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『一族再会』より
明治22年(1889)9月に、祖母米子が東京女学館に入学したとき、曽祖父古賀喜三郎は
依然として海軍大尉であり、数年前から横須賀鎮守府衛兵司令の任にあった。
この学校の授業料は二円五十銭(月額)寄宿料金は十五円(同上)であった。因みにこの
月謝は門番兼園丁ひとりを雇い入れる給金にほぼ等しく、寄宿料は小間使い三人を雇い入
れる額に大体相当する。
米子は寄宿舎に入ってはじめてベッドというものに寝た。舎内には日本座敷もあったが、
客室は西洋風に飾られていて洋式家具とピアノが置いてあり、週に一度はカルクス女史か
ミス・マクレーの主宰する正餐会で洋式礼法の実習をするのである。
授業は物理、化学、植物、衛生、歴史などは通弁を用いてするが、他は英語で直接おこな
われ、日本人の教員は二人の英語教員のほかには和漢学、画学、習字、裁縫の教いるにす
ぎなかった。
要するに米子は外国に来たようなものであった。同級生の多くは彼女より年下であり、
ほとんどが古賀家より余裕のある家の子女で、母親を亡くしてもいなかったから、この
バタ臭い学校はまたよほど華やかな学校でもあった。