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村岡花子が小説「赤毛のアン」の日本初の翻訳を出版した1952年より2年前に、
大分県日田市で英語教師をしていた日本人女性が、著者のモンゴメリらに出版を打診するなど、
翻訳本の出版を計画していたことを示す2通の手紙が見つかった。
この女性は実際に翻訳も手掛けていたとみられる。出版を断念した理由は不明だが、
先駆者の村岡とは別に赤毛のアンを日本へ紹介する試みがあったことを示す
歴史的資料として注目を集めそうだ。【楢原義則】
◇大分の英語教師、著作権者へ打診
出版を計画していたのは、日田市豆田町の旧家「草野本家」の第19代当主・義人(よしと)氏の妻で、
故人の草野覚(かく)(通称・覚子)さん。国の重要文化財にも指定されている大型商家の「草野家住宅」が240年ぶりの大改築を迎え、
6月に本格着工するのを前に古い文書などを整理していた、覚さんの次男で第20代の義輔(よしすけ)さん(67)が手紙2通を見つけた。
1通目は米ボストンにある、赤毛のアンの著作権所有会社から覚さんに宛てた英文の手紙で、
日付は50年7月26日。「モンゴメリと(英国の)出版社宛ての貴方(あなた)の手紙が
転送されてきた。日本での出版の権利は150ドル払えば可能。この物語は日本人の心に
幸せと正しいものの考え方をもたらすでしょう」と書かれていた。
150ドルは当時のレートで5万4000円。大卒程度の国家公務員の初任給(5500円)の約10倍に相当した。
もう1通は、覚さんが家族ぐるみで交際していた、同県玖珠(くす)町出身の口演童話家、久留島(くるしま)武彦からの返書。
50年9月12日の日付で「(赤毛のアンの)十章全編の訳文を携え、講談社大阪支社長を訪ねた」と書かれており、
覚さんが久留島に国内の出版社との仲介を頼み、訳文を託していたことが分かる内容だ。
手紙で久留島は「文章の『どうした、こうした』は、『どうしました、こうしました』の方が読み易(やす)く、
あたたか味があるのでは」とも助言していた。
40年に津田英学塾(現・津田塾大)を卒業した覚さんは東京で英語教師になった後、
42年に結婚。日田市の昭和女子高(現・昭和学園高)で英語教師を務め、
副校長を最後に83年に退職し、2011年に92歳で死去した。
◆草野覚さん
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◆米国の著作権所有会社から草野覚さんに届いた手紙(右の英文)と
久留島武彦からの返書(左)=大分県日田市の草野本家で、楢原義則撮影
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毎日新聞 2015年05月13日 07時30分(最終更新 05月13日 07時44分)
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