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史料から見る日本の処女信仰~三途の川と結びついていた処女信仰~
【大和物語』百十一段 平安時代の中期、十世紀】
~ この世には かくてもやみぬ 別れ路の 淵瀬をたれに 問ひてわたらむ~
現代訳:この世ではこのままでもすんでしまいます。しかし、死んでから、
三途の川を渡るときは、淵瀬をだれにたずねて、渡ればよいのでしょうか。
(はじめて契った人に手を引かれて渡るということですけれどもね)
大膳職の長官、橘公平のむすめたちは県の井戸という所に住んでいた。長女でいらっしゃる方は、
醍醐天皇の后である藤原穏子の宮に、少将の御と呼ばれてお仕えしていた。三女にあたる方は、
備後守源信明が、まだ若かったときに、最初の夫にしていた。通ってこなくなったとき詠んで
やった歌である。(日本古典文学全集『竹取物語・伊勢物語・大和物語・平中物語』小学館。)
先の歌の「別れ路」とは、この世と別れて冥土へ行く路、三途の川を渡る路、
よみじのことである。この歌からみて、女は死後、「はじめの男にしたりける」男
(はじめて夫婦の契をかわした男)、すなわち、はじめて性交をした相手に手を引かれて
三途の川を渡るという俗信が、十世紀ころには、すでに信じられていたことがわかる。」
『平安朝の女と男 貴族と庶民の性と愛』服藤早苗 著 P1~2
また地蔵菩薩発進因縁十王経(十一世紀末ころ成立)にも、三途の川に奪衣婆と懸衣翁の
二人の鬼がおり、
「初開の男を尋ねてその女人を負わせ、牛頭、鉄棒をもて二人の肩を挟み、疼き瀬を負い渡す」
とあり、女を追い立てて三途の川を渡すときは、その女の体を初めて開いた男を尋ねて、その男に
女を負わせるという。『道綱母集』にも、後深草院二条の『問はずがたり』にも同様な表現がある。
これらを参照して絵巻物を繙くと、『北野天神縁起』に描かれている男を女が背負って逃げる例
など、まさに庶民的な身体的情愛を表現する絵と解釈できるとされている(『中世の愛と従属』平凡社)。