09/10/07 11:20:06 P
(>>436の続き)
中曽根の要所での行動はこのように、派閥幹部の動静に左右されたものが多い。
それは彼が三木同様に弱小派閥のオーナーであり、かつ、三木程の「派内での人望」にも乏しく、
野田・中村(梅)・桜内・山中などの中曽根とほぼ対等の領袖候補が多数在籍したためと思われる。
結果、「中曽根の行動」だけを見ると「風見鶏」になるのだが、これは彼が、そうした複雑な事情を抱える派閥を遣り繰りするための処世術だったと見るとすっきりする。
ちなみに中曽根の政治的能力・姿勢などが最もよく判ったと言われるのが、三木内閣の幹事長時代、およびその直後に行われた総選挙です。
三木内閣の党運営についてはいうまでもなく「失敗」している(三木おろしによる党内分裂・自派若手による新自クの立ち上げなど)。
ところが彼が幹事長を解雇された直後に行われた総選挙(34回1976.12)の結果を見ると、
URLリンク(www.geocities.co.jp)
すさまじい事に全ての派閥が人数を減らしてる中で、中曽根派だけが人数を増やしている。
しかも中曽根派は田川や河野(洋平)といった新自クへの脱党者をだしているのに、である。
この時に初当選した議員には、与謝野馨、渡辺秀央、島村宜伸など中曽根の秘書上がり議員も複数いる。
彼が幹事長として何を最優先としていたかはこれらでよく判ると思う、彼はそういうある意味非常に有能な政治家でした。