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(>>1の続き)
◇無数の悲劇、伝える責任??八杉康夫・「戦艦大和」元乗組員
戦争は地獄だ。悲惨な体験をした人こそ、その実態を伝えることができる。
私は1945年4月、米軍が上陸した沖縄に向けて特別攻撃隊(特攻)として出撃した「戦艦大和」の乗員で17歳だった。3000人以上
が戦死し生還者は300人に満たなかった。戦後に生還者や遺族らによって「大和会」が結成され、先輩たちが「大和」の歴史を伝えて
いた。
しかし、そうした人たちが次々と亡くなった。戦争の、特攻の悲劇を伝える人がいなくなってしまうと思い、25年ほど前から自分の体験
を講演や学校の授業などで話すようになった。これまでに北海道から鹿児島まで、600回以上、話をしている。
本当の戦争は、バーチャルなゲームとは違う。無数の悲劇を生む。たとえば米軍機の攻撃を受けた「大和」の甲板は血だらけで、
あちこちに死体や負傷者が横たわっていた。衛生兵が、ちぎれた腕や足を海へ投げ捨てていた。
沈没後は重油の海を漂った。駆逐艦が救助のためにロープを下ろしてくれたのだが、生存者が奪い合った。「どけー、俺のだあ」など
と怒号が飛び交っていた。階級も年齢も関係なかった。本当の修羅場で、人間の本性をみた気がした。
その後、呉で海軍陸戦隊に配属になった。広島に原爆が投下された翌日の8月7日、救助活動のため現地に入った。街には黒こげに
なった遺体がたくさんあった。身元が分かるはずもなく、引き取り手もほとんどみつからなかっただろう。3日間作業をして、私自身も
被爆した。戦後は後遺症に苦しんだ。
「大和」もそうだが、近年「特攻」が映画や小説などで注目されているようだ。
家族や国を思い「特攻」で亡くなった若者たちは、尊いと思う。私は彼らの遺影や遺書をみると、自然に涙が流れ、手を合わせる。
しかし、特攻という作戦自体は間違っていた、と伝えたい。若い人が死んでしまったら、その国はどうなってしまうのか。
ただ戦争を始めた当時の為政者を責めるつもりもない。当時はまさに帝国主義の、食うか食われるかの世界だった。為政者たちは
そういう時代の教育を受け、その時点では適切と思った決定をした。彼らを今の価値観で裁いてみても、説得力は乏しいはずだ。
一方で、その歴史から学ぶべきことは多い。たとえば当時の日本は「自存自衛のため」と戦争を始めたが、資源の少ない日本が
自存自衛できるわけもなく、共存共栄しかなかった。それは現代でも同じだ。さらに外国の領土に色気を出したり、国家間の対立を
武力で解決しようとしたりすると、大きなつけが回ってくる、ということも語り伝えなければならない。過去の戦争を美化するような人には
「それなら、実際に戦争を経験してみろ」と言いたい。
私は「大和」の沈没と原爆で2度地獄からはい上がってきた。死んでいった人たちのことを伝えるのが使命だ。今後も体が続く限り
戦争の実態を伝えたい。しかし、そう遠くない将来、我々のような戦争体験者はいなくなるだろう。
教員から体験談を求められたり新聞やテレビの取材を受けたりすることが多い。ほとんど応じている。教育やジャーナリズムは
今後一層、戦争の実態をしっかりと学び、伝える責任があると思うからだ。【聞き手・栗原俊雄】
■人物略歴
◇やすぎ・やすお
1927年広島県福山市生まれ。15歳で海軍に志願。戦後は音楽家となり楽器の調律事務所も経営。著書に「戦艦大和 最後の
乗組員の遺言」。
(さらに続きます)