15/02/17 02:27:19.93 *
産経新聞より抜粋
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「城内は空っぽでした。兵隊どころか、住民も、誰もおらんでした」
南京攻略戦に参加し、昭和12年12月13日の陥落後に南京城に中華門から入城した元陸軍第6師団歩兵第47連隊の獣医務曹長、
城光宣(じょうこうせん)(98)の目の前には、無人の市街地が広がっていた。
少し前まで、門をめぐって日中両軍の激しい攻防戦が繰り広げられていたが、壊滅状態になった中国軍兵士が城外へ一斉に逃げ、
城内は一転して静寂に包まれていた。中に入ると、厚さが約40センチもある門扉の内側に、進入を阻むための土嚢(どのう)ががっちりと
積まれていたのを覚えている。
南京城の広さは約40平方キロメートル、JR山手線が囲む面積の3分の2程度だ。城内には、れんが造りの平屋の民家が多かったが、
どれも無人だった。住民らは城内に非武装中立地帯として設けられた「安全区」に逃げ込んでいた。
「無抵抗の民間人を殺すのが虐殺。だが、人がおらん以上、虐殺があるはずがなか」と城は断言する。
当時の軍隊に欠かせない馬を管理する任務を帯び、前線部隊と行動をともにしてきた城は、戦闘の様子をつぶさに見てきた。
多数の死傷者を出しながらも11月中旬に上海を攻略した日本軍は、長江(揚子江)の上流約300キロにある南京を目指した。当時、
中華民国の首都だった南京は周囲を堅牢(けんろう)な城壁で囲まれ、約20の門があった。
中華民国トップの蒋介石は11月中旬、内陸にある重慶への遷都を決断し、12月7日に南京を脱出。南京市長ら要人の脱出が続く中、
日本軍は降伏を勧告したが、拒否してきたため12月10日、総攻撃を開始した。
上海攻略戦で杭州湾に敵前上陸した第6師団も、南京に向けて敵と交戦しながら進軍。南京の南側から攻撃に参加した。
「それは激しか戦いでした」。城らの前には、高さ20メートルほどのれんが造りの城壁がそそり立っていた。城壁に構えた敵陣地からの
攻撃、城壁の前に横たわった水濠(すいごう)が行く手を阻んだ。
「重砲や野砲で徹底的に敵をたたいて、収まったころ壁にはしごをかけて日本の兵隊がよじのぼって占領していったとです」
戦後、東京裁判はこう断定した。
「南京占領直後から最初の2、3日間で少なくとも1万2千人の�