14/08/16 22:59:42.25 4Vgww6Dg0
>>11
白馬事件
当時スマランには既に慰安所があったが、性病の蔓延から新たな慰安所の設置が計画。
慰安所設置を要請された幹部候補生隊長は、慰安所には自由意思の者だけ雇うようにという
ジャカルタの第16軍司令部のガイドラインを無視し、複数の将校と慰安所業者が、
ハルマヘラ抑留所、アンバラワ抑留所、ゲダンガン抑留所から17歳から28歳の合計35人のオランダ人女性を
強制的に集め、スマラン市内のカナリ通りの建物で日本語で書いた趣旨書への署名を強制した後、
スマランの4つの慰安所(将校倶楽部、スマラン倶楽部、日の丸倶楽部、青雲荘)に連行した。
3月1日から営業を始めた。
しかし自分の娘を連れ去られたオランダ人リーダーが、陸軍省俘虜部から抑留所視察に来た小田島董大佐に訴え、
同大佐の勧告により16軍司令部は、1944年4月末に4箇所の慰安所を閉鎖した。(2か月間営業)
終戦後の1948年、バタビア臨時軍法会議でBC級戦犯として11人が有罪とされた。
罪名は強制連行、強制売春(婦女子強制売淫)、強姦である。有罪者は、軍人および慰安所を経営していた日本人業者等であり、
責任者である岡田慶治陸軍少佐には死刑が宣告された。
また、中心的役割をはたしたと目される大久保朝雄(広島出身)陸軍大佐は戦後、日本に帰っていたが軍法会議の終了前に自殺した。
裁判では、慰安婦にされた35人のうち25名が強制だったと認定された。