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1945年8月上旬、旧日本海軍は本土決戦に備えた特攻作戦を極秘裏で進めていた。
その部隊の編成作業に旧海軍大尉の磯部利彦さん(93)=横須賀市ハイランド=は携わった。
敗戦後、磯部さんは戦争に突き進んだ軍国主義に絶望し、反戦へと考えを改める。自らの信条を再構築する
長い道のりだった。そしてこの夏、呵責(かしゃく)の念と反戦の思いを込めて後世に伝え残したいことがある。
磯部さんのいた第10航空艦隊司令部は海上ではなく地中にあった。同司令部は茨城県・土浦の里山に造られた地下トンネルの中で指揮を執っていた。
松江市生まれ。41年3月に海軍兵学校を卒業後、戦艦「大和」の試験航海に乗り組むなどした。艦上攻撃機の飛行学生を経て、霞ケ浦海軍航空隊(茨城県)の教官を務めた。
「本土上陸」もささやかれた45年7月、第10航艦司令部付きの航空乙参謀になった。
連合艦隊司令長官から本土決戦に備えた「決号作戦」の特攻隊の編成を命じられた。
裸電球がぶら下がる薄暗い地下室で2、3日かけて作業に集中した。「要するに現況図の作成を任された。
今どこの航空隊にどれだけの戦力が残っているか。人数? ありったけ、全部ですよ。勝算があってやる作戦ではない。
それほど追い詰められていた」。全国約10あった練習航空隊から教官をはじめ、訓練生まで約700人を見積もった。
実戦に使わない練習機の百数十機をリストアップ。「それに爆弾をくくり付けて敵艦に突っ込む。
惰性で戦争を続けて最後は本土決戦なんて、とんでもないことをやろうとしていた」
沖縄戦で18万人超の尊い命を失う絶望的戦況の中でも「一億玉砕」を唱えるなど、
軍国主義が醸成する異常な世相が多大な犠牲を生んだ。結局、作戦は実行されなかったが、
「もし、特攻が実施されていれば、おそらく何百人もの戦闘員が海の藻くずになっていた。幸いにしてその前に8月15日を迎えた」。
だが、職業軍人の磯部さんを待っていたのは、想像を絶する厳しい現実だった。
磯部さんにとって、終戦は「失職」を意味した。新婚の身で公職追放となり、
新たな食いぶちを得るのにも厳しい道が控えているのは予感していた。だが、「想像以上だった」と振り返る。
経済面のみならず深刻だったのは、「思想的にもすっかり虚脱状態になった。それまでは軍国主義だったが、
間違いだった。じゃあ、何が正しいのかということが簡単につかめなかった」。たたき込まれてきた教えが、敗戦とともに根本から覆されたのだ。
周囲の目も一変した。霞ケ浦海軍航空隊(茨城県)で教官を務めていた1944年6月、訓練中に空中火災事故に遭った。
全身にやけどを負い、三日三晩、生死をさまよう重体。顔に整形手術を施す大けがだったが、同乗していた訓練生を先に脱出させたことで英雄視された。
「私の傷痕は終戦の8月15日までは立派な勲章だった。どこでも大威張りで出入りできたけど、戦争が終わって敗戦軍人になると、
勲章でも何でもなくなった。単なる醜い顔になるわけで、それはショックだった」
自宅で写真館を始めたが鳴かず飛ばず。その後も職を転々とし、「泥水をすすり、草をかむような貧乏暮らし」を送った。
軍国主義に絶望し、職場での労働運動をきっかけに反戦、平和思想に傾倒するようになった。80年に民間航空会社を定年退職した
後は「日中友好元軍人の会」などに入り、戦争体験を語る活動を続けた。
安倍政権が集団的自衛権の行使容認に踏み切った今、日本を取り巻く安全保障政策の変容に危機感を覚える。
「一つの大きな壁を破った。戦争へ戦争へと向かっている気がする」と懸念する。
「戦争は一つの方向性が決まるとやめられなくなる。始めるのは簡単だが、やめるのは大変。安倍首相は戦争を知らない。
戦争を何か格好いいものと考えているようだが、とんでもない間違い。戦争ほど残酷なものはない」。残り少ない体験者の叫びだ。
69回目の終戦の日を迎えたこの日、磯部さんは自宅で静かに過ごした。胸に去来するのは、「一言で言えばおわびですね。世の中に対する謝罪。
末席ではあったが、私も幕僚の一員だった。本来なら戦争体験を語る資格はない。今まではそういうことをあまり考えなかったが、最近はつくづく感じる」。
海軍兵学校時代の仲間は年々減り、首都圏で存命している同期は磯部さんだけという。自身もこの先いつまで語り継げられるか。
戦争に加担した自己批判から歩み出し、反戦の信条を築き上げてきた69年。導き出した使命は明快だ。「命ある限り、戦争反対のために尽くしていく」
【神奈川新聞】
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語り継ぐ戦後69年