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四角い溝の中に柱穴がみえる南郷柳原遺跡の大壁建物跡(北側から撮影)=奈良県御所市柳原で1992年12月15日、森和彦さん撮影
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大壁建物の南側には基壇の石垣が崩れた跡が見つかった=奈良県御所市柳原で1992年12月15日、森和彦さん撮影
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南郷柳原遺跡(奈良県御所市)
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ヤマト王権を支えた中央豪族として名を残す葛城氏。5世紀ごろの王権のあり方を考える上で非常に重要な存在だ。
日本書紀は、その祖とされる葛城襲津彦(そつひこ)について朝鮮半島との関わりが深い人物として描いている。
神功皇后5年、襲津彦は朝鮮半島への一時帰国を望む新羅の人質を引率したが、対馬でだまされ、逃がしてしまった。襲津彦は怒って新羅の城を落とし、連れ帰った捕虜が葛城地域の渡来人の祖先になった--。書紀はこう説明する。
葛城氏の本拠と考えられているのが現在は棚田が広がる金剛山のふもと、御所市にある南郷遺跡群(東西1・4キロ、南北1・7キロ)だ。居館跡とみられる5世紀後半の石垣などが1989年に見つかった名柄遺跡の南方に当たる。
南郷遺跡群では92年から農地整備に伴って橿原考古学研究所が発掘を始めた。掘るたびに遺構が現れ、遺跡の範囲が広がっていった。最終的に、大型建物や祭祀(さいし)の場、工房などで構成される古墳時代の巨大集落跡と判明した。
その中には朝鮮半島からの渡来人の存在を示す遺構があった。発掘が始まって間もない同年12月、遺跡群の中央付近にある南郷柳原遺跡で、古代史写真家の森和彦さん(77)は変わった遺構と向き合った。
「溝が四角く掘られ、溝の中に柱穴がいくつもあった」と森さん。壁の中に柱を埋め込む朝鮮半島由来の大壁(おおかべ)建物跡だ。石垣を基壇とする東西7メートル、南北9・7メートル以上の長方形で、5世紀前半の築造とされる。周辺では鍛冶関係の遺物も出土した。周辺にある竪穴住居に住む人々を監督し、鉄器を生産した「親方層」の渡来人が住んでいたとみる研究者もいる。
襲津彦の実在は証明されていないが、日本書紀は天皇の命を受けて朝鮮半島に赴いては天皇をいらだたせるユニークな姿を描いている。
神功皇后62年、襲津彦は新羅への出兵を命じられた。書紀は百済の歴史書を引いてこんな経過を説明する。「新羅に美女2人を贈られた沙至比跪(さちひこ)(襲津彦のことか)は別の国の加羅を襲った。怒った天皇は木羅斤資(もくらこんし)を派遣し、加羅を回復した。一説には、沙至比跪はこっそり帰国し、許されないと知って石穴に入って死んだ」
しかし、なぜか神功皇后の子、応神天皇の時代に再び記述が現れる。応神14年、友好関係にあった百済の弓月君(ゆづきのきみ)から「日本に連れて来ようとした大勢の民が、新羅の妨害で加羅にとどまっている」と聞き、応神天皇は襲津彦を現地に派遣。ただ、襲津彦は帰ってこない。業を煮やした天皇が加羅に精兵を送り、新羅王は驚いて罪に服し、襲津彦は民と帰国したという。
森さんはそこに葛城氏と王権との関係性をみる。「襲津彦は複数の人をモデルにしたのだろうか。王権に素直に従わず、独断で動ける勢力だったのかもしれない」【矢追健介】
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