【歴史】「仲間がバタバタ死んでいった。そりゃあ、みじめなものでしたよ」…シベリア抑留に耐えた平野さん、「戦争は絶対にいかん」★3at NEWSPLUS
【歴史】「仲間がバタバタ死んでいった。そりゃあ、みじめなものでしたよ」…シベリア抑留に耐えた平野さん、「戦争は絶対にいかん」★3 - 暇つぶし2ch1:Hi everyone! ★@転載は禁止
14/07/20 22:23:30.73 0
ソース(両丹日日新聞) URLリンク(www.ryoutan.co.jp)
写真=弘前からずっと行動を共にしてきた水筒、飯ごうを手に抑留体験を語る平野さん
URLリンク(www.ryoutan.co.jp)

 世界記憶遺産への登録を目指すシベリア抑留と引き揚げの資料。引き揚げは舞鶴だけのことではなく、日本全国にかかわりがある。
福知山市にも多くのシベリア抑留者が帰郷してきた。半田の獣医師、平野力さん(90)も、その一人。体験してきたことを問うと、「仲間が
バタバタと死んでいった。そりゃあ、みじめなものでしたよ」と、静かに語り出した。

■「ダモイ、ダモイ」にだまされ 貨車はシベリアへ向かった■

 市内拝師の生まれ。現在の岐阜大で学んで獣医師になり、昭和19年10月1日に弘前の連隊へ入隊。10日ほどで大陸へ渡った。
関東軍に着任した頃には、南洋で玉砕、撤退が続き、人も物資もどんどん南方へと移していた。満州に残っている部隊は「鉄砲の
撃ち方も知らない者ばかりになっていました」。開拓団などから「根こそぎ動員」で現地召集された人たちで補充していたからで、
敗戦、武装解除を経てソ連軍の指揮下に入り、シベリアへ移送された日本兵の中には、こうした「つい先日まで開拓民」だった人も
多かったという。

 移送は貨車。家畜か荷物のように詰め込まれて満州を後にした。「ダモイ(帰る)、ダモイ。トーキョー・ダモイ」とソ連兵がしきりに
言う。「日本へ帰れる」と喜んだ者もいたが、平野さんは「そんなに甘くないはず」と身構えていた。懸念の通り、列車はどんどん北へ
向かい、シベリアの荒野へと連れて行かれた。

 「日本海だ、やっぱり帰れるんだ!」と喜んだ者もいたバイカル湖を過ぎ、シベリア鉄道は延々走る。まだ10月になったばかりと
いうのに、外は零下で車内は震えるほど寒い。途中で止まるたび、ソ連兵が「トケイ、トケイ」と時計を奪っていく。抵抗できるわけも
なく、されるがまま。これから自分たちがどうされるのか分からない恐怖。

 「戦争でヘトヘトになっていたところへ、抑留でしょ。敗戦で心の支柱が無くなり、これから先の不安ばかり。食べる物もなく、みんな
無力感でいっぱいでした」
 
■バラックの収容所 わずかな黒パン分けあい■

写真=舞鶴引揚記念館所蔵のラーゲリ(収容所)模型。見張り台と銃が日本人抑留者たちの自由を奪った
URLリンク(www.ryoutan.co.jp)

 送り込まれたラーゲリ(収容所)は馬小屋と同じ粗末なバラックだった。寝床は2段になっていて、凍える夜にも毛布が一人に、ただ1枚。
周囲には電気を流した鉄線が張り巡らされ、見張り台からは絶えず自動小銃が見下ろしている。「逃げれば撃たれても文句を言えんと
いうことです」

 食べ物といえば、日本人にはなじみのない黒パンぐらい。それも「ソ連兵や上のもん(将校ら)が順にピンハネするから、わたしら
兵隊のとこには、わずかしか来ない」。幹部候補生の試験を受け、見習士官で終戦を迎えた平野さんだが、収容所では一般兵扱い。
わずかなパン、そして「野菜クズがほんの少し浮いた、顔が写るぐらい透明な」スープをみんなと分け合った。

>>2以降に続く)

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