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竹島 食い違う見解
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竹島(韓国名・独島=トクト)は、日本が国有化した尖閣諸島とは違って、韓国が実効支配している。ロンドン五輪のサッカー男子日韓戦では、
韓国選手が「独島は我が領土」と書いたプラカードを掲げて物議を醸した。この小さな島を巡って、なぜ日韓の主張はすれ違うのか。(武田肇、広島敦史、箱田哲也)
韓国「6世紀から統治」
竹島は、日本海に浮かぶ絶海の孤島だ。四方は文字通りの断崖絶壁で、飲料水の確保は難しい。
漁民が暮らす隠岐諸島や韓国の鬱陵島(ウルルンド)からも遠く、昔から人々の定住を拒んできた。
その島がいずれに属するかをめぐる日韓政府の論争は、国境線の概念が希薄だった近世以前までさかのぼる。
朝鮮王朝の文献や地図にたびたび登場する「于山島(ウサンド)資料1」。韓国政府はこの島が竹島であり、古くは新羅時代の6世紀から統治してきたとしている。
しかし、多数の島民がいるといった記述や、鬱陵島の西側に描かれた地図があり、明らかに竹島の特徴や地理と異なる史料も少なくない。
日本政府は「于山島とは、鬱陵島または実在しない島を指す」と断じている。
日本「17世紀から領有」
日本側はどうか。野田佳彦首相が8月の会見で言及した「遅くとも17世紀半ばには領有権を確立した」とするのが公式見解だ。
江戸幕府から鬱陵島への渡海免許を受けた鳥取藩の町人が、途中にある竹島を航行の目標に使っていたことを主な根拠にしている。
朝鮮王朝は当時、鬱陵島に人がいれば海賊の倭寇(わこう)が攻めてくるおそれがあると考え、島民を本土に移住させる「空島政策」をとっていた。
幕府の公認を受けた大谷、村川の両家は、鬱陵島に交代で渡ってアワビやアシカをとり、アワビは将軍家にも献上していたが、
韓国はこれを「無人の島を利用した不法操業」ととらえている。
反論として日本は、海外への渡航を禁じた1635年の鎖国令の後も、鬱陵島や竹島への渡海は禁じておらず、外国領との認識はなかったとしている。
鬱陵島の帰属問題は、17世紀末の両国の交渉で決着を見る。交渉は、大谷家が鬱陵島で朝鮮人の安龍福らと遭遇したことがきっかけで始まった。
大谷家は安龍福を本土に連れ帰り、幕府に朝鮮人の鬱陵島への渡航を禁じてもらおうとした。だが、朝鮮側が応じなかったため、
幕府は1696年、隣国との友好関係を尊重し、鬱陵島を朝鮮領と認め、日本人の渡航を禁じた。
この禁止令に竹島が含まれるのか否かで、日韓は真っ向から対立する。
幕府は前年、鳥取藩から「竹島は藩領に属さない」との回答資料2を得ていた。これらをもとに韓国側は、禁止令に竹島も含まれていたとし、
韓国領と確認されたと主張。日本側は、禁止令が竹島に触れていないことなどから、渡海は禁じられておらず、幕府が竹島を領土と考えていたのは明らかだとしている。
禁止令後に再来日した安龍福の証言資料3をめぐっても争いがある。日本と同じく鎖国下の朝鮮に戻った安は、
国外に渡航したかどで逮捕された。韓国では、竹島が朝鮮領であることを日本側に認めさせたとして英雄視されているが、
日本は「帰国後の取り調べでの供述がもとになっていて、矛盾が多く信用できない」としている。
漁業資源は豊富 地下資源はない
竹島は、島根県・隠岐諸島の北西約157キロの日本海にある。韓国からは鬱陵島の南東約92キロに位置。江戸時代には「松島」と呼ばれ、
1905年の島根県編入時に竹島と命名された。韓国では独島といい、第三国ではリアンクール岩礁と呼ばれることがある。
日本では島根県隠岐の島町に属し、韓国では慶尚北道鬱陵郡に属している。
高さ168メートルの西島(男島)、98メートルの東島(女島)の二つの小島と、周辺の数十の岩礁からなる。
総面積は0.21平方キロで、東京ドーム約5個分の広さ。二つの島は海面からそびえたつ火山島で、飲料水に乏�