10/04/01 10:15:34
岡潔:三島由紀夫は偉い人だと思います。日本の現状が非常に心配だとみたのも当たっているし、天皇制が
大事だと思ったのも正しいし、それに割腹自殺ということは勇気がなければ出来ないことだし、それをやって
みせているし、本当に偉い人だと思います。
Q(編集部):百年逆戻りした思想だと言う人もありますが、それは全然当たっていないと言われるのですか?
岡潔:間違ってるんですね。西洋かぶれして。戦後、とくに間違っている。個人主義、民主主義、それも
間違った個人主義、民主主義なんかを、不滅の真理かのように思いこんでしまっている。
ジャーナリストなんかにそんな人が多いですね。若い人には、割合、感銘を与えているようです。
かなり影響はあったと思います
岡潔「蘆牙」より
751:名無しさん@お腹いっぱい。
10/04/04 22:26:13
たとえこのたびの事件が、社会的になんらかの影響をもつとしても、生者が死者の霊を愚弄していいという
根拠にはなりえない。また三島氏の行為が、あらゆる批評を予測し、それを承知した上での決断によるかぎり、
三島氏の死はすべての批評を相対化しつくしてしまっている。それはいうなればあらゆる批評を峻拒する行為、
あるいは批評そのものが否応なしに批評されてしまうという性格のものである。三島氏の文学と思想を貫くもの、
それは美的生死への渇きと、地上のすべてを空無化しようという、すさまじい悪意のようなものである。(中略)
恋愛結婚を人々が夢見ていたとき、結婚の夜に情死をとげる『盗賊』は、なんと悪意にみちた時代への挑戦で
あったろう。また、文学上の誠実主義が“自己確立”の名のもとに謳歌されていたとき、『仮面の告白』は、
なんと反時代的な作品であったろう。あるいは、人々は戦争の危害について語っていたとき、「金閣とともに
滅びうる幸福」を語った『金閣寺』は、なんと不吉な夢に貫かれていたことであろう。
磯田光一
「太陽神と鉄の悪意―三島由紀夫の死―」より
752:名無しさん@お腹いっぱい。
10/04/04 22:26:32
三島氏が『憂国』あたりを境にして、急速に変貌したという見解を、私はほとんど信じることができない。(略)
三島の宿命は、すでに『仮面の告白』において、ほとんど予定されていたといってもよい。仮面の背後にある
空白が、いわば“太陽神”の欠落であるなら、それがやがて『林房雄論』や『英霊の声』となって蘇生する
ことは、なかば必然といってもいいものであった。“太陽神”が失われたとき、あの東京の廃墟の上に広がって
いた青空には、夥しい日光の氾濫があった。(略)廃墟の太陽への偏執は、やがてギリシャの廃墟の夥しい
陽光の氾濫に接続する。そして氏は、人間性という名の自然を否定するために、“肉体”を“鉄”のように
鍛える道を選んだのである。(略)三島は徹底して明るさに固執した作家であった。その明るさは健康優良児の
明るさとは、まったくの対極をなすものであった。それは“鉄の悪意”を秘めた明るさ、あるいは悪意を証明
するためには、死をも辞さないような、鉄の意志に裏づけられた明るさである。
磯田光一
「太陽神と鉄の悪意―三島由紀夫の死―」より
753:名無しさん@お腹いっぱい。
10/04/04 22:26:50
(中略)氏にとって天皇とは、存在しえないがゆえに存在しなければならない何ものかであった。それは氏の
“絶対”への渇きの喚び求めた極限のヴィジョンといってよく、もし氏がそこへ向かって飛翔するならば、
ただちに地上に失墜するであろうことを、氏は『イカロス』という詩に述べているように、どこまでも知り
ぬいていたのである。
三島氏にとって必要なこと、それは「戦後」という時代、あるいはストイシズムを失った現実社会そのものに、
徹底した復讐をすることであったと思われる。イデオロギーはもはや問題ではない。自衛隊も、自民党も、
共産党も、氏の前には等しく卑俗なものに見えたのである。この精神の貴族主義者にとって、いったい不可能
以外の何が心を惹いたであろうか。思えば氏の不可能への夢、あの「青空による地上の否定」は、典雅な
造形力によって、作品のなかに封じこめられた。その危険な思想、不可能への渇きは、優に氏を“危険な思想家”
たらしめるに十分であった。
磯田光一
「太陽神と鉄の悪意―三島由紀夫の死―」より
754:名無しさん@お腹いっぱい。
10/04/04 22:27:14
(中略)現世には仮構としての生活しかありえず、その「嘘偽の本質」を愛するほかはない。すでに世間的には
スタアであった三島氏は、その「嘘偽の本質」を、あるいは嘘偽のパラドックスを、どれほど深く愛したこと
であろう。その「嘘偽」の背後にある本心、それはあの“太陽神”の生きていた時代にたいする渇きである。
その渇きの基底にあるのは、いうまでもなく『葉隠』につながる日本的なラジカリズムの精神である。それは
いうなれば、有効性の彼岸にあるがゆえに聖なるもの、また聖なるがゆえに地上の汚濁に染まってはならない
ものであった。(略)この『葉隠』にたいする二重の自覚は、いうまでもなく“太陽”と“鉄”との二重性に
通じている。氏の渇きの喚び求めた、あの極限像としての“太陽神”は、つねに“鉄の悪意”に裏づけられた
ものであった。それは「戦後」という時代に向けられた悪意、あらゆる微温的な偸安にたいする悪意である。
(略)そして無効性を承知の上で、不可能性の一端を“死”によって可能に転化したとき、氏の“鉄の悪意”は、
ほとんど完璧な意味において、時代の偽善にたいする批評と化する。
磯田光一
「太陽神と鉄の悪意―三島由紀夫の死―」より
755:名無しさん@お腹いっぱい。
10/04/04 22:27:37
遺作『天人五衰』の結末部に出てくる鼠の自殺のエピソードは、三島氏がどれほど醒めきっていたかを証して
余りある。(略)その自殺によって、猫や鼠の世界に大きな変動が起こりうるであろうか。猫がその奇妙な
鼠のことを忘れて、なおも偸安をむさぼっていることを、三島氏ははっきり書きそえている。いいかえれば、
氏は自分を愚かな鼠に擬したとき、氏にたいするいっさいの批評の無効性を、氏みずから確立してしまった
のである。この驚くべき自意識の屈折、残忍なまでのダンディズム、あらゆる批判の可能性を封じた鉄の悪意と、
不可能に挑んだこの倨傲。(中略)
“太陽神”の実在していた時代に、どうして不可能への渇きが必要だったであろう。また、戦後精神の
極限としての“鉄の悪意”なくして、どうして現実の戦後文化を軽蔑しつくすことができたであろう。(略)
三島氏には、死ぬというより死んでみせることが必要であった。そのかぎりにおいて、私小説家の追いつめ
られた生活演技とも、明確な一線を画している。政治的・外在的批判は別として、いったいここまで意識化
された死に、どんな批判が可能であろうか。
磯田光一
「太陽神と鉄の悪意―三島由紀夫の死―」より
756:名無しさん@お腹いっぱい。
10/04/04 22:47:35
道徳を信じない道徳家、愛を拒否する愛の詩人、詠歎的であることを恐怖する、しかもロマンティックな歎美家。―
『沈める滝』の背後にある作者の姿を、一口にいえば、そういうことになるのではないか、とぼくは思っている。
既成のものを信じないという立場に立って、その荒廃の上に、あらためて夢なり美なりを、人工的につくり出そうと
するところに成りたってきたのが、一般に三島由紀夫の文学の世界なのである。(中略)
夢が、告白が、ありきたりの男女の物語が、もし信じられないのだとしたら、その信じられないという地点に立って、
ひとはなお、夢や告白や物語の花々を、咲かせることができないものか。人工の花々を。―三島由紀夫の文学は、
その設問から出発するのであって、例はそのほか、あげてゆけば彼の全作品に及ぶことになるだろう。(中略)
彼はたしかに、古い夢の、神々の、死の自覚の上に立って、つねに仕事をしてきた作家であるといえるだろう。
彼は神々を、錬金術師のように、合成することを夢みる。そこに彼の批評精神があり、光栄があり、そしてまた
苦しみがあるばずだ。
村松剛
「『沈める滝』解説」より
757:名無しさん@お腹いっぱい。
10/04/04 22:55:00
あの人(三島)は、ほんとうに純粋で赤ちゃんみたいにきれいな魂の持ち主だったんですよ
「日本少年」とか「少年倶楽部」で育った時代なんですよね。
少年というのは凛々しくて、潔く清くて、正しくて、優しくて、思いやりがあって、親孝行だという
「少年倶楽部」の世界そのまま律儀に全部、細胞の中までにしみこませて、そのまま死んじゃった人なのね。
普通、中年になったら、世俗的な手垢がついてきて、小ずるくなったり、いろいろするじゃないですか。
それに全然染まらなかった不思議な人でしたよ。
美輪明宏
「ぴんぽんぱん ふたり話」より
758:名無しさん@お腹いっぱい。
10/04/04 22:55:29
瀬戸内「三島さんのことを書いた福島次郎という人がいるじゃないですか。私は、ああいうの嫌いなの。…」
美輪「前にも、一人出たんですよ。『週刊読売』で私、対決したことがある。話を聞いてみますと、三島さんが
車で迎えに来てくれたとか言うんですね。でも三島さんは、いつも奥さんに運転してもらってたくらいだから、
自分では運転できなかった。自動車教習所には行くことは行ったんだけど、実技になって、ワンブロック外を走ったら
胃が痛くなって、ひっくり返ったんだって。(略)それで運転するのは、いつも奥さんだったんですよ。だから、
その男の話は根っからの嘘だったの。でも、まあ世間という魔界には根も葉もないことを言うのがいますからね。」
瀬戸内「…あの小説は、三島さんからもらった手紙を売りに行くところから始まりましたよね。ひどいんですよ。
ほんとうにけしからんと思うのね。三島さんのお母さんやお父さんにご飯を御馳走になったり、とっても世話に
なってるでしょ。あの男の小説は卑しい。…もう呆れる。」
美輪明宏、瀬戸内聴寂
「ぴんぽんぱん ふたり話」より
759:名無しさん@お腹いっぱい。
10/04/04 22:56:13
美輪「でも、三島さんにも非があるんですよ。だれにでも彼にでも、手紙を出してね。あの人は、まあ呆れるくらいに
手紙魔で、何で、こんな人に手紙を出すんだろというようなゴロツキみたいなのにも、丁寧な手紙を出しているんです。
そのゴロツキが、おれはこれだけ三島に思われてるんだと、私のところに三島さんの手紙を寄稿したことがあるの。
そのことを私が話すと、三島さんの目が泳いだんです。「これは私が始末しておきますからね、よござんすね」
と言ったら、素直な子供みたいに「ありがとう」と。そういうドジをあの人はよくやったの。そういう点は
ほんとにまあ呆れるほど世間知らずでしたね。」
瀬戸内「…人を疑わないのね。おぼっちゃんね。あれだけ小説の中では、人間の悪とか悪意とか、いろいろな
権謀術数を書いて、頭の中ではあそこまで理解していた人なのに…」
美輪明宏、瀬戸内聴寂
「ぴんぽんぱん ふたり話」より
760:名無しさん@お腹いっぱい。
10/04/06 11:40:37
彼と知り合いになったのが、彼の十七、八歳の頃で、それからの数年、昭和二十四年七月、文壇的処女作とも
云っていい「仮面の告白」を書き出し、出版する頃までは、お互いに、文学に志し、文学で身を立てようと
励まし合い、刺激し合い、くどくつき合ったものであった。尤も、私は彼より十歳近くも年長であったが。
富士正晴氏は次のように「思い出」を語っている。
「三島と知り合ったきっかけは、伊東静雄の紹介によってやな。(略)伊東が『三島の本を出してくれへんか』
というので、七丈書院に三島を呼び出して会った。来たのは、えらい頭のデカイ目玉がギョロギョロした、
ゲジゲジ眉毛の長い色の青い少年やったけど、語る言葉は上流コトバ。(略)その足で林富士馬のところへ
連れて行ったんやが、林が『ビールでも飲もうか』といったら『私は外では飲みません』というのを、甚だ
きれいなコトバで云ったんやが、それで林はゾッコン参っちゃったんや」富士氏の回想に間違いがないなら、
私は三島君と知り合いになった当初から、三島君の拒絶にあっているわけだ。生涯、私はその三島君の拒絶に
心惹かれていたのかも知れない。
林富士馬
「死首の咲顔」より
761:名無しさん@お腹いっぱい。
10/04/06 11:40:56
併し、その日常生活のなかで、知り合いになったばかりの三島君は、大変素直な、律義で、礼儀正しい、幾分
世間知らずの大人びたところもある少年であった。ひととはなしをする時、凝っとまともに正視した。
その当時の他の私達の仲間の、どこか、くずれたようなところ、だらしないところは微塵もなかったのが、
ひどく印象に残っている。当時、既に私は妻子持ちであったが、部屋によちよちと歩いて入って来る子供を、
三島少年は熱心にあやしたのを、そのいじらしい少年の姿を、不思議な思いで眺めていた。(中略)
私は他の私の年少の仲間を紹介し、毎日のようによく遭い、それでも手紙を書いた。私達はやがて、誰でもが
お召しを受け、血腥い戦場に遠征することは解っていたので、明日のない一日一日を、如何に文学だけを信じ、
それに縋って、一日一日を生きるか、ということに肝胆を練っていた。(略)仲間の一人、一人、戦場に
出掛けて行ったが、私達は謄写版で、五十部くらいの部数の同人雑誌を編みつづけた。それが私達の
レジスタンス運動であった。
林富士馬
「死首の咲顔」より
762:名無しさん@お腹いっぱい。
10/04/06 11:41:15
(中略)
テレビの画面にあなたが七生報国と書いた白い鉢巻をしめ、「楯の会」の隊長の正装で、バルコニーから、
演説をしているのが見えた。それは演説というより、手を挙げて叫んでいる姿が見えた。声は聞こえない。
(略)三島君の身体は、傾くようにして動く。唇がはっきり見える。からからに乾いた舌が見えたように思った。
(略)併し、そういう画面だけが映し出されて、声はすこしも聞こえないのが却って、印象に鮮やかである。
三島君が、何を必死に訴えようとしているのか、勿論、こっちには、さっぱり判らないが、(略)コップ半分の
水でも、手渡すことが出来たら、自分自身が、どんなに楽になるだろう、(略)そんな思いがちらちらして、
数日間は安眠出来なかった。(略)
可哀そうな三島君、強情っぱりの三島君よ。(略)私が水を差し出しても、あなたはまた拒否しただろうか。
あなたのような憂国の士ではないが、私もつくづく、世の中が、近頃の人の心と云うものが味気ない。
林富士馬
「死首の咲顔」より
763:名無しさん@お腹いっぱい。
10/04/06 11:41:37
(中略)
三島君の人生も作品も、あんまりひと筋で、そこに余裕がなかったので、私はむしろ、それを三島君の擬装とし、
遊びとして受けとろうとしていたようだ。そこで遠慮なく揶揄し、あなたの文学は新官僚派の文学ではないかと
悪口を云った。あなたは少しも弁護しなかった。弁護などすることが、男らしくないと思っていたのだろう。
腹の底では、腹を立て、ほんとうに理解する人のいないことを、くやしがっていたのだ。
併し、いまになってみると、あの人は、どんな作品に於いても、エッセイ、評論、日記、又、どんな座談会の
尻っ尾ででも、素直に、右顧左眄することなく、手を振り、声を高くして、おのれを語り、決意を云っていたのだ。
擬装などと、どうして私は受けとっていたのだろう。
いまになって、「仮面の告白」という文壇に登場して来た時の作品のほんとうの意味が判ったような気がする。
林富士馬
「死首の咲顔」より
764:名無しさん@お腹いっぱい。
10/04/06 11:41:54
あの仮面は、「素顔」に対しての「仮面」ではなかった。告白するために「仮面」を使用したのではなかった。
「失われた世代」の一人として、私が在来の文学現実で考えていた「素顔」などを、既に喪失した人間として、
持ってはいなかった。その悲しみを、いっしんに訴えていたわけである。ほんとうの意味の新しい世代、
戦後派文学のほんとうの意味が、あそこにあったのだ。あの人は、仮面しかない悲しみを、一生懸命、文学の
世界に定着させようとしていた。(中略)
人間はいつでも、告白をするとき、うそをついて願望を織り込んでしまう。それを潔癖に嫌悪した。文学という
ものは、あくまで、そうなるべき世界を実現するものだと信じ、作品における告白は、実は告白自体が
フィクションになっていた。(中略)
三島君の文学を一口に云うと、明治、大正、昭和の三代の近代日本文学にあって、はじめての意識された世界的
作家であったことではないか。
林富士馬
「死首の咲顔」より
765:名無しさん@お腹いっぱい。
10/04/06 11:43:53
(略)その世界的作家としての気宇について云えば、その処女短編集「花ざかりの森」の後記に、少年らしい
気負いで、「そして、戦後の世界に於て、世界各国人が詩歌をいふとき、古今和歌集の尺度なしには語りえぬ
時代がくることを、それらを私は評論としてでなく文学として物語つてゆきたい」と、既に決意している。
又、それを獲得するために、どんなに刻苦勉励の一生であったか、その忍耐と憎悪と愛情とを思うと、胸が痛い。
彼は決して、器用な人でも、器用な作家でもなかった。人の知らぬ屈辱のなかで、男らしく愚痴を云わずに、
ひとり、たたかっていたのである。(中略)三島君の突然の死が白日夢の如く報ぜられる数日前、私は東武デパートで行われている三島由紀夫展に行った。
(略)いろんなものが、小学校時代の通信簿や図画や習字などまでが陳列してあった。(略)「文芸文化」
という戦時中の雑誌、そこに三島君の処女作とも云える「花ざかりの森」が発表された雑誌の終刊号が、
ガラス・ケースのなかに、見ひらきにして飾ってある。
林富士馬
「死首の咲顔」より
766:名無しさん@お腹いっぱい。
10/04/06 11:44:10
その見ひらきの左の方は、三島君の「夜の車」という作品の書き出しになっているが、右の方の一頁は、私の
「終焉」という詩になっているのだ。(略)
終焉
(略)道義の退廃と、忍従に姿が似てゐる無気力とに、詩人が身を以て弾劾と警告を発することをしないで、
誰れがこの危機の時代の、この任務につくひとがありませうか?
いまはなにを歎く?
逝く水の流れよ
ただ汝れ漲るやいなや
かの清らかなひとを慕ひ
遠く いまこそ山林に退き
立木の紅葉に雑つて
なほも燃えてゐたいのだ
以上のことがあってから数日して、私は青天の霹靂の如くに、あなたの激烈な死に出逢ったのだった。
林富士馬
「死首の咲顔」より
767:名無しさん@お腹いっぱい。
10/04/08 11:59:28
私はこの三年にわたって折にふれ三島とあってきたが、私がいつも感じたのは、彼は現存の日本人のうちでは
最も重要な人物だったということだ。当然のことながら、私には彼がその生涯の終わりにどのようなコースを
たどるかについては想像もつかなかったが、たとえその範囲は限られたものであるにせよ、彼はその
ダイナミズムと懐疑主義と好奇心によって日本の歴史に永久にその名をとどめる地位を占めるにちがいないと
確信していた。(中略)
三島の行動は、今日の日本の右翼の大物たち―その名前をあげる必要はあるまい―を、道化役者のように
見えるようにした。私と議論した一部の人々は、三島はその行動によって、笑止千万なピエロの役割を演ずる
ことになったと主張した。これに対し私は三島はピエロどころか、逆に他の人々をピエロとして浮かびあがらせた
―つまり、彼等をつまらない行動によって、金をもらいたがったりするようなピエロに仕立てあげたのだといいたい。
ヘンリー・S・ストークス
「ミシマは偉大だったか」より
768:名無しさん@お腹いっぱい。
10/04/08 12:00:08
三島を高く評価したい私の次の理由は、私の見るところでは、彼は日本の政治論争にこれまで見られなかった
深みをつけ加えた点である。(略)…三島を「右翼の国家主義者」といった言葉で片づけることはできない。
三島は「右翼」とか「国家主義者」とかいったレッテルを貼った箱に、絶対におさめることのできない人物である。
彼の思想の広さといい深さといい、そうした単純な分類に入れることを許さない。
三島が何をいわんとしていたか、それを一言にして説明するには、何か新しい言葉を見つけださなければなるまい。
三島について注目すべき理由はほかにもある。彼は今日の政治論争のすべてを公開の席に持ちだした―(略)
…これらの問題については、自民党の幹部たちは私的な場所でのみしばしばその意見を表明してきたのである。
しかるに三島は敢然として、政治家たちがこれまでおっかなびっくりで、私的な場所だけで取りあげてきた
政策論争を、公けの席に持ちだした。職業政治家になぜこれができなかったのであろうか。
ヘンリー・S・ストークス
「ミシマは偉大だったか」より
769:名無しさん@お腹いっぱい。
10/04/08 12:01:15
…三島を西洋に「説明」できるだけの資格を持つ西洋の学者は、ほんの一にぎりしかいない。しかもこれらの
学者たちでさえ、今までのところでは、三島をもっぱら文学者としてだけ扱い、彼の政治活動は重視していないようだ。
私はそれはあやまっていると考えるし、三島自身がなくなる二週間前に、これらの学者について語った言葉から
推察すると、こうしたあやまりは彼自身予想していたようだ。彼は英語でこう言っていた。「あの人たちは
日本の文化の中のやさしいもの、美しいものばかりを取りあげる」したがって外国の批評家に限っていえば、
三島が全く誤解されてしまう可能性はきわめて大きい。この国の政情の非現実性―国防の問題をトランプ遊びか
ポーカーの勝負をやっているかのように議論する国である―を、認識できる人はほとんどあるまい。(略)
…外国人は日本で自由な選挙が行なわれ、それに過剰気味なくらいおびただしい世論調査と言論の自由があるという事実こそが、
日本に民主主義のあることを物語っていると頭から信じこんでいる。三島は日本における基本的な政治論争に
現実性が欠けていること、ならびに日本の民主主義原則の特殊性について、注意を喚起したのである。
ヘンリー・S・ストークス
「ミシマは偉大だったか」より
770:名無しさん@お腹いっぱい。
10/04/10 11:29:59
森田必勝は私より一、二歳年長の同じ大学の学生であった。面識はなかったが、彼を見知っている友人もいて、
自分と同時代の人間の起こした事件という思いはある。(中略)
その日の昼ごろ、電話が鳴った。受話器からは友人の少し緊張し少し興奮した声が聞こえてきた。
「三島由紀夫が自衛隊に立て籠ったぞ」。友人はニュースで知った事件のあらましを語った。私が当時は昼ごろ
まで寝ており、テレビも全く見ないことを知っていたから、電話で教えてくれたのである。(中略)
私は大学に行った。大学では学生たちは既に事件を知っており、みんなこれを話題にしていた。(略)
三島由紀夫は森田必勝とともにその日の昼すぎには割腹自殺を遂げていた。夜には事件の全容がほぼ明らかになり、
翌日からはマスコミがさまざまな人の意見を取り上げた。左翼側は、当然、事件に否定的、批判的であった。
中には三島を嘲弄する口調のものもあった。しかし、これには私は同感し得なかった。
呉智英
「『本気』の時代の終焉」より
771:名無しさん@お腹いっぱい。
10/04/10 11:30:17
当時の学生たちの中の少しアタマのよい連中は、旧来の左翼理論が行きづまりかけていると皆思っていた。
しかし、それに代わりうるものを創出するだけの知性も覚悟もなかった。人のことはいえない。私もただ惰性で
落第をくり返していた学生だったのだから。そういった学生たちを誘引したのは、ハッタリとヒネリだけの
突飛な言辞を弄する奇矯知識人だった。十数年の後に、私はこれらを「珍左翼」と名付けることになるのだが、
当時はそう断ずるだけの自信はなかった。
そんな奇矯知識人、奇矯青年に人気があったのが八切止夫という歴史家だった。歴史学の通説を打ち破る珍説を
次々に発表する在野の学者だという。判断力がないくせに新奇なものには跳びつきたがる学生がいかにも喜び
そうな評価である。私も一、二冊読んでみたが、どれも三ページ以上は読めなかった。あまりにも奇怪な文章と
構成で、私がそれまで知る日本語とはちがうものが記されていたからである。その八切止夫が、どこかの新聞か
雑誌に切腹不可能説を書いているのを読んだことがあった。(中略)
呉智英
「『本気』の時代の終焉」より
772:名無しさん@お腹いっぱい。
10/04/10 11:30:37
しかし、三島由紀夫は見事に切腹した。しかも、介錯は一太刀ではすまなかった。恐らく、弟子である森田必勝には
師の首に刀を振り下ろすことに何かためらいでもあったのだろう。三島の首には幾筋もの刀傷がついていた。
それは逆に、三島が通常の切腹に倍する苦痛に克ったことを意味する。罪人の斬首の場合、どんな豪胆な
連中でも恐怖のあまり首をすくめるので、刀を首に打ち込むことはきわめて困難であると、山田朝右衛門
(首切朝右衛門)は語っている。しかし、三島は介錯の刀を二度三度受け止めたのである。このことは、
三島由紀夫の思想が「本気」であることを何よりも雄弁に語っていた。楯の会が小説家の道楽ではないことの
確実な証拠であった。だからこそ、「本気」ではなかった左翼的雰囲気知識人は、自らの怯えを隠すように
嘲笑的な態度を取ったのである。八切止夫が切腹不可能説を撤回したという話も聞かなかった。
呉智英
「『本気』の時代の終焉」より
773:名無しさん@お腹いっぱい。
10/04/10 11:30:56
しかし、「本気」とは何か。「本気」に一体どれだけの価値があるのだろうか。三島由紀夫は「本気」の価値を
証明しようとしたのではなく、「本気」の時代が終りつつあることを証明しようとしたのではないか。
「本気」の時代の弔鐘を鳴らし、「本気」の時代に殉じようとしたのではないか。(中略)
三島由紀夫は私財を擲(なげう)って楯の会を作った。共産主義革命を防ぎ、ソ連や支那や北鮮の侵略には
先頭に立って闘う民兵組織である。(略)三島はこの行動について「本気」だった。小説家の気まぐれな
道楽ではなかった。しかし、現実に治安出勤や国防行動を最も効果的にするのは、税金で維持運営される
行政機関である自衛隊なのである。自衛隊員は、法に定められた義務のみを果たし、法に定められた権利を
認められる。まるでお役所である。いや、事実、お役所なのである。(略)
「本気」の武士より、権利義務の関係の中でのみ仕事をする公務員の方が尊ばれ、価値がある時代が始まり
かけていた。換言すれば、これは「実務」の時代の始まりであった。
呉智英
「『本気』の時代の終焉」より
774:名無しさん@お腹いっぱい。
10/04/10 11:31:18
私は実務の時代の価値を否定しない。(略)英雄が待ち望まれる時代は不幸な時代である。思想や哲学や
純文学が尊敬を集める時代も不幸な時代である。一九七〇年以降、日本は不幸な時代に別れを告げた。
英雄はいうまでもなく、思想や哲学や純文学、総じて真面目な「本気」は「実務」の前に膝を屈し、幸福な
時代が到来した。(略)
だが、時代はそうなりきることはなかった。一九九五年、歪んだ醜怪な「本気」が出現した。オウム事件である。
(略)本当に不気味で醜悪な恐怖の事件は、三島が「本気」に殉じた後の時代に出現したのであった。
呉智英
「『本気』の時代の終焉」より
775:名無しさん@お腹いっぱい。
10/04/12 00:36:42
三島由紀夫の墓参り
Tokyo Swan 40: Mishima's Grave
URLリンク(www.youtube.com)
776:名無しさん@お腹いっぱい。
10/04/15 23:50:26
「花ざかりの森」の作者は全くの年少者である。どういふ人であるかといふことは暫く秘しておきたい。
それが最もいいと信ずるからである。
若し強ひて知りたい人があつたら、われわれ自身の年少者といふやうなものであるとだけ答へておく。
日本にもこんな年少者が生まれて来つつあることは何とも言葉に言ひやうのないよろこびであるし、日本の
文学に自信のない人たちには、この事実は信じられない位の驚きともなるであらう。
この年少の作者は、併し悠久な日本の歴史の請し子である。
我々より歳は遙かに少いが、すでに、成熟したものの誕生である。
此作者を知つてこの一篇を載せることになつたのはほんの偶然であつた。
併し全く我々の中から生れたものであることを直ぐに覚つた。さういふ縁はあつたのである。
蓮田善明
昭和16年「文芸文化 編集後記」より
777:名無しさん@お腹いっぱい。
10/04/15 23:50:42
交遊に乏しい私も、一年に二人か一人くらいづつ、このやうに国文学の前にたゝづみ、立ちつくしてゐる少年を
見出でる。
「文芸文化」に〈花ざかりの森〉〈世々に残さん〉を書いてゐる二十歳にならぬ少年も亦その一人であるが、
悉皆国文学の中から語りゐでられた霊のやうな人である…。
蓮田善明
昭和18年「文学 編集後記」より
778:名無しさん@お腹いっぱい。
10/04/15 23:54:45
三島由紀夫の憂国による割腹自殺は、敗戦に際し国体護持を念じてピストル自殺をとげた蓮田善明の影響だろう
……とは、由紀夫の少年時代のシンパだった富士正晴氏をはじめ、大久保典夫氏その他の推量である。晩年の
由紀夫に、蓮田善明伝の序を頂戴するという特別のかかわりを持った私は、あながちその推量を否定しえない。
(中略)善明が由紀夫を「われわれ自身の年少者」という親愛な言葉で呼び「悠久な日本の歴史の請し子」と
仰望をしたのは、まだ由紀夫が学習院中等科五年生の昭和十六年九月だった。(中略)
「われわれ自身の年少者」という愛称と、正体をわざと明かさぬ思わせぶりな語韻のどこかには、まるで
お稚児さんにでも寄せるような愛情がぬくぬくと感じられる。まことこの日頃、由紀夫を伴い、林富士馬氏と
一緒に善明を尋ねたことがある富士正晴氏は、帰りに善明がわざわざ駅まで見送ってくると、まるで恋人が
別れの際にするような別れたくないといった感情を、あらわに由紀夫に示したのを見ている。
小高根二郎
「善明と由紀夫の黙契」より
779:名無しさん@お腹いっぱい。
10/04/15 23:55:16
又、由紀夫の方も、「花ざかりの森」を発表したのを契機に、たびたび寄稿を許され、あまつさえ同人の集まり
にも出席を認められた。そして同人の(略)栗山理一氏に対しては大人のシニシズムを感応しているが、特に
善明には「烈火の如き談論風発ぶり」に、男らしさと頼もしさを感じたのだった。
当時、由紀夫は十七歳、善明は三十八歳だった。善明は由紀夫の十七歳に、己の十七歳を回想したであろう。
善明も人一倍に早熟だったからだ。彼は中学の学友丸山学と刊行した回覧誌『護謨樹』に、すでに次のような
老成した人生観を述べていた。(引用略)
敗戦で自決した覚悟の決然さの萌芽は、すでにこの少年の日にできていたのである。この善明の悟達は、
十五歳の歳一年間、肋膜炎で瀕死の床にあった経験から、死を凝視める習慣がついたものだった。
小高根二郎
「善明と由紀夫の黙契」より
780:名無しさん@お腹いっぱい。
10/04/15 23:55:37
(中略)善明の「死から帰納した生涯」と由紀夫の「椿事待望」の早熟な資質は、やがて「死もて文化を描く」
という夭折憧憬につながるのだ。換言すれば、それは「大津皇子」と「聖セバスチャン」の邂逅―殉難の
讃仰なのである。
大津皇子は朱鳥元年(六八六)父天武天皇が崩御してから一ヶ月も経たぬうちに決起を思い立った。(中略)
「『予はかかる時代の人は若くして死なねばならないのではないかと思ふ。……然うして死ぬことが今日の
自分の文化だと知つてゐる』(大津皇子論)
この蓮田氏の書いた数行は、今も私の心にこびりついて離れない。死ぬことが文化だ、といふ考への、或る
時代の青年の心を襲つた稲妻のやうな美しさから、今日なほ私がのがれることができない…(略)」
(三島由紀夫「蓮田善明とその死」序)
由紀夫の決起への啓示は、ここに発していたのかもしれない。
小高根二郎
「善明と由紀夫の黙契」より
781:名無しさん@お腹いっぱい。
10/04/15 23:56:16
(中略)
元旦の夜、楯の会と浪漫劇場のごく親しい人々が三島邸に集まったとのことだ。(略)談たまたま亡霊談義に
なるや、(略)由紀夫の左肩のあたり、顎紐を掛け刀を差した濃緑の影が佇んでいるのを、丸山明宏氏が
発見したということだ。「あッ!誰か貴方に憑いてます」と丸山氏が注意すると、由紀夫は真顔になって、
「甘粕か?」と問い、たて続けに二三の姓名を上げ、最後に二・二六事件の磯部の名をあげた由である。
同席の村松英子さんは丸山氏に亡霊を追払ってくれと要請した。すると由紀夫は笑って、『豊饒の海』が
書けなくなるから止めてくれといったという。
私はこの記事を読んで冷水を浴びたように慄然とした。丸山氏の記憶せぬ二三の姓名の中に、間違いなく善明の
名も入っていたはずだからだ。と、いうのは、その日頃、由紀夫は拙著『蓮田善明とその死』の序を執筆して
いたか、執筆すべく構想をしていたからだ。
小高根二郎
「善明と由紀夫の黙契」より
782:名無しさん@お腹いっぱい。
10/04/15 23:56:37
執筆にあたって彼は、当然シンガポール近くのゴム林に眠っている善明を想起し、その霊を呼んだろう。(略)
そういえば善明は前にも海を渡って帰ってきた。昭和二十年八月十九日、敗戦の責任を天皇に帰し、皇軍の
前途を誹謗し、日本精神の壊滅を説いた職業軍人・上條大佐をピストルで射殺し、かえす筒先で己がコメカミを
射抜いて果てた善明は、その時の完全軍装の姿で熊本県は植木町の留守宅に帰ってきた。明け近く、青蚊帳を
透かし、縁の外に佇んでいる夫をみつけた敏子さんは、「おかえりなさい」と挨拶した。善明は佇んだままだった。
「どうなさいました。お入りなさいまし」というと、前にくずおれるように姿はかき消えた。
その善明が、由紀夫の決起を知って帰ってこぬはずはない。
二人の合言葉は、『英霊』の「などてすめろぎは人間となりたまひし」であったはずだ。そう、私が夢想し
思量するのも、或いは絶作『豊饒の海』の輪廻転生の示唆なのかもしれない。
小高根二郎
「善明と由紀夫の黙契」より
783:名無しさん@お腹いっぱい。
10/04/19 02:08:55
これ本当?
142 :名無しさん@お腹いっぱい。[sage]:2008/01/11(金) 01:17:28
美輪さん主体で関わっている作品は
寺山だと青森県のせむし男、毛皮のマリー。
三島だと禁色という小説に美輪さんをモデルに登場させているし
舞台では卒塔婆小町(三島由紀夫)、葵の上(これも三島だったかな?)
黒とかげ←この字は変換正しくないです;ゴメン
(江戸川乱歩原作、舞台用に三島由紀夫が作り直し
後に美輪さん主演で映画も作られた)
784:名無しさん@お腹いっぱい。
10/04/19 11:52:54
>>783
禁色には美輪モデルはないと思います。
それ以外は大体あってると思いますが、三島戯曲は、特に美輪さんを主体(最初に美輪さんありきで、美輪さんを主人公に想定して)書き上げたものではないですよ。
後から、はまり役になったという結果的なものです。黒蜥蜴の映画に関しては美輪ありきの美輪主体だと思います。
785:名無しさん@お腹いっぱい。
10/04/19 20:52:32
ホモ
786:名無しさん@お腹いっぱい。
10/04/21 11:09:07
娘さんにあったことある
787:名無しさん@お腹いっぱい。
10/04/21 20:03:19
美輪が家に坊さんを入れようとしたら、首のない霊が云々
三島さんは5年くらいで成仏したとかしないとか
788:名無しさん@お腹いっぱい。
10/04/21 22:52:39
なんか怖い話だ
789:名無しさん@お腹いっぱい。
10/04/22 00:17:50
思いついたまま適当に言ってるんじゃないの?
あの大風呂敷爺さん
790:名無しさん@お腹いっぱい。
10/04/22 00:49:13
婆じゃないの
791:名無しさん@お腹いっぱい。
10/04/22 01:34:55
紫の履歴書では三島を先生と呼んで、ステージを見に来てくれると感激し、
どんな本を読めばいいか尋ねたり、意見を求めたり、まさに師と仰いでる。
でも最近は「私のお友達の三島さん」とは対等に言いたいことを言い合う仲だったとさ。
本当かどうかわかんないようなエピソードが年々増えていって、
ひとり噂板三島スレ状態の美輪。
792:名無しさん@お腹いっぱい。
10/04/24 11:55:10
昭和四十一年七月九日、三島さんは美輪明宏さんの日経ホールでのチャリティ公演に歌手として出演、美輪作曲で
自作詞の「造花に殺された船乗りの歌」を歌った。その年は「サド侯爵夫人」が芸術祭賞をとり、劇団NLTを
創った私たちは六月から七月にかけて関西公演に行く所だった。私はその打ち合わせに三島邸を訪ねた。
帰り際に三島さんは、いたずらっぽい笑みをたたえ「ちょっと聞かせたいものがあるんだが、今度ねえ、僕が
歌うんだよ。それをテープに入れたから―」と、既に用意してあったテープレコーダーをかけた。
ほとんどのものに手をそめた三島さんだったが、歌は初めてだった。お世辞にもうまいとは言えず、ためらう私に
たたみ込むように「丁度、関西から帰って来る日だろ。切符を用意しておくよ」と、にこりと笑った。
寺崎裕則
「私の心の中に生きる三島さん」より
793:名無しさん@お腹いっぱい。
10/04/24 11:55:30
三島さんは、胸の開いた黒のポロシャツに真白なズボンの格好いいマドロス姿で歌った。素晴らしかった。
舞台には歌の巧拙を超越し、そこに一人の詩人がすっくと立っていた。私の不安は雲散霧消。
終って明宏さんを囲んで打ち上げパーティーをした。三島さんは私に感想を求めた。思った通りを話したら
「そうか」と言ったものの、ちょっと不満気だった。
おひらきになると三島さんは「寺崎君、プロの歌手の手前、あれ以上、ほめると明宏さんに悪いと思ったんだろ。
これからはもう遠慮はいらない。ほめ言葉というものは幾らあっても多過ぎることはないんだよ」と、瑤子夫人と
六本木のステーキ屋へ拉致され、朝迄、“歌手三島由紀夫讃”をする破目になった。三島さんはすっかり
満足され、瑤子夫人と夏の、昇る朝日に向かって帰って行かれた。そのうしろ姿に好奇心と、稚気が戯れ合って
美しいオーラ(光輪)を描いていた。
寺崎裕則
「私の心の中に生きる三島さん」より
794:名無しさん@お腹いっぱい。
10/04/24 12:47:25
オーラの人
795:名無しさん@お腹いっぱい。
10/04/24 12:52:48
寺島さん?
796:名無しさん@お腹いっぱい。
10/04/26 02:42:45
これを見てください
日本の高校と変わらないし、決して特殊な学校ではないですから
入学式や卒業式
URLリンク(img63.imageshack.us)
URLリンク(img.gazo-ch.net)
URLリンク(img692.imageshack.us)
運動会の入場行進
URLリンク(www.nicovideo.jp)
797:名無しさん@お腹いっぱい。
10/04/27 19:53:28
ネット時代の現在、いくら日本人を言いくるめようとしても無駄だよね
798:名無しさん@お腹いっぱい。
10/04/28 22:41:24
昭和四十三年の春、青梅市郊外、吉野梅郷近くにある愛宕神社に、見なれぬ軍服姿の男たちが集まった。
作家の三島由紀夫と論争ジャーナルのスタッフ、そして学生たちのグループ十二人である。
社殿を見上げる百尺ほどの石段は、今を盛りの桜の花でおおわれ、その下で一行は記念の写真撮影をした。
この一行こそが「楯の会」創設時のメンバーである。しかしこの時「楯の会」という名前はまだなかった。
楯の会を考える時、どうしても『論争ジャーナル』をぬきにしては語れない。この月刊誌は昭和四十二年一月に
創刊され、当時左翼一辺倒の論壇に、真正面から立ち向った保守派のオピニオン雑誌であった。そのスタッフの
一人、万代潔が昭和昭和四十一年春、三島由紀夫を訪ねたことから、三島と論争ジャーナルの関係は始った。
持丸博
「楯の会と論争ジャーナル」より
799:名無しさん@お腹いっぱい。
10/04/28 22:41:45
この時、三島は既に「英霊の声」「憂国」を世に出し、この頃「奔馬」の執筆に取りかかっていた。
「恐いみたいだよ。小説に書いたことが事実になって現れる。そうかと思うと事実の方が小説に先行することも
ある」(小島千加子「三島由紀夫と檀一雄」)と自ら語っているように、四十二年の初めから、三島と
論争ジャーナルグループとの急速・急激な接近が始った。編集長中辻和彦と万代、そして当時学生であった私は
頻繁に三島家を訪ねるようになり、「俺の生きている限りは君達の雑誌には原稿料無しで書く」と言わせるまでに
信頼を勝ち得ていた。実際この年の三月から四十四年の三月までの二年間、三島は十回以上にわたって
論争ジャーナル誌上に登場した。四十二年の十一月号では、その頃交際を断っていた福田恆存と対談し、
論壇を驚かせた。この時期、三島はあたかも論争ジャーナルの編集顧問のような熱の入れようであった。
持丸博
「楯の会と論争ジャーナル」より
800:名無しさん@お腹いっぱい。
10/04/28 22:42:13
昭和四十二年四月から、三島は自衛隊に体験入隊し、四十五日間の訓練をした。これを機に「祖国防衛隊」構想が
計画され、論争ジャーナル編集部との間に、活発な議論が展開された。明けて四十三年一月、この構想は
「祖国防衛隊はなぜ必要か?」という表題でタイプ印刷され、限定で関係者に配られた。内容は、自衛隊を
補完する民兵の設立を想定したもので、その網領案によれば「市民による、市民のための、市民の軍隊」であり、
一朝事あれば「以て日本の文化と伝統を剣を以て死守せん」とする有志市民の「戦士共同体」であるとされた。
この「戦士共同体」の中核を作るために計画されたのが学生達の体験入隊である。「祖国防衛隊」の名は
外部には一切秘して、第一回体験入隊は昭和四十三年三月から一ヶ月間、私が学生長として御殿場の富士学校
滝ヶ原分屯地で実施された。以後四十五年三月まで五回にわたり、のべ約百二十人の体験学生を生んだ。
持丸博
「楯の会と論争ジャーナル」より
801:名無しさん@お腹いっぱい。
10/04/28 22:42:37
「楯の会」の名前が出来たのは、第二回の体験入隊終了後、会員数が四十名余りとなった昭和四十三年九月の
ことである。これから一年後の四十四年九月まで、会の事務局は論争ジャーナルの編集部内に置かれ、当時、
副編集長の私が会員の募集、選抜、事務手続き等実務に当って来た。しかし、楯の会とはいわば表裏一体として
マスコミ界に新風を吹き込んできた論争ジャーナルは、昭和四十四年頃から経営がきわめて悪化し、時には
発行が遅れることもあった。この財政上の危機をのりきるために、責任者の中辻は大変な苦労をした。父親の
退職金を全てつぎ込んでも足りなかった。そこで右翼系のある財界人から資金援助を受けることになる。
それまでどこからも資金援助をうけずに楯の会を維持してきた三島にとって、論争ジャーナルに「黒い噂」が
あることは、同時に楯の会の資金的な倫理性を損なうことになると考えた。それほど両者は密接に結びついていた。
持丸博
「楯の会と論争ジャーナル」より
802:名無しさん@お腹いっぱい。
10/04/28 22:42:59
体験入隊を「純粋性の実験」といい、楯の会を「誇りある武士団」と見る三島は、これを看過できなかった。
こうして三年近く密接な関係にあった三島由紀夫と論争ジャーナルは訣別した。確かにこれは悲劇であった。
しかしこの二つの運命的な出会いがなければ、楯の会がこの世に生まれなかったこともまた確かであったろう。
※
ここに一枚の誓紙がある。
〈誓 昭和四十三年二月二十五日
我等ハ 大和男児ノ矜リトスル 武士ノ心ヲ以テ 皇国ノ礎トナラン事ヲ誓フ〉
三島は平岡公威の名で署名し、以下あの愛宕神社の撮影会に参加した中の十名の名前が続く。
今は伝説となった血判状である。
今春、私は三十五年ぶりに愛宕神社を訪ねた。花の盛りには少し早かったが、桜の木々は昔のまま立っていた。
あの日満開の桜の中に立つ三島由紀夫の姿は、「我が生涯の師」として、今なお私の心の中に、あの時、
あのままの姿であざやかに生きている。
持丸博
「楯の会と論争ジャーナル」より
803:名無しさん@お腹いっぱい。
10/05/02 18:48:48
あんまりスポーツ得意じゃなかったんでしょ
804:名無しさん@お腹いっぱい。
10/05/02 19:23:14
ホモなのかどうかが知りたい
805:名無しさん@お腹いっぱい。
10/05/02 20:46:14
切腹失敗
806:名無しさん@お腹いっぱい。
10/05/02 23:28:53
>>792
それってまだ買えますか?
807:名無しさん@お腹いっぱい。
10/05/04 07:09:32
娘さんいるよね
808:名無しさん@お腹いっぱい。
10/05/04 11:18:04
>>806
売ってないようです。
809:名無しさん@お腹いっぱい。
10/05/04 19:45:55
>>808
図書館で探してみます
810:名無しさん@お腹いっぱい。
10/05/08 23:29:43
「黒い大佐」と呼ばれるヴィクトル・アルクスニスという軍人がいた。ソ連邦維持、反共、反欧米を主張する
滅茶苦茶だが高潔な保守派の人物だ。ペレストロイカは世界革命のためだとわかっていた。領土問題については、
日本の北方領土に対する要求は絶対に認めない「愛国」、「憂国」の士だ。父はラトビア人、母はロシア人。
祖父は建国の大立者で、ナチスの陰謀だったといわれる「トハチェフスキー事件」ではトハチェフスキーを
ヒトラーのスパイとして死刑にした一人で後に銃殺された。父はカザフスフタンの炭坑に送られ一家で辛酸を
なめるが第20回党大会で祖父の名誉回復がなされた。
ラトビアに帰国したアルクスニスは航空学校に入るが目が悪く、ミグの整備兵になる。(中略)
アルクスニスはペレストロイカのもと、保守派に押されて国会議員になり、「反共ソ連邦維持連盟」を結成し、
改革派を西欧とつながった売国奴と非難してシュワルナゼ外相を辞任に追い込んだ。
佐藤優
講演「ロシアから吉野へ 神皇正統記から三島へ」より
811:名無しさん@お腹いっぱい。
10/05/08 23:30:07
1991年8月19日から21日にかけて保守派によるクーデタが起こったが失敗する。
私は枝村大使の了解を得て、24日の朝アルクスニスに電話し国会で演説する前に昼飯の約束をした。
日本人は情報が入らないと離れる、力のある者にだけすり寄りよると思われることを危惧したからだ。
中華レストランに誘い、自分の母が14歳で沖縄戦に巻き込まれた苦難を、人民の敵として辛酸をなめた
アルクスニスに語り、以下のやり取りをした。
アルクスニス「これから国会でソ連邦維持の演説をする」
佐藤「やれ、信念を通せ!」
アル「日本はカミカゼの国だろう」
佐藤「実は(熱心な社会党支持者の)母はこっそり靖国神社に通っている。姉が祀られているからだ」
アル「スターリングラードでソ連兵はドイツ戦車に特攻した。このことはタブーとして歴史から隠ぺいされている」
佐藤「カミカゼの精神とスターリングラードの精神は同じだ!」
アル「北方領土は日本からスターリンが盗んだ土地だ。おれはそれを知っている。日本は還せと言い続けるべきだ」
佐藤優
講演「ロシアから吉野へ 神皇正統記から三島へ」より
812:名無しさん@お腹いっぱい。
10/05/08 23:30:31
アルクスニスは三島由紀夫の愛読者で、1989年ロシア語で出版された『憂国』が一番いいと言い次のように
評価した。
・2.26事件の世直しとソユーズ(連邦維持を唱える院内会派)とは似ている。
・これは友情の小説だ。
・主人公が決行部隊から外されたのは結婚したばかりというのはウソだ、決行の中心人物でなかったからだろう。
・しかし主人公は夫人との愛、同志との友情の中にいる。
アルクスニスは私にボリス・プーゴのことを覚えているかと訊き、次のように語った。
「クーデタ派は破れソ連国家は崩壊した。 セルゲイ・アフロメーエフ参謀長はこめかみを打ち抜いた。
ラトビア人のプーゴ内務大臣はKGBが自宅に逮捕に来たが、役人を外で待たせ2発の銃声を発し、夫人と
一緒に死んだ。ラトビア人には血の掟がある。 名誉を守るために自決を選んだのだ。
ラトビア人は奥さんを先にし、『憂国』では奥さんが後だ。日本人は奥さんへの信頼が篤いからだろう」
佐藤優
講演「ロシアから吉野へ 神皇正統記から三島へ」より
813:名無しさん@お腹いっぱい。
10/05/08 23:30:49
日本人もキリスト教的で死後のよみがえり、死後の復活を前提にしているといえる。
私はキリスト教(プロテスタントのカルバン派)だが、日本の神話にある世界観と聖書の世界観は同じだと思う。
天照大神とキリストは同じだ。仏教は壮大精緻な世界観を持つが、日本の神話では、聖書同様混沌の中から
世界がうまれる。いざなぎ、いざなみの営みからだ。これは平田篤胤に継承されている。
近代国家は欧米思潮の流れにあるが、その源流はギリシアにあり、ギリシア世界はドイツ語にある。日本の
知的退廃はこのドイツ語を学ばなくなっているせいだ。(中略)
新渡戸稲造や内村鑑三などの神学者が日本の「国体論」を一番わかっている。各国のキリスト教は別々に
つくられ、存在している。臣民の道、靖国を位置付けられなければ、日本のキリスト教とはいえない。(中略)
靖国に行くなというキリスト教徒はダメだ。霊性、リインカネーションを感じる力が衰えているのだ。
佐藤優
講演「ロシアから吉野へ 神皇正統記から三島へ」より
814:名無しさん@お腹いっぱい。
10/05/08 23:31:06
旧ソ連国家保安委員会(KGB)の後身であるロシア連邦保安庁(FSB)ではカリキュラムの中で日本語の
三島の作品を読ませている。物欲のないこういった日本人にしてはならないと警戒しているのだ。
ロシアは新自由主義経済の流れの中でサブプライム問題に引っ掛からなかった日本の国力を恐れている。
ただぼんやりしていただけだが。
「ファシスト・サムライ」というロシア語には日本人への尊敬と畏敬の気持ちがある。
本当の日本人は「ファシスト・サムライ」でヘナヘナしているのはウソである、と思っている。
大いなる誤解だが誤解のままにしておけばいい。
佐藤優
講演「ロシアから吉野へ 神皇正統記から三島へ」より
815:名無しさん@お腹いっぱい。
10/05/08 23:32:44
(中略)
私は大学の2回生のときに小説を読まないことにした。哲学と神学書を読み、そのためにヘブライ語、ラテン語、
ギリシア語を勉強する時間を確保するためだ。ただし役に立つ小説は読む。
モスクワでは30冊くらい『憂国』をロシア人に渡した。三島にはテクストだけではない生き方がある。
三島は個別の命を超えた大義に生きた。
言っていることとやったことがかい離していない三島はロシア人の心を打つ。
キリスト教は自殺を禁止しているというが、国家に忠義を尽くすことをヤン・パラフというチェコの青年は
「プラハの春」の1968年ヴァーツラフ広場で焼身自殺して示した。
15世紀宗教改革に命をかけたヤン・フスの末裔の殉教者と見られて、今でも広場に献花が絶えない。
佐藤優
講演「ロシアから吉野へ 神皇正統記から三島へ」より
816:名無しさん@お腹いっぱい。
10/05/09 00:04:51
噂の真相に部落説が載ってた
娘さんが寺に過去帳の閲覧断られたとかって話
817:名無しさん@お腹いっぱい。
10/05/09 01:05:54
>>816
祖父の祖先に、禁じられていた雉射ちを子供のときして、お上に怒られた人がいたかもしれない、ってだけの話だよ。
818:名無しさん@お腹いっぱい。
10/05/09 01:12:23
>>816
部落民説を国士様に話すと真っ赤になって怒るんだよね。
部落民だろうがホモだろうが三島ぐらいになると名声に影響ないのに。
819:名無しさん@お腹いっぱい。
10/05/09 01:20:44
左翼が血眼になって必死にあら探ししても、雉射ちした子供しか出て来ないんだから。
それをまた必死に部落だとか大袈裟に捏造してまでご苦労なこった。
820:名無しさん@お腹いっぱい。
10/05/09 01:31:38
>>817
雉射ち詳しく知りたい
821:名無しさん@お腹いっぱい。
10/05/09 01:38:59
>>820
Wikipediaに載ってない?あくまで噂レベルの域
822:名無しさん@お腹いっぱい。
10/05/09 01:43:24
ちなみに「奔馬」のなかにも、勲が雉(だったかな?)、鳥を討つ場面があったね。
823:名無しさん@お腹いっぱい。
10/05/09 04:15:03
確か先祖に切腹した人がいたとか
824:名無しさん@お腹いっぱい。
10/05/09 10:13:26
兵庫のその平岡姓は、平家が逃れて流れてその地で農民に身を隠して暮らしてた人たちの子孫という説もあるね。
825:名無しさん@お腹いっぱい。
10/05/09 13:56:15
実家の先祖は豪農だったって聞いた
826:名無しさん@お腹いっぱい。
10/05/11 06:18:05
ホモだちは誰だろう
827:名無しさん@お腹いっぱい。
10/05/11 14:57:53
曾おばあさんが水戸徳川家出身だっけ?
828:名無しさん@お腹いっぱい。
10/05/11 15:24:29
松平家だよ。祖母の祖父は永井尚志。
829:名無しさん@お腹いっぱい。
10/05/11 16:24:42
その松平家は水戸の分家だよね
830:名無しさん@お腹いっぱい。
10/05/11 17:24:12
このお方?切腹してるね。
松平頼徳 - Wikipedia
URLリンク(ja.wikipedia.org)
831:切腹
10/05/11 21:57:35
三島由紀夫の切腹
URLリンク(yaplog.jp)
832:切腹
10/05/11 22:00:17
当時の週刊誌に載った遺体
833:名無しさん@お腹いっぱい。
10/05/12 04:05:12
怖くて見れない
834:名無しさん@お腹いっぱい。
10/05/12 15:06:24
>>830
たしか天狗党関連で切腹したんだよね
835:名無しさん@お腹いっぱい。
10/05/12 20:52:06
切腹画像って何が映ってるの
836:名無しさん@お腹いっぱい。
10/05/13 00:02:24
>>834
三島由紀夫はその先祖の転生かもね
837:名無しさん@お腹いっぱい。
10/05/13 08:36:45
結構先祖に有名な人がいるんだね
838:名無しさん@お腹いっぱい。
10/05/13 18:22:55
先祖の腹きりに影響されちゃったのかな
839:名無しさん@お腹いっぱい。
10/05/13 21:40:15
なんか因縁を感じるな
840:名無しさん@お腹いっぱい。
10/05/15 20:57:13
あの方は天草四郎の生まれ変わりだったはずw
841:名無しさん@お腹いっぱい。
10/05/16 01:13:13
みわさんね
842:名無しさん@お腹いっぱい。
10/05/25 02:07:19
美輪さんは・・・
843:名無しさん@お腹いっぱい。
10/05/26 13:23:48
>>828
永井尚志は旗本だね
844:名無しさん@お腹いっぱい。
10/05/27 18:47:33
永井荷風と遠い親戚だと聞いた。
文学の血はあるんだと思った。
因みに荷風と従兄弟が高見順。
845:名無しさん@お腹いっぱい。
10/05/27 21:02:45
歴史上の人物と繋がってるのが凄い
846:名無しさん@お腹いっぱい。
10/05/28 19:34:43
娘さんって綺麗なのかな
847:名無しさん@お腹いっぱい。
10/06/06 11:09:44
>>846
息子は美男子だと聞いたことあるよ。
848:名無しさん@お腹いっぱい。
10/06/06 12:59:22
息子さんは銀座で宝石関係のお店やってるらしい
娘さんのことは聞いたことも無い
849:名無しさん@お腹いっぱい。
10/06/10 23:49:11
吉田松陰が七世紀の壬申の乱のことを『講孟剳記』で語っています。そこで、たとえば弘文天皇が天武天皇に
三種の神器を奪われてしまったとき、レガリアがないとはたしてレジティマシーが天皇としてあるのかという
議論を、前期水戸学が問題にしている。これについて、吉田松陰はそんなことはどうでもいいと言うんです。
三種の神器を天武天皇から弘文天皇の臣下が奪い返せばいいんだと言うんです。つまり認識や理屈よりも行動だと。
実践的な行動が大事だと言っているんです。(中略)
(私は)日本人を非常に信頼しています。特に一般大衆と言いますか、庶民を昔から信頼しています。たとえば
徳富蘇峰が『近世日本国民史』で元禄時代の忠臣蔵、赤穂義士の事件のことについて触れています。
杉原志啓「第39回憂国忌『現代に蘇る三島由紀夫』」より
850:名無しさん@お腹いっぱい。
10/06/10 23:49:30
あれはいつどういうときに勃発しているかと言いますと、元禄時代ですので、およそ享楽と歓楽の世です。
元禄の世の中は黄金万能主義で拝金万能主義の世の中だと。太平楽で一切戦争から離れて、元禄のデタラメかつ
狂乱の文化を謳歌していた時代に、突如として江戸に腹を斬らなければならない人たちが四十何人も出た
驚くべき事件が出来したと言っている。蘇峰はこれを大正時代の今日に東京丸の内へ虎が飛び出すよりも
驚くべき事件だと言っている。
つまり日本国民に潜在している尚武の気性は、歴史的にいよいよ危機になってくると必ず実践として噴出する
というわけです。山路愛山も福本日南も、歴代の近代ヒストリアンは皆同じです。
まさにその伝で三島由紀夫さんが身を捨てて、戦後の昭和元禄みたいな世の中に警鐘を鳴らしてくれたわけです。
杉原志啓「第39回憂国忌『現代に蘇る三島由紀夫』」より
851:名無しさん@お腹いっぱい。
10/06/10 23:49:48
確かに表面上はどんどん悪くなっていると思います。たとえば北朝鮮の拉致問題とか、憲法改正問題を含め
何一つ手を付けられない。その背後には日本国民の国家意識の問題がありますね。
たとえば有事法制を作った。北朝鮮で不審船の侵入事件がありましたが、あのときに自衛隊法八十二条で
海上警備行動を発動しようとしましたが、最初は巡視船でやっていて自衛隊はなかなか出ない。私が教えを受けた
坂本多加雄先生に言わせると内閣がもたもたしていたからだと言う。ではなんでもたもたするのかと言うと、
一般国民のなかにそういう構えができていないからです。しかし日本国民は健全だから必ず目覚めると常に
一貫しておっしゃっていました。私もそう信じています。三島さんのような人が、まさに昭和元禄の頃に
突如としてああいう行動を噴出させたようにです。
杉原志啓「第39回憂国忌『現代に蘇る三島由紀夫』」より
852:名無しさん@お腹いっぱい。
10/06/10 23:50:09
私はどんどん駄目になって遂に破滅に至る、日本が溶解するとは思っていません。近代以前もそうですけれども、
歴史を勉強しているうちに、そんなに捨てたものではないだろうと思うようになりました。
むしろこれから真の三島のような人がまた出てくるであろう。本当の危機のときに必ず日本人は英雄を生み出すと
山路愛山も徳富蘇峰も言っています。そちらのほうに私は賭けたいと思っています。
そもそも日本を溶解に導いているのは、むしろ政治家や知識人といったエリート層です。戦前も戦後も
そのパターンで、大衆国家日本の庶民の常識こそ信じたいのです。そしてそこから英雄が出現するだろうと。
杉原志啓「第39回憂国忌『現代に蘇る三島由紀夫』」より
853:名無しさん@お腹いっぱい。
10/06/11 03:36:47
昨日三島さんが行きつけだった旅館に行ってきました
854:名無しさん@お腹いっぱい。
10/06/13 14:26:14
>>853
温泉ですか?
855:名無しさん@お腹いっぱい。
10/06/13 22:42:54
>>854
そうです
856:名無しさん@お腹いっぱい。
10/06/18 02:48:15
生きてたら今の政治についてなんって言ってるかね
857:名無しさん@お腹いっぱい。
10/06/19 11:14:24
鳩山は「命を賭けて…」と言いながら、議員もやめないことに、呆れてしまうんじゃない?
殺すほどの価値もないから、ただ呆れるだけだと思う。
858:名無しさん@お腹いっぱい。
10/06/26 23:30:50
『潮騒(しほさゐ)に、伊良虞(いらご)の島辺(しまへ)、漕ぐ舟に、
妹(いも)乗るらむか、荒き島廻(しまみ)を』
(さわさわと波がさわいでいる伊良虞の島のあたりを漕いでゆく舟に、
今ごろあの娘は乗っているのだろうか、潮の荒いあの島の廻りを。)
詠人 柿本人麻呂
三島由紀夫は、万葉集に歌われている伊良湖岬を歌ったこの歌から「潮騒」の題名をとりました。
この歌は、持統天皇が伊勢に旅された時に、都に残った柿本人麻呂が詠んだ歌です。
ちなみに、潮騒を万葉仮名で書くと『潮左為』だそうです。
859:名無しさん@お腹いっぱい。
10/06/27 00:07:00
中曽根と長島さんと美和のネットワークとは何?
860:名無しさん@お腹いっぱい。
10/07/01 12:29:36
戦後の日本人に大きな魂を残したのは、三島由紀夫と神風特攻です。これも実はフランス人がそう言っているんです。
ベルナール・ミローが『神風』という本を書いていまして、「特攻の精神は、千年のときを貫いて人間の
高貴さを示している」と1970年代に書いています。戦後の日本人に対して特攻隊と三島の死が非常に大きな
力と言いますか、日本精神の原点は何かということを教えてくれた気がします。
憲法の問題ですが、アメリカが作って翻訳された「たかが成文憲法」です。しかしこのたかが成文憲法を戦後
60年近く押し戴いている日本は一体なんなんだというのが私の今の正直な感想です。自民党がこうなったのも
当然だと思います。
富岡幸一郎「第39回憂国忌『現代に蘇る三島由紀夫』」より
861:名無しさん@お腹いっぱい。
10/07/01 12:29:57
三島が45年の11月25日に、自民党政権はもはや火中の栗を拾わない、すなわち憲法改正をしなくても
政権は維持できる。このことにどうして自衛隊の諸君は気がついてくれなかったんだと言っています。
そういう意味で、政治論ですけれども、たかが成文憲法を変えられない我々の問題も感じます。
あと二年のうちにということがどういう意味かと考えると、三島没後の72年にあれほど対立していた米中が
手を結びました。つまりあの瞬間に日本の憲法改正も、自衛隊が国軍になる日もなくなった。あるいはその
チャンスが失われかけた大きな危機だったのではないか。今はそれと同じ状況だと思います。スケールは違いますが、
同じ事態が出来している。アメリカと中国が経済同盟を結んで日本をスルーしていく。民主党政権の外交は全く
機能しておりません。
富岡幸一郎「第39回憂国忌『現代に蘇る三島由紀夫』」より
862:名無しさん@お腹いっぱい。
10/07/01 12:30:29
何年も前から檄文のなかにあった二年後というのが気になっていて、一体なんなんだろうとずっと考えていました。
あるとき気づいたんですが、一つは米中接近がありますね。もう一つは沖縄返還です。昭和47年に沖縄返還が
行われることは決まっていて、そのときにどういうかたちで返還されるのか。それによって日本という国家が
相変わらず独立できないまま半独立国家として、アメリカの永久占領が限りなく続いていくことを三島は見抜いていた。
彼が45年の生涯で書いたものの全てが、今の21世紀の私たちに突き刺さってくる問題ばかりを書いている。
それが天才の所以なんでしょうけれども、認識と行動の問題もつくづく考えさせられます。二元論に自分を
追い込んでいって、ラディカリズムがニヒリズムを克服するという方法論をとったのではないかと私は解釈しています。
西村幸祐「第39回憂国忌『現代に蘇る三島由紀夫』」より
863:名無しさん@お腹いっぱい。
10/07/01 12:30:49
(中略)
三島は現実的な問題も、十分捉えていたわけです。二年後に自衛隊はアメリカの傭兵になってしまうと
1970年の時点で言い切っていたのは、米中接近と沖縄返還のことを、すでに視野に入れていたということです。
(中略)
最近よく話題になる核のシェアリングの問題がありますけれども、そういったことも三島さんは考えていた。
それは日本の核戦略はどういうものになるのかと、40年前の時点で考えられ得る現実的なこともちゃんと
提起していた。国土を守るほうの自衛隊を、国軍として成立させることで、日米安保体制下のなかでの日本の
自主防衛をどうしていくかを、40年前のあの制約のなかで考えていたことは素晴らしい慧眼だと思います。
西村幸祐「第39回憂国忌『現代に蘇る三島由紀夫』」より
864:名無しさん@お腹いっぱい。
10/07/05 19:49:43
松本徹先生『三島由紀夫を読み解く』がNHKテキストに
ラジオ第二放送で7月から9月放送のテキストです
****************************************
NHKカルチャーラジオ『文学の世界』は、七月から九月が松本徹(文藝評論家、三島文学館館長、憂国忌発起人)が語りおろす「三島由紀夫を読み解く」である。
放送日は七月から九月
木曜日 午後八時半から九時
再放送は
金曜日 午前1015-1045
なお写真十数葉を配した、松本先生執筆のテキストはNHKから出版されており、書店で買い求めることができる。
NHKカルチャーラジオ 松本徹 『三島由紀夫を読み解く』(857円)
865:名無しさん@そうだ選挙に行こう
10/07/10 10:31:59
今月からですね
866:名無しさん@そうだ選挙に行こう
10/07/10 14:50:27
三島由紀夫の男色相手で有名な人は何人ぐらい居ますか?
実例を挙げて教えて下さ~い。
867:名無しさん@そうだ選挙に行こう
10/07/10 20:26:35
>>866
そもそも、三島は青春期には両性愛傾向があったのは事実のようですが、本当の意味で
肉体的にも体験を伴った同性愛者というには根拠が薄いので、同性愛者とは言えないと思います。
しいていうなら、福島次郎という三島由紀夫のストーカーだった小説家志望の人が、
三島の奥さんや弟が死んだのを見計らって、自分が愛人だったかのような売名本を
出しただけですから、もしそれが本当だとしたら、福島次郎一人だけですね。
読んだ感想としては、三島に相手にされなかった彼の妄想と願望が入り交じった創作だと
感じましたけど。
ちなみに美輪明宏は、自分と三島由紀夫は友人関係だと言ってます。
868:名無しさん@そうだ選挙に行こう
10/07/10 20:44:15
テメエは徹底した阿呆だゼッ!!!
867番のド変態めがっ!!!!
869:名無しさん@そうだ選挙に行こう
10/07/11 11:50:35
>>868
ナッチャンですか
870:名無しさん@お腹いっぱい。
10/07/15 19:53:53
>>865
毎週楽しみです。
871:名無しさん@お腹いっぱい。
10/07/23 20:18:26
867へ
たしか芥川賞候補になりましたよね
872:名無しさん@お腹いっぱい。
10/07/26 10:59:37
人気グループ「V6」の森田剛(31)が、作家・三島由紀夫の代表作を舞台化した
「金閣寺」に主演することが25日、分かった。
演出家の宮本亜門氏(52)が芸術監督を務め、来年1月にオープンする
神奈川芸術劇場のオープニング作品として上演されるもの。森田は役に合わせて丸刈りにし、
世界中で知られている日本文学の金字塔に挑む。
神奈川の新しい芸術の発信地として、来年1月に横浜・山下町にオープンする神奈川芸術劇場。
そのこけら落とし公演の主役という大役を森田が担う。
「金閣寺」は、昭和の文豪・三島由紀夫の代表作。
生来の吃音(きつおん)をコンプレックスに持つ若い僧侶・溝口が金閣に魅せられ、
やがて金閣との関係を絶たれたことに絶望し、最後は放火して消滅させることで、自らの自由を得るというストーリー。
宮本氏が芸術監督に就任した際、「日本に焦点を当て、神奈川から世界へ向けて、
日本オリジナルの世界基準の作品を」と考えた結果、頭に浮かんだのが、この作品だった。
URLリンク(hochi.yomiuri.co.jp)