09/10/07 11:17:01 P
とりあえず、当事の事情を知らない人向けの補足テキスト。
当時者や関係者から別な事実が指摘されてる部分について。
・中曽根のS47総裁選での動きについて
当時中曽根派内は党人としての「親角栄派」が多く、もし福田についていたら「中曽根派の空中分解」が派の内外で噂されていた。
地元(群馬)からは当然「福田への支援」を要請されている。
これらの状況から「中曽根が出馬して、決選投票では最初の投票で1位になった方につく」という案が浮上した。
ところが田川誠一たちが派の大番頭でこの案の提案者である野田武夫の入院→病没で歯止めがきかなくなり、
本格的に中曽根派分裂→若手の角栄派合流の可能性が高まったため、トップ会談の末に田中支援に舵取りをする事になった。
ちなみに野田は元岸派かつ親佐藤であり、中曽根の佐藤内閣での入閣にも尽力した。
彼の死去がなければ、上記の案の実行、およびその結果として福田が勝利した可能性が高かったと言われている。
・中曽根のS55年内閣不信任案での動きについて
当時の自民党幹事長は後の「アイアムチェリー」こと櫻内義雄(河野派時代からの派閥幹部)であり、
最終的に彼が「幹事長を出している派閥としての責任がある筈だ」と膝詰め談判したと言われている。
一方で政調会長だった安倍は福田を説得しきれず、安倍の「福田派後継」としての指導力への疑問符が囁かれ、
これが福田・安倍両者に。他のニューリーダーより一歩早い「総裁選出馬」→「派閥継承」というアクションを起させる動機になったとも言われている。