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太平洋戦争末期、旧日本海軍の人間魚雷「回天」を搭載する潜水艦の設計に携わった金 沢市黒田2丁目、
会社役員杭田(くいだ)忠(ちゅう)三(ぞう)さんが当時の経験を語 った。「自分も含めて皆死ぬと思っていた。
回天に特別な感情はなかった」。これまで家 族にもほとんど話さなかったが、14日に90歳の誕生日、
15日に終戦記念日を迎えた のを機に重い口を開いた。
1924(大正13)年、杭田さんは岡山県の旧御津(みつ)郡に生まれた。高等小学 校を卒業後、
16歳で艦艇などの開発・製造を担う広島県呉市の海軍工廠(こうしょう) に入った。
1939(昭和14)年から終戦までの6年間、40人程度の造船部潜水艦班 に所属し、
回天を搭載する伊号潜水艦の設計に当たった。回天を潜水艦に取り付け、
正常 に作動するかどうかを確認する実験などを行った。潜水艦を造る材料がなくなり、ベニヤ 板の小舟に500キロの爆弾を載せ、特攻用の舟にしたこともある。
寝ても覚めても戦争、戦争。神風が吹くから日本は負けないと教えられた。
逆らうこと も疑問を持つことも許されない。しかし、ミッドウェーやガダルカナル島での戦果の報道
実際に帰ってくる船艇の数が合わなかった。いつしか、「勝てるわけがない」という 気持ちが芽生えた。
回天の乗組員と接する機会はなかったが、乗組員と話した潜水艦班の先輩が「かわいそ うだ」と漏らしたのを覚えている。
死を覚悟しても出撃を目前にすれば死にたくないと思 う。それでも口には出せない空気が流れていた。
当時は潜水艦などの設計に疑問を持たなかった杭田さんだが、戦後、「悲劇の作戦」の 実情を知った。
回天は、ほかの特攻兵器に比べて成功率が低く、訓練中の事故死も多かっ た。回天が実戦に使われた
9カ月間で撃沈した敵艦は3隻、回天の出撃で命を落とした若 者は106人に上った。
「これほど戦果がないとは思わなかった。命を軽んじ、無責任な 作戦を立てた軍の責任は重い」。
工場も毎日のように爆撃された。杭田さんの下宿先も焼夷弾(しょういだん)で焼けた 。
杭田さんは「ひもじくて不自由なことばかりだったが、つらいとは思わなかった。国の ために死ぬのは当たり前だった」と振り返る。
原爆投下の日のことも鮮明に記憶している。爆心地から約20キロ離れた工場でも「ピ カッ」と光り、
ドーン」という爆音が響いた。爆心地の近くから移動してきた人々の顔 に油が塗られていると思ったら、焼けただれた皮膚だった。
「思い出すのも嫌だった。戦時中は全てが異常だった」。これまで戦争を語らないこと にしていたという
杭田さんは「玉砕の思想で罪のない人がたくさん死んだ。大きな犠牲を 払ったのだから、戦争のない平和な国をつくらなくてはいけない」と、不戦の誓いを新た にした。
人間魚雷「回天」 乗組員もろともに体当たりし、命と引き換えに敵艦を沈め、
戦局を 挽回させるとうたわれた。弾頭の炸薬量は1・55トンあり、空母をも沈没させる破壊力 があった。
URLリンク(www.hokkoku.co.jp)
「特別な感情なかった」 「回天」搭載の潜水艦設計 金沢の杭田さん
URLリンク(www.hokkoku.co.jp)
潜水艦の資料を見ながら、当時を振り返る杭田さん
1の 投稿日:2014/08/17(日) 11:59:57.12
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