11/09/14 16:09:21 sCho4KuA
・会津は先帝孝明天皇からもらった御宸翰(天皇の感謝状)があるので正義だ。
八月十八日の政変の成功時に薩摩藩の働きかけで薩摩や会津ら諸藩に下賜されたので薩摩相手に正義の証にならない。
・和平を望んでいたのに滅ぼされた。
会津は明治天皇と一橋慶喜どちらの恭順指示にも従わず降伏勧告も蹴った上で
宇都宮や今市で軍事行動を行なっており、和平を望んでいた可能性は限りなく低い。
・遺体埋葬禁止令が出されて会津兵の死体だけが雨ざらしになった
大規模な戦闘だったので多くの死体確認が大変、当時は冬で地面が凍り死体を埋葬する
大規模な穴掘りが出来ない、ヤーヤー一揆が発生して秩序が乱れ死体から剥ぎ取る行為が頻発した、
などの理由で雪解けまで半年間ほど官軍・会津問わず遺体に接触することを禁止している。
会津悲劇の依代だったが作家大山格の指摘により会津若松市は事実確認ができる資料を公開している。
・長州は禁門の変によるどんどん焼けで京都を火の海にした
炎上が見込まれていた長州藩邸は延焼対策が万全だったのですぐに鎮火され隣の屋敷は無事。
鷹司邸も一橋慶喜が放火してしまうもののなんとか鎮火されている。
一方、会津藩と新選組がどさくさに紛れて怪しいと思った民家を無闇に砲撃しまくったところ
手に負えないほど火が広がってしまい京都中に火が延焼してしまった。
「長州は朝敵にあらず 会桑こそ町敵なり」と町人の記録が残っている。