16/09/16 23:26:24.54 CAP_USER9.net
【医師・僧侶の田中雅博氏】
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2014年10月に最も進んだステージのすい臓がんが発見され、余命数か月であることを自覚している医師・僧侶の田中雅博氏による『週刊ポスト』での連載 「いのちの苦しみが消える古典のことば」から、『般若心経』の「般若波羅蜜多」という言葉の解釈を紹介する。
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本連載の最初の6回はお釈迦様の言葉を書きました。その後の10回は西洋の言葉を書きました。今回は再び東洋に戻って、『般若心経』から「般若波羅蜜多」という言葉の解釈をします。
近代科学の領域では、曖昧さが無いように言葉を一義的に定義して用いるので、「言葉の解釈」ということはありえません。古典研究では、古い言葉を読み解くので、言葉の解釈が必要です。解釈とは追体験です。
よく「梅干しが酸っぱい」という言葉の解釈が例に挙げられます。梅干しを食べたことがない外国人に「梅干しが酸っぱい」を追体験してもらうには、「レモンに塩をかけてしゃぶったように」と譬喩(ひゆ)を用いて説明します。すると、口の中が酸っぱく塩っぱくなって、解釈が可能になります。古典に譬喩が沢山書かれているのは、解釈を補助するためなのです。
譬喩には、「何々の如く」と喩えを直接示す直喩のほかに、「筏で彼岸に渡る」というような隠喩があります。ここでの「筏」は仏教を指し示しています。隠喩は西洋の多くの言語でメタファーといいます。メタ(超えて)ファー(運ぶ)です。まさに「筏」は、苦から楽へ、大河を超えて人々を運ぶ仏教のメタファーなのです。
古代インド哲学の課題は「自分が死ぬという苦」でした。お釈迦様は「自分」という執着の要素を空っぽにすることで「死ぬという苦」を解決しました。この状態を「無執着」といいますが、自分に執着しないのであって、他人の不幸にも無執着という意味ではありません。お釈迦様は「筏の譬喩」を用いて「無執着」を示しました。
たとえば、旅人が大河に行き当たりました。河の此岸は苦に満ちていて、彼岸は楽の世界でした。旅人は筏に乗って河を渡りました。彼岸に到達したなら、筏(仏教)をどうすべきでしょうか。旅人は筏を捨てて旅を続けるべきなのです。自己執着を捨てる仏教は、仏教自身に執着しないのです。これが無執着という知恵(般若)の完成(波羅蜜多)です。
般若心経の「般若波羅蜜多」という言葉は古いインドの言葉「プラジニャー・パーラミター」の音写(音を漢字で表した訳語)で、「般若」は知恵、「波羅蜜多」は完成という意味です。さらに「波羅蜜多」は、筏の譬喩から、パーラム(彼岸に)イ(到る)ター(状態)、つまり「到彼岸」と詩的に意訳されました。そして大きな筏に乗せて人々を苦の此岸から楽の彼岸に渡すという運動が起こり、これが中国経由で日本に伝わった大乗仏教です。
このような仏教が日本の伝統文化となり、日本人の宗教となりました。多くの日本人の宗教(価値観)は、西洋の一神教のような「唯一の神を信仰する」という宗教ではなく、自分という執着を捨ててあらゆる生き方を尊重するという平和の宗教なのです。
●たなか・まさひろ/1946年、栃木県益子町の西明寺に生まれる。東京慈恵医科大学卒業後、国立がんセンターで研究所室長・病院内科医として勤務。1990年に西明寺境内に入院・緩和ケアも行なう普門院診療所を建設、内科医、僧侶として患者と向き合う。2014年10月に最も進んだステージのすい臓がんが発見され、余命数か月と自覚している。
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★1:2016/09/14(水) 02:20:29.24
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