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勉強になたよん
成田山新勝寺
平将門の反乱を憂えた朱雀天皇は、親族にあたる京遍照寺の寛朝僧正に
天国の宝剣を授け、朝敵覆滅の護摩を修せしめました。寛朝は高野山に
安置されていた不動明王像を奉持し海路・東国に下りました。
九十九里浜に上陸し、下総国の公津ヶ原に安置し、21日間調伏の護摩を
修しました。 この時、将門軍を平貞盛、藤原秀郷が包囲しており、満願の
日の天慶3年(940年)2月14日、将門は討たれました。戦勝は明王の神力に
よるものと、天皇が国司に命じて現地にお堂を建立させ、新勝寺と命名され
ました。
公津ヶ原の不動明王を、その後の戦乱で荒廃したため、永録年間に成田村
一七軒党代表の名主が像を背負って、現在の場所に遷座しました。