住で古文書に詳しい細川章さん(佐賀女子短大非常勤講師)は、こういう。
「岩松軒寺は、もとは龍造寺氏隆信の母で女傑といわれた慶門の隠居所で、隆信の弟
の長信が、母亡き後、寺にしたという記録があります」
 長信は多久氏の祖だ。
 佐賀城周辺の龍造寺家の領地は江戸時代、つぎつぎ召し上げられ、唯一、岩松軒寺
の周辺だけが残ったという。
 また、古賀喜三郎の主人、多久縫殿は多久家三代目の当主の四男が鍋島家に召し
抱えられた家柄。

310:名無しさま
09/08/31 21:10:47 ESwHyWig
50 :日本@名無史さん[sage]:2007/12/25(火) 14:39:21
 佐賀城周辺の龍造寺家の領地は江戸時代、つぎつぎ召し上げられ、唯一、岩松軒寺
の周辺だけが残ったという。
 また、古賀喜三郎の主人、多久縫殿は多久家三代目の当主の四男が鍋島家に召し
抱えられた家柄。
 さらに、『一族再会』によれば、江頭嘉蔵の一家も、維新後は、多久氏の屋敷の一隅
に住んでいた。副島・江頭・古賀の各家と多久のかかわりは因縁浅からぬものがある。
 多久は江戸時代、
「チーチーと多久は雀も『論語』を反す」
 といわれたほどの学問が盛んな土地柄だ。日本で最初の電気工学の教授の志田林
三郎や、刑法法典をつくった鶴田晧も多久の邑(村)校「東源庠舎」で習った。江頭安太
郎にも“多久の血”が流れているのだろうか。
 いずれにしても、安太郎は、明治の海軍の秀才だった。雅子さんの母方のもう一人の
曽祖父、岩手出身の山屋他人海軍大将も、秀才として知られた。安太郎と他人とは海
軍兵学校での同期で、それが縁で、他人の娘の寿々子さんが安太郎の息子の豊氏に
嫁ぐのである。他人は長生きして大将まで上りつめた。

311:名無しさま
09/08/31 21:18:10 ESwHyWig
江頭嘉蔵が士族と関わり、それなりの家柄をもつ
多久氏の邸の一角に住むことを許されたのだから
嘉蔵自身が士族である、と江頭淳が推測しても仕方ないのでは?
だから江頭家の子孫がそれなりの家柄と縁組できているということに繋がる。

312:名無しさま
09/09/01 09:28:01 4M405HuX
正田冨美子さんの父方の副島家も先祖たどれるの?
ちなみに3代先は誰で何をしていた人で菩提寺はどこ?

副島家は南部藩士と書いてある本もあったけど、もともとは佐賀県の副島家が
なぜ南部に??

313:名無しさま
09/09/01 10:47:32 BJndfPg1
>>308
あれ?ないことは証明できないという主張が、確か285でなされて
いませんでしたっけ?(私は堕胎伝説には興味がないけどさ。)
ないことは証明できない=ないとみなす、ですよね。
つまり、資料がないことは証明できない=資料がないとみなす、で
いいでしょう。
今のところ副島家も杉本家も、五代前がどこの誰か確定できる資料は
提示されていない=ないとみなします。
というわけで、副島家も杉本家も江頭家も五代前は不明。
ただし、江頭家に関して言えば、著名な文学者が調べた上で「分からなかった」
と記載されている、という付加条項を付けるのはいいかと思います。
所詮江藤淳は文学者であって、歴史学者じゃないんだ。

314:名無しさま
09/09/01 10:54:13 BJndfPg1
>>308
ソースはないけど資料はある「かも」というのは不明といわないというのなら、
304の時点で異議申し立てしてくださいね。
ソースなし=不明、と既に書いています。

315:名無しさま
09/09/01 11:13:07 BJndfPg1
>>309
古賀喜三郎と江頭安太郎、同村ですか!こりゃ、江頭家元藩士なのは間違いないな。
同村なら、家の噂なんぞ色々入る。
明治なんだから、ただの農家の倅だって才能があれば、嫁を嫁がせたりする
可能性はあるだろう。
でも、経歴詐称するような男の息子になんぞ、娘やったりしないだろうし、
そんな男の孫を自分の血を引いているとはいえ、養子に迎えたりはしないだろう。

むろんただの状況証拠。
証明にはならないけど、まぁ、普通の人間を納得させるには十分な話だ。
疑り深い人間を説得させられはしないだろうけどね。

316:名無しさま
09/09/01 12:45:08 BJndfPg1
まとめると。
江頭家については「系図・出勤簿なし。過去帳があると思われた寺は戦災で
焼失のためたどれなかった(江藤氏の著作によると)」でいいですね。
そして副島家・杉本家については「皇后・妃の祖父以前の先祖についての
ソースはなし。過去の情報があるかどうかすら一般庶民には調べるのが
難しい状態」と。
杉本家はたぶん、単なる庶民だからだろうけど、副島家がないのは不思議だな。
調べることが出来ても、発表が難しかったのかもしれないね。

317:名無しさま
09/09/02 18:57:59 5DQv9osw
フライデーに載ってた「秋篠宮のわがまま公務の実態、暑いからクルーズは嫌、
でも暑くても動物園視察を公務にしろ!」という記事に対して
宮内庁から抗議がないからあれは真実ね!

皇族にあるまじき言動だわ。
「公務は受身」なんてほら吹いて!!
好きな公務だけします、ですか?

318:名無しさま
09/09/04 12:36:03 2dKoZGMV
>>289 金吉ネタを過剰に忌み嫌うのは、小和田家の家系に触れて欲しく
ないからじゃない?
過去スレ見たらどう見たって形勢が不利なのはアンチの方だったけどw

319:名無しさま
09/09/04 12:42:07 2dKoZGMV
>>316 朝日新聞、毎日新聞等の報道では、杉本家は静岡市で代々
水産加工業っを営んだ、とある。
杉本嘉助氏の祖父は杉本吉三郎。名前からして3男だろうから、本家
から分家したんだろう。
吉三郎の兄である本家の菩提寺の過去帳を見れば代々の先祖の名前
も載っているよ。
普通の庶民であっても、寛政時代くらいからの先祖は分るはずだ。

320:名無しさま
09/09/04 12:45:23 2dKoZGMV
江頭家の家系は4代前までしか分らない。
江頭嘉蔵のルーツは不明。
川口素生氏が著書の中で述べているんだから。

川口素生『小和田家の歴史』

 
 さて、江頭豊氏の祖父・嘉蔵氏は明治維新までは肥前佐賀藩主・鍋島家の家臣
であったといわれる。ところが、明治初年の二種類の佐賀藩 侍着到(註=現代の
出勤簿に相当)には嘉蔵氏の名が見えない。これについて、豊氏の甥(優美子さん
のいとこ)にあたる作家の江藤淳(本名江頭淳夫)氏は、嘉蔵氏は佐賀藩の「手明
鑓」と呼ばれるクラスの藩士ではなかったかと推測している。「手明槍」は平時は無
役だが、戦時には槍や具足を携えて戦場に赴く者たちを指す。江戸時代中期以降
は無役だった「手明鑓」も藩の役職に採用されたし、幕末維新期には多くが鉄砲を
担当して活躍したといわれる。ただ、嘉蔵氏以前の系図や史料が現存していないた
め、嘉蔵氏が「手明鑓」か否かを含めて、ルーツや俸禄などはまったくわからない。
明治維新前後、嘉蔵氏は家族とともに肥前佐賀郡北川副村木原(現=佐賀市北川
副町木原)に移り住んだ。
    (  中        略  )
 範貞少年、安太郎少年が学齢期を迎えた頃、父・嘉蔵氏は旧制県立佐賀中学校
(現=佐賀県立佐賀西高等学校)に小使として勤務していた。
 嘉蔵氏の生年はわからないが、安太郎少年が生まれた頃、すでに四十数歳であっ
たといわれる。


321:名無しさま
09/09/04 13:02:31 l7vetbBV
またいつもの独断、推測、仮定ばかりの人登場ねw
>>319なんて全部自分の推測ばかりじゃん。
~だろうばっかり。三郎と名がつけば絶対三男なの?
名家だと先祖の名前を長男につけることもあるんですけどね。
有名なのは桂小五郎。彼は五男じゃなくてれっきとした長男。
桂家の先祖の名前からとった。
寺の過去帳なんて亡くなった順に羅列してあって家単位じゃない。
書いてあるのは戒名と命日ぐらいよ。家族関係なんていちいち書いてない。
なんの証拠にもならない。 

~だろう、じゃなくてソースを提示しなさいよ、ちゃんとしたソースをね。

どうせまた同じもん貼り付けて形勢不利になるとばっくれて、
またちょっとしたら金吉ネタと江頭ネタを投下して…∞

322:名無しさま
09/09/04 15:08:37 XMNFOggA
>>319 なんだよ吉三郎は長男だかなんだかもわからんの?
先祖なんて全然辿れてないじゃんw
エッタが家系乗っ取りやったかもな、簡単なんだろ?

よくもまぁ小和田家や江頭家のことをえらそうに言えたもんだ。

323:名無しさま
09/09/04 19:30:51 1i3i679R
>>322
推測で言っているのは江頭氏も同じ
大きな違いは、小和田氏、江頭氏は「調べても解らなかった」と活字になっている
ネット以外の資料を調べても解らなかったという事

杉本氏はネット以外の情報を見れば、解る可能性がある
だけど、小和田氏、江頭氏はネット以外の情報でも解らない
小和田氏、江頭氏はそれぞれ3代前、5代前が不明とはそういう事

324:名無しさま
09/09/04 20:00:13 NspMeeBB
>>323 いっしょだろ。
可能性ということは杉本家も調べてもわからなかったということも
50%の確率である。
それなのに他家のことを誹謗中傷する資格ないだろ?
小和田家の調査は誰がやったんだ?
赤の他人がどこまで調査できるんだ?
本を読む限り、付き合いのない本家や傍系ばかり訪ね歩いて
肝心の小和田顕氏の仏壇や位牌、過去帳、法事の記録など
誰か調査したのか?そんな話はまったくあがらんが。
江頭淳の調査だってあの本読む限り行き当たりばったりの調査だ。
菩提寺を調査したわけじゃなく、自分が知ってる情報をもとに
嘉蔵氏がかつて住んでいた近辺の調査だけしかしてない。
探偵社に依頼しても、5代ぐらい前までの先祖調査は一ヶ月~3ヶ月は要する。
淳氏以外に誰か嘉蔵氏の調査を本格的にした人物はいるのか?
素人の淳氏だけの調査で不明と断定し、それを鵜呑みにするというのか?

自分で杉本家、小和田家、江頭家をプロの探偵社に頼んで徹底的に調べてもらって
それから言いたいことがあれば言え。

325:名無しさま
09/09/05 17:32:40 oMpEnXCz
江藤淳は自らのルーツを探るため1967年5月に初めて佐賀の地を踏んだ。
しかし、弘化二年、元治元年の二種類の侍着到(藩士の出勤簿)には、江頭嘉蔵の名
は見当たらなかった。
これについて、江藤は、江頭嘉蔵は平時は無役だが、戦時には槍や具足を携えて戦場
に赴く「手明鑓」と呼ばれる藩士ではなかったかと推測している。
タクシーで木原に着いた江藤は、最初に訪れた寺で来意を告げると、留守番をしていた
梵妻さんが「ここは浄土真宗の寺だから旧藩関係者の檀家はない。禅寺はもう少し奥に
入ったところにある」と教えられた。
近くにある岩松軒は禅宗(曹洞宗)の寺院で、鍋島家と関係があり、旧藩時代には藩士
の檀家が多かった。
岩松軒は戦災で丸焼けとなり過去帳等も焼失しているが、江藤淳はこの岩松軒が江頭
家の菩提所であり、江頭嘉蔵の菩提もここにあったのだろうという推測をしている。

326:名無しさま
09/09/05 17:40:00 oMpEnXCz
小和田雅子さんが皇太子に内定した後、佐賀市長から江頭家のルーツ探しを
依頼された郷土史家で元市会議員の驫木保氏の調査では、岩松軒寺は江頭
家の菩提寺ではなかったことが判明。
古賀家の墓は浄土宗の阿弥陀寺にあり、無縁として合祀されている。
江頭嘉蔵の妻のキノの墓は、東京青山墓地にあるけど、嘉蔵の墓はどこにある
のか驫木氏の調査でも分らなかった。



327:名無しさま
09/09/05 17:41:52 oMpEnXCz
毎日グラフ臨時増刊 1993.6.26 『皇太子さま 雅子さま ご成婚記念特別号』
                                    P127
菩提寺は阿弥陀寺
 
 阿弥陀寺に戻ろう。
 吉田住職が古い過去帳を繰りながら話してくれた。
「木原となっているのを東京と墨で消して書き直してある。『古賀喜三郎』とあるのが、
おそらく喜三郎さんの家だと思います。養子になった博さん(江頭安太郎に二男で海
城学園長)が昭和51年ころに私の寺に、お参りに見えました」
 じつは、江頭・古賀家の菩提寺探しについては、混乱したところがある。
 同じ木原にある岩松軒寺を、江藤淳が訪れたと『一族再会』に書いてあるところから、
この寺が菩提寺のように思われたが、『ウチではないと思います』と、岩松軒寺の住職
は迷惑顔である。
 阿弥陀寺をつきとめたのは、地元の郷土史研究家である轟木保氏(81)である。轟木
氏は元市会議員、数年前から故郷の歴史を調べて、1冊にまとめた。その実績を買わ
れて、雅子さまのルーツ探しを市長から頼まれたのだと言う。
「阿弥陀寺、岩松軒寺、さらにもう1つ普門院という廃寺の3つがこの地区で龍造寺時代
からの寺院です。阿弥陀寺の住職にうかがったら、江藤淳さんもここに見えて、子供の
ときに来たことがあると言っておられたそうです」
 地元でしばらく続いた菩提寺探しの騒動も、これで一段落である。
 ご結婚当日、北川副地区では記念の植樹で祝うことにした。

328:名無しさま
09/09/05 17:42:53 oMpEnXCz
毎日グラフ臨時増刊 1993.6.26 『皇太子さま 雅子さま ご成婚記念特別号』
                                    P127
 安太郎は慶応3年(1867)年生まれ、やはり下級武士、というよりは戦時のときだけ
戦いに召集される身分だった。関ヶ原の戦いの後、縮小政策の結果出来た制度だが、
あるいは龍造寺家に仕えていた家かも知れない。貧しかったが秀才で、海軍兵学校を
首席で卒業、のちに海軍中将にまで出世した。
 江頭家は、安太郎の父の代に佐賀市内に移り住んだ。東京・青山墓地にある江頭
家の墓地は、安太郎の母親から埋葬されていて、それ以前の墓所はわからないとい
う。

329:名無しさま
09/09/05 19:56:19 DtwMcNVT
佐賀郡北川副村木原というところが江頭安太郎が生まれ育ったところだそうだから
そこを調べれば被差別部落出身か否かぐらいをか調べるのは簡単じゃないか?
またその周辺の寺などがもともとの江頭家の菩提寺である可能性が高いのだが、
その調査はしたのかな?

下の内容から父親と安太郎との間になにかしらの事情が生じて
縁を切った状態のようだな。だから母親のみ死後菩提を弔ったと。


江藤淳『一族再会』
 祖父

          Ⅰ  木原村
 肥前国佐賀郡北川副村木原は、現在の佐賀市大字木原で、国鉄佐賀線の南佐賀
駅にほど近い農村地帯である。明治四十三年ごろ、祖父に連れられてはじめて佐賀
に行った父は、市中に田圃があるのにおどろいたのを今でも印象にとどめている。そ
のとき祖父は、小学生だった父にむかって、「おれの生まれた家はこの田圃のはるか
向うのほうだった」といったという。つまりそれが木原である。それから三年後に祖父は
死んだ。
 父の記憶にないところをみると、祖父はこの佐賀滞在を利用して生家のあった木原を
訪ねようとはしなかったらしい。それが何故であったかは私にもよくわからない。当時木
原にはすでに近親の残存者は皆無で、裁判官になっていた祖父の兄も遠く東北の任
地にあった。しかし海軍少将で佐世保鎮守府参謀長の職に在った祖父が、久しぶりの
帰郷にあえて生家の跡をおとずれようとしなかったのは、やはり彼に故郷に対する根強
い嫌悪感があったからではないかと思われる。彼はおそらく「錦を飾る」などというには
ほど遠い心境だったのである。


330:名無しさま
09/09/06 11:31:00 B+ZMByXO
ようするに、阿弥陀寺は古賀家の菩提寺だが今は無縁。
岩松軒寺は江頭淳が立ち寄っただけで両家に何の縁のない寺。
その近辺には廃寺になった普門院もあるが、廃寺なので調査できず。
佐賀郡北川副村木原は江頭安太郎の故郷、つまり嘉蔵の先祖なども
住んでいた可能性がある地域、そこらへんの寺などの調査の記載はなし。

読む限りでは普門院か、木原のどこかの寺が江頭家の菩提寺だった
可能性が高いと思うが?
普門院はもう調べることは不可能だろうから、そのせいで先祖をたどれないのか。
あるいは木原にひっそり江頭嘉蔵の墓なりがあるが、どういった事情が
親子で仲違いしたか、なにかの事情で嘉蔵の供養は子供たちは継承してない、
嘉蔵の母親の墓のみ安太郎以下の子孫が供養をしていると。
ここで新しい発見があったな。嘉蔵の妻の名前や没年は明らかだということ。
安太郎の母方のルーツからなにかしらの情報があるかもしれないが
誰もやってないのだから、不審に思うやつが徹底的に調べればいいじゃん。
それもしないでネット上の情報だけでああだこうだ言う資格はない。

とりあえずその木原に被差部落があったかどうかぐらい行けば調べがつくだろう。
エタ寺なんかがあれば間違いないし、そのへんの年寄りに聞くだけで
だいたいのことがわかる。へたしたらまだ部落としてあるかもしれない。
江頭嘉蔵以前の家系を知りたかったらまずはそのへんのこと自分の足で
調査してみれば?

331:名無しさま
09/09/06 21:48:38 EM6+pP9n
つか、木原が部落かどうかなんてすでに部落に詳しいやつとか調査済みでしょ。
でなきゃ人権版で早々に騒がれてたはずだもん、本に書いてあるソースなら
みんな知ってるし。違うからこそあえてそこの部分はスルーされてきて、
嘉蔵より上の代は溯れない、出身地不詳と言い続けているんだろうな。

332:名無しさま
09/09/06 23:13:24 /Kg/j83s
検証スレだから、憶測ではなく史料をうpして論じてください。
江頭嘉蔵が部落民だというなら、それを示す史料を。
江頭家が佐賀藩士だというなら、それを示す史料をうpしてください。

過去スレで散々江頭家は名家だと主張している人たちがいたのに、
いまだに江頭家の家系図がうpされないのはどうしてでしょうか?
江頭家が地域で大きな役割をはたしてきた家ならば、江頭家の先祖
の功績を称える古文書などが佐賀に残されているはずです。
それは、どの文書に書かれているのですか?

また、小和田家には過去帳が残されているけど、当主の小和田顕氏が
その公開を拒んでいる、というのはどの本に書かれているのですか?
公開するとマズイことが記載されている過去帳なのでしょうか?

333:名無しさま
09/09/06 23:35:41 EM6+pP9n
>>332 だから自分で調べろって。
それをソースとして貼れっていってるだろ?

君がどう結論付けようがそれも憶測ですぎんのだから。




334:名無しさま
09/09/07 09:47:09 oE9o2Wyy
とりあえず>>332でもできそうな調査はこれだな

>>東京・青山墓地にある江頭
家の墓地は、安太郎の母親から埋葬されていて、それ以前の墓所はわからないとい
う。

管理人に聞けば江頭家の菩提寺の場所を教えてくれるだろう。
墓石の横に誰の遺骨が埋葬されているか刻んである石碑があるだろう。
もしくは墓石の側面か裏に彫ってあるだろうから、姓名や命日など
調査してくれば?

ネット上では不詳事項だった嘉蔵の妻の出自を示す苗字がわかっただけでも
大発見だな。

335:名無しさま
09/09/07 09:49:00 oE9o2Wyy
あ、苗字はどうせ妻だから江頭なんだな。

江戸時代の武家の墓だと実家の苗字も家系図に残し、
墓石に出自を刻んであることがほとんどだから
勘違いしてた。





336:名無しさま
09/09/07 12:06:37 eIZmYz90
>>329
あれ?安太郎氏の兄は父親と縁を切ってないのかな?
となるとこちらに情報がある可能性がありますね(過去帳は寺院だけでなく、
家も持ってたりしますから)。
こりゃ、「一族再会」を全部読んで、江藤淳の言うところの「一族」とやらが
どれくらいの範囲か確認しないと分からない話になってきましたね。
江頭嘉蔵氏の長男ルートを調べることが出来たら、情報出てくる可能性がある。

やっぱり杉本家と似たような状況のようですね。
杉本吉三郎氏は家の跡取りではない→本家にアクセスしないと情報があるか不明。
江頭安太郎氏も家の跡取りではない→本家にアクセスしないと情報があるか不明。


337:名無しさま
09/09/07 12:17:27 eIZmYz90
ま、嫁の母方の祖父の家系に何の意味があるのかという問題がそもそもあるけど。
昔から身分の低い娘を娶りたい場合、家の格が同等の家に養女に入ってもらって
から嫁にするなんてのがよくあった。
要は身分が違う親戚がいるとややこしいから婚姻しないだけで、畑は借り物って
感覚も強いのが日本。
祖父母がどういう「生活をしているか」は大事。扶養する人間がいないのに
見捨ててるというのは外聞が悪いからね。
しかし、嫁の祖父母の「祖先」までを問う社会ではなかった。
嫁の家である「小和田家」「川嶋家」「正田家」までがかつてのマスコミの
記事範囲だし、それが普通の感覚だった。

338:名無しさま
09/09/07 13:29:58 eIZmYz90
>>319
「杉本家は静岡市で代々水産加工業を営んだ」の原文ありますか?
代々というのが、明治~平成までの可能性もありますよね。
杉本氏の「先祖の」家業紹介か、「本家筋の」家業紹介か、
原文を見ないと分かりかねます。

339:名無しさま
09/09/07 14:09:52 eIZmYz90
>>332
ところで、そろそろ名家という意味のない言葉は使わないでくれないか?
過去スレ検索してみたが「名家」と「(江戸時代の)江頭家」を結び付けようとする
レスはない(明治期以降は別)。
「名家と主張する人間がいる」と、いう主張のレスがあるのみだ。
「主張する人間がいる」という意見自体が単なる妄想の可能性が高いので、
これ以上検証スレに持ち出すのは止めてくれ。
どうしても持ち出したいのなら、過去スレからきちんとそう主張するレスを
提示してからお願いする。

340:名無しさま
09/09/08 16:57:00 fUSxo2bN
皇室にまつわるデマ・ウソを徹底検証
スレリンク(uwasa板)l50
875 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2009/09/02(水) 20:01:14
>>872 ようするにソースなしの推測であることを認めるのですね?

過去帳があるというのも君の臆測なんですよね。
ないかもしれないわけで。
しょせん紀子さんも三代先は出自不詳な松浦家の血もひいているわけですね。
平吉の母親の出自も不詳。
赤の他人の家に簡単に入ることができるなら
川嶋家も例外ではなくありえることですね。

それから副島家のことも知りたい人がいるようですが
私も知りたいですね。過去帳は?菩提寺は?
-----------------
松浦家の当主は松浦朗さんという方。
その朗さんの1代前は愛治(梁瀬森谷家より養子 明治35年12月28日生 
昭和62年3月2日没)。
2代前が康太郎(板尾冨森家より養子 明治24年6月16日生 昭和30年
2月26日没)
3代前が庄太郎(文久2年2月25日生 昭和29年8月27日没)。
4代前が平吉(明治9年3月16日没)。
その妻はかつ(天保9年10月13日生 昭和5年3月11日没)。

341:名無しさま
09/09/08 17:01:49 fUSxo2bN
朗さんから4代前の平吉までがマスコミには発表されていますが、松浦家の
過去帳は菩提寺の徳善寺にあり、江戸時代以前からの系譜は分っています。

---------(引用)------------
川嶋庄一郎氏は、明治3年生まれ、幼名・松浦力松
父・松浦平吉、母・かつの三男、長兄は庄太郎、次兄は虎松
古くは屋号を(ふどう)不動、江戸期は(かど)門と呼び、明治4年頃、平民
の苗字使用許可に際し、松浦姓を名乗る

小和田金吉氏同様、幼くして父を失ったが、金吉氏と違い恵まれていたの
は、ふたりの兄が家を守り、学問の道に進む彼を支えてくれたこと
師範学校に進むと、あちこちに赴任する
家に母をひとり残して、京都・富山・滋賀・佐賀・東京と転勤することは難し
かったと思われる
松浦家の三兄弟は、父亡き後子供らを育てた母かつをとても大事にしてい
たとあるのでなおさらだろう

金吉氏は慶応3年あるいは明治元年生まれ
力松氏と同じく三男と言われているが、二人の兄は早世していたようす

URLリンク(sakura.45.kg)
--------(引用終わり)--------
江戸時代以前からの歴史があるならば、少なくとも400年以上の系譜が
判明している家ですね。
1世代30年と計算したら、少なくとも15、6代前までの先祖は判明しています。

342:名無しさま
09/09/08 17:08:49 fUSxo2bN
小和田家の当主は、小和田顕氏(昨年物故)。
顕氏の1代前が毅夫氏。
2代前が金吉氏。
3代前は不明です。道蔵だという説と、いや兵五郎だという人もいる。

江頭安太郎の直系の孫は江藤淳(江頭淳夫)。
1代前が隆氏。
2代前が安太郎氏。
3代前が嘉蔵氏。
嘉蔵以前の系譜については系図や過去帳などの史料が存在しなため
不明。

小和田家は顕氏から数えて2代前から先、
江頭家は江藤淳氏から数えて3代前から先が不明です。

343:名無しさま
09/09/08 17:29:29 IDkTbhyc
>>341 >>江戸時代以前からの系譜は分っています。

じゃはやく教えてよ。平吉の両親はだれ?



344:名無しさま
09/09/08 17:31:34 IDkTbhyc
>>342 >>嘉蔵以前の系譜については系図や過去帳などの史料が存在しなため

存在しないってどうして断言できるの?


345:名無しさま
09/09/08 17:39:12 NNooT1Dd
噂板の検証スレの続きはあるのだから、そちらでやったらどうですか?
出自の話はこちらでは何度もコピペされてますから、あちらしか見てない方にも分かるように、同じ板のスレでやって貰いたいです。

346:名無しさま
09/09/09 09:09:28 xPU/Fc/U
>>341
「江戸時代以前からの系譜が分かっている」また根拠がないことを。
屋号は歴史であるけれど、系譜ではないよ。
引用文が示しているのは、あくまで松浦平吉までの系譜だ。
それ以前の祖先がどこの誰か、正確に言うと「誰か」は分からない。

347:名無しさま
09/09/09 10:04:06 xPU/Fc/U
>>342
「系図や過去帳などの史料が存在しないため」のソースは?
残念ながら、327と329のレスによって、歴史学者ではない江藤氏の言は、
資料として信頼できないことが明らかになりましたけど?

理由1:江藤は江頭嘉蔵の家の跡取りではない。先祖の過去帳が家になくても
当たり前。「家に存在しない」は「世に存在しない」ではない。
理由2:先祖を探るのに、自分の家の宗派・母方の古賀家の宗派すら調べていないで
寺院の目星を付けている。歴史を辿るための基本情報すら押さえていない。

と、いうわけで江藤の言を金科玉条にする意味はないですな。

348:名無しさま
09/09/09 10:16:39 GlKgeR3n
fUSxo2bNは、>>342に書いてる3代前が不明だという主張をしたいだけなのかと思ったけど違うの?
雅子様から3代前じゃなく、家の現在の当主から見た3代前というロジックで。
で、宮内庁は3代前を調査してない、検証しようと言いたいのかと思った。

349:名無しさま
09/09/09 10:30:18 xPU/Fc/U
342を整理してみましょう。
>小和田家の当主は、小和田顕氏(昨年物故)。
>顕氏の1代前が毅夫氏。
>2代前が金吉氏。
で、3代前は道蔵でいいと思う(資料:河原敏明『皇太子妃雅子さま』)。
道蔵説を否定できるほどの資料は出ていないと記憶する。
(否定するならちゃんと出してね)

比較材料として川嶋家(妃の父の家)。
当主は川嶋辰彦氏。
1代前は川嶋孝彦氏。
2代前は川嶋庄一郎氏。
3代前は川嶋庄右衛門氏だが、庄一郎氏と血縁関係なし(庄一郎氏は婿養子)。
庄一郎氏の父は松浦平吉。ここまで確定です。

2代前は確定の小和田家。3代前は確定の川嶋家。
そして小和田家の場合確定ではないものの、3代前もほぼ推測可能。
あんまり違いを感じない。川嶋家・松浦家の4代前の方も提示されてないから。
調べたら平吉氏や庄右衛門氏が養子で、どこから来たのか分からない~の可能性も
あるわけで。

むしろ、小和田家の方がその前の系まで資料が出ている分(ここに食い違い
が多いため論が色々出ているわけだけど)、まぁ武家だろうという信頼感が
かえって増してる。
村上旧藩の閉鎖性って、昭和まで続いているくらいトンでもない代物だしね。

350:名無しさま
09/09/09 10:49:10 xPU/Fc/U
続き。
>江頭安太郎の直系の孫は江藤淳(江頭淳夫)。
>1代前が隆氏。
>2代前が安太郎氏。
・ただし次男。
>3代前が嘉蔵氏。
>嘉蔵以前の系譜については系図や過去帳などの史料が存在しなため
・過去帳については安太郎氏の家に存在しないのは確定。嘉蔵以前の
過去帳が存在しないかどうかは不明。
・系図は佐賀藩はかなりの武家でも存在しないため、それを持って不備とはいえない。
過去帳が存在する可能性はかなり高いが、江頭嘉蔵氏の長男の系を見出す
必要がある。

比較材料として、杉本家。
紀子妃の祖父は杉本嘉助。
曽祖父は杉本吉太郎。
その父は杉本吉三郎。ここまで確定ですね。
その前はよく分からない(資料提示がない)、と。
やっぱり時代状況じゃない?戸籍関係に記載がないと、情報がにわかに
あいまいになってしまうと取るのが素直な取り方だと思う。

351:名無しさま
09/09/09 19:26:54 w4gflnju
>>343 過去スレから何度も聞かれているけど答えてよ。
小和田金吉の両親の名は?
早世した2人の兄の名は?
早く教えてください。

>>344 川口素生氏が『小和田家の歴史』で、江頭嘉蔵以前の系図や史料は
存在しないためルーツについては不明、だと書いているよ。

川口素生『小和田家の歴史』

 
 さて、江頭豊氏の祖父・嘉蔵氏は明治維新までは肥前佐賀藩主・鍋島家の家臣
であったといわれる。ところが、明治初年の二種類の佐賀藩 侍着到(註=現代の
出勤簿に相当)には嘉蔵氏の名が見えない。これについて、豊氏の甥(優美子さん
のいとこ)にあたる作家の江藤淳(本名江頭淳夫)氏は、嘉蔵氏は佐賀藩の「手明
鑓」と呼ばれるクラスの藩士ではなかったかと推測している。「手明槍」は平時は無
役だが、戦時には槍や具足を携えて戦場に赴く者たちを指す。江戸時代中期以降
は無役だった「手明鑓」も藩の役職に採用されたし、幕末維新期には多くが鉄砲を
担当して活躍したといわれる。ただ、嘉蔵氏以前の系図や史料が現存していないた
め、嘉蔵氏が「手明鑓」か否かを含めて、ルーツや俸禄などはまったくわからない。
明治維新前後、嘉蔵氏は家族とともに肥前佐賀郡北川副村木原(現=佐賀市北川
副町木原)に移り住んだ。


352:名無しさま
09/09/09 19:34:16 w4gflnju
>>346 検証スレにもあるように松浦家は江戸時代以前からの系譜があることは
地元清水町の郷土史研究家の調べで明らかになっています。
屋号というのは、その家の特徴を現すものとして代々大事に世襲されるものです。

屋号
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

屋号、家号(やごう)とは、一門・一家の特徴を基に家に付けられる称号のことである。
日本、ヨーロッパにおいて使用されている例がある。

日本 [編集]
日本における屋号は、江戸時代には、原則としては士農工商の身分制度により武士
以外の者が苗字を名乗ることが認められていなかったため[1]、商人や大きな農家(豪
農)が、取引をするために必要であったから、あるいは日常生活の上で必要だったこと
から、屋号を使うようになった。

古くからの地域や特定の集まりに根付いた家は、集落内における家の特徴[2]を含ん
で屋号がつけられている。また、家長が代々襲名する名乗りを屋号にしていることもあ
る。この場合、屋号はその地域や特定の集まり以外でほとんど使われることがない。
地域によっては家の姓に代わるものとしても用いられたので、一家族、一族の系統を
示すものとしても用いられている[3]。この場合、地方によっては士農工商の身分制度
とは関わりなく用いられ、姓を持つ士族の家系にも使われている事がある。これらの
制度は商人との取引が多かった地域などに見ることもできる。

URLリンク(ja.wikipedia.org)

353:名無しさま
09/09/09 19:41:25 w4gflnju
>>346 山屋他人の母・ヤスの生家・野辺地家では代々「川原田(からだ)」という
屋号を世襲していました。
この川原田(からだ)というのは地名からとられたそうで、野辺地家の出身地な
のでしょう。

また、後藤田正晴の生家は忌部氏の流れを汲む庄屋でしたが、代々「古姓(ふるしょう)」
という屋号を世襲していました。
古姓という屋号は、「一番歴史の古い本家」ということを意味するもので、屋号は
その家の歴史や特徴をあらわすものとして代々当主が大事に世襲したものです。

松浦家の場合は江戸時代は門(かど)、それ以前は不動(ふどう)という屋号を世襲した
ということですから、江戸以前からの系譜が分っているということですね。

354:名無しさま
09/09/09 19:59:41 w4gflnju
>>349 まず基本的な間違いを指摘。小和田家の先祖は足軽だと推測されていますよね?
足軽は武家の奉公人であって、武士ではありません。
足軽というのは農民から召抱えられる例が多く、また農家や商家から養子を迎えいれて
います。

村上藩の場合、徒士以下の軽輩は、下駄屋や大工などの職人階級と婚姻関係を結んで
いたようです。

大場喜代司『村上藩』

 こうした要素が、町人との婚姻を容易にしていった。万延元年(一八六〇)頃から明
治三、四年(一八七〇、七一)までの「職分人別」を見ると、侍地に隣接する町人地に、
両者の婚姻関係を持つ家が多い。なかでも羽黒町には二二軒、久保多町には一八軒
もある。ついで小町一三軒、片町一一軒、上町七軒、長井町六軒、寺町五軒などであ
る。
 職業は修験や僧侶、商人もあるが、下駄屋、大工、塗師、紙漉きなど職人が多い。
 武家から町家への婚姻が多く、婿養子は侍の二男、三男が対象となっていた。いうま
でもなく口減らしである。この反対に町家から侍の家へ入籍しているのは三、四人程度
である。
 「軽き侍」の町家への入籍は、藩経済の悪化に伴い頻度を増す傾向にあった。



355:名無しさま
09/09/09 20:05:39 w4gflnju
>>349 マスコミで発表される川嶋家の家系図は、当主・辰彦氏の曾祖父・川嶋庄右衛門
までですが、それ以前の先祖の墓碑も過去帳も菩提寺に残されています。川嶋庄右衛門
は6代目。つまり、現当主の辰彦氏は9代目です。

川嶋家について [編集]
川嶋家は、江戸時代から和歌山市の本町8丁に居を構え、市内の府中、粟地区に広大
な土地や田畑を所有し、多くの小作人を抱え庄屋等の役職を多年務めた旧家である。
辰彦で9代目となる。川嶋家が所有していた土地は戦後の農地改革で没収されたが、
同市黒岩に川嶋家がかつて所有していた山が残っている。その山は、地元の人たちの
間で今も「川嶋山」と呼ばれている[3]。

川嶋家の菩提寺・専念寺の古河英雄住職によれば、そもそも川嶋家のルーツは、現在
の和歌山市を拠点に江戸時代から手広く海運業を営んだ有田屋であるという[4]。当主
は代々庄右衛門を世襲した。明治初期に当主となった6代目庄右衛門には跡継ぎとな
る男子がいなかったため、長女の志まの婿養子を探した。そこで目に留まったのが、和
歌山県有田郡安諦村(現・有田川町)の農家・松浦平吉の三男で、当時東京高等師範
学校に在学していた松浦力松であった。松浦力松は、庄右衛門から「庄」の一字をもら
って1894年(明治27年)3月21日に庄一郎と改名し、3月25日に庄右衛門の長女・志ま
と結婚した。
URLリンク(ja.wikipedia.org)

356:名無しさま
09/09/09 20:13:13 w4gflnju
おそらくは道蔵は金吉の父であるだろうという推測は成り立ちますが、
新潟市の泉性寺には過去帳もなく、おそらく小和田家にも過去帳や
家系図は存在しないでしょうから、金吉の父は誰であるかは分かりません。
神一行氏の記述が妥当だと思われます。
==================================
神一行『閨閥』より

 さて、その雅子さまの実家の小和田家であるが、そのルーツは現在の
新潟県村上市を治めていた村上藩内藤家五万石の下級武士の出身だ
ったようだ。代々、下横目(目付)、奥方付きお庭番などの役職につき、柔
術「制剛流」の達人の家柄だったというが、はっきりした系譜は曽祖父に
あたる金吉からしかわかっていない。
====================================

川嶋家は当主の辰彦氏から8代前。
また、祖父・庄一郎の生家である松浦家は江戸時代より前からの系譜が
分っています。

江頭家の場合は、
江藤淳の3代前から先は不明。

小和田家の場合、
小和田顕氏の2代前から先は不明です。

357:名無しさま
09/09/09 20:21:59 pHynZ+bK
>>356 >>おそらく小和田家にも過去帳や家系図は存在しないでしょうから、

故小和田顕さんの未亡人に聞いてみたの?

>>松浦家は江戸時代より前からの系譜が分っています。

なら早く松浦家の系譜を明らかにしてよ。
平吉から先はどうなってるの?母方はどこの出身??

358:名無しさま
09/09/10 09:51:50 E3fbc+QA
>>352
その郷土研究家の文を見たいと検索してみた。前嶋さんの文?
記述には平吉・かつの二人しか名前は挙げられていない。
過去帳を調べたといっても、命日の分かる平吉・かつさんの名があることを
確かめただけの可能性がある。
(土地の人間としては妃と確固たるつながりがあることを確認できたわけで
それだけで意味がある)
つまり、その先代が「誰」であったかはいまだ分からないのでは?
「どこ」の人間かは確かに屋号があるから分かるけど。

>地域によっては家の姓に代わるものとしても用いられたので、一家族、一族の系統を
>示すものとしても用いられている[3]

「地域によっては」とある。「門」「不動」という家があったのは間違いないが、
それが一族によって受け継がれてきた保証はないわけだ。
没落して売り払って、新たに来た人間がその屋号を名乗った可能性もある。
それこそ、近隣の素性が分かる庄屋の次男とかで人格もよければ、
地域の人間は跡目を認めたかもしれない。

松浦家があり、菩提寺が確定し、平吉が「門」の家だったことまではその
郷土研究家の調べで分かっているのは認める。
また、郷土資料に「不動」「門」の名が何度も出てきていたからこそ、
その人は江戸期以前の話も書けたのだろう。
しかし、「不動」の頃からずっと松浦平吉の系だったという保証までは
その研究家はしてないのではないか?
断絶が起きている可能性は十分にある。

松浦平吉かその跡取りは古い家の人間として土地の人間から尊重されて
きただろう、それくらいの意味合いだろうね。

359:名無しさま
09/09/10 09:56:37 E3fbc+QA
>>354
>この反対に町家から侍の家へ入籍しているのは三、四人程度
>である。
侍の家に町人は原則、入っていないわけですな。町人の家に跡目を
取れなかった侍の子息は入っているけれど。

小和田金吉、侍じゃん。つまり、村上藩の人間は、家の当主と嫡男、
それ以外の子を厳格に分けるルールがあったということだ。
漁業権を認められた金吉は、間違いなく村上の士族社会から侍と
みなされていたということだね。

360:名無しさま
09/09/10 11:42:07 +TZrvOxq

よくも、まぁまぁ~、松浦の家系図を捏造できたものだわ。



361:名無しさま
09/09/10 12:14:51 m7US1SHG
松浦本家の人なの、その平吉って人??
家をでた分家の子孫なんかは本家の屋号は世襲しないでしょ?
住んでる建物に対してつけられてるものだから、
ようは番地みたいなもの。


362:名無しさま
09/09/10 14:05:25 E3fbc+QA
>>356
さて、妄想が出てきましたね。
>おそらく小和田家にも過去帳や家系図は存在しない
根拠のまったくない妄想です。

「はっきりとした系譜は金吉」というのは正しいです。
「松浦家のはっきりとした系譜は平吉」と同等に。
それ以前についてはどちらも状況証拠になるため、きちんとした研究家で
あれば可能性は高いと言う事が出来ても、確定とはいわないでしょう。

363:名無しさま
09/09/10 14:18:57 E3fbc+QA
さて、まとめますか。
各種資料により確定している事実。
小和田家の先祖・金吉。
江頭家の先祖・江頭嘉蔵
川嶋家の先祖・六代目川嶋庄右衛門
川嶋家に養子に入った松浦家の先祖・松浦平吉。
杉本家の先祖・杉本吉三郎。

次に確定していないが、かなり高い確率の推測。
小和田金吉の父は道蔵(西真寺が道蔵の墓の移転を許可している=
金吉・穀夫を跡取りと認識していた)
川嶋庄右衛門の五代目・四代目・・・が六代目の先祖の可能性
(確率めちゃくちゃ高いが、こういう継承は調べないと確定できない)。

ま、ここまでですかね。
結局、道蔵さんが明治初頭に亡くなってるから、明治の戸籍に載らないので
関係を明示できないというところじゃないかな。

364:名無しさま
09/09/10 14:44:04 RAXQ6JcB
>>363
都合のいいまとめ乙!

5 :これまでのまとめ 1:2008/10/18(土) 17:48:29
平成のリアル横溝ワールド【小和田家の一族】  祭祀拒否の謎
           雅子妃ー恒ー毅夫ー金吉…その前は不明


小和田親子が手を合わせている墓の「小和田匡利」って誰?
URLリンク(www.yuko2ch.net)

小和田家家系図は「金吉」以前は不明
URLリンク(www.yuko2ch.net)

6 :これまでのまとめ 2:2008/10/18(土) 17:49:39
1 村上市西真寺住職、本荘長弘師の証言(現在は兵五郎夫妻と道蔵(匡利)の妻とその子供だけの墓がある寺)
 「小和田家の墓について毅夫氏(明治31年生まれ)が新潟市の学校に在勤中、父金吉の墓のみを新潟市の泉性寺に移した」
 「なぜ祖父の妻と子及び曽祖父夫妻の墓を残していったのか。普通移すときはそっくりもっていくものなんですがねえ」
  昭和61年(1986年or1987年)11月 恒、毅夫の両夫妻が村上に来たがここに墓参していない

2 新潟市泉性寺住職、広沢誠師の証言
 「小和田家の墓は明治7年よりうちにあるが金吉と兵五郎の墓はない 匡利(道蔵)の墓だけがあります
  …30年くらい前に毅夫さんが父金吉の墓をうちに移したということはまったく知りません」

3 ご成婚前の小和田家の墓参り
  両親と娘が拝んだ墓は新潟市泉性寺にある「匡利(道蔵)の墓」であり「小和田家の墓」ではない
 (昭和55年(1980)に小和田毅夫(恒の父)がこの泉性寺にある墓の台座だけを新調した結果異様なツギハギの墓)
  墓の場所は撮影前前日墓地の中央に移動させた(それまでは墓地の端っこにひっそりと置かれていた)

4 金吉と妻竹野(旧姓熊倉)は毅夫の幼い頃別居し金吉死亡後、竹野再婚説としてない説があるが、してないならば竹野のお墓は所在不明
  よって毅夫は両親の墓参りをしたことがあるのかないのか不明 金吉と竹野の間には毅夫と妹ミヨシがいる(結婚後は星野姓、子供は二人)
  
5 専門家の意見
 「 一説に小和田金吉は小和田道蔵匡利の三男と伝えるも年代齟齬して審かならず、仮に小和田兵五郎の三男の系に継ぐ。おそらくは別流ならん歟」
  金吉が匡利の子なら匡利12~13歳の時に生まれた三男となり有り得ない 一言でいえば「この小和田家ではない」と言っている

6 新潟県村上市小和田本家の証言
  TVでのインタビューにて老当主が「あちらの小和田家とウチが親戚とは初耳 こちらでもいろいろ調べてみたがわからない」と答えた


【小和田】雅子さまのご先祖【江頭】part2 より
スレリンク(history板)

365:名無しさま
09/09/10 15:08:03 3kG871iH
>>364 小和田本家は東京都小平市在住なので、6はどこの本家の小和田さん??

ってかんじなんすけど。

366:名無しさま
09/09/10 21:33:40 M66MmofB
小和田家の先祖は同心、つまり足軽であったと推測されている。
そもそも、足軽は武士ではない。

八幡和郎『本当は恐ろしい江戸時代』 P215-P216抜粋

    足軽は「士族」であっても「武士」ではない

 お年寄りと話していると、「私の家は元士族でして」と誇らしげに言われたりすること
がある。この「士族」とは何なのだろうか。はたして「武士」と同じなのだろうか。結論か
らいうとまったく別のものである。
「元士族……」と言う方は、先祖が足軽だったことが多いようだ。だが、そもそも足軽は
武士でない。
 明治維新のあと明治二年(一八六九)に版籍奉還が行われ、その時は足軽などは
「卒族」とされた。だが、何とかしてほしいと運動するものもあり、のちに世襲のものは
武家奉公人などであっても「士族」、一時雇いのものは平民に分けられた。
 足軽というのは、戦場で刀でなく槍、鉄砲、弓などで専ら集団戦を戦う者たちである。
日頃は門番とか下級事務員のような仕事をしていた。行事などの時は別だが、日常的
には機敏に動けるように、「尻端折り」という袴のすそを高くまくり上げた格好をし、真冬
でも股引などは穿けず、足をむき出しにすることが義務づけられていた。
 福沢諭吉によると、彼の出身地の中津藩では足軽は士分のものと往来で会えば、雨
中でも跪かなくてはならなかった。
 こうした待遇を足軽は嫌がり、幕末に沿岸警備のために相模に出張した彦根藩部隊
の足軽が士分のような言葉遣いや服装をして問題を起こした。だからこそ明治になって
「士族」となれたことの嬉しさは格別で、ことあるごとに吹聴したから、その子孫が「士
族」などと自慢するのは、お祖父ちゃんがことあるごとに「士族」を強調していた影響な
のかも知れない。

367:名無しさま
09/09/10 23:00:40 hF7mNreO
1 :かなえφ ★:2009/09/10(木) 21:43:14 ID:???0
 宮内庁の羽毛田信吾長官は10日の記者会見で、民主党などの連立政権による内閣が
近く発足することに関し「皇位継承の問題があることを(新内閣に)伝え、対処して
いただく必要があると申し上げたい」と述べ、皇位継承の対象を男系の男子皇族に
限定している皇室典範の改正問題に取り組むよう要請する考えを示した。

 羽毛田長官は「皇室が安定的に続くかどうかという問題が存在するという意識は、
政権が変わっても変わらず持っている」と述べ、あらためて皇位継承の現状への懸念を
表明。その上で「事実を伝えることはやらねばならない(私の)務め。できるだけ早く
そういう場を持ちたいと思っている」と意欲を示した。

 皇室典範の規定では、天皇陛下の孫の世代の皇位継承対象者は秋篠宮家の
長男悠仁さま(3)しかいないのが現状。典範改正をめぐっては、政府の有識者会議が
2005年11月、女性・女系天皇を容認する報告書をまとめたが、その後の議論は
停滞している。

 羽毛田長官はこれまでにも皇位継承の不安定さを指摘。昨年12月には陛下の心身の
不調に対し「陛下がここ何年、将来にわたる皇統の問題、皇室にかかわるもろもろの
問題に憂慮される様子を拝してきた」との所見を述べた。

共同通信 2009/09/10 20:23
URLリンク(www.47news.jp)


368:名無しさま
09/09/10 23:16:40 5NgIbrYu
やっぱり天皇は愛子ちゃんを天皇にしたかったんだね。
こんなことを羽毛田の独断で言うわけない。

369:名無しさま
09/09/11 01:10:01 I8BnKyJ0
>>368
女系でいくとは一言も書いてないのだが

370:名無しさま
09/09/11 06:33:46 qLI4cV8Y
>>364
ソースなしに書かれてもなぁ。まともな情報は1くらいだし。
2は「私の父が死んでいるので、その辺の詳細は分かりませんが。」と
広沢誠師が詳細を知らないのをわざわざ抜いてる。
~河原敏明『皇太子妃雅子さま』小和田家の系譜~

3も撮影移動話のソースがほしいところだわね。墓の姿はテレビ放送だろうけど、
こういう裏話は文書化されないと出てこない。
5の専門家なんて、何の専門家だ?城が焼けた村上藩で、なぜ道蔵の出生の
年が分かるんだ?金吉ですら二説あるってのに。
4は出す意味が分からない情報だ。

検証に値する情報をお願いします。

371:名無しさま
09/09/11 06:43:44 qLI4cV8Y
>>366
でも、侍でしょ。
354でw4gflnjuがこの文章を出している。つまり、w4gflnju自体が軽き「侍」で
あることを認めているわけで。執筆者の大場喜代司も同様。
結局、全体像が見えないわけ。
「武士より下」と連呼されても、じゃ、社会全体での位置づけは?ということ。
町家に婿入りしていっても、町家から婿取りはしない。
軽き侍→町家の流れはあっても、軽き侍←町家の流れはおきていない。
左が川の上流、右が下流のような流れがちゃんとあるわけね。

結局、雅子妃の系を「なにものでもないがマイナス情報がある」と
位置づけたいのだろうけど、「なにものでもない」ということはありえない。
マイナス情報を提示したら、で、それは、社会全体から見てどーよ、と
いう俯瞰した視点に戻されるのだな。

372:名無しさま
09/09/11 07:41:12 P07uYmdj
卒族は士族じゃないとするアンチが多いけど、
一代限りじゃない卒族は正式に士族と認められたのは事実。
明治期の身分制度での士族はインチキ呼ばわりするけど
それじゃ武士階級から華族になった人は華族ではないのか
という話になる。皇族、公家から華族になった人は華族じゃないのか、
という話にもなる。
道蔵氏の墓石に「士族」とあるのだから大和田道蔵が
士族であったことは紛れもない事実だしね。

373:名無しさま
09/09/12 04:48:46 o5U1XVdI
>>355
YO!篠沢のダチ公!紀州にはろくな奴はいない!
魚君!


374:名無しさま
09/09/13 20:08:49 Ey8cvDKY
>>372 江戸時代において士分の者と軽輩の間には、武士と町民以上の
隔絶した身分差があった。
足軽は江戸時代には武家の奉公人であって武士ではなかった。
大体嬉しそうに「自分の先祖は士族で」なんていう奴らに限って、足軽で
あったりするw
>>373 紀州は大変な人材を輩出し続けているぞ。陸奥宗光、津田出、
濱口 梧陵etc. その他数えられないほどの人材を政、官、財界に送り
出している。

375:名無しさま
09/09/13 20:16:47 hMk+6v+C
>>374 それでも明治政府が正式認めていた、
足軽あがりの「士族」は存在した。

まずは足軽あがりの「士族」は存在していなかったと
証明してから、自論を述べるべきだな。

376:名無しさま
09/09/13 20:25:57 Ey8cvDKY
江頭安太郎の父である江頭嘉蔵は佐賀藩士であるとされている。しかし、明治初年の
二種類の侍着到には江頭嘉蔵の名は載っていなかった。
安太郎の曾孫にあたる小和田雅子さんが皇太子妃に決定した時、佐賀市長から江頭
家のルーツ探しの依頼を受けた元市会議員で郷土史研究家の轟木保氏は、江頭家の
菩提寺を探したけど、ついに見つけることが出来なかった。
江頭家の墓は、東京・青山墓地に嘉蔵の妻のキノからの墓があり、嘉蔵の墓がどこに
あるのかも分からなかった。
金吉とどのような関係にあるのかも判然としない人物の名を強引に?げて
小和田兵五郎―道蔵匡利―金吉―毅夫―恒―雅子妃殿下
という家系図を掲げている川口氏も、江頭家に関する史料は全く無いため、嘉蔵以前
の系譜も出自も全く分っていない、と著書の中で述べている。
さすがの川口氏もお手上げ状態だったんだろうね。

川口素生『小和田家の歴史』 P17

また、系図や史料が現存していないため、嘉蔵氏以前の系譜も現在のところ、明らか
にはなっていない。

377:名無しさま
09/09/13 20:33:40 Ey8cvDKY
>>375 足軽は江戸時代には武士ではなくて武士の奉公人という身分上の位置づけ
で、士分の者とは厳格に区分された。
----------------------------------------------
八幡和郎『本当は恐ろしい江戸時代』 P215-P216抜粋

    足軽は「士族」であっても「武士」ではない

 お年寄りと話していると、「私の家は元士族でして」と誇らしげに言われたりすること
がある。この「士族」とは何なのだろうか。はたして「武士」と同じなのだろうか。結論か
らいうとまったく別のものである。
「元士族……」と言う方は、先祖が足軽だったことが多いようだ。だが、そもそも足軽は
武士でない。
 明治維新のあと明治二年(一八六九)に版籍奉還が行われ、その時は足軽などは
「卒族」とされた。だが、何とかしてほしいと運動するものもあり、のちに世襲のものは
武家奉公人などであっても「士族」、一時雇いのものは平民に分けられた。
---------------------------------------------------
武家の奉公人であった足軽は、明治維新以降一旦は「卒族」とされ、明治5年に世襲
の者は「士族」に、一代抱えの者は「平民」とされた。
江戸時代に武家の奉公人であった者も、明治以降「士族」とされたわけ。
道蔵の墓に「士族」と記されているからといって、小和田家の先祖が「武士」であった
と考えるのは大きな誤解。
足軽は武士の奉公人であって武士ではない。

それに道蔵と金吉がどのような関係にあったかを示す史料は無いしね。



378:名無しさま
09/09/13 20:40:43 kAyl4NqH
>>366にある文章を、またコピペしなくてもいいですよ。
同じスレなら、アンカーを付けてくれたら読めますから。

379:名無しさま
09/09/13 20:46:34 Ey8cvDKY
175 名前:名無し投票@2/15(日) 投稿日:2009/02/11(水) 13:31:54 ID:klHBVGTR
小和田金吉さんは藩士の子弟仲間と写った写真もあるし、
下級武士の名簿にも載ってるよね。
それに息子さんの毅夫さん(雅子妃の祖父)は、
村上藩の藩士の子弟だけが受けられる奨学金制度を受けている。
また毅夫さんの奥様のご実家は豪農でその実家は今も
重要文化財として村上市に残されている。

別に小和田家が名家とまでは思わないが、
古い歴史のある、武士の子孫であることは確かでしょう。

414 名前:名無しさん@自治スレにてローカルルール議論中 投稿日:2009/03/30(月) 16:57:13 ID:TbLd/8PAO
どんなに気に入らない嫁でも香諄皇太后は
決して美智子皇后をないがしろにして
次男の妻ばかり贔屓するようなことはなさいませんでしたよね
武家の出である常陸宮妃のほうを目にかけていたようですが
お互い高貴な出同士分をわきまえることが自然に備わっているのでしょうか
庶民つながりで皇后と紀子さんがつるむなんて
やめて下さいね
雅子様ご自身も先祖は武家ですけれど
美智子皇后はどうなのでしょう?
紀子さんは先祖がお百姓ですが


380:名無しさま
09/09/13 20:55:17 Ey8cvDKY
小和田金吉の妻・竹野の生家は熊倉家だけど、その生家の建物が重要文化財に
指定されているという話は聞かないね。
よく小和田金吉が藩士の子弟と一緒に写っている写真を自慢げに持ち出す人が
いるけど、よく分らないね。
明治維新以降は四民平等で、武士や町民、農民といった身分上の区別は無くなっ
たんだから、町民や農民、部落民の子弟が元武士の子弟と一緒に写真に写っている
例もあるでしょ。

また、「士族」=「武士」だというのが誤解であることは、前述の通り。
雅子妃の先祖は3代前の金吉からしか、はっきりとした系譜は分かっていない。

381:不死魅宮博恭
09/09/13 21:46:21 FYc3iM3Z
我は、皇族
沖縄、長崎、広島、玉砕、大空襲、笑止・笑止。
比するに価せず
皇族は生まれながらに神なるもの、
国家なり
皇族一命は一都市を凌駕する
我らの存亡が国家を永続させる
箋民は、心して国家の盾となるべし


382:名無しさま
09/09/14 09:36:43 7/QGY9hz
まぁ話がずれていることから見ても、「○代前は不明、不明はどこの誰か
分からないこと」という定義に意味はなかったのだろうね。
「誰か」が確定される=名が確定される、だからね。
つまり、松浦家は平吉、杉本家は吉三郎、小和田家は金吉、江頭家は嘉蔵。
代をカウントすると一代くらいしか変わらない、と。

例外が川嶋家だが、この場合は「市川団十郎」の襲名みたいなもので、逆に
代々継いでいる名前ほど「元はどういう素性」を調べないと意味がない。
今の団十郎は昔と系が違うし、団十郎の中には演技が下手で、生前はとても
襲名できずに死後遺族で襲名したなんてのもある。
継承の中身調べてナンボ、なんですな。

というわけで、長々としてきた「○代前は不明」は、そろそろ意味のない
キャッチフレーズに過ぎなかった、ということにしたいと思います。
言ってもいいけど、他の妃だって一代程度しか違わないよ、そもそも
皇后陛下なんぞ祖父までしか分からないよ、と。

383:名無しさま
09/09/14 09:48:46 7/QGY9hz
>>377
小和田家、「先祖」は武家の可能性あります(これは村上藩に「小和田家」の
記録があるからいってるわけですが)。
足軽階級って要は武家の分家の分家の・・・でしょ。
小和田家も元を辿れば武士の可能性がある。
小和田道蔵の家が足軽階級なのは確かですけどね。

足軽、元を辿れば足軽とは限らないというのは、既に山屋他人の系譜で
出てきてます。江戸時代の階級は、同じ血族でも分かれていくもの
ですから、このあたりの表現は難しい。

384:名無しさま
09/09/14 09:55:33 7/QGY9hz
>>377
>道蔵と金吉がどのような関係にあったかを示す史料は無いしね。

現在ないというのと、当時ないというのとまた違いますしね。
当時はあったと思いますよ。時間がないので後述しますが。

385:士族であること
09/09/14 12:07:53 7/QGY9hz
ちょいとここから抜粋。
URLリンク(sakura.45.kg)

明治17年(1884) 旧藩士ら、三面川の永久管理権を得る
         この年、漁業権者名簿に小和田金吉の名前

で、金吉が村上の漁業権を認められている明治17年の時点で、既に
戸籍制度は出来ています(明治5年式戸籍)。

村上の戸籍は昭和22年に役場が焼失しているため、現時点では
確認できません。しかし、明治17年当時であれば確認可能なわけです。
金額的にもそれなりの金額が動き、それ以上に村上の士族の誇りで
あり、団結を担った鮭の漁業権です。資料があるのに調べもせず
認めたとは思えない。
そもそも識字率から考えても、字が読めて失業している階層である士族が
動員されて戸籍が作られただろうってのは見当がつくしね。

つまり、「金吉氏の祖先は不明」は歴史家として間違っていない。
しかし「士族だった」のも間違いないでしょう。
当時の人間の認定を根拠なくくつがえすのは、歴史家としてどうかと思います。

386:足軽
09/09/14 13:09:06 7/QGY9hz
>>377
足軽については、これがバランスがいい文章じゃないかな。
URLリンク(tetuyaake.blog83.fc2.com)

加賀藩の場合、足軽すら庭付き一戸建て。他所の藩と比べてちと良過ぎですが。

で、武家の奉公人と言われて我々がイメージする存在とは違うようですな。
> 平士階層の住宅・武家屋敷には、小者や女中など、家族以外の使用人が必ずいましたが、足軽は家族だけで生活していました。
武家の奉公人と言われると、この文の「小者や女中」をイメージしますよね。
「武家」に所属と。
でも足軽はどうも、一応仕えているのは城主のようです。
明治以降の一兵卒が、例え陛下のお目通りなんてありえなくても、○○大将の
軍の人間じゃなくて、陛下・日本国の軍人であるのと同じようなもんですな。
今なら、役所の○○課で働いている非常勤ワーキングプア職員が、それでも
「役所の職員」であって「課が雇っている職員」ではないようなもんです。

387:不死魅宮博恭
09/09/14 13:16:35 v6mfHnXr
皇族は神なり

沖縄・長崎・廣島、笑止・笑止
我らの貴尊さの足元にも及ばず
箋民 数百万の血が流れても
我らの血は一滴たりとも流れず

我らは皇国の母体なり

下がれよ、箋民
つつしめ、卑民
卑しき身で我らを語る事なかれ!
無心で、我らを崇めよ


388:武家の奉公人
09/09/14 13:33:14 7/QGY9hz
で、イメージだけではなんなので、武家の奉公人について調べてみました。

URLリンク(homepage2.nifty.com)

ハッハッハッ、足軽の「下」と明確に書いてありますな。
つまり足軽を武家の奉公人とするのこそ、「ウソ、妄想」の類と。

389:名無しさま
09/09/14 15:06:52 6VBKtqJA
>>385
戸籍は市町村役場と法務局で保管されています。
法務局が火災にあっていないのなら、それを元に戸籍を再製するので、確認出来ないという事は無いと思います。
勿論、第三者では無理ですが。

390:不死魅宮博恭
09/09/15 01:54:33 eFtBn0J3
我は、皇家
卑しき身で我らを語る事、 無かれ
神の冒涜たらんこと恥じるがよい

日本国箋民の殺生与奪権は我に在る
皇国を亡国に導き不能民の存在は、大罪なり
死して皇国の人柱となるべし

我らは神なり
我が領土全てに生けるもの、
殺生与奪権は我に在り


391:名無しさま
09/09/15 09:10:45 tor0yK1S
>>389
火災にあったのは市町村役場の方です。ちなみに明治5年式戸籍(壬申戸籍)は
現在封印されていますので、法務局にあったとしても見れないでしょうね。
ただ、当時の金吉氏は請求すれば手に入ったでしょう。本人だし封印以前だし。

392:名無しさま
09/09/15 14:47:03 TT9jocMd
>>391
壬申戸籍の後何度か様式が変わり、戦後の現代の戸籍になりました。
それらは全て、その前の戸籍を元に改製されます。
改製原戸籍と呼ばれるものですね。
小和田金吉が死亡したと言われる時期には、壬申戸籍から様式が変わってますから、改製原戸籍はあったでしょう。
第三者では見れない事には変わりないですがね。

393:名無しさま
09/09/15 16:49:14 uFWpjzRQ
第三者は見れなくても、宮内庁経由なら見れたでしょうね。

その結果が雅子妃入内というわけです。


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