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産経新聞 5月5日 9時27分配信
スプートニク・ショック後、第34代大統領、ドワイト・アイゼンハワー(アイク)は戦略転換を迫られた。
アイクはもともと、米軍の通常兵力を削減し、余った予算をICBMやSLBM(潜水艦発射弾道ミサイル)など戦略兵器の開発・増強に回す「ニュールック戦略」を進めていたが、この動きをさらに加速。
63年までにICBMを80基に増やす計画も130基に上方修正した。
そしてアイクは同盟国との関係強化にも躍起になった。
わけても日本の戦略的重要性は抜きんでていた。日本海を隔ててソ連、中国、北朝鮮など東側陣営と対(たい)峙(じ)しているからだ。
駐日米大使のジョン・アリソンは、ダレスに「日本は独ルール地方と並ぶ工業地帯であり、もし共産主義勢力に乗っ取られれば、われわれは絶望的な状況に陥る」と報告していた。
にもかかわらず、日本には、冷戦下の切迫した国際情勢を理解する者はほとんどいなかった。
政界は数合わせの政局に明け暮れ、メディアも安全保障や軍事には無知だった。大統領特別顧問のフランク・ナッシュはこう例えている。
「日本は不思議の国のアリスの夢の世界のような精神構造に置かれている」
ただ、昭和32(1957)年2月に第56代首相に就任した岸信介は違った。
岸は戦前に革新官僚として統制経済を牽(けん)引(いん)し、東條英機内閣で商工相を務めたことから、戦後はA級戦犯として巣鴨拘置所に収監され、不起訴となった経歴を持つ。
国際情勢を見誤れば、国の行く末が危ぶまれることは骨身に染みていたのだろう。
それでも岸が就任直後に掲げた公約は、汚職・貧乏・暴力という「三悪」の追放だった。安全保障に関しては「対米関係の強化」「日米関係の合理化」という言葉しか使っていない。
その裏で、岸は就任当初から旧日米安全保障条約改定に狙いを定めていた。
昭和26(1951)年9月のサンフランシスコ講和条約と同時に締結した旧安保条約は、在日米軍に日本の防衛義務がないばかりか、条約期限も事前協議制度もなかった。
しかも日本国内の内乱に米軍が出動できる条項まであった。岸はかねて「これでは米軍が日本全土を占領しているような状態だ」と憂慮していた。
女婿で毎日新聞記者から秘書官となった安倍晋太郎(後の外相、現首相・安倍晋三の父)が「得意の経済で勝負した方がよいのではないですか」と進言すると、岸は鼻で笑った。
「首相とはそういうものじゃない。経済は官僚がやってもできる。何か問題が生じたら正してやればよいのだ。首相であるからには外交や治安にこそ力を入れねばならんのだ」
にもかかわらず、安保条約改定を掲げなかったのは対米交渉の難しさを実感する苦い経験があったからだ。
昭和30(1955)年8月、岸は民主党幹事長として外相の重光葵の訪米に同行した。国務長官のジョン・ダレスとの会談で、重光は唐突に
「日本は現行条約下で増大する共産主義の宣伝工作に立ち向かわなければならない。共産主義と戦うための武器がほしい。これを条約改定で得たい」と安保改定を求めた。
だが、ダレスはけんもほろろに言い放った。
「偉そうなことを言うが、日本にそんな力はあるのか? グアムが攻撃されたとき、日本は米国を助けに来られるのか?」
屈辱ではあったが、やりとりを聞きながら岸は「ダレスが言うのももっともだが、やはり日米安保条約は対等なものに改めなければならない」と感じ入った。
以後、岸は安保条約改定を最大の政治課題と位置づけ、首相就任直後から着々と布石を打っていくが、日米両政府が公式に改定交渉で合意したのは昭和33(1958)年9月11日。その秘密主義は徹底していた。
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アイクは、岸の首相就任を心から歓迎した。日米同盟を強化させる好機だと考えたからだ。岸は戦前に駐日米大使を務めたジョセフ・グルーらと親交があったこともあり、
岸の去就はかねて米国から注目されていたが、アイクには岸の頑強な「反共」「保守」の姿勢が頼もしく映ったようだ。
条約改定は一国の意向では動かない。安全保障に関わる事案はなおさらだ。岸とアイク。
この極めて個性の強い日米首脳がくしくもそろい踏みとなったことで安保条約は改定に向けて動き出した。(敬称略)
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