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米子の存在は、いつの間にか二十何人かの寄宿生のなかで目立ったものとして英国人
女教師のあいだに意識されるようになった。それは彼女が単に他の同級生よりは年長で
信用できそうに見えただけのことだったかもしれない。
少なくとも教頭のミス・マクレーにとっては、古賀米子という生徒は、他の寄宿生よりは
輪郭のはっきりしたindependentな生徒であるように見えた。
マクレー女史の帰国の時期は迫っていた。ミス・マクレーは、あらためて米子に自分と
一緒に英国に渡って勉強をつづける気持ちはないか、といってくれたのである。
しかし彼女は、父がついに本格的に学校経営に乗り出すのだということを、海軍省は
「精神的支持」をあたえるだけで一文の補助金を出すわけでもないことを、そして現に
この家で主婦役を果たすのは自分以外にないことをよく知っていた。
古賀喜三郎の海軍予備校が開校式を挙行したのは、明治24年11月1日である。
生徒の数は僅々二百名内外であったが、来賓席には知新会在京会員の海軍士官や喜三郎
自身がかき集めた文武の「名士」がいならんでいた。
古賀米子が東京女学館に退学届を出したのは、それからまもないころである。