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日本の公教育は「ここがもったいない」!”オール公教育”で大臣に。竹中平蔵さんに聞く
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日本の公教育は、「許容度」が低すぎる?
―「子どもたちはグローバル化する社会を生き抜けるのか」という不安を、多くの親が抱いています。
特に働く親たちは、自身の職場環境が激変していく中で、これまでとは違う教育の必要性を身にしみて感じています。
一方、公教育は学力の底上げを優先しますから、出るくいを打つことが多い。この教育を受けていて、大丈夫なのか?というのが、取材・執筆のモチベーションのひとつです。
公教育が担う機会平等の担保と、リーダーの養成という要素はバランスできると思います。どちらか片方しかできない、
ということはない。アメリカは公立学校でも、成績優秀な子はエリートコースに勧誘されることがあります。
すべての子どもが同じ教育を受けなくてはいけない、というのは、おかしな話です。
背が高い人と普通の人は、それぞれ異なる、自分に合ったサイズの服を着るでしょう。それと同じ話です。
グローバル化で大切なのは、異質なものを受け入れ許容するマインドセットだと思います。
勉強が得意な子もいればそうでない子もいる。お互いに違うものを受け入れて、それぞれ能力を伸ばしていけばいいのです。
そこで大事なのは、どんな子も機会が保障されるという、機会平等の発想です。
―ご自身は和歌山県ご出身で、小学校から大学まで、国公立の学校で教育を受けています。
そうです。私は昭和30年代に田舎の公立学校に通っていました。当時はいい意味でシンプルだったと思います。
先生は「勉強しなさい」と言い、親は先生を尊敬して「先生の言うことを聞きなさい」と、子どもに話していました。
日本がまだ貧しかった時代の田舎に、よき公教育が根付いていたものです。
現在のほうが、いろいろ難しい問題がありますが、アメリカの事例を見ていると、基本に立ち返ってきちんとすればいいと思います。
たとえばいじめをやめない子どもがいたら、学校をやめさせればいい。義務教育の期間なら、別の学校に行かせればいい。
日本の現状では、先生がすべて引き受けざるをえず、結果として手に余ってしまい対処しきれず、いろいろな問題が起きています。
逆にいじめられっ子の立場で考えると、無理に学校に行かなくてもいい。逃げ場がないのはつらいです。
社会に出れば嫌な人もいるのが当然です。別の場所に移る、という発想がもっと広まったらいいと思います。
―最近、政府もグローバル教育関連の政策を打ち出しています。
イノベーションに詳しい経営者の齋藤ウィリアムさんの言葉を借りれば、
「政府主導でイノベーションが起こる確率は、男性が子どもを産む確率より低い」ということです。グローバル教育についても、
同じことが言えて、官が焼け太りするメカニズムになってはいけない。公設民営の学校を作ったり、メーカーの技術者が学校で新しい技術を教えたり、
商社マンがグローバル人材の育成について話すなど、民間の力を利用してできることがたくさんあると思います。
ここで壁になるのは、教職免許です。慶応SFCにはインターネットの第一人者、村井純教授がいます。
彼の学生がITを教えると、子どもの上達がとても速い。でも、教職免許がないから学校のカリキュラムに入れるのが難しい、と
いう実情もあります。教職免許は1回取ればずっと仕事ができますが、更新制にすべきだと思います。
―本気でグローバル教育をやるなら、根っこにある規制や既得権益に切り込まなくてはいけない、ということですね。高等教育については、いかがでしょう。
文部科学省が大学に出している運営交付金などのあり方を根本的に変えるべきです。現在、国公立大学と私立大学では
補助金の額が大きく違います。私は、これをすべて「競争的研究資金」に変更すべきだと主張してきました。
教育の質を競い合い、いい大学が国公立・私立を問わずたくさんの補助金を得られるようにすればいい。
要するに国公立大学を民営化しろ、という主張です。郵政民営化のときは賛成してくれた東大教授の友人が、この主張には、やはり賛成してくれませんでした……(笑)。
―研究用の資金、「科学研究費」については、すでに、競争的な配分が行われています。教育資金についても、同様にすべき、という意味合いでしょうか。
そのとおりです。国公立大学と私立大学の格差はほかにもたくさんあり、たとえば寄付金の扱いも大きく違います。
成熟した市民社会は寄付が不可欠。私立大学に対する寄付も自由化してほしいと思います。
7/17:15時
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