09/04/14 14:09:47
>>741つづき
じつは両陛下の平成流への不満を決定的にしたのは、失声症事件の前年の、両陛下の
中国訪問だったといわれる。
問題になったのは中国での陛下の”お言葉”だった。
当初、用意されたお言葉の草案は昭和天皇訪米時のものを踏襲した《永きにわたる歴史において
不幸な時期がありました》というものだったが、これに陛下の手が加わり、最終的に《わが国が
中国国民に対し多大の苦難を与えた不幸な一時期がありました》という一歩踏み込んだ表現に
なったといわれる。
こうしたことから、本来は皇室崇拝の念が強いはずの右翼・保守勢力の一部に両陛下への
強い不満が鬱積していた。そして、その不満が美智子さま非難という形で爆発する契機になったのが、
じつは皇太子ご夫妻の婚約後の一連の経緯であった。
’93年1月、皇太子ご夫妻の婚約が皇室会議で正式決定した。この夜、赤坂御所では雅子さまの
家族のほか、秋篠宮ご夫妻、常陸宮後夫妻、陛下の姉妹である池田厚子さん夫妻、島津貴子さん夫妻、
美智子さまの実家・正田家、紀子さまの実家・川嶋家の人たちを招いて、お祝いの夕食会が
ひらかれた。だが、なぜか高松宮、三笠宮家などの皇族は招かれなかったのである。
婚約についてもそうだったが、招かれなかった皇族は3月17日の納采の儀の日取りもマスコミ報道で
初めて知るというような事態だったという。
これにはさすがに陛下の叔父・三笠宮崇仁さまが代表して宮内庁に抗議し、納采の儀は翌月に
変更になった。
「昭和の時代、高松宮妃などは”美智子妃いじめ”の中心ともいわれ、その仕返し?なんて声さえあった。
また寛仁殿下は、たいへんな怒りようだったそうです。ただ、やはり皇族をないがしろにした
ようなやり方はよくなかったと思いますね」(前同・旧宮家関係者)