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島田俊彦『関東軍』(1965年、中公新書)176頁
原善四郎参謀が兵隊の欲求度、持ち金、女性の能力等を綿密に計算して、飛行機で朝鮮に出かけ、約一万(予定は二万)の朝鮮女性をかき集めて北満の広野に送り、施設を特設して〝営業〟させた、という一幕もあった。
秦郁彦『昭和史の謎を追う』〔下〕(1993年、文藝春秋)334~335頁
第41章 従軍慰安婦たちの春秋(上)
関特演は対ソ戦の発動に備え演習の名目で在満兵力を一挙に四十万から七十万へ増強する緊急動員だったが、
島田俊彦『関東軍』の記述や千田夏光が主務省の関東軍後方参謀原善四郎元中佐からヒアリングしたところでは、
約二万人の慰安婦が必要と算定した原が朝鮮総督府に飛来して、募集を依頼した(千田『従軍慰安婦』正篇)。
結果的には娼婦をふくめ八千人しか集まらなかったが、これだけの数を短期間に調達するのは在来方式では無理だったから、道知事→郡守→面長(村長)というルートで割り当てを下へおろしたという。
実際に人選する面長と派出所の巡査は、農村社会では絶対に近い発言力を持っていたので「娘たちは一抹の不安を抱きながらも〝面長や巡査が言うことであるから間違いないだろう〟
と働く覚悟を決めて」応募した。実状はまさに「半ば勧誘し、半ば強制」(金一勉『天皇の軍隊と朝鮮人慰安婦』)になったと思われる。