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ソース(毎日新聞) URLリンク(mainichi.jp)
第二次世界大戦の敗戦から69年がたった。最前線で戦った人たちはもちろん、「銃後」にあって空襲や飢えなどに苦しんだ人たちも
高齢化し、そうした体験を聞き取ることが難しくなっている。一方、国内では若者の右傾化が指摘されるなど社会情勢は大きく変化して
いる。今後、私たちの社会は悲惨な体験や記憶をどう語り継いでいったらいいのだろうか。
◇悲惨さ隠し美化する危険??星野智幸・作家
東日本大震災のショックで人恋しくなったのか、ここ数年、僕は旧友たちに立て続けに会った。ある男性は、昔と変わらずに懐かしく
感じた一方で、ふと韓国や中国の話になると「あそこだけは行きたくない」と激越な調子になって驚かされた。かつて政治には全く無関心
だったのに、急に国防問題を持ち出す友もいた。自衛隊の存在を誇り、その意義を得々と語るのだ。
僕が知っている友人たちとは似て非なる物言いだった。そして、そんな例が何人も続いたのだ。仕事がないとか家庭崩壊とか、特段の
苦境にある人たちではない。マジョリティーがそうなっていることを怖いと感じた。過去の戦争が美しい物語として記憶され始めている
背景には、そのような変化があると思う。
彼らは職を失いはしていなくても、職場環境は悪化している。非正規雇用は増える一方だ。正社員にも過大な責任が課され、本来の
職務を十分に果たしきれない。誰もが自分への価値を見失っていく。そこへ大震災が起こり、先の見えない不安が強まる。代わりに
アイデンティティーを与えてくれる組織なり共同体なりを渇望していたところへ、日本の正しさや強さを強調されると、多くの人が簡単に
取り込まれてしまった。
戦争は美しくも格好良くもない。人間の手足が吹き飛び、内臓が飛び出す。極めてグロテスクだ。ところが、社会から必要とされて
いないと感じて苦しむ人たちは、戦争の悲惨さを想像する余裕がない。戦争のもたらす痛みより、今の自分の苦しさの方が重く、それを
解消してくれるなら戦争をも肯定してしまう。
近年、戦争を描く小説や映画で最も求められるのは「泣ける」こと。冷徹なリアリズムは敬遠される。涙は現実の悲惨さを感動に変えて
しまう。泣かせるための装置が「自己犠牲」だ。あの犠牲は、他人のために意味があったのだ、と。日本が起こした昭和の戦争は間違って
おらず、特攻隊をヒーロー視して感謝する、国家規模の大きな物語が人気を集める。失われつつある自らのアイデンティティーが救われる
からだ。東日本大震災後の「絆」の連呼も同じこと。千差万別の津波被害や原発事故の物語が、分かりやすい大きな物語にまとめられて
しまう。それが今、歴史の解釈にまで及んでいる。
だが冷静に考えねばならない。そこで払われた犠牲は国家のためだ。その国家は国民を守ったのか。社会をよくしてくれたのか。
戦時中はさんざん命を使い捨てにした揚げ句、都合よく英霊に祭り上げた。今後も同じことが起こるだろう。それを今、最も苦しんでいる
人たちが受け入れ、求めてしまっているのだ。
これまで新聞をはじめとするジャーナリズムが取り組んできた、個々の戦争体験者を探し出して実態を伝える手法は、社会が渇望して
いる物語とはすれ違っている。しかし、やめてしまえば戦争の個々の事実はなかったことにされてしまう。言葉にしておくことは決定的に
大事だ。
感動を目的とした一元的な大きな物語は、歴史の中の矛盾する事実を切り捨ててしまう。それを消さずに小さな物語の集まりとして
描けるのが文学だ。個々人の体験をフィクションに変換しながら、あくまでも個人的な言葉で語るからだ。大きな物語のいかがわしさを
破る力が、そこにはある。【聞き手・鶴谷真】
■人物略歴
◇ほしの・ともゆき
1965年米国生まれ。早稲田大卒。新聞社勤務後、メキシコ留学。「俺俺」で2011年大江健三郎賞。最新刊に「夜は終わらない」。
(>>2以降に続く)