皇室のウソ、妄想を徹底検証 part2at EMPEROR
皇室のウソ、妄想を徹底検証 part2 - 暇つぶし2ch72:名無し投票@2/15(日)
09/02/16 17:51:51 mNVdKN6w
┌菊池(野辺地)三弥┬野辺地尚義
│            └ヤス     ┌─長女:岩下ハツ(東伏見宮御用取扱)
│              ├─他人─┴─五女:江頭壽々子─小和田優美子─雅子
│            山屋勝壽

└菊池金吾──菊池第三(宮内省式部官)
URLリンク(fuzoku.cneti.ne.jp)

野辺地尚義
他人の母ヤスの兄である尚義は、脱藩して萩の松下村塾に遊学、
のちに大村益次郎が江戸に開いた鳩居堂で蘭学を習得。
その知見を持って、長州藩邸内の学塾の教授を務めた。
維新後は、京都府立の外国語学校、また当時全国に先駆けて作られた
女学校の主管(事実上の校長)を経て、紅葉館創設に関わる。

山屋他人
海軍大将、大正四年から二年半にわたり軍令部次長を務めた際は、
週二回海軍軍令部附として勤務された皇太子(後の昭和天皇)と
親しく接する機会を得る。
第一次大戦中、地中海の安全航行のため、英国より要請を受け派遣
された護衛艦隊が兵員・物資の護衛を行なったが、雷で駆逐艦「榊」が
大破した。
昭和天皇はこの地中海艦隊の活動に深い関心を示され、大正十年の
欧州訪問の際、マルタ島の慰霊碑に献花をされた。

ソース:謙譲の人 海将山屋他人の足跡(枝栄会)

73:名無し投票@2/15(日)
09/02/16 17:53:22 mNVdKN6w
>>71 小和田優美子さんの三代前の中学の小間使いって誰のこと?

74:名無し投票@2/15(日)
09/02/16 19:14:34 rYxdWjr8
>>73
江頭豊の父親
たしか江頭家も鍋島班の下級武士という事になっているが、確かではない
他ならぬ小和田優美子の従兄弟、江頭淳がそう言っている

系譜
江頭氏 江頭姓は「えがしら」のほかに「えかしら」、「えとう」と読み、佐賀県、福岡県など九州北部の各県に多い。
江頭家は江戸時代、佐賀藩主鍋島家の家臣だったとされている。
しかし、弘化二年(1845年)、元治元年(1864年)の二種類の佐賀藩侍着到に江頭嘉蔵の名は無い。
嘉蔵の曾孫江藤淳は江頭家について「手明鑓(てあきやり)」という身分の藩士だったのだろうと推測している。
手明鑓は平時は無役だが、戦時には槍や具足を携えて戦場に赴く者たちを指す。
しかし、嘉蔵以前の系図や史料が一切存在しないため、嘉蔵が「手明鑓」であったか否かを含めて、
ルーツや俸給などはまったくわからない。嘉蔵以前の系譜は、現在までのところ、明らかになっていない。
     ┏江頭範貞
     ┃
江頭嘉蔵━┫
     ┃
     ┗江頭安太郎 ┏江頭隆━江藤淳 
        ┃   ┃
        ┣━━╋古賀博
        ┃   ┃
古賀喜三郎━米子   ┗江頭豊
             ┃
             ┣━━優美子
             ┃    ┃
      山屋他人━寿々子   ┣━━雅子
                  ┃    ┃
                小和田恒   ┃
                     徳仁親王


75:名無し投票@2/15(日)
09/02/16 19:16:01 rYxdWjr8
おまけ

藤井茂『山屋他人 ある海軍大将の生涯』1

   系譜は代々微禄士族

 山屋他人の思い出を語る人の中には、非常に貧しい家庭に育ったことを共通してあ
げる傾向がある。確かにそうだったらしく、南部藩士の履歴や封禄をまとめた「御番割
遠近帳」では、他人の祖父権八の禄高は、たった二人扶持である。
 藩士としては最下級である。
 役職は年間を通じて「お盆の数日間、寺の灯ろうの火の番をした」だけというから、ほ
とんど職らしい職を与えられなかったといえるだろう。
「御扶持方帳」によると、天保十一年(一八四〇年)の盛岡藩の封禄で一人扶持という
のは、だいたい馬に三駄分つまり米六俵である。つまり山屋権八は年間米十二俵分と
なり、月一俵の割合になる。一俵は三斗七升だから、一日一升余りとなり、極貧の部
類に入るだろう。
 ちなみに、郷土史家で盛岡タイムス総務部長の工藤利悦氏の教示で「参考諸家系
図」により作成した山屋家の家系図を揚げておく。案の定、一番最初に位置している十
代前の山屋三右衛門の禄高は、四駄二人扶持だった。江戸時代初期の南部重信公
のとき召し出されたというが、戦国時代、盛岡の南に独立した勢力をもっていた稗貫氏
の支族亀ヶ森氏が南部藩の傘下に入り山屋と改名したようだ。

76:名無し投票@2/15(日)
09/02/16 22:43:09 +ma/wMYy
雅子さんアンチっていつも「三代前が~」って言うけど、
それが何か?と思うんだよね。
美智子さんが皇室入りしたときに、家柄云々ていう話は終わってるんじゃないかな。
元皇族・華族の人から見たら粉屋の娘も高級官僚の娘も教授の娘もみんな一緒だよ。
皇女が地方公務員に嫁ぐ時代だしさ。

77:名無し投票@2/15(日)
09/02/17 08:12:21 v+FaA5+C
>>74 江頭家の先祖に3人も海軍のおえらいさんがいるってびっくり!
海軍の幹部はスーパーエリートじゃん。軍部は海軍>陸軍だしな。
何が何でも部落民認定したいようだけど、常識で考えてそれはまずありえんな。
部落民との縁組も考えられん。
江藤淳の父親は銀行員だから、その段階で部落ではないのは確かだしな。
戦前の部落民がそう簡単に身分が平民になれるのなら、みんなしてないか?
それができんから解放運動だの、結婚、職業差別に泣いてきたわけで。
はっきりいって、部落民出身、あるいは怪しいとなったらどんなことをしても
浩宮を説得したろうし浩宮も承諾せざるを得なかったろうな。
部落認定したい人って自分がそうだからなんじゃないの?
なんか必死すぎるよね。
美智子さんを部落認定したがってたのって部落民なんだよね。
正田家の本家の近くに部落地区があったことから、またたくまに全国の
部落民に「美智子さんはおらが組だ」と広まった。
なんかしょうこりもなくまた同じことやってるんだな。

78:名無し投票@2/15(日)
09/02/17 08:21:39 v+FaA5+C
>>76 でも部落民か否か、在日か否か、とかは宮内庁もかなり神経質に
なって調査したはず。もし事実なら、部落関係から江頭家や小和田家の
出自の詳細なネタがリークされてるよ。
先祖が部落地区に名を連ねていたとなったら一発じゃん。
あんな地方じゃ同じ苗字ばかりの地区なんだろうから。
貧しい平民の分家なんて、墓も本家の菩提にはは入れないし、
分家初代以降の子孫は本家の家系図にはいちいち記されない。
3代先までたどれて、本籍がわかっていて、一族にそれらしい職業の人がいなければ
部落認定されなくて当たり前。

79:名無し投票@2/15(日)
09/02/17 15:28:18 U7avVwcI
雅子妃の父方・小和田家の4代前は不明。
3代前の小和田金吉は税務署の職員だとも聾唖学校の職員であった
ともされる。

雅子妃の母方・江頭家の4代前の江頭嘉蔵は、旧制佐賀中学校の
小使であった。






もちろん、小和田家も江頭家も、いくら先祖を辿っていっても皇族にも
華族にも行き着くわけがない。

80:名無し投票@2/15(日)
09/02/17 15:31:42 U7avVwcI
>>73
小和田優美子さんの1代前は父の江頭豊。
2代前は祖父の江頭安太郎。
3代前は曽祖父の江頭嘉蔵。

江頭嘉蔵は旧制佐賀中学校の小使だった。


81:名無し投票@2/15(日)
09/02/17 15:36:29 U7avVwcI
難民だって皇室を語りたいよね…( ´д)ヒソ(´д`)ヒソ(д` )
URLリンク(mimizun.com)
595 :名無し草:2007/04/21(土) 20:47:29
129 :可愛い奥様 :2007/04/19(木) 22:59:34 ID:VlN+ArR90
秋篠宮って、結婚時には身分差からゴタゴタしたのは確かだろーが(賛成してくれたのは、
秩父宮妃くらいだったとか)現在となっては「紀子さんが来てくれなかったら、今頃は目も
あてられん」状態なのは確かだろうな。(紀子さんがいない、現状を想像してみ?)

136 :可愛い奥様 :2007/04/19(木) 23:05:17 ID:q6a6Y+jO0
>>129
さりげなく捏造してる?
紀子様は大学1年の時に礼宮に会ってからまもなく両陛下(当時は皇太子同妃両殿下)に紹介されて、
その時からずっとご両親公認の仲。誰も反対する人などいなかった。
______________

これは捏造
最初、皇太子(今上)は躊躇され、美智子妃が好きな人と一緒にさせてやりたいと
説得したと言われている。
川嶋家の両親も、家柄や財力がつりあわないと消極的だった。
億単位の嫁入り費用に加え、結婚後も各宮家に祝いの節には必ずお届けをしなけれ
ばならない。
当時の川嶋家の年収はおよそ800万円。
天皇家が許すとも思わなかったし、またそれを川嶋家が受けるとも思えなかったと
ある評論家は述べた。

~「お嬢さま」と呼ばれたい!!3LDKのプリンセス川嶋紀子さんの魅力のすべて

これは捏造レス

82:名無し投票@2/15(日)
09/02/17 15:42:15 U7avVwcI
>>81のソース元となった記事。

『3LDKのプリンセス 川嶋紀子さんの魅力のすべて』 P45-P46

「当初お二人の結婚に天皇陛下は反対されたんです」
 と、ある皇室関係者から聞かされたことがあった。
「というのは、陛下は川嶋家に対してご配慮しすぎたんです。皇后さまが苦労されたよ
うに紀子さんも苦労するのではないかと。しかし、皇后さまは礼宮さまの気持ちを尊重
されていて、お二人は相当悩まれたんですね」
 結論が出せないでいる両陛下に、猛然と反発したのが礼宮さま。その結果、
「紀子さんと一緒になれないなら、皇籍を離れてもいい」
 という“皇籍離脱”発言が飛び出すことになった。
------------------------------------------------
この『3LDKのプリンセス 川嶋紀子さんの魅力のすべて』という本は、
ブレーン出版という会社がご成婚前後の紀子さんブームに便乗して
出版したタレント本、アイドル本みたいな内容の本なんだけど、
デマ認定されている礼宮の皇籍離脱発言をさも事実であるかのように
書いている時点で、この記事の信憑性はゼロ。

83:名無し投票@2/15(日)
09/02/17 15:43:21 U7avVwcI
江森敬治『秋篠宮さま』P79-P82
応援してくれた両陛下①

「結婚の時、一部のマスコミで家内と結婚させてくれなければ私が皇籍を離脱すると
両親に迫ったという報道がありましたが、あれは完全に作った記事です。私は、知り
合った直後に家内を両親に紹介し、両親は付き合っていることは知っていましたし、
結婚するんだろうなということもおそらく分かっていたと思います。また、結婚する相
手が彼女だったらいいな、というふうに思っていたと思います」

 結婚が落ち着いてから、宮さまは私にこう語られた。今から思い返しても結婚前後
のマスコミの報道はすさまじく、また、記事は正確なものばかりとは限らなかった。知
人の中には細かい記事までチェックし、誤りがあれば宮さまに代わって出版社などに
抗議し訂正を求めた人もいたほどだった。

84:名無し投票@2/15(日)
09/02/17 15:43:56 U7avVwcI
江森敬治『秋篠宮さま』P79-P82
応援してくれた両陛下②

 宮さまは一九八五年四月、学習院大学構内の書店で入学したばかりの川嶋紀子さ
んと出会った。初対面であった。余談になるが、妃殿下は中学生のころから自宅近く
の学習院大学構内でジョギングを続けられていた。だから宮さまの同級生の間では
「ジョギングの美少女」として紀子さまの存在は有名だったという証言もある。私もある
いは宮さまも以前から妃殿下のことは薄々知っていたのではと思い、宮さまにそれと
なく尋ねたこともあったが、即座に否定された。書店での出会いが初対面であり、それ
も偶然だったと強調された。そして「あの時、出会わなければ、私はまだ独身だった可
能性が大いにあったと思う」と話された。まさに運命の出会いだったのだ。
 第一印象は、紀子さまの父親である川嶋辰彦・学習院大学教授とよく似ていると感
じられたようだ。そして紀子さまは殿下の主宰する自然文化研究会に入会。五月には
、宮さまは紀子さまを両陛下に紹介し、赤坂御所でテニスなどをして楽しむようになっ
た。両陛下は、天皇陛下がOBである馬術部の顧問を川嶋教授が務めていることから、
部の親睦会で何度か顔を合わせていた。


85:名無し投票@2/15(日)
09/02/17 15:44:29 U7avVwcI
江森敬治『秋篠宮さま』P79-P82
応援してくれた両陛下③

 宮さまによると、こうしたこともあり紀子さまと両陛下の出会いはとてもスムーズなも
のだったという。赤坂御所で一緒にテニスをやったり、その合間にお茶を飲んだりした
時も、紀子さまと両陛下の話す時間は多かったようだ。両陛下の心の中には宮さまか
ら結婚の意思を告白される前から、「彼女が結婚相手ならいいな」という気持ちが強か
ったようである。したがって宮さまが両陛下に結婚の意思を表示をした時にも、両陛下
が結婚に反対だとか難色を示されたということはまるでなかったという。
 宮さまは翌年の一九八六年六月二十六日に紀子さまにプロポーズをした。JR目白
駅近くの交差点で信号待ちをされていた時のことだった。翌日の二十七日にはプロポ
ーズのことを両陛下に話されたが、両陛下が驚かれた様子はまるでなかったという。
また、紀子さまからはプロポーズの時「少し考えさせてください」との返事があった。
 最後まで両陛下はお二人のことを温かく見守り、応援してくれたようだ。


86:名無し投票@2/15(日)
09/02/17 15:48:45 U7avVwcI
>>72
>菊池(野辺地)三弥

それって小和田家にとっては女系の女系のそのまた女系の傍流の
話だよね。
小和田家直系の4代前は不明。
母方・江頭家の4代前は中学校の小使。

父方の小和田家は3代前、母方の江頭家は4代前までしか先祖は
辿れない。

87:名無し投票@2/15(日)
09/02/17 20:08:13 wk2r01Ep
>>86
すまん、江頭家は佐賀だろう?
あの辺て未だにお寺さんとの仲が密接で
代々農家でも、江戸時代くらいまでなら楽に遡れるはず
なぜに4代前しか遡れない?

88:名無し投票@2/15(日)
09/02/17 22:32:52 9eoR5mS1
>>79
キコ妃のお祖父さんはアンマだっけ?

89:名無し投票@2/15(日)
09/02/17 22:57:39 wk2r01Ep
>>88
父方のお祖父様は、川嶋孝彦で内閣統計局長
母方のお祖父様は、杉本嘉助で満鉄総局副参事

URLリンク(kingendaikeizu.net)

なぜかこのサイト雅子さんはのっていない
皇后陛下は載っているのに

90:名無し投票@2/15(日)
09/02/17 23:09:30 U7avVwcI
>>88
アンマではなくて指圧師。

マサコ妃の高祖父は中学校の小使。
しかし、何故だか家系図では厚かましくも「佐賀藩士」と記載w

江頭嘉蔵以前の史料も菩提寺も判明しないため、
江頭家のルーツは不明。

91:名無し投票@2/15(日)
09/02/17 23:16:34 9eoR5mS1
>>90
揉み屋さんね。

92:名無し投票@2/15(日)
09/02/17 23:31:05 U7avVwcI
小和田優美子さんの曽祖父は小使で、
国際司法裁判所長の小和田恒さんの祖母は産婆。

産婆っていうのは、かつては部落民がする仕事だったんだよ。

93:名無し投票@2/15(日)
09/02/17 23:33:30 wk2r01Ep
>>90
上のサイトが間違ってるのか?

94:名無し投票@2/15(日)
09/02/17 23:39:27 9eoR5mS1
>>92
へぇ。アンマが部落っていうのは有名だけどね。
カワシマ教授もそっち系の講義してるんでしょ。
やっぱり・・・だからかな。

95:名無し投票@2/15(日)
09/02/17 23:45:39 U7avVwcI
>>93
満鉄総局副参事を務めた後、戦後日本に引き揚げてきて
脊椎矯正器具の特許を取って指圧療院を開いていた。
>>94
按摩が部落の仕事だとは聞いたこと無いね。
勝海舟の曽祖父は按摩で莫大な富を得て、それで御家人株
を買ったんだけど。
産婆がかつては賎しい職業とされ、部落民のする仕事であった
ことは有名だよ。
神戸の被差別部落出身の杉良太郎と懇意である小和田礼子
さんは杉サマとは同胞だから親しいの?

96:名無し投票@2/15(日)
09/02/17 23:47:59 wk2r01Ep
検索したらすぐに出た
URLリンク(messages.yahoo.co.jp)

>キコさんの母方の祖父はマッサージ師だって本当?

一方、紀子さまの母方のルーツは静岡市にある。母和代さん(47)の両親、杉本嘉助さん(75)栄子さん(74)夫妻の両親には
満鉄関係者が多い。栄子さんの外祖父、平野平左衛門氏は日本最初の鉄道が走った東京新橋―横浜間(明治5年開通)で明治12年、
技術習得を認められ、日本人第1号の蒸気機関車運転士に任じられた3人のひとり。平野氏はこのあと満鉄に移った。栄子さんの父、
服部 俊太郎氏は満鉄機関区長などを歴任した。
 嘉助さんも横浜工業専門学校(現横浜国大)を卒業後、満鉄入りし旧満州にあっ た8つの鉄道工場を管理する鉄道総局工作局工場課に
勤務した。敗戦後、せきつい 矯正器械を開発して特許をとり昭和30年代から一昨年まで静岡市内指圧療院を営 んでいた。
 嘉助さんの祖父、吉三郎氏のめいの夫に静岡県清水市長を務めた鈴木平一郎氏が いる。
毎日グラフ別冊『秋篠宮家創立 文仁親王殿下と紀子妃殿下』

結果 ウワサは嘘
指圧とマッサージは別。


っていうか、なんでこう紀子さんを貶めるような、明らかな中傷が多いんだ?
ちょっと調べればすぐに解るのに

97:奇矯屋風羅人 ◆SRGKIKYOUM
09/02/18 00:04:48 vwiC7yss
伝説に昇華しやすいのが弱点で、噂が素早く真実に転化されやすいから。

98:名無し投票@2/15(日)
09/02/18 00:15:53 8p8Xg4Ie
>>89
これみると、紀子さんも、三代前4代前は不明じゃんw


99:名無し投票@2/15(日)
09/02/18 00:56:22 oSP30eOi
>>98

 |  /l、 ??
 | (゚_ 。 7  ツンツン
 し⊂、 ~ヽ
    しf_, )~

100:名無し投票@2/15(日)
09/02/18 01:24:51 7oqhgxJG
地元で古墳が出たんだが、発掘時にあった天皇の血筋に関わる出土品、役人に全部持ってかれたそうな

他の出土品はレプリカを送ってくれたものの、なんで?

101:名無し投票@2/15(日)
09/02/18 07:56:33 /M/nAAJ3
>>98 三~四代前の素性が非部落なら間違いなく平民だからOKってことじゃないの?
川嶋家もそこまでしか詳細なことがたどれないとしたら
庶民レベルではそのへんまでが限界ラインなんじゃ?
分家して実家を離れたら菩提寺も別の寺にするし、
そこから探れることってせいぜい初代からその墓に埋葬された人のデータ。
Bの人は菩提にしてくれる寺も制限されてるから、
小和田家でも川嶋家でも本家の菩提寺がその手の寺でなければ違うでしょ。
調査員は先祖の墓石の戒名まで確認するらしいからね。
「蓄」とか「皮」とか人目でそれとわかる文字をいれて、
同じ菩提寺に埋まる一般人と差をつけてた寺も多いらしいから。

でも皇室とBにまつわる話って昔から絶対に消えないよね。

102:名無し投票@2/15(日)
09/02/18 12:21:59 rG3Tw5zn
『3LDKのプリンセス 川嶋紀子さんの魅力のすべて』は信憑性ゼロと言い切り、
宮内庁が正式にクレームをいれた『プリンセス マサコ』はソースとして
提示してくるアンチ。

指圧とマッサージは別と指圧>マッサージと言い張るアンチ。
医師からみたら指圧、マッサージ、按摩、整体師、どれも目糞鼻糞。

なんとか小和田家のルートはBに認定したくて必死なアンチ。
それ以外はつつきようがないパーフェクトな小和田家。

103:名無し投票@2/15(日)
09/02/18 15:00:41 2LDK4LV1
>>98>>101
川嶋家について
川嶋家は、江戸時代から和歌山市の本町8丁に居を構え、市内の府中、粟地区に広大
な土地や田畑を所有し、多くの小作人を抱え庄屋等の役職を多年務めた旧家である。
辰彦で9代目となる。川嶋家が所有していた土地は戦後の農地改革で没収されたが、同
市黒岩に川嶋家がかつて所有していた山が残っている。その山は、地元の人たちの間
で今も「川嶋山」と呼ばれている[3]。

川嶋家の菩提寺・専念寺の古河英雄住職によれば、そもそも川嶋家のルーツは、現在
の和歌山市を拠点に江戸時代から手広く海運業を営んだ有田屋であるという[4]。当主
は代々庄右衛門を世襲した。明治初期に当主となった6代目庄右衛門には跡継ぎとなる
男子がいなかったため、長女の志まの婿養子を探した。そこで目に留まったのが、和歌山
県有田郡安諦村(現・有田川町)の農家・松浦平吉の三男で、当時東京高等師範学校に
在学していた松浦力松であった。松浦力松は、庄右衛門から「庄」の一字をもらって1894年
(明治27年)3月21日に庄一郎と改名し、3月25日に庄右衛門の長女・志まと結婚した。
URLリンク(ja.wikipedia.org)
---------------------------------------------
和歌山市はアメリカ軍の大空襲を受けて市内の90%が消失したが、
川嶋家の菩提寺には先祖代々の墓があり過去帳も残っている。

小和田家の本籍地である村上市は空襲も受けなかったのに、金吉以前
の先祖は判らない。
佐賀市の木原地区も戦災は受けなかったのに、江頭嘉蔵の素性やそれ
以前の家系は判らない。

一体どういうこっちゃ?

104:名無し投票@2/15(日)
09/02/18 15:16:53 2LDK4LV1
>>102
『プリンセス マサコ』はウソ、デタラメばかりのトンデモ本だけど、全てがウソで
あるとも言い切れない。
中には本当の内容もある。
『3LDKのプリンセス 川嶋紀子さんの魅力のすべて』にも正しい情報はあるが、
今上が川嶋紀子さんの入内に反対したというのはウソ。
今上は昭和60年の12月に葉山の海岸で礼宮から紀子さんを紹介した直後に、
東宮職の幹部に2人の交際を前向きに検討するように指示している。
皇籍離脱発言にしても全く事実無根のデマ記事であったことが判明している。

国家資格では「按摩、マッサージ、針師、鍼灸師」と一括りにされるが、その
技法はまるで違っているし、整体や指圧関係者は按摩やマッサージと混同され
るのを嫌って別の資格制度を出している団体もある。

江頭嘉蔵の出自に関しては不明なのに、系図では「佐賀藩士」とするのは
明らかに虚偽の記載です。

嫁入り支度のお金が不安で最初雅子さんの入内に慎重だったのは小和田家も
同じ(特に祖父の小和田毅夫氏)。
小和田家の家系に難ありとして猛反対したのは当時の宮内庁長官・富田朝彦氏。
タイムマシーンに乗って過去に遡り、改めなくてはならない点が多いと宮内庁
に認定されたのは小和田家の方。

105:名無し投票@2/15(日)
09/02/18 17:28:10 YP6VfYpH
小和田家の家系に難あると猛反対したというソースは?

祖父がチッソ社長だったから反対の声があったというのと
家系に難ありがいつの間にかミックスされてるんだけど。

松浦平吉さんて祖先たどれんの?
松浦家の家系図みてみたいな。

106:名無し投票@2/15(日)
09/02/18 17:32:40 2LDK4LV1
小田桐誠 『消えたお妃候補たち』
URLリンク(www.amazon.co.jp)
 指摘されたいくつかの問題点
 
 宮内庁は小和田について弁護士や興信所を通じ、直系三代に汚点がないか、両
親の評判、本人の健康状態などを徹底的に調べ、独自にチェックしたといわれる。
その結果は首相官邸にも報告されていたという。報告にはいくつかの問題点が指
摘されていた。
 一つは八七(昭和六十二)年暮れから八八(昭和六十三)年初めに発売された
一部週刊誌が指摘していたように、小和田雅子の母方の祖父・江頭豊が、日本興
業銀行の銀行マンから転じたとはいえ、代表的な公害企業・チッソの社長や会長
を務めていたこと。「お妃とともに全国を回らなければならぬ立場にある浩宮さ
まの訪問先で、水俣病の患者のムシロ旗が立つようなことがあっては」と宮内庁
幹部は懸念したのである。
 二つめは、三代さかのぼった中に軍人がいること。三つめは、身長が浩宮より
小和田雅子のほうが高くなることへの危惧。四つめは、まったく取るに足りない
ことだが、彼女の妹が双子であり、もし彼女が双子を生んだ場合、皇位継承の問
題が残ること。五つめは、皇室に入った女性で、仕事をした経験のある人はいな
い-というものだった。母方の親戚に江口朴郎東大名誉教授(故人)のような左
翼系の学者がいることをマイナス要因にあげる者もいたという。「特にチッソの
問題は、宮内庁のいろいろな意向を覆い隠す格好の材料だった」(宮内庁担当記
者D)といわれる。宮内庁幹部には、小和田雅子にこだわらなくても、他に良い女
性がいるだろう、との楽観論もあった。

107:名無し投票@2/15(日)
09/02/18 17:33:13 YP6VfYpH
・wikipediaで小和田家の系譜について改竄している奴の投稿記録
・編集合戦になってた部分は川嶋家が「3LDKか3DKか」

--------------------------------------------------------------------------------

アンチ皇室ヲチスレ part287

949 :名無し草 [sage] :2008/10/23(木) 08:58:12
【小和田】雅子さまのご先祖【江頭】
スレリンク(history板)

912 :日本@名無史さん [sage] :2008/10/12(日) 23:17:31
wikipediaで小和田家の系譜について改竄している奴の投稿記録を
見てみ。
どういう思想傾向の持ち主だか一目瞭然だよ。
URLリンク(ja.wikipedia.org)

951 :名無し草 [sage] :2008/10/23(木) 08:59:16
>>949つづき
URLリンク(ja.wikipedia.org)
* 2008年9月24日 (水) 06:16 (履歴) (差分) 文仁親王妃紀子 ?
* 2008年9月22日 (月) 12:30 (履歴) (差分) 文仁親王妃紀子 ? (→結婚以前)
* 2008年9月22日 (月) 12:27 (履歴) (差分) 文仁親王妃紀子 ? (→逸話)
* 2008年9月20日 (土) 16:01 (履歴) (差分) 文仁親王妃紀子 ? (→逸話)
* 2008年9月20日 (土) 15:58 (履歴) (差分) 文仁親王妃紀子 ? (→結婚以前)
* 2008年9月17日 (水) 00:11 (履歴) (差分) 小和田恆 ? (→系譜) (最新)
* 2008年9月16日 (火) 22:26 (履歴) (差分) 小和田恆 ? (→家族・親族)
* 2008年9月16日 (火) 22:23 (履歴) (差分) 小和田恆 ? (→経歴)
* 2008年9月16日 (火) 22:08 (履歴) (差分) 小和田恆 ? (→外部リンク)
* 2008年9月16日 (火) 10:43 (履歴) (差分) 佳子内親王 ?
* 2008年9月16日 (火) 10:36 (履歴) (差分) 悠仁親王 ?
* 2008年9月16日 (火) 10:29 (履歴) (差分) 佳子内親王 ? (→備考)
* 2008年9月16日 (火) 10:26 (履歴) (差分) 佳子内親王 ? (→逸話)
* 2008年9月11日 (木) 12:00 (履歴) (差分) 文仁親王妃紀子 ? (→秋篠宮妃時代)
* 2008年9月11日 (木) 11:59 (履歴) (差分) 文仁親王妃紀子 ? (→逸話)
* 2008年8月27日 (水) 10:57 (履歴) (差分) 文仁親王妃紀子 ? (→逸話)
* 2008年8月27日 (水) 10:53 (履歴) (差分) 文仁親王妃紀子 ?
(→秋篠宮妃時代: 宮中祭祀に参加するのは今上天皇・皇后・東宮のみ。
東宮妃、および各宮家の当主・妻子は参加しない。)
* 2008年8月27日 (水) 10:49 (履歴) (差分) 文仁親王妃紀子 ? (→結婚以前)
* 2008年8月2日 (土) 16:09 (履歴) (差分) 秋篠宮文仁親王 ? (→青年時代)
* 2008年6月28日 (土) 04:05 (履歴) (差分) 文仁親王妃紀子 ?
(ゴシップ的な記事の削除→Wikipedia:ウィキペディアは何でないか)

108:名無し投票@2/15(日)
09/02/18 17:34:32 YP6VfYpH
952 :名無し草 [sage] :2008/10/23(木) 09:01:49
>>951つづき

IPアドレス 221.113.2.26
ホスト名 p002026.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
IPアドレス割当国 日本 ( jp )
市外局番 該当なし
接続回線 光
都道府県 東京都


アンチ皇室ヲチスレ part28

213 :名無し草 [sage] :2008/10/23(木) 20:20:27
前スレ
アンチ皇室ヲチスレ part287
スレリンク(nanmin板:949番)
スレリンク(nanmin板:951番)

編集合戦になってた部分は3LDKか3DKなんだね
資料があった
左下側の6畳が紀子さんの部屋(当時)
URLリンク(tnpt.net)
当時は、3LDKと報道された
キッチンとトイレの間の空間まで入れて8畳みたいなんで
不動産業界での基準では3DKかな

109:名無し投票@2/15(日)
09/02/18 17:36:25 YP6VfYpH
>>106 4代先の出自が怪しいとかで難ありとされたわけではないのはよくわかった。

110:名無し投票@2/15(日)
09/02/18 17:40:43 2LDK4LV1
>>108
実質的には3DKだろうけど、マスコミでは3LDKのプリンセスと
呼ばれて同名の本まで出版されているんだから3LDKのプリンセス
だろうね。

雅子妃は6畳、4畳半の2DKの官舎に住んでいたから2DKのプリンセス
になるのか。

あと、wikipediaでは紀子妃の愛読者やプロテスタント信者であるとかの
捏造編集も行っている。

111:名無し投票@2/15(日)
09/02/18 17:42:45 YP6VfYpH
>>106 >>五つめは、皇室に入った女性で、仕事をした経験のある人はいな
い-というものだった。

高円宮久子妃は翻訳会社に務めた経験ある。
いったん社会人になってからまたイギリスに留学して、
帰国後通訳の仕事してて宮様と知り合った。

112:名無し投票@2/15(日)
09/02/18 17:42:56 2LDK4LV1
>>109
そもそも小和田家は3代前の金吉までしか分からないから、
4代前の血筋が問題にされるわけがないw

113:名無し投票@2/15(日)
09/02/18 17:48:01 2LDK4LV1
>>105
清水町文化(第十三号) 一九九〇年

連載 歴史文化探訪シリーズ(第十三回)     教育家 川嶋庄一郎翁と紀子さん
                                          前 嶋 高 藏

 川嶋庄一郎翁(幼名力松)は、明治三年(一八七〇)四月十四日有田郡山保田組板
尾村、農業父平吉、母かつの三男として出生した。
 松浦家は、清水町大字板尾寺原四二五、板尾の菩提所徳善寺の隣にあって、古くは
屋号をふどう(不動)江戸期にはかど(門)とよび、明治四年頃平民の苗字使用許可に際
し松浦姓を名乗る。

翁は、昭和二十二年二月十二日七十八歳の天寿をもって逝去された。
板尾徳善寺の過去帳によれば、法名、教善院積空聖道居士。
-------------------------------------------
前嶋高蔵さんという人物は、清水町町議で清水町文化協会の副会長で
郷土史研究家もある。
前嶋氏は清水町に残っている古文書にも精通しているし、松浦家の菩提寺
である徳善寺にある松浦家の過去帳も調べている。
松浦家の江戸時代以前からの系譜が判っているんでしょうな。
おそらくは400年くらい前までは遡れるはずだよ。

114:名無し投票@2/15(日)
09/02/18 17:48:03 YP6VfYpH
で、松浦平吉さんの先祖の家系は?



115:名無し投票@2/15(日)
09/02/18 17:50:28 YP6VfYpH
松浦家の江戸時代以前からの系譜が判っているんでしょうな。
おそらくは400年くらい前までは遡れるはずだよ。

~でしょうな。
~はずだよ。

これは貴方の臆測。
はっきり証明できる家系図は?

公にできないから封印ですか?

調べたけどわからないので不詳ですか?

金吉さんと変わらんね。


116:名無し投票@2/15(日)
09/02/18 17:51:35 2LDK4LV1
>>114
>>113に書かれているように江戸時代以前から続く農家。

で、小和田家の3代前から先の家系は?
江頭家の4代前から先の家系と出自は?

117:名無し投票@2/15(日)
09/02/18 17:54:17 YP6VfYpH
ようするに松浦家の平吉さんの先代以降は不詳と。
両親の名前も墓もわからんの?

小和田家と江頭家とかわらんのねw



118:名無し投票@2/15(日)
09/02/18 17:59:30 2LDK4LV1
>>115
前嶋高蔵氏が菩提寺の徳善寺に行って実際過去帳を調べて
いるんだから公開できないも何もw

松浦家の過去帳に記されている先祖の名前をつなげていけば、

(例)板尾村 権兵―五郎兵衛―弥助―治五兵―(略)―平吉

というふうにざっと十数代つながる家系図なんて即座に出来上がる。
小和田家みたいに関係のない人物を無理やりコジつけた捏造家系図
を作成するような苦労も無しにね。



119:名無し投票@2/15(日)
09/02/18 18:02:16 YP6VfYpH
>>118 だからその家系図をみたいんだけど、どこにはってあるの?



120:名無し投票@2/15(日)
09/02/18 18:04:38 YP6VfYpH
>>小和田家みたいに関係のない人物を無理やりコジつけた捏造家系図

これが事実だと証明するソースは?
それがあるなら正式に小和田家に抗議したらどうだい?

だいたい関係のない人物が他人の家系にどうやって入り込むのか
その方法も伝授してもらいたいのだが。

121:名無し投票@2/15(日)
09/02/18 18:10:12 2LDK4LV1
>>117>>119
板尾にある徳善寺にいけば先祖代々の名前を記した過去帳
が残っているから、平吉以前の先祖の名前も判るよ。

系譜
小和田家は江戸時代、越後村上藩(現・新潟県村上市)の下級武士だった[4]。村上
市に残る記録では、小和田姓の藩士名が散見される。それらの者は、下横目、同心、
郡方懸りといった役であった。 しかし、それら小和田姓の藩士と恆の父祖との繋がり
は明確にされていない[5]。その理由のひとつに、対外的に公表されている小和田家
の系図が恆の祖父である金吉以降のものであると言う事実が挙げられる。

一般的には、金吉は村上藩の下級武士である小和田匡利という人物の三男とする説
が有力である[要出典]。 早世した金吉の職業が税務署員という公務員であり、また、
村上藩「種川の制」の収益で創設された旧藩士子弟の育英制度の一員であったこと、下
級武士の名簿でもある村上鮭産育養所の漁業権者名簿に金吉の名前が明記されてい
る[6]こと、恆の父の穀夫が 国立の高等教育機関であり、広島大学教育学部の前身で
ある広島高等師範学校に進学しているという事実からもこの説が妥当ではないかと考え
られている[要出典] 。
URLリンク(ja.wikipedia.org)
----------------------------------------
新平民でも高等師範学校に進学できたことは検証の結果既に明らかに
なっている。
「対外的に公表されている小和田家の系図」だというのなら、対外的には公表されて
いない家系図が存在するという出典を明記すべき。

金吉が匡利の三男だというのなら、長兄と次兄の名も判るよな?
金吉の兄弟と母親の名前を教えて。


122:名無し投票@2/15(日)
09/02/18 18:17:37 YP6VfYpH
>>121 過去帳にあるだろう、という臆測なのねw

それで>>121の既出ネタで、小和田家の家系捏造のことが事実だと証明できるとw

それならすぐに小和田家を訴えたら?勝てるんじゃないの。

でも金吉が明らかに匡利とは血のつながらない赤の他人の新平民だと
証明できないとね。その証拠は?

123:名無し投票@2/15(日)
09/02/18 18:20:14 YP6VfYpH
そうそう、それから小和田家親族も多数生きていたろうに、
どうやって赤の他人の新平民が小和田金吉となって、
家系を乗っ取ったれたのか、その方法も教えてくれ。

124:名無し投票@2/15(日)
09/02/18 18:22:33 2LDK4LV1
>>122
高等師範学校に進学できた=士族の出身だということにはならないという
判りやすい例で、新平民でも高等師範学校に進んだことをあげただけな
んだが。

何も金吉が新平民であるとは言ってないしw

それで、金吉の父親が匡利(道蔵)であるという証拠は?

小和田家と江頭家の「対外的には公表されていない家系図」はどこに
あるの?

125:名無し投票@2/15(日)
09/02/18 18:34:00 YP6VfYpH
>>124 俺は一言も小和田家の話はしてない。
話を勝手にすり替えるなよな。

君の主張に矛盾を感じてるから聞いてるんだよ。

金吉は新平民だったかもしれない。
平民だったかもしれない。
だが何の血のつながりもない赤の他人がどうやって小和田家の家系に入り込むんだ?

小和田家は捏造家系図、と言い切ったのだから確固たる証拠があるのだろう?

それが知りたいんだよ。
だってそうじゃないか。
戸籍制度が整った明治期でどうやってそんなことができるのか
ぜひ知りたいよ。他の小和田家親族がなんの違和感ももたず、
菩提寺にもわからずどうやってやったのか、知りたいね。


126:名無し投票@2/15(日)
09/02/18 20:23:17 oSP30eOi
庄屋の家に、氏素性の解らない人間が入れると思っているバカ発見
今よりもっと身分制度がはっきりしていた時代
婚姻にしろ、養子縁組にしろ、家同士の格が釣り合わなければありえなかった

127:名無し投票@2/15(日)
09/02/18 22:55:23 Z3wNeVUH
>>126
田舎の身分制度がそんなにはっきりしてたと思う?
明治天皇すり替え説があるくらいなんだから、
和歌山の田舎の庄屋の家にどこの馬の骨が入ったってわかるもんかw
自分はこういう者ですって名乗りをあげれば、それが信用されちゃうんだよ。

128:名無し投票@2/15(日)
09/02/18 23:11:42 2LDK4LV1
>>127
お前は何も知らないアホだw
和歌山の差別意識の強さを知らんな。
戦前の融和運動家の岡本弥は和歌山県伊都郡の被差別部落の
庄屋で大地主の子として生まれた。
父は大地主で郡会議員も務める有力者だったが、郡内でたった
一つしかない高等小学校に入学しようとした時、被差別部落の子が
入学した例はないという理由で入学を断られた。
それくらい差別意識の強いところなんだよ。

岡本 弥  (オカモト ワタル)

明治9(1876).12.25~昭和30(1955).3.8 明治から昭和期にかけての融和
運動家。和歌山県伊都郡端場村の被差別部落の地主の子として生まれ
る。高等小学校入学に一般村から反対され、独学で勉強、明治26(1893)
年、青年進徳会を結成、村内の道路改修や拡幅、井戸、下水道、便所な
どの環境改善に尽力。私財をなげうって「光風文庫」を設立し啓発活動に
も務めた。

(和歌山県 伊都郡)
URLリンク(www.mlit.go.jp)

129:名無し投票@2/15(日)
09/02/18 23:16:29 2LDK4LV1
松浦家は江戸時代前、おそらくは慶長年間くらいから有田郡の山保田組
で農を営んできた家で、菩提寺に代々の先祖の名を記した過去帳も残って
いる。

一方、村上藩の下級武士であったといわれる小和田家の先祖は3代前まで
しか判らない。
母方の江頭家も4代前までしか判らない、

どっちが素性のよく判らない馬の骨だろう?

130:名無し投票@2/15(日)
09/02/18 23:24:25 oSP30eOi
>>127
おまえ、ほんと日本人か?
今だって、ちょっと田舎にいけば、○○さんの嫁さんは、■■さんのふた従姉妹でとか知ってる
その■■さんは、△△さんのお母さんの実家でというふうに、家どうしで繋がっている
勝手に名乗りをげても、家どうしの縁組みは、きちんと調べが行く
大体縁組みは、今みたいにさっさと決まるわけではなく、事前に下見にいったり
評判を周りから聞いたりして、決まっていた
その役割が、仲人で、縁組みがまとまったあとも、何かと世話を焼いた
一昔前の日本の結婚は、ごとんどこの形、だから、家どうしの格が違う縁組みは、ほとんどなかった


まあ、明治天皇のすり替え説出してくる辺り、どれだけ説明しても聞く気はないんだろう
普通の人は、あの家系図みて、その上が不明とは思わない
悔しかったら、三代前がきちんと繋がる(年齢的にも)小和田家の家系図出してくるんだね

131:名無し投票@2/15(日)
09/02/19 09:34:05 u1oZHHwP
幕末の頃の下級武士なんて貧乏なんてもんじゃない。
最小限生活を保障してくれた禄がなくなり、武士の娘の身売り、
芸者になったもの、裕福な商人の妾奉公なんてあったくらいだ。
明治期の小和田家の先祖が貧乏なのはむしろ当たり前なんだがな。

ところで松浦家の出自は相変わらずID:2LDK4LV1の臆測どまり。
怪しいよな~川嶋家。紀子入内の頃からずっと松浦家の出自のことは
言われてきたのにいまだにシロを証明する証拠ってでてこない。
エタ庄屋みたいな土地持ちの部落民もいたし、過去帳だって
檀家の寺ならエタだろうと先祖はきっちり書いてあるわけだから、
過去帳があるから、出自が潔白だ、ということにはならんのだが。

132:名無し投票@2/15(日)
09/02/19 14:31:32 ncxeh4hv
だから、過去張うpしてよ~。
江戸時代までたどれるって?
出して出して!

133:名無し投票@2/15(日)
09/02/19 15:47:11 puQHIolT
小和田家も川嶋家も部落ではないと思う
部落は田舎ほど忌み嫌われていたし、
婚姻ならまだしも養子縁組によって部落が入りこむことはそうそうない

3代前がたどれない、というのば、
皇室が求めたのがそこまでだったからでは?
出自に関しては過去帳か公式家系図が出てこないと検証出来ない

134:名無し投票@2/15(日)
09/02/19 16:06:27 uVpvpoF8
>>131
幕末どころか江戸時代を通じて下級武士なんかは皆極貧家庭
だろ。

-----------------------------------
川嶋庄一郎氏は、明治3年生まれ、幼名・松浦力松
父・松浦平吉、母・かつの三男、長兄は庄太郎、次兄は虎松
古くは屋号を(ふどう)不動、江戸期は(かど)門と呼び、明治4年頃、平民
の苗字使用許可に際し、松浦姓を名乗る

小和田金吉氏同様、幼くして父を失ったが、金吉氏と違い恵まれていたの
は、ふたりの兄が家を守り、学問の道に進む彼を支えてくれたこと
師範学校に進むと、あちこちに赴任する
家に母をひとり残して、京都・富山・滋賀・佐賀・東京と転勤することは難し
かったと思われる
松浦家の三兄弟は、父亡き後子供らを育てた母かつをとても大事にしてい
たとあるのでなおさらだろう

金吉氏は慶応3年あるいは明治元年生まれ
力松氏と同じく三男と言われているが、二人の兄は早世していたようす

URLリンク(sakura.45.kg)
-----------------------------------------
小和田家も江頭家も文献では貧しい家庭の出、山屋家にいたっては
郷土史研究家がはっきりと「極貧」であったと言っている。

135:名無し投票@2/15(日)
09/02/19 16:07:29 uVpvpoF8
藤井茂『山屋他人 ある海軍大将の生涯』

   系譜は代々微禄士族
 山屋他人の思い出を語る人の中には、非常に貧しい家庭に育ったことを共通してあ
げる傾向がある。確かにそうだったらしく、南部藩士の履歴や封禄をまとめた「御番割
遠近帳」では、他人の祖父権八の禄高は、たった二人扶持である。
 藩士としては最下級である。
 役職は年間を通じて「お盆の数日間、寺の灯ろうの火の番をした」だけというから、ほ
とんど職らしい職を与えられなかったといえるだろう。
「御扶持方帳」によると、天保十一年(一八四〇年)の盛岡藩の封禄で一人扶持という
のは、だいたい馬に三駄分つまり米六俵である。つまり山屋権八は年間米十二俵分と
なり、月一俵の割合になる。一俵は三斗七升だから、一日一升余りとなり、極貧の部
類に入るだろう。


136:名無し投票@2/15(日)
09/02/19 16:08:11 uVpvpoF8
藤井茂『山屋他人 ある海軍大将の生涯』

   系譜は代々微禄士族

 山屋他人の思い出を語る人の中には、非常に貧しい家庭に育ったことを共通してあ
げる傾向がある。確かにそうだったらしく、南部藩士の履歴や封禄をまとめた「御番割
遠近帳」では、他人の祖父権八の禄高は、たった二人扶持である。
 藩士としては最下級である。
 役職は年間を通じて「お盆の数日間、寺の灯ろうの火の番をした」だけというから、ほ
とんど職らしい職を与えられなかったといえるだろう。
「御扶持方帳」によると、天保十一年(一八四〇年)の盛岡藩の封禄で一人扶持という
のは、だいたい馬に三駄分つまり米六俵である。つまり山屋権八は年間米十二俵分と
なり、月一俵の割合になる。一俵は三斗七升だから、一日一升余りとなり、極貧の部
類に入るだろう。
 ちなみに、郷土史家で盛岡タイムス総務部長の工藤利悦氏の教示で「参考諸家系
図」により作成した山屋家の家系図を揚げておく。案の定、一番最初に位置している十
代前の山屋三右衛門の禄高は、四駄二人扶持だった。江戸時代初期の南部重信公
のとき召し出されたというが、戦国時代、盛岡の南に独立した勢力をもっていた稗貫氏
の支族亀ヶ森氏が南部藩の傘下に入り山屋と改名したようだ。


137:名無し投票@2/15(日)
09/02/19 16:09:19 uVpvpoF8
藤井茂『山屋他人 ある海軍大将の生涯』

 南部藩にとっては後から入った外様だったので、最初から家禄を削られやすい弱い
立場にあったといえる。当時、足軽でも六駄二人扶持だったから、山屋家の先祖は、
それよりも禄をもらえない下級も下級の武士として出発を運命づけられたのである。
 その後も山屋家の石高が上昇する気運は一向に見えない。むしろ少しずつながら
下降していった。祖父権八のときには四駄も取れて、たった二人扶持となってしまっ
た。山屋家は江戸時代を通じ最下級の武士として終始一貫したといえるだろう。
 極貧のほかに、山屋家の家系をたどって判明したことがある。それは、際立って女
性の家系だったため、非常に多くの養子が入っていることである。家系図には記さな
かったが、これに書ききれないほど多い。そのためか、比較的おとなしい男性が入っ
たようで、それが連綿として優しく女性的な家系を築き上げたようだ。
 この傾向が山屋家の知的水準を比較的よくしたように私には思われる。武士は文
武両道といっても、江戸時代を通じて戦いらしい戦いは、ほぼ皆無だった。その上、
既に記したように、山屋家は仕事らしい仕事を与えられない地位に甘んじなければな
らなかったという実情があった。
 しかしそのことは、ある意味では、ゆっくりと時間が与えられるということになり、貧し
いながらも次第に教養を高めることができたのではなかったか。
 山屋他人は、こうした貧しい女性的な家系の長男として慶応二年(一八六六年)三
月四日、盛岡城下に生まれたのである。それは日本が明治という新しい時代に突入
する二年前、風雲急を告げるときだった。

138:名無し投票@2/15(日)
09/02/19 16:28:45 uVpvpoF8
山屋家は江戸時代には足軽よりも低い家禄で、最後には二人扶持という
家臣としては最下級の禄となった。

この二人扶持という禄は一般の農民よりもずっと少ない、貧農あるいは
それ以下の貧しい生活であったろう。

川口素生「小和田家の歴史」p111
山屋家のこの二人扶持という俸禄は、藩士としてはもっとも低く、一家が
生活していくのもやっとであったものと思われる。

小和田家は、村上藩の下級武士ではなかったかと推測されているが、

しかし、小和田姓の由来や発祥地、江戸時代中期よりも前の動向について
は系図や史料が残っていないため、明らかにはなっていない。小和田家は
村上藩の町同心や下横目、足軽などという職についており、俸禄は石高で
はなく、二人扶持三両などといったわずかな金穀を藩から直接支給されて
いた。これらの職は藩の枢機に参画するような要職ではない。
                        川口素生「小和田家の歴史」p11

小和田家の俸禄は二人扶持三両程度。
石高に治すと5、6石だから山屋家よりは多少はマシだが、その生活水準は
一般農民や町人よりも下であったろう。


139:名無し投票@2/15(日)
09/02/19 16:34:15 uVpvpoF8
秋篠宮と眞子、タイ経由でマダガスカル私的旅行
URLリンク(unkar.jp)
162 :名無しさんの主張[]:2007/08/20(月) 11:05:29 ID:vV45K6aO
■華麗なる川島一族の家系図

         松浦平吉(童話)
            |
       (童話)川島庄一郎(養子 川島家へ)
            |
            |   池上四郎
            |      |
       (童話)川島孝彦=紀子(いとこ)
               |
       (童話)杉本和代=辰彦(童話)
               |
        秋篠宮=紀子(きこ)童話
-------------------------------------------------------
※川嶋家ルーツの松浦平吉氏の家と墓地は地元では周知の童話地区にあるとのこと。
※杉本和代氏と川島辰彦氏は部落解放同盟の研究会で知り合い結婚に至ったとのこと。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
↑ 既女板のテンプレだがこれも真実味はないの?

165 :名無しさんの主張[sage]:2007/08/20(月) 13:12:11 ID:???
>>163の系図を見ると松浦平吉の事は書かれてないね。
平吉の子供庄一郎〈曽祖父)は川島家へ養子。
地区を出て養子になっているのなら部落出身者とは問われにくい。

ただ実際松浦平吉の墓が童話地区にあるかだが。

140:名無し投票@2/15(日)
09/02/19 16:37:09 uVpvpoF8
結論から言えば川嶋庄一郎の出身地である清水町(現有田川町)には
被差別部落は存在しないし、過去近世や中世にまで遡っても被差別部落
が存在したこともない。

辰彦氏と和代さんが知り合ったのは大学生の主催するパーティーであった
事も検証済みだ。

141:名無し投票@2/15(日)
09/02/19 16:46:28 uVpvpoF8
家に母をひとり残して、京都・富山・滋賀・佐賀・東京と転勤することは難し
かったと思われる
松浦家の三兄弟は、父亡き後子供らを育てた母かつをとても大事にしてい
たとあるのでなおさらだろう

金吉氏は慶応3年あるいは明治元年生まれ
力松氏と同じく三男と言われているが、二人の兄は早世していたようす
URLリンク(sakura.45.kg)
-----------------------------------
川嶋庄一郎は明治27年に川嶋庄右衛門の長女・志まと結婚して養子入り
しているから松浦家の人間ではない。
母のかつの世話をしたのは兄の庄太郎だろう。

戦前は師範学校、陸軍兵学校、海軍兵学校は給費制だから授業料はかから
なかった。
だから、幼くして父を亡くして貧しい生活を強いられた松浦力松少年も和歌山
師範学校から東京高等師範学校に進学できて、極貧家庭出身の山屋他人、
江頭安太郎少年も海軍兵学校に進んでエリート軍人の道を進み、同じく小和田
毅夫少年も広島高等師範学校に進んで教育者の道を歩むことができた。

142:名無し投票@2/15(日)
09/02/19 16:54:57 f7qUFIVB
まだ、家系図の事を言ってるの?
どうしても家系図を辿れるところまで辿りたいなら、戸籍を追いかけるしか無いんだけど、第三者では改製原戸籍は取れないよ。
つまり第三者には公表されている以上の事は分からない。
それを信じるも信じないも、それぞれが勝手に思っていればいいじゃない。

143:名無し投票@2/15(日)
09/02/19 16:54:58 uVpvpoF8
金吉氏は慶応3年あるいは明治元年生まれ
力松氏と同じく三男と言われているが、二人の兄は早世していたようす
URLリンク(sakura.45.kg)
-----------------------------------
[編集] 生涯
1870年(明治3年)4月14日、和歌山県有田郡山保田組板尾村(現・有田川町)
の農業松浦平吉( - 1876年)の三男として生れた。幼名は力松。母は、かつ(1
838年10月13日 - 1930年3月11日)、長兄は庄太郎(1861年12月25日 - 1954
年8月27日)、次兄は虎松(1865年12月9日 - )である。
URLリンク(ja.wikipedia.org)

川嶋庄一郎の2人の兄や両親の名前、生没年、菩提寺の存在も明らかになっていて、
過去帳も残っている。
全て推測の域を出ないのは小和田、江頭家の方なんだよね。
金吉の早世した2人の兄の名を問われても誰一人答えられなかった。
金吉の父は誰なのか?道蔵であるとの説を唱える人もいれば、兵五郎
であったとの説を唱える人もいる。
小和田家の過去帳は残っていないし、江頭家は菩提寺の存在すら判明していない。

144:名無し投票@2/15(日)
09/02/19 16:58:41 uVpvpoF8
>>131
>檀家の寺ならエタだろうと先祖はきっちり書いてあるわけだから、
>過去帳があるから、出自が潔白だ、ということにはならんのだが。

小和田家には過去帳も残っていないし、江頭家は菩提寺がどこで
あったかも分らないのだが?
小和田家、江頭家はエタ以下か?

そういえば、雅子妃の入内前に小和田家は被差別部落出身で
母方江頭家のルーツは賎民身分の水軍であったとの噂があった
けど。

145:名無し投票@2/15(日)
09/02/19 17:43:27 f7qUFIVB
URLリンク(www.sotozen-net.or.jp)

曹洞宗では、過去帳の閲覧をさせないみたいだけど、他の宗派はどうなのかな。
戸籍も駄目、過去帳も駄目となれば、検証しようがないと思うんだけど。

146:名無し投票@2/15(日)
09/02/19 17:50:10 uVpvpoF8
>>145
そもそも小和田家と江頭家の菩提寺ってどこよ?

小和田金吉の2人の兄は早世したっていうけど、そんな話は
どこに書いてあるの?

147:名無し投票@2/15(日)
09/02/19 18:08:08 f7qUFIVB
>>146
知らないよ。
家系図にはちっとも関心無くて、検証行為に関心があるだけだから。

148:名無し投票@2/15(日)
09/02/19 18:27:58 uVpvpoF8
>>147
検証サイトを名乗るんなら、金吉の2人の兄が早世した、とどの文献に
書かれているのか出典元を明記して欲しいね。

金吉氏は慶応3年あるいは明治元年生まれ
力松氏と同じく三男と言われているが、二人の兄は早世していたようす
URLリンク(sakura.45.kg)


149:名無し投票@2/15(日)
09/02/19 18:42:43 f7qUFIVB
>>148
管理人に言ってみたら?
2chのスレから抜粋してコピペしてるだけのようだから、出典まで知ってるか分からないけど。

150:名無し投票@2/15(日)
09/02/19 19:27:24 Ss9AwOtJ
>>144 ないんじゃなくて、菩提寺が戦火で焼失したために過去帳が焼けたんだ。

「藩政一覧」という明治初年に実施された最初の国勢調査によると、
各藩とも士農工商よりさらに詳細に身分を区分し、各身分の人口を
一人ももらさず明記している。例えば
士族、卒族、陪臣、社人、寺人、、盲僧、山伏、茶筅、非人、穢多と
わけた藩もあれば、士族、卒族、倍卒、郷士、社家、山伏、盲僧、と
わけた藩もあって、部落民は「郷士」にカウントされてる。
でも壬申戸籍には、どこの門徒か寺の名前を記す欄があって、
その寺が穢寺か否かで出自がわかるようにしてあるので、
身分が郷士とあっても、調べたら一発で出自がわかる仕組みになってた。
江戸期までの宗門改帳が転機されてたから逃れようがない。

壬申戸籍は上記の理由で身元調査の信憑性の高い史料として重宝されたのだが、
人権侵害だという声から政府は1968年壬申戸籍の閲覧を禁止したけど、
壬申戸籍は法務局によって保管されてる。
つまり、金吉さんのことも、松浦平吉さんもしかるべき立場なら
調べようと思えば調べることはできるってこと。
宮内庁ならできるんじゃないか?
というか、やったんだと思うけどね。
その結果が皇太子妃としてGOサインがでたんだろう。
川嶋家も同様に調査したと思う。先祖が全て皇族、華族にいきつく
家系でなければ絶対やるでしょうね、そういうはっきりしたソースが
法務局にあるんだから。
民間の調査機関の報告書である程度先祖が特定できたら、あとはピンポイントで
不詳人物の出自を調べるのは簡単。白黒はっきりさせればいいだけのことだ。

ちなみに壬申戸籍の身分の割合比率は
皇族 0.0000009%、華族 0.0081%、士族 5.91%、平民 93.00%
で元部落は平民の中でわずか1.73%。
当時の日本では圧倒的に平民身分が多かったのだから、
調べ上げたら先祖が部落民という可能性はかな~り低いと思うけどね。

151:名無し投票@2/15(日)
09/02/19 22:10:11 Jk+rjX0G
>>150
で、小和田家と、江頭家の菩提寺ってどこだ?


あと遅レスだが、雅子妃入内くらいで、新潟の小和田家の人達と
小和田恒が会った記事を読んだ事がある
みなさん初対面で、全然行き来もなく、そういう親戚がいたなんて初めて聞いたみたいな反応
新潟の小和田さんたちは、漁師さんとかそんな人達で
「『東京までいらしたら、遊びに来てください』と言われたけど、本当に行ったら相手にされないですよ
とても、とても」みたいな事書いてあって、暗に親戚と言われてますが、はっきり言って知らないよ
これからもお付き合いする気はありません、みたいな記事

上の方で、親戚知人がいるのに入り込むのは不可能みたいにあったが
勝手に届け出だせば、できると思う
この間の国籍法の中国人みたいに


152:名無し投票@2/15(日)
09/02/19 23:01:38 uVpvpoF8
>>149
>2chのスレから抜粋してコピペしてるだけのようだから、出典まで知ってるか分からないけど

2chのスレのコピペだけで出典も知らずに「検証サイト」かよw
検証可能な文献の所在も記さずに2chのレスのコピペばかり
してるんならただの妄想サイトじゃんw

153:名無し投票@2/15(日)
09/02/19 23:20:46 f7qUFIVB
>>152
管理人に直接言ったら?
話が逸れてるけど、私は公表されている家系図が事実か嘘か、確認する術が無いのに、検証スレで扱う事に疑問があると言ってるの。


154:奇矯屋風羅人 ◆SRGKIKYOUM
09/02/19 23:27:33 jJRaksi0
男系で紡がれた皇族の母系をどれだけ遡ろうと、それは無意味な行為でしかないと思う。

155:奇矯屋風羅人 ◆SRGKIKYOUM
09/02/19 23:29:32 jJRaksi0
>>154修正。

男系で紡がれた皇族の母系・姻族ををどれだけ遡ろうと、
それは皇統やその正統性にとって全く無意味な行為でしかないと思う。

156:名無し投票@2/15(日)
09/02/20 00:00:00 7mgAVeAf
>>108
それ、完全に論点のすり替えだよ。
彼女がどういう住まいだったのかが問題ではなくて、
どう呼ばれていたかが問題なんだから。

学習院の教職員住宅が実質3DKであったとしても、
結婚前後紀子妃は3LDKのプリンセスと呼ばれていたよね。

157:名無し投票@2/15(日)
09/02/20 00:19:59 7mgAVeAf
>>131
下級武士の生活が悲惨であったことは誰でも知っているでしょう。
何も明治以降に貧乏になったのではなく、江戸時代から極貧でした。
そもそも村上藩の下級武士なんて農家の二男、三案から召抱えられて
下駄屋や、大工、小間物屋と婚姻関係結んでいたような身分なんだ
から、富裕町人の妾になったり芸者になった娘だっていたかもしれません。

>>150さんの言うとおり江戸時代の宗門改帳にはどこの寺の門徒であるか
が書かれていて、部落民は穢寺の門徒として平民とは差別されていました。

和歌山県の場合、穢寺は浄土真宗本照寺末であると定められていました。
松浦家の菩提寺の徳善寺は高野山真言宗ですから、この時点で松浦家がB
であるという噂は全くの嘘であると証明されます。

158:名無し投票@2/15(日)
09/02/20 00:36:44 7mgAVeAf
>>149
そんなもん、あの池沼管理人に言ったってムダ。
宮内庁が皇室会議での婚姻の承認は婚約決定ではなくて、正式な
婚約成立は納采の儀を経てからだと今から20年前に説明し、公式
HPにもそう説明しているのに、「宮内庁が礼宮の婚約は喪中では
なかったという発表をするまで皇室服喪令の項の改定はしませんっ!!!!!」
とわめき散らして醜態さらす大アフォなんだからw

159:名無し投票@2/15(日)
09/02/20 00:58:38 aSTwKAfc
>>158
URLリンク(www.yomiuri.co.jp)

URLリンク(www.yomiuri.co.jp)

当時の報道はこんなだったからね。

宮内庁のHPでは、
URLリンク(www.kunaicho.go.jp)

>納采(のうさい)
>一般の結納にあたるもの

なんて説明してるし、納得出来ない人もいるんじゃない?

160:名無し投票@2/15(日)
09/02/20 01:54:40 y0BN9wMk
不毛な議論ではと、危惧します。


検証仕切れるかどうは、知らないのが、
水掛け論的と言うか
だからなに?
いつまで引っ張ってんだろ?

161:松山 赤○○字 病 員 清掃 商 事
09/02/20 03:42:30 ZdoL4j3o

  しにたい

162:名無し投票@2/15(日)
09/02/20 08:23:28 zvhhXFo8
>>151 勝手に届け出だせば、できると思う

ここはウソや妄想を検証するスレだから、~と思う、というような
臆測ではなく、具体的にそういう例があるから可能だ、というふうに
検証してもらいたいのだけど。

部落民が他の身分に同化するのを防ぐために壬申戸籍に
身分を書く欄をあえてつくり、門徒の寺を書く欄もあったわけで、
それなのに届出一つで簡単に相手側の承諾もなしに
平民の家系に入り込めると本気で思ってるの?

>>157 >>村上藩の下級武士なんて農家の二男、三案から召抱えられて
下駄屋や、大工、小間物屋と婚姻関係結んでいたような身分なんだ

これって江戸期のこと?
召抱えって、下働きとかじゃなくて、養子になるってことでしょ?
江戸期は身分制度が厳しく、農家の次男、三男が
武家の養子になるなんてありえないんだけど。
養子なら親戚とか、同程度の身分から次男三男をむかえるのが普通。
養子縁組も大名家は幕府の許可がいるし、家臣たちも藩の許可がいるし
好き勝手にはできない。許可がおりずに断絶になった家なんて
多数あるし。

163:名無し投票@2/15(日)
09/02/20 08:43:07 B+ztYChJ
つーか、江頭ってのは漁師の頭ってこと?

164:名無し投票@2/15(日)
09/02/20 12:39:47 zZU5Lfks
>>159 婚約内定当時の読売新聞の社説。
礼宮と川嶋紀子さんの婚約内定を手放しで喜び、二人の結婚は
皇室に新風を吹き込むだろうとの大歓迎の趣旨。


讀賣新聞 1989年8月27日
社説  礼宮様のさわやかなお妃選び

 天皇陛下のご二男、礼宮文仁親王(二三)と、学習院大教授川嶋辰彦氏の長女で
同大学院生、紀子さん(二二)との婚約が固まった。
 正式には、皇室典範に基づく来月中旬の皇室会議で内定、昭和天皇の喪が明ける
来年一月以降に婚約の運びとなるが、皇室にとっては久しぶりの慶事である。心より
お祝い申し上げたい。
 紀子さんは、学業のほか音楽やスポーツの得意な、明るく優しい人柄と言う。幼少の
ころ、父親の留学にともなって海外に六年近く住み、英語やドイツ語にも堪能な国際派。
陛下や皇太子殿下とは違った分野で幅広い役割が期待される礼宮さまのお妃にふさ
わしい女性である。
 お二人の出会いは、大学時代のサークル活動だった。以来四年近く、礼宮さまの英
国留学後も機会をとらえ、心の絆を深められてきた。三十年前の両陛下の軽井沢の出
会いを思い起こすが、礼宮さまの場合には、ご両親の時よりもさらに自由でのびやかな
雰囲気が感じられる。
 一般学生と共に学び、豊かで楽しい学生生活の中から、ご自分の目と好みでパートナ
ーを見いだされた。そして学友の一員として、自然な形でご両親や周辺にも紹介され最
後にはご自分の意思を貫かれた。


165:名無し投票@2/15(日)
09/02/20 12:44:13 zZU5Lfks
朝日新聞 1989年9月12日
礼宮さま 川嶋紀子さん   ご婚約正式決定
皇室会議で一致   両陛下にもご報告

 藤森長官が両陛下と礼宮さまに皇室会議の議決を報告した直後、川嶋家には侍従
が電話で決定を連絡した。紀子さんと両親は午後一時前、宮内庁差し回しの乗用車
で赤坂御所に向かい、御所内で礼宮さまご本人、両陛下、皇太子さま、紀宮さまにあ
いさつ。さらに、吹上御所の皇太后さまへのあいさつを済ませたあと、赤坂御所に戻り
、午後三時からお二人そろって記者会見に臨まれる。
 宮内庁によると、皇室会議の議決は婚約の内定に近く、正式には、婚約は一般の結
納に当たる「納采の儀」が行われて初めて整うことになる。納采の儀の後は、皇族妃と
なるための勉強が約二カ月間続き、さらに数カ月後に一連の結婚式の儀式として、挙
式の日取りを天皇家から相手の家に伝える「告期の儀」、式当日の皇居・賢所での「結
婚の議」、式直後に二人が天皇陛下にお会いする「朝見の儀」、「祝宴の儀」と続くこと
になる。

日本経済新聞 1989年(平成元年) 8月26日
礼宮さま ご婚約内定   大学後輩、川嶋紀子さん

天皇家の二男の礼宮さま(23)が、学習院大学経済学部教授、川嶋辰彦氏(49)の長
女で同大大学院の川嶋紀子さん(22)と結婚されることが二十六日、内定した。天皇陛
下は同日午前、藤森昭一宮内庁長官に「婚姻の公式な手続きを取るよう」指示された。
九月中旬にも皇室会議が開かれ、ご結婚が正式に決定する。昭和天皇の喪が明ける
来年一月七日以降、ご結婚の運びだ。藤森長官は同日午前、皇室会議長である海部
首相に陛下から指示があったことを連絡した。

 正式な婚約は、結納に当たる「納采の儀」を経て成立する。天皇家では現在皇太子さ
まのお妃選びが進んでいるが、今後礼宮さまの婚約、結婚への準備が順調に進めば、
皇太子さまより早く結婚される可能性が強まる。


166:名無し投票@2/15(日)
09/02/20 13:02:07 zZU5Lfks
>>164>>165見ても分るようにマスコミ各紙は社説で2人の婚約内定
を手放しで祝福し、二人の結婚は皇室に新風を吹き込むことになる
だろうと大歓迎している。
そして、宮内庁は皇室会議での婚姻の承認は、あくまでも婚約内定
の意味合いに近く、正式な婚約成立は納采の儀を経て初めてととの
うものだと説明しているし、公式HPでも納采の儀が婚約成立だと記載
している。

○ご結婚関係     
皇室会議      平成元年9月12日         
納采の儀(ご婚約) 平成2年1月12日           
ご結婚       平成2年6月29日
URLリンク(www.kunaicho.go.jp)

167:名無し投票@2/15(日)
09/02/20 13:11:01 zZU5Lfks
【お知らせ】
今後、新聞やテレビなどの報道で
宮内庁から「礼宮の婚約は喪中ではなかった」旨の発表があるまで
『礼宮の喪中婚約』や『服喪令関連』のページは訂正しません。
URLリンク(babauso.white.prohosting.com)
URLリンク(s03.megalodon.jp)
=======================
今から20年前に宮内庁は報道陣に皇室会議での婚姻の承認は婚約内定
に近く、正式な婚約は納采の儀を経てととのうものと説明し、公式HPでも
そのように記載されている。

宮内庁がそのように発表し、事実二人の婚約は昭和天皇の喪明けなんだから
「礼宮が喪中に婚約会見を開いた」というのは明らかなウソだ。

「検証」サイトを看板に掲げるなら、こんないい加減なことを書いていたら検証
の内容が全く信用されないから、早く間違いは訂正した方がいいよ。
もっとも、電波サイト、妄想サイト、池沼管理人等の揶揄、罵倒、嘲笑を甘んじ
て受ける覚悟があるのであれば、敢えて強制はしないけどw

168:名無し投票@2/15(日)
09/02/20 13:17:05 zZU5Lfks
>>162
上の方でも名前があがっていた菊池三弥は稗貫郡亀ヶ森村の豪農・菊池
弥兵衛の次男として生まれたが、その識見を認められて南部藩士・野辺地
家の養子となり代官に就任している。

169:名無し投票@2/15(日)
09/02/20 13:24:09 zZU5Lfks
『村上市史  通史編2 近世』① 抜粋

徒士と町人の結婚 
 徒士以下、足軽、中間、若党、あるいは家臣が私的に抱える家来、すなわち陪臣な
どの地位、身分は「家中」の外であった。多くの場合そうした人々の雇用は、雇用主対
本人の契約でなされ、主人が仕える領主が転封される場合でも、かならずしも供をする
義務はない。しかし、刀を帯びることを許されているので、身分上は侍である。
 そのような人々の居住地は、主人の屋敷の一隅や町人地のなかにある長屋の場合
もある。ようするに、彼らの居住地は町人地にもっとも近く、そのような関係からも彼らの
生活環境は、侍と町人の中間的なものであったと考えられられる。
 鍛冶町の十二所神社は、そうした人々が祭った神社であろう。天保九年(一八三八)
社殿が再建されたとき、かつてその周辺に居住したと推測される、数名の足軽衆が奉
納した棟札が現存する。
 もとより彼らは軍事集団の一員、戦場では主人の身辺にあって身の回りの世話や雑
役に従事し、また、歩兵として敵と槍を合わせ、弓や鉄砲で戦う。ところが、遠く戦乱か
ら離れた平和な社会では、主家の雑務や登城の供などがもっぱらの仕事となる。また、
藩における彼らの職務を嘉永六年(一八五三)の「村上席役付」にみると大工頭、小細
工方、作事監督、料理人、仕立物師などで、一般の職人とほとんど変わらない。
 与えられる扶持は、平均二人扶持三、四両程度の低給であるから、それのみでは到
底一家を養っていくことは困難であろう。しかし「手に職」を持つ人々であるから、内職は
容易である。このような職業的な事柄からしても、彼らの多くはこよなく町人に近い侍と
いえよう。したがって、町人との身分格式的な隔たりはあまりなく、生活水準は町人の中
流階級より下であろう。

170:名無し投票@2/15(日)
09/02/20 13:26:20 zZU5Lfks
『村上市史  通史編2 近世』 抜粋

 このような彼らの生活要素が、町人との婚姻を容易にしたと考えられる。万延ころ
(一八六〇)から明治三、四年にかけての職分、人別調査記録によれば、侍地に隣
接する町人地に、両者の婚姻関係を持つ家が多い。そのなかでもっとも多いのは羽
黒町二二軒、つぎに久保多町一八軒、小町一三軒、片町一一軒、上町七軒、長井
町六軒、寺町五軒などであった。また、大工町、小国町、加賀町などにも一軒ずつみ
られる。 
 その職業に関して、すべてを明らかにすることはできない。しかし、寺町の場合では
荒物屋、下駄屋、大工、修験、寺院などであり、大町では塗師、紙漉、下駄屋、小間
物屋などさまざまである。
 また、縁組でも、町人の家から侍の家へ入籍しているのは、わずか三、四人より確
認できず、多くは侍の家から町人の家への養子、あるいは結婚である。そのうち婿養
子の場合では、侍の二男、三男が対象となり、長男はまったく含まれていない。当然
ながら、長男は跡継ぎとして家に残し、口減らしのために二男、三男を養子に出した
ものであろう。
 それにしても、侍が身分上から町人と婚姻関係を結ぶことを規制されていたのは、
平侍以上であるが、かならずしも厳重ではない。なかには有力町人のうちでも、先祖
が由緒ある侍であった家に、娘を縁付かせる例もある。それが下士の場合ではきわ
めて規制が緩く、そのうえ侍の経済的悪化などが加わると、いっそう町人との婚姻関
係が多くなっていくようである。
 こうして町家に入った下士のニ、三男は、侍の籍から除かれ、やがては町人に同化
してゆくことになる。


171:名無し投票@2/15(日)
09/02/20 13:34:51 zZU5Lfks
村上藩の場合、下級武士の住む長屋は町人居住区に隣接して
いて、俸禄は二人扶持三、四両程度で生活水準は中流町人以下
だった。
町人との隔たりはあまりなくて荒物屋や下駄屋、大工、紙漉き
などと婚姻関係を結ぶような身分だった。

わずかながらも町人から下級武士の家に養子入りしている者も
いるようだね。

172:名無し投票@2/15(日)
09/02/20 14:53:04 auqmKT3g
藩により対応は異なるけど、
一般的には、領地があり禄高があるものが士族、
扶持米を支給されていた陪臣は卒族とされ壬申戸籍上は士族となった。
でも半士半農の郷士は全員平民扱いにした藩が多数だったのに
薩摩藩のようにほとんど全員を士族にしてしまっているケースもある。

つまり士族といってもピンキリで、華族になれなかった大名から
事実上農民生活を送っていたような郷士クラスまでいたってこと。
下級士族の生活と郷士出身の士族とでは、同じ貧しくても
家に対する意識や婚姻に対する意識、身分へのこだわりなども違うし、下級士族が
必ずしもなし崩し的に平民と同化していったと解釈するのはどうかと思う。
どんなに貧しくとも誇りを捨てずに結婚相手は同じ士族から、という
価値観のものだって当然いただろう。

それと、士族と平民の同化の流れと、エタヒニンも同じように
同化できたかといったらそれは別の次元の話。
エタヒニンへの差別意識はむしろ人口の大多数を占めた
農民たちほうが支配階級からのものよりずっと辛らつだったのだから。

多くの部落民が先祖から継承してきた専業職を奪われ、
身分制度が改変されたことによってますます差別を強いられて
暮らしていかなければならなかった。
彼らの苦難はむしろ明治期~戦前のほうが江戸期よりずっとひどかったのだよ。

173:名無し投票@2/15(日)
09/02/20 15:11:42 57EmK+f7
 小和田家のルーツは新潟県村上市。祖先は村上藩内藤家の藩士だったとい
われている。
 村上藩六代目村上信敦の家臣として、一七八七(天明七)年に記された「内藤
家分限帳」に小和田新六の名がある。禄高は「弐人扶持三両」。
 また、新六という人物については「村上藩武術史」にも記載があり、武術に秀で
ていたらしく、柔術の「村上藩制剛法」印可を受けたとある。
 この新六の孫が、雅子さまの曽祖父・金吉氏だというのが有力な説である。ただ
し、小和田氏は下級武士であったためか、金吉氏の父も含めて、金吉氏以前の系
譜ははっきりしない。


また、本家の 新潟県村上市小和田本家の証言 は、
  TVインタビューにて老当主が「あちらの小和田家とウチが親戚とは初耳 
  こちらでもいろいろ調べてみたがわからない」と答えた 。

どういうことでしょうか。
小和田新六に関する記述は詳しいが、金吉と新六の繋がりは不明。

川口素生『小和田家の歴史』

174:名無し投票@2/15(日)
09/02/20 15:11:58 zZU5Lfks
>>172
そうだね、半士半農、半士半商の生活を送っていた郷士クラスの
武士は屋号を持つ者もいた。
だから武士は屋号を持たない、っていうのは誤りだ。
ごく一部には屋号を持つ武士も存在した。

588 :名無し草:2008/02/11(月) 16:41:21
婆迷言殿堂入りものだ
「村上潘の藩士だそうだから、屋号ぐらいあるよね」

589 :名無し草:2008/02/11(月) 16:41:55
屋号婆って徘徊婆と口調が似てるけど
まさか・・・・・wwwwwwwwwwwww
URLリンク(babauso.white.prohosting.com)


175:名無し投票@2/15(日)
09/02/20 15:16:38 auqmKT3g
>>157 穢寺が浄土真宗ばかりとは限らないよ。
浄土宗、日蓮宗、時宗、浄土宗、真言宗、曹洞宗も知ってる限りあったから。
特に曹洞宗と真言宗は露骨な差別戒名を残す傾向があったらしい。
「皮」「穢」「蓄」なんていう文字を戒名にわざといれていた。

浄土宗に穢寺が多かったのは、教義のせいといわれているけど、
中世支配階級を悩ませた一向一揆と深いかかわりがあるという歴史的背景もある。

穢寺だったか否かを調べるのは、上寺や場合によっては本山まで調べれば
はっきりする。

176:名無し投票@2/15(日)
09/02/20 15:20:27 auqmKT3g
ごめん、「浄土宗に穢寺が多かった」は「浄土真宗」の間違いね。

177:名無し投票@2/15(日)
09/02/20 15:21:48 zZU5Lfks
>>175
和歌山県の場合、有田以北はほぼ浄土真宗攝州富田本照寺末。
紀南に行けばごく一部に東本願寺派の穢寺もあるけど。

和歌山県には真言宗の穢寺は一つも存在しない。

178:名無し投票@2/15(日)
09/02/20 19:24:11 SA1bRGLS
>>177 どうして真言宗の穢寺が一つも存在しないってわかったの?
「和歌山の穢寺は多くが浄土真宗だった」というような表記のものはよく読むが
他の宗派がどうだったか、ということを示す文献などがあるなら
教えてくれないか?

後継者がいなくて廃寺になった穢寺なども過去には多数あったらしく、
正確なところは各宗派の本山などに伝わる穢寺帳で確認しなければ
分からないと思っていたんだけど。

179:名無し投票@2/15(日)
09/02/20 23:15:20 zZU5Lfks
>>178
つソース

未解放部落の形成と展開 : 紀州を中心として 渡辺広 吉川弘文館
未解放部落の源流と変遷 : 紀州を中心として 渡辺広 部落問題研究所出版部
未解放部落の史的研究 : 紀州を中心として 渡辺広 吉川弘文館

和歌山大学教授は「紀伊続風土記」「賎者考」「慶長検地帳」「紀州検地帳」各郡に
保存されている差出帳、壬申戸籍やその他あらゆる古文書を調査して、和歌山
県に存在した(現在消滅した部落も含めて)被差別部落の所在地を100%記載して
いる。

また、穢寺の名も全て記載している。

先ほど真言宗の部落寺院は和歌山に一つもない、と言ったが訂正。

その他陰陽師の場合は真義真言宗の大本山根来寺に属するものもあり、また
「下り」といわれた賎民の場合は浄土宗西山派(総本山・乙訓)に属する寺院を
形成することもあった。

                   「部落の歴史 近畿編」和歌山  後藤正人和歌山
                                        大学教授執筆

180:名無し投票@2/15(日)
09/02/20 23:19:32 zZU5Lfks
上記の本を読んでもらえれば分るが、川嶋庄一郎の出身地である
山保田組には近世はおろか中世にまで遡っても被差別部落が形成され
たことはなかった。

松浦家の菩提寺である徳善寺は、創建以来古義真言宗、つまり
高野山真言宗に属し、転宗したことは一度もない。

181:179
09/02/20 23:35:15 zZU5Lfks
訂正
×和歌山大学教授は
○和歌山大学教授であった渡辺広氏は

この渡辺教授の業績は、被差別部落研究の最高水準を示すもの
として学会から非常に高い評価を受けている。

渡辺氏の著作は学術本なのでとっつきにくいと思った人には、
以下の本がお勧め。

「部落の歴史  近畿篇 」
著者名 部落問題研究所/編
出版者 部落問題研究所
出版年月 1982.1

この本のP230からP271にかけて、後藤正人和歌山大学教授が
渡辺広氏の業績を実に分りやすく、コンパクトにまとめあげている。
和歌山県に過去存在した、現在は消滅してしまった被差別部落、
穢多身分のみならず、非人、非人番、番太、夙、陰陽師、巫女、
隠坊、風呂統、乞食等々さまざまな名で呼ばれた非人系の部落
の所在地までくまなく記載している。
もちろん穢寺(部落寺院)の名も記されている。

山保田組には穢多身分の被差別部落も非人系の被差別部落も
過去には存在したことがなかった。

182:名無し投票@2/15(日)
09/02/21 00:00:05 9ZqQg8vT
で、結局のところID:uVpvpoF8は何が言いたいの。
昔の話も結構だけど、現在の人物を語ったら?
小和田家は高級官僚、川島家は俗物僧侶に利用されいてる。
雅子さまは皇太子妃で紀子妃は宮妃。
ま、比較対象ではないね。

183:名無し投票@2/15(日)
09/02/21 00:04:22 9ZqQg8vT
なんで、ID:uVpvpoF8は人んちの家系に拘るの。
異常といってもいいほどだよ。
普通、世間の人が気にするのは、両親や兄弟、祖父母くらいまでだと思うんだけど。
三代前ってそんなに重要かな。確認しようのない三代前のことが。
ID:uVpvpoF8が部落に拘り、とても詳しそうなのはそういう研究をしている人だから?
たとえば、学習院とかで・・・。

184:名無し投票@2/15(日)
09/02/21 00:55:41 HooQc2ZX
ちょっと質問

今上が古代朝鮮との血縁関係に言及してるし

185:名無し投票@2/15(日)
09/02/21 01:01:39 9ZqQg8vT
>>184
言及?
ただのリップサービスじゃんw
だいたい、大昔に朝鮮人の血が入ってるからって
天皇を朝鮮人だと考える人っている?

186:名無し投票@2/15(日)
09/02/21 02:32:29 /utlLA4L
>>182
> 小和田家は高級官僚、川島家は俗物僧侶に利用されいてる。
すまんが、具体的にどう利用されているのか、ソースつきでkwsk
ここ検証スレだから


187:名無し投票@2/15(日)
09/02/21 03:11:44 9ZqQg8vT
>>186
新潮の記事
■紀子さまの父川嶋辰彦教授が「炎の行者 池口恵観法主」に救いを求めた!
 京都で極秘裏に会った二人は三日間何を語り合ったのか?

池口氏は、清原や長淵剛と交流がある高野山真言宗の大僧正。
「川嶋氏と池口氏を引き合わせたのは京都の山林王といわれる人と
新潟のパチンコ会社社長。池口氏は、川嶋氏の体調がおもわしくなく、
3日間加持祈祷をしたら食事ができるまでに回復したと自慢げだった」(信者談)
NPO日本トレッキング協会関係者も川嶋氏が体調不良のため会長を引退すると
聞いていると言う。(協会側は否定)
「池口氏は以前から川嶋氏との出会いを望んでいた。通常は10分の加持なのに
川嶋氏には毎日一時間半から2時間、加持をしたとのことで気合が入っていると思った」(信者)
「弘法大師は嵯峨天皇はに認められ大きくなった。わたしも川嶋先生と仲良くして皇室に
近づきたいと池内氏は熱く語った」(信者)
山林王は言う「二人を引き合わせたことに意味はない。名刺交換しただけ。
川嶋氏の具合が悪いという話ははじめて聞いた」
池口氏本人は「30分か1時間ほど、ホテル喫茶店で話した。先生は密教に興味をもち
現場をみたいとおっしゃった。ああいう人を加持したいと弟子に話したのが尾ひれがついた。」
ところが文春取材ののち、池口氏が弟子に緘口令をひいた。
その件をただすと、「山林王にひきあわされたあと、またどうかと話があり
川嶋氏にあった。30-40分話した。加持はしていない。皇室関係の方なので迷惑かけたら
いけないと思った」
「皇室関係の知り合いがいないので川嶋氏とまた会いたい。皇室会議にも
出られているんでしょう?悠仁親王が(敬称なし)天皇になられれば
川嶋先生には大きな影響力がある。だからお近づきになりたい。今後二人で
ゆっくり話しができたらと思う」
池口の思惑はともかく、川嶋教授の健康は心配される。
学生によれば、「先生は病気のため体調をくずされ、ときどき休講になる。
たまにむせる感じ。文化祭も体調不良で休まれた」自宅に電話すると
女性の声で「お答えを差し控えさせていただきます」とのこと。

188:186
09/02/21 03:13:41 9ZqQg8vT
>>187
新潮じゃなくて文春の記事ね

189:名無し投票@2/15(日)
09/02/21 13:26:30 aPeNJIOD
>>183 異常だっていうのはアンチ婆だろ。キチスレでは出自の話ばかり
じゃん。他スレにまで出張して全然スレ違いの話題を持ち出すし。
こいつら本当に異常だよ。

秋篠宮と眞子、タイ経由でマダガスカル私的旅行
URLリンク(unkar.jp)
162 :名無しさんの主張[]:2007/08/20(月) 11:05:29 ID:vV45K6aO
■華麗なる川島一族の家系図

         松浦平吉(童話)
            |
       (童話)川島庄一郎(養子 川島家へ)
            |
            |   池上四郎
            |      |
       (童話)川島孝彦=紀子(いとこ)
               |
       (童話)杉本和代=辰彦(童話)
               |
        秋篠宮=紀子(きこ)童話
-------------------------------------------------------
※川嶋家ルーツの松浦平吉氏の家と墓地は地元では周知の童話地区にあるとのこと。
※杉本和代氏と川島辰彦氏は部落解放同盟の研究会で知り合い結婚に至ったとのこと。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
↑ 既女板のテンプレだがこれも真実味はないの?

165 :名無しさんの主張[sage]:2007/08/20(月) 13:12:11 ID:???
>>163の系図を見ると松浦平吉の事は書かれてないね。
平吉の子供庄一郎〈曽祖父)は川島家へ養子。
地区を出て養子になっているのなら部落出身者とは問われにくい。

ただ実際松浦平吉の墓が童話地区にあるかだが。


190:名無し投票@2/15(日)
09/02/21 13:33:08 aPeNJIOD
>>182
確かに宮妃と皇太子妃とでは立場が全然異なる。
にもかかわらず雅子妃の方は父方も母方も出自については不明
な点が多い。金吉の父親は誰なのか?早世した二人の兄の名は?
金吉は老いた両親の世話をしたのか?
江頭家のルーツは何なのか?
菩提寺は何なのか?

検証スレで何度も問いかけられても誰一人まともに答えることの
出来る者はいない。

191:名無し投票@2/15(日)
09/02/21 13:39:35 aPeNJIOD
川嶋教授は京都で池口恵観と言う僧侶と会ったことが何の問題が
あんの?
例えば、川嶋教授が池口氏の手がける事業の宣伝材料に利用され
たりしたら問題だろうが、宮妃の父親であれ一私人なんだから知人
の紹介で僧侶と会っても何の問題もない。
雅子妃の父親の小和田恒氏は、皇太子妃の父親である立場を利用
して国連大使に就任して政治的行動を取ったり、機密費横領問題か
ら免責されているという非難は以前からずっとされているぞ。

諸君! 2006年3月号  何故だ!?小和田恒氏の「沈黙」
URLリンク(www.bunshun.co.jp)
                        八幡和郎(評論家)

 いずれにしても、妃殿下が公務をこなせないような状況になったことについて父親で
ある小和田氏は恐縮し、皇室や国民に申し訳なく思われるのが普通だろう。また、こ
の成功したとはいえない結婚を推進した人々は愛のキューピッドとなったことを誇るの
でなく、この悲惨な状況の責任を重大と恐懼するべきである。ところが、小和田氏やこ
の結婚に絡んだ関係者は、雅子妃が皇太子妃候補といわれるようになってからアンタ
ッチャブルな存在になり批判しにくい雰囲気があるのをいいことに、甘えているのではな
いか。
 外務省批判が連日のようにマスコミをにぎわし、スキャンダルが次々と暴露されても小
和田氏は批判されなかった。もちろん、外務省批判はしばしば的はずれだし、小和田氏
がとくにダーティーなわけでない。だが、外務省のなかで小和田氏だけが批判の対象か
らはずされるべき高潔で特別な存在ということでもない。元外務事務次官として一連のス
キャンダルに応分の責任もあるし、問題が多いとされるモスクワの大使館にも二度勤務し
ている。あるいは、国連大使として皇太子妃の父としての声望を背景に、安保理常任理
事国入りの工作で政府の意向より前へ出て動いたという批判もないではない。
 小和田氏やその周辺を特別の安全地帯に置くことはそもそも奇妙なことなのである。ヨ
ーロッパ諸国などでなら、皇太子妃の父親の行動は普通以上に厳しく監視され批判にさ
らされるのが普通だし、それが、健全なことなのだ。


192:名無し投票@2/15(日)
09/02/21 13:43:35 aPeNJIOD
>>49 うpしといてやるよ。


「皇室会議」提出資料(平成五・一・十九)

       皇 室 会 議     次第
一、 開    会        議  長
二、 議案の朗読        宮内庁長官官房審議官
三、 議案の説明        宮内庁長官
四、 議案についての質疑   
五、 議案の採決
六、 閉    会        議  長

  閉会の後 議会録署名

193:名無し投票@2/15(日)
09/02/21 13:43:56 aPeNJIOD
皇 室 会 議   資 料
一、 小和田雅子の略歴等
二、 親族の略歴等
三、 皇室典範(抄)

194:名無し投票@2/15(日)
09/02/21 13:44:17 aPeNJIOD
資 料 一
 小 和 田 雅 子 の 略 歴 等

小 和 田 雅 子
   昭和三十八年十二月九日生
   本籍地  新潟県村上市本町三八〇番地
   現住所  東京都目黒区南一―十四―十四

昭和四十一年九月   ソヴィエト連邦モスクワ市立保育園入園
同 四十三年九月   米国ニューヨーク市立第八一キンダーガーデン入園
同 四十四年九月   米国ニューヨーク市立第八一小学校入学
同 四十六年三月   東京都目黒区立原町小学校(一年)編入
同     年四月   東京都新宿区立富久小学校(二年)編入
同 四十七年四月   私立田園調布雙葉小学校(三年)編入
同 五十一年三月   同校卒業
同 五十四年三月   私立田園調布雙葉中学校卒業
同 五十四年四月   私立田園調布雙葉高等学校入学
同     年九月   米国マサチューセッツ州立ベルモントハイスクール
              (二年)編入
同 五十六年九月   米国ハーバード大学経済学部入学
同 六十 年六月   同校卒業
同 六十一年四月   東京大学法学部(三年)学士入学
同     年十月   外交官試験合格
同 六十二年四月   外務省入省
同 六十三年九月   英国オックスフォード大学ベーリオールカレッジ
              国際関係論修士課程入学
平成 二 年六月   同校修了
同     年七月   外務省北米局北米第二課勤務
同  五  年一月   外務省退職

身  長   一六四  センチメートル
体  重    五一   キログラム
趣  味   音楽鑑賞、散策、ドライブ、外国語
スポーツ   スキー、テニス

195:名無し投票@2/15(日)
09/02/21 13:44:53 aPeNJIOD
資 料 二
 親 族 の 略 歴 等

父  小 和 田 恒
  昭和七年九月十八日生

  昭和二十六年   新潟県立高田高等学校卒業
  同 二十九年    外交官・領事館試験合格
  同 三十  年 東京大学教養学部(国際関係論分科)卒業
  同      年   外務省入省
  同 三十一年   英国ケンブリッジ大学法学部修士課程修了
  同 三十四年   英国ケンブリッジ大学法学部博士課程修了
                             (論文未提出)
  同 四十六年   外務省欧亜局大洋州課長
  同     年    外務大臣秘書官
  同 四十七年   外務省国際連合局政治課長
  同 四十九年   外務省条約局条約課長
  同 五十一年   内閣総理大臣秘書官
  同 五十三年   外務省経済局参事官
  同 五十四年   在米日本国大使館公使
  同 五十六年   在ソヴィエト連邦日本国大使館公使
  同 五十八年   特命全権公使
  同 五十九年   外務省条約局長
  同 六十二年   外務大臣官房長
  同 六十三年   特命全権大使OECD日本国政府代表部
  平成  元年    外務省外務審議官
  同    三年   外務省事務次官

  昭和三十八年~四十 年    東京大学教養学部講師(非常勤)
  同  四十七年~五十一年   東京大学教養学部講師(非常勤)
  同  五十九年~六十三年   東京大学教養学部講師(非常勤)
  同  五十四年~五十六年   米国ハーバード大学法学部教授(客員)
  同  六十二年          米国ハーバード大学法学部教授(客員)
  平成  元 年           米国ハーバード大学法学部教授(客員)


196:名無し投票@2/15(日)
09/02/21 13:53:35 aPeNJIOD
皇室会議で議決される前に既に天皇家内部や宮内庁は、皇太子と
雅子さんの結婚については承諾を与えている。
皇室会議というのも実際には形式的なもので、そこで提出される資料
も本人や親族の住所、経歴などを書いただけの簡単なものだよ。
別に人に見られて困るものでもないし、資料は宮内記者クラブに属し
ている新聞社や通信社の記者にも配布される。

皇室会議の資料がまるで極秘資料で、一般人には閲覧できないと思って
いるアホどもがいることに驚いたw

197:名無し投票@2/15(日)
09/02/21 17:31:17 ot+SySH5
>>190

198:名無し投票@2/15(日)
09/02/21 17:34:47 ot+SySH5
>>190
出自が不明ならあんたが調べればいいじゃん。
なんでそんなに出自にこだわるのかね。
みんながみんな自分の数代前の人間の名前や経歴知ってると思う?
分家やそのまた分家になるとわからないのが普通だと思うけど。


199:名無し投票@2/15(日)
09/02/21 17:42:40 aPeNJIOD
>>198
結論から言えば分らないよね。
マスコミや新潟、佐賀の郷土史研究家たちが調査したにもかかわらず、
ルーツについては小和田家は3代前、江頭家は4代前までしか分らな
かんたんだから。

200:名無し投票@2/15(日)
09/02/21 18:14:18 ot+SySH5
じゃ、なんで聞く?
先祖がその両親の世話したかなんてわかるわけない。
菩提寺聞いてどうするの?
あんたは雅子妃アンチ行ったほうがいいね。

201:名無し投票@2/15(日)
09/02/21 18:16:57 aPeNJIOD
>>200
検証サイトを自称している管理人がこんなこと言ってるから、金吉が
母親の面倒を見たというソースはあるんだろう?
そのソースを教えてほしいだけなんだが。

金吉氏は慶応3年あるいは明治元年生まれ
力松氏と同じく三男と言われているが、二人の兄は早世していたようす
URLリンク(sakura.45.kg)


202:名無し投票@2/15(日)
09/02/21 18:43:52 sOJ4G5Zn
なんで本人に聞かずに、ここで言うかなあ。
検証するスレは、検証サイトに対する愚痴を言うスレでは無いんだけど。

203:名無し投票@2/15(日)
09/02/21 20:02:43 UekDQduD
>>201
そもそもそれは検証サイトではないからね。
難民板のヲチスレのレス寄せ集めているだけだし。
金吉に2人の兄がいたというのも、母親の面倒を見ていたというのも
全くソースのない管理人の妄想だから。
>>202
いいんじゃないの。
ヲチスレなんて10レスに1回は突っ込み入れたくなるような
デタラメばかりだから、そのまとめサイトは嘘、捏造の宝庫で
検証の価値はあるw

204:名無し投票@2/15(日)
09/02/21 20:08:59 UekDQduD
それから例のまとめサイトは喪中婚約の誤りは絶対に認めないくせに
他の間違いについてはコソコソと修正しているから、証拠隠滅をはかる
前にこまめに魚拓を取っといたほうがいいぞ。

205:名無し投票@2/15(日)
09/02/21 20:11:49 sOJ4G5Zn
>>203
いや、こういう噂について根拠が見つからなかったが、ソースを知っている人はいるか?的話なら、別にいいのよ。
噂の検証だから。
このサイトにこんな噂が載っているが、ソースをちゃんと載せてもらいたい、って話は、サイトの管理人に言う筋のものでしょ。
細かいようだけど、言い回し次第で検証の方向に流れるか、愚痴的批判で終わってしまうか、違ってくるんじゃない?って事が言いたかったの。

206:名無し投票@2/15(日)
09/02/21 20:20:10 UekDQduD
>>205
管理人に言ってもムダだよ。
喪中婚約の件にしても皇室会議提出資料の件にしても検証スレで
ソースが出て嘘であると証明されているにもかかわらず、間違い
を認めないんだから。

207:名無し投票@2/15(日)
09/02/21 20:41:58 sOJ4G5Zn
>>206
だから、このスレで検証したいって事じゃないの?
それなら、管理人に向かって言う事と、無関係な第三者に言う事は、分けて考えた方がいいって話なんだけど。
納得出来ないんなら、まあそれでもいいよ。

208:名無し投票@2/15(日)
09/02/21 23:12:09 aPeNJIOD
>>207
そんならここで正々堂々とこのサイトの中身を検証してみれば
いいじゃん。
URLリンク(babauso.white.prohosting.com)

↑このサイトによれば秋篠宮は喪中に婚約して、皇室会議の資料は
一般人が読むことは出来なくて、小和田金吉には早世した2人の兄
がいて、金吉は母親の面倒を見たということになっているんだけど、そ
れが正しいか否かについて検証してみようよ。

209:名無し投票@2/15(日)
09/02/22 00:15:31 Xfr83gu9
>>191
あのさぁ、ちゃんと読めば分かると思うんだけど。
これ↓って皇室利用を企んでるってことでしょ。
>「皇室関係の知り合いがいないので川嶋氏とまた会いたい。皇室会議にも
>出られているんでしょう?悠仁親王が(敬称なし)天皇になられれば
>川嶋先生には大きな影響力がある。だからお近づきになりたい。今後二人で
>ゆっくり話しができたらと思う」


.>雅子妃の父親の小和田恒氏は、皇太子妃の父親である立場を利用
>して国連大使に就任して政治的行動を取ったり、機密費横領問題か
>ら免責されているという非難は以前からずっとされているぞ
↑のソースは?


>もちろん、外務省批判はしばしば的はずれだし、小和田氏
>がとくにダーティーなわけでない。
小和田氏がダーティなわけではないけど、「皇太子妃の父親は普通以上に厳しく監視され
批判にさらされるのが普通」っておかしいでしょ。
こういうふうに言われること自体、「普通以上に厳しく監視され、批判されてる」よ。
皇族縁の人物で小和田氏だけが厳しく監視され、批判されてるようにも思うけどね。

210:名無し投票@2/15(日)
09/02/22 08:06:17 GS5xHmt2
ここは検証スレ。
出自の話に限らず、検証するならソースを探すか、
ソースを出せないことを明確にして保留にするか、
このくらいは守りませんか?
このスレの趣旨は、
雅子妃(東宮)と紀子妃(秋篠宮)の優劣を
論じるものではないと思います。
どちらかに好感、不快感をもっているにしても、
ここでそれらをむき出しにするべきではないのでは?

211:名無し投票@2/15(日)
09/02/22 12:00:33 0rPTn4Sc
>>196
あのさ、だから、実際の資料じゃなきゃ意味ないわけ。
渡辺みどりの本の内容を移されても、困るんだけど。
分かってる?
で、どこ行けばこれが見られるの?どうやって請求すれば見られるの?
それをきいてるんだけど。


212:名無し投票@2/15(日)
09/02/22 12:11:32 0rPTn4Sc
あ、渡辺みどりの本を読めばのってる!ってのは駄目だよ
分かってないみたいだけど、
どうすれば実際の皇室会議の資料が見られるか、だからね

213:名無し投票@2/15(日)
09/02/22 13:16:25 7tYsmmdn
宮内庁に聞けばいいじゃん。

214:名無し投票@2/15(日)
09/02/22 20:51:06 MW5xhDVK
>>207
なんで他人を頼るわけ?
自分でやればいいじゃん
バカ?

215:名無し投票@2/15(日)
09/02/22 22:22:19 DZrkzweT
あ~ぁ~
皇室もすっかり俗っぽくなったもんだ
これじゃあ国の象徴も何もあったもんじゃない

全部、役立たず宮○庁のせいだよ


216:名無し投票@2/15(日)
09/02/22 22:43:34 c6md6E0r
209 名前:名無し投票@2/15(日) 投稿日:2009/02/22(日) 00:15:31 ID:Xfr83gu9
>>191
あのさぁ、ちゃんと読めば分かると思うんだけど。
これ↓って皇室利用を企んでるってことでしょ。
>「皇室関係の知り合いがいないので川嶋氏とまた会いたい。皇室会議にも
>出られているんでしょう?悠仁親王が(敬称なし)天皇になられれば
>川嶋先生には大きな影響力がある。だからお近づきになりたい。今後二人で
>ゆっくり話しができたらと思う」
------------------------------------------------
その文春の記事のどこを読んでも川嶋教授が池口恵観に利用されたとは
書いていないが。
池口氏は川嶋辰彦を何らかの形で利用しようとする目的で近づいたのかも
しれない。
皇室の縁戚である人物と親しくなって、自分の箔をつけたかったのかもし
れない。

しかし、その悪巧みは文春の記事のおかげで頓挫した。
皇室の権威を利用しようとする魑魅魍魎たちがいるから、川嶋氏も気をつ
けた方がいいね。

217:名無し投票@2/15(日)
09/02/22 22:50:18 c6md6E0r
検証(?)サイト「婆嘘検証」管理人の小和田恒氏の皇室会議提出
資料に関する一発でバレる嘘

236 :名無しさんの主張:2007/07/27(金) 06:59:34 ID:RKX2Z15E
>>197 
恒は教養学士@東大→外務省入省→法学士@ケンブリッジ

>皇室会議の際に提出された資料にも、そう記されてあった
皇室会議の際に提出された資料
そのようなものが仮にあったとして一般人が閲覧などできないわけだが
URLリンク(s02.megalodon.jp)
---------------------------------------
皇室会議提出資料は渡辺みどり『美智子皇后と雅子妃 新たなる旅立ち』の巻末に
掲載されている。
この本は1998年に『美智子皇后と雅子妃 秘められた想い』という題になって文庫本に
なり、そこでも皇室会議の資料が掲載されていて(この資料は平成五年一月十九日に
行われた「皇室会議に提出されたものです)との説明まで添えられている。

218:名無し投票@2/15(日)
09/02/22 23:10:51 c6md6E0r
注:
「一般人は皇室会議に提出された資料は閲覧できるし
 新聞や雑誌に載った皇室会議の資料は真実である」
という婆の主張に対し、
・皇室会議提出資料とは一般人に公開されているのか?
・どこで閲覧できるのか?
・宮内庁がマスコミ向けに配ったものが全てなのか?
・皇室ジャーナリストの書いたものに間違いがないとどうやって確認すれば良いのか?
などの疑問は相変わらず残ったままである。
URLリンク(s04.megalodon.jp)
------------------------------------------
皇室会議の提出資料なんて本人の本籍地、現住所、経歴、身長、
体重、趣味と親族の住所、学歴、経歴を記したもんで機密事項が
書かれているわけでもない。
皇室会議の様子は報道陣も会議室に入って取材し、テレビでお茶の
間にも中継されるものだろ。
そんな会議の資料が極秘扱いなわけがない。

資料は会議当日、取材陣に対して配布されたんだろう。
その資料をそのまま渡辺みどりは自著の巻末に資料として載せて
いるだけだ。

219:名無し投票@2/15(日)
09/02/22 23:22:32 c6md6E0r
皇室会議には、皇族議員の常陸宮さま、三笠宮さまをはじめ、海部首相、田村元
衆院議長、小野明参院副議長、矢口洪一最高裁長官、伊藤正己同判事、藤森宮
内庁長官の各議員と、予備議員の福田一衆院議員が出席した。

 9人は円形になって着席し、午前9時、議長の海部首相が開会を宣言。河部正之
宮内庁審議官が「文仁親王殿下が川嶋紀子と婚姻されることについて、皇室典範
第一〇条の規定に基づき、皇室会議の議決を求める」と議案を読み上げた。

 各議員には、紀子さんと親族の略歴資料や紀子さんの写真などが配られ、それ
をもとに藤森長官が、本人の人柄や皇室会議に至ったご交際の経過を説明。議員
からの質問はとくになく、議長が採決をとった結果、全員が起立して賛成、閉会が
宣せられた。そのあと各議員は議決録に毛筆で署名をし、9時33分、特別会議室
を出た。
URLリンク(www.yomiuri.co.jp)
---------------------------------------
これは礼宮と川嶋紀子さんの婚姻に関する皇室会議の記事だけど、
皇太子と小和田雅子さんの皇室会議も同様な手順で行われた。

「各議員には、紀子さんと親族の略歴資料や紀子さんの写真などが配られ、それ
をもとに藤森長官が、本人の人柄や皇室会議に至ったご交際の経過を説明」

雅子さん(この記事では紀子さん)と親族の略歴資料というのは渡辺みどりの
本の巻末に載っている「皇室会議提出資料」のことだろうね。
マスコミにも公開し、テレビ中継で全国のお茶の間に流された皇室会議の提出
資料が「一般人には閲覧できるわけがない」と考える方こそおかしい。


220:名無し投票@2/15(日)
09/02/22 23:27:19 Xfr83gu9
>>217
>検証(?)サイト「婆嘘検証」
に言いなよ。


>池口氏は、川嶋氏の体調がおもわしくなく、
>3日間加持祈祷をしたら食事ができるまでに回復したと自慢げだった」(信者談)
利用してんじゃんw
その文春の記事、私も読んだんだけど川島夫妻はホテルのスイートに宿泊したんだって。
池口さんの定泊ホテルのスイートにさ。


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