三島由紀夫の噂at UWASA
三島由紀夫の噂 - 暇つぶし2ch700:名無しさん@お腹いっぱい。
10/02/19 11:23:52
「先生は自分が弱かったから、強いものに憧れて、強い人間になりたいということで、鍛え上げたんでしょう」
のちに下士官から将校に昇進するための幹部候補生試験に合格して久留米の幹候生学校で教育を受けているとき、
山内は毎日の授業や実習をおさらいするつもりで、講義の要点をまとめ、その日一日を振り返った反省点などを、
日記を綴るようにノートに書きためていた。
…表紙がすっかり黄ばんだノートの冒頭には、自衛隊の将校になるにあたっての決意がしたためられている。
誰に見せるわけでもなく、自らに言い聞かせるただそれだけのために書いた一文の中で、山内は、三島から
「山内さんはこのような人に見える」と言われて、色紙に『純忠』という言葉を授かったことをしるし、
さらにこうつづけていた。
〈いまも私の宝として、好漢森田必勝君とともに終生先生との思い出を忘れない。忘れることができないであろう。
そして、純忠の言葉通り私も生きたいものだ。〉

杉山隆男
「兵士になれなかった三島由紀夫」より

701:名無しさん@お腹いっぱい。
10/02/19 11:24:18
(中略)山内は、あの日、市ヶ谷のバルコニーで「諸君は武士だろう!」と絶叫の響きをにじませながら
訴える三島の声をかき消すように、嘲笑や罵声を浴びせた隊員たちにむしろ「腹が立ち」、「平岡先生を
悪者にしてはいけないということしか頭に浮かばなかった」という。三島への尊敬の念が強まることはあれ
薄まることはなかったのである。
そんな山内も、終生先生との思い出を忘れない、と書きとめたノートのなかで、〈私は先生に会う以前、
三島由紀夫とはつまらぬ小説家であろうと思っていた〉と明かしている。(中略)
それが「尊敬」へと180度変わったのは、生身の三島に触れて、たとえ弱さがあっても、そんな自分から決して
逃げることはせず、むしろ真正面から立ち向かって、より強くなろうとする三島の真摯な姿を間近でみつめてからだった。

杉山隆男
「兵士になれなかった三島由紀夫」より

702:名無しさん@お腹いっぱい。
10/02/19 11:24:40
ひたむきな三島に心動かされたのは山内ひとりではなかった。体験入隊してきた三島を、時には「平岡ッ」と
本名で呼び捨てにしながら、手加減せず厳しく指導してきた教官や助教も、あるいはともに汗を流し、
隣り合わせのベッドで眠った訓練仲間の学生も、少なくとも私が話を聞いたすべての元兵士たちが口を揃えて、
鍛え上げられた上半身に比べて足腰の弱さが際立つ、三島の中のアンバランスを指摘しながら同時に、三島の
愚直なまでの一途さにすがすがしいものを覚えていた。
要するに彼ら全員が、兵士になろうとして、世界のミシマとは別人のように弱さも含めてすべてをさらけ出した
人間三島に惚れこんだのである。

杉山隆男
「兵士になれなかった三島由紀夫」より

703:名無しさん@お腹いっぱい。
10/02/19 11:25:01
学生を引き連れた滝ヶ原での最初の体験入隊で、山内や河面と同じく、助教をつとめた江河弘喜は、三島の
人となりについてこう語っている。
「紳士でした。まじめでした。もう真面目そのものでした」
…そして三島の真面目さは、律義と呼びかえてもよいものであることを、江河は自らの体験で知っている。
というより、三島の律義さを、江河は片時も忘れ得ぬしるしとして受け取っているのである。
体験入隊に臨んでいた三島に、江河は或る「お願い」をしていた。近々産まれてくる自分のはじめての子供に
名前をつけてもらえないかと頼んだのである。三島は二つ返事で快く引き受けてくれた。
(中略)いまも江河が大切に保存している三島からの手紙の日付は土曜日の二十五日になっているから、女児誕生の
報せを受けてすぐに筆をとったことになる。

杉山隆男
「兵士になれなかった三島由紀夫」より

704:名無しさん@お腹いっぱい。
10/02/19 11:25:31
〈どうしても可愛がりすぎてしまふ第一子は、女のお児さんがよろしく〉と、やはり第一子に女の子を授かった
自身の経験を引きながら、三島は手紙の中で、〈人生最初に得る我児は、何ものにも代へがたく、一挙手一投足が
驚きでありよろこびであり、……天の啓示の如きものを感じますね〉とその感動を素直に綴っていた。
候補としてあげた三通りの名前については、それぞれについて、…(略)…〈一長一短〉があることを断った上で、
三つの中から〈御自由に〉選ぶように書き添え、さらに別便でいかにも愛らしい淡いピンクと水色の産着を
一着ずつ届けて寄越す、こまやかな心の砕きようであった。

杉山隆男
「兵士になれなかった三島由紀夫」より

705:名無しさん@お腹いっぱい。
10/02/21 01:11:50
あの日、一九七〇年十一月二十五日、私は十八歳になった。高校三年生である。(中略)
その日の昼下がりも、窓いっぱいにさしこんでくる柔らかな陽の光につつまれて、私はついついまどろみそうに
なりながら、午後の授業の開始を告げるチャイムが鳴ったのも気づかないほどだった。ほどなくして古文を
受け持っていた教師が教室に入ってきた。微かに東北訛りの残る、穏やかな語り口で、ふだんは授業以外の
余計なことはめったに口にしない人なのだが、この日に限って、教科書をひらく前にこう切り出したのである。
「つい先ほどのことですが、三島由紀夫が市ヶ谷の自衛隊に乱入して割腹自殺を遂げたそうです」
思いもよらないニュースを先生の口から知らされたとたん、教科書やノートをひらきかけていた生徒の動きが
一瞬止まり、次いで教室にどよめきが走った。(中略)
しばらくは教室のあちこちでざわめきが尾を曳いていたが、それも教師が古(いにしえ)びとの歌を朗々と
詠じはじめるうちにしだいに静まっていった。しかし、私はひとり胸の動悸を収めることができずにいた。

杉山隆男
「兵士になれなかった三島由紀夫」

706:名無しさん@お腹いっぱい。
10/02/21 01:12:24
こんなところで平安貴族が詠んだ歌について悠長に解釈をあれこれ考えている場合ではないだろう。ともかく
市ヶ谷に行かなければ……。と言って、駈けつけても、何をしようなどという考えがもとよりあったわけではない。
ただ、じっと教室の椅子に座って、授業を受けていることが、いまこの瞬間の過ごし方としてはひどく間が抜けて
いるように思えてならなかった。居ても立ってもいられなかったのである。私は鞄に教科書など一式をしまいこむと、
腰を屈めたままの姿勢で席を離れ、教師が黒板に向かっている隙に教壇の横をすり抜けて出口に向かった。
(中略)私が通っていた都立日比谷高校から市ヶ谷は距離にして二キロ弱、(略)市ヶ谷の駅へと通じる下り坂を
下りるにつれて、上空を旋回するヘリの爆音が二重三重に輪をかけて大きくなっていく。外濠にかかる橋を渡り、
駐屯地の前に出ると、正面ゲートだけでなく、ヤジ馬が鈴なりになった周囲の歩道にも制服警官や機動隊員が
多数配置され、あたり一帯は異様な空気につつまれていた。

杉山隆男
「兵士になれなかった三島由紀夫」より

707:名無しさん@お腹いっぱい。
10/02/21 01:12:59
私はただその場から立ち去りがたいという思いに引きずられて小一時間ほど佇んでいたが、やがて、あの門の向こうで
三島が自決したんだと自らに言い聞かせるようにいま一度眼を見ひらき、駐屯地の奥を見据えて、脳裏にその情景を
しっかりと刻みこんでから、相変わらず上空をヘリが舞い、(略)騒然とした雰囲気の中、歩いて市ヶ谷から
九段の坂を通り、神保町の自宅に帰った。(中略)
自宅の神棚には、鯛のお頭付きと三越の包装紙につつまれたケーキの箱が供えられていた。家族の誕生日の、
それが我が家の習わしであった。私は、その夜のささやかな祝宴の主賓であったにもかかわらず、鯛にもケーキにも
手をつける気には到底なれなかった。
その日からずっと、私の中で、「三島由紀夫」は生きつづけているような気がする。いまになって思えば、
自衛隊に兵士たちを訪ねて歩く取材をはじめたのも、三島由紀夫抜きには考えられないのだった。

杉山隆男
「兵士になれなかった三島由紀夫」より

708:名無しさん@お腹いっぱい。
10/02/21 01:13:30
私は生涯にただ一度きり、生身の三島を間近にしている。
…私が三島を眼にしたのは、他でもない自衛隊の観閲式においてであった。学校新聞の取材と称して式典への参加を
願い出た高校一年生、十五歳だった私に、防衛庁は各国の駐在式官が陣取った来賓席を用意してくれていた。
肩から金モールを下げ、礼装の軍服に身をつつんだ式官や華やいだ装いの夫人たちに囲まれて席についていると、
式官の一団が突然、「起立!」と号令をかけられたみたいに夫人ともどもいっせいに立ち上がった。私も、
傍らに座る、観閲式に無理矢理つきあわせた級友のTと一緒に思わず立ち上がっていた。式官たちは全員二時の
方向を向いて、手を制帽の眼庇にかざし挙手の礼をとっている。(略)彼らが敬礼を送っている相手は最初は
見えなかったが、相手の動きとともに、敬礼する式官たちの体の向きも変わってゆき、やがて彼らがほぼ真横を
向いたところで、ならび立つ軍服の間から三島が姿をあらわしたのである。

杉山隆男
「兵士になれなかった三島由紀夫」より

709:名無しさん@お腹いっぱい。
10/02/21 01:13:59
細身のスーツを着こなした三島は自らも右手をかざして式官たちの敬礼に応えながら、瑤子夫人を伴って、
私とTが立っている席のすぐ前の席に腰を下ろした。
私の視線は、傍らの駐在式官から挨拶を受け、にこやかに何ごとか語らっている三島に釘付けになっていた。
間近も間近、手を伸ばせば触れるようなすぐそこに、三島由紀夫がいることに私は興奮して、級友のTの肘を
つつきながら、「ミシマだよ、ミシマがいるよ」と熱に浮かされたようにうわごとめいたつぶやきを繰り返していた。
音楽隊が奏でる勇壮なマーチに乗って、陸海空各部隊が一糸乱れず分列行進をしたり、(略)迫力あるシーンは
どれもはじめてじかに眼にするものばかりだったはずなのに、どういうわけか、記憶に灼きついているのは
三島の姿だけなのである。
たった一度だけ三島を眼にした場が自衛隊の式典であり、それから二年あまりのうちに、自分の十八回目の誕生日に
三島が自衛隊で自決を遂げたことは、私の中で不思議な暗号として捉えられた。

杉山隆男
「兵士になれなかった三島由紀夫」より

710:名無しさん@お腹いっぱい。
10/02/21 01:17:28
いつしか私は、三島由紀夫と、自衛隊と、自分自身とを何か運命的なもののように重ね合わせて考えるようになっていた。
(中略)三島は、自衛隊に何を見、何を期待し、何に絶望していったのか。(略)答えがみつかるはずもない
その問いかけを、鈴振るように胸に響かせながら、私もまた自衛隊のゲートをくぐったのであった。
当初私は、三島が丸三年半にわたる自衛隊体験の中では、自衛隊を第一線で支える、もの言わぬ隊員たちの素顔に
間近に接して、彼らの心情に分け入るまでには至らなかったのではないかと思っていた。(中略)
しかし、三島が死に場所に選んだ自衛隊をこの眼で見、全身で感じてみたいと思い、はじめた平成の兵士たちを
訪ねる旅の第一歩からほぼ十五年の年月が流れ、その旅をいよいよ終えようといういまになって、私の眼には、
三島の眼差しの先にあったものがかつてとは違ったように見えてきたのである。

杉山隆男
「兵士になれなかった三島由紀夫」より

711:名無しさん@お腹いっぱい。
10/02/21 01:17:59
(中略)
〈…自衛隊は永遠にアメリカの傭兵として終るであらう〉という三島の予言は、その死から四十年近くたったいま、
ますます説得力を帯びた切実な響きで聞こえてくる。そうなってみると、十五年前には迂闊にも気づかなかったことだが、
三島が知っていた自衛隊とは、決して〈武器庫〉や〈階級章〉だけではなかったように思われてきたのである。
死の二ヶ月前、三島は、「楯の会」の会員たちと体験入隊を繰り返し、彼が自衛隊でもっとも長い時間を過ごした
滝ヶ原分屯地の隊内誌『たきがはら』に一文を寄せている。その中で三島は、自分のことを、
〈二六時中自衛隊の運命のみを憂へ、その未来のみに馳せ、その打開のみに心を砕く、自衛隊について
「知りすぎた男」になつてしまつた〉と書いていた。じっさい「知りすぎた」三島は、『檄』にも書きとめた通り、
〈アメリカは眞の日本の自主的軍隊が日本の國土を守ることを喜ばないのは自明である〉という自衛隊の本質を
見抜いていたがゆえに、自衛隊の今日ある姿を予見することができたのだろう。

杉山隆男
「兵士になれなかった三島由紀夫」より

712:名無しさん@お腹いっぱい。
10/02/21 01:18:45
隊員ひとりひとりが訓練や任務の最前線で小石を積み上げるようにどれほど地道でひたむきな努力を重ねようとも、
アメリカによってつくられ、いまなおアメリカを後見人にし、アメリカの意向をうかがわざるを得ない、すぐれて
政治的道具としての自衛隊の本質と限界は、戦後二十年が六十余年となり、世紀が新しくなっても変わりようが
ないのである。
私が十五年かけて思い知り、やはりそうだったのか、と自らに納得させるしかなかったことを、三島は四年に
満たない自衛隊体験の中でその鋭く透徹した眼差しの先に見据えていた。
もっとも日本であらねばならないものが、戦後日本のいびつさそのままに、根っこの部分で、日本とはなり得ない。
三島の絶望はそこから発せられていたのではなかったのか。

杉山隆男
「兵士になれなかった三島由紀夫」より

713:名無しさん@お腹いっぱい。
10/02/27 00:11:26
…応援席の中から、中等科一年生を見分けることはたやすかった。学帽や徽章は、「貫禄」をつけるためわざと
よごされていても、襟章の金の桜のま新しさは残っていた。それになにより、カン高い声、彼らは小鳥のように
たえず動いていた。一年生は、付属戦の応援を休むことはできない。彼らにとって、上級生は教師よりこわかった。
…その一年生の中にいるはずの平岡公威、のちの三島由紀夫を探しに行った。私は高等科三年だった。
私は一年生の集団に近づき、うしろに立っている一人の肩をたたいた。彼はふりかえると、直立不動の姿勢をとった。
「平岡公威(こうい)という人はいないか?」「は。おります」
彼の視線は、最前列のベンチで、帽子をとり合ってはしゃいでいる一群に走り、そこでとまった。
「あれです。あの白い奴です」「すまないが、呼んで来てくれ」
人波をかきわけて、華奢な少年が、帽子をかぶりなおしながらあらわれた。首が細く、皮膚がまっ白だった。
目深な学帽の庇の奥に、大きな瞳が見ひらかれている。

坊城俊民
「焔の幻影 回想三島由紀夫」より

714:名無しさん@お腹いっぱい。
10/02/27 00:11:52
「平岡公威(きみたけ)です」
高からず、低からず、その声が私の気に入った。
「文芸部の坊城だ」
彼はすでに私の名を知っていたらしく、その目がなごんだ。
「きみが投稿した詩、『秋二篇』だったね、今度の輔仁会雑誌にのせるように、委員に言っておいた」
私は学習院で使われている二人称「貴様」は用いなかった。彼があまりにも幼く見えたので。
…「これは、文芸部の雑誌『雪線』だ。おれの小説が出ているから読んでくれ。きみの詩の批評もはさんである」
三島は全身にはじらいを示し、それを受け取った。私はかすかにうなずいた。もう行ってもよろしい、という合図である。
三島は一瞬躊躇し、思いきったように、挙手の礼をした。このやや不器用な敬礼や、はじらいの中に、私は
少年のやさしい魂を垣間見たと思った。

坊城俊民
「焔の幻影 回想三島由紀夫」より

715:名無しさん@お腹いっぱい。
10/02/27 00:12:18
そのまま私はたち去ったが、同級生の質問責めにあっている少年を背後に感じた。
あの人の稚児ではないか、といったからかい半分、やっかみ半分の質問をかいくぐって、最前列のベンチへもどる
まっ白な少年が、目に見えるような気がした。
そのころの学習院では、稚児遊びが盛んだった。私も中等科一、二年のころ、上級生から、厚い封筒を
おくられたことがある。(中略)
しかしこうした稚児遊びは、男色と呼ばれるようなどぎついものではなかった。むしろ、初恋よりも淡々しい、
思春期の、一種なまめかしい情緒だった。
そうして三島と私との場合、私を三島に結びつけたものは、肉親にめぐり逢うたようななつかしさ、とでもいおうか、
昭和十二年秋、三島十二歳、私は二十歳、たとえば上記のようにして、私たちは邂逅した。

坊城俊民
「焔の幻影 回想三島由紀夫」より

716:名無しさん@お腹いっぱい。
10/02/27 00:12:42
三島にわたした文芸部の雑誌『雪線』第三号には、私の小説『鼻と一族』が掲載されており、それは二・二六事件に
関した作品であった。この二・二六事件が、後年の三島に大きな影響をもたらしたことは周知の通りであるが、
事件の起こった昭和十一年二月には、三島はまだ初等科五年、私は高等科一年であった。(中略)
(三島の)感じやすい魂は、事件の背後にあるものを、本能的に読みとったのではあるまいか。それは、三十年後の
『天人五衰』に、本多の考えとして書かれている「日本の深い根から生ひ立つたものの暗さ」である。
われわれのはるかなるふるさとの、暗いともし火である。それは『春の雪』に結実した「優雅」であるとともに、
『奔馬』における「暗い熱血」でもあった。
…しかしふたつながら、「近代」の前に消え失せようとしている、すでに不在の残像かもしれない。
その火影を、三島は十二、三歳の歳、みずからも手の届かない心のおくがに、見てしまったのではなかったろうか。

坊城俊民
「焔の幻影 回想三島由紀夫」より

717:名無しさん@お腹いっぱい。
10/02/27 00:14:21
昭和十五年夏、私は信州追分の泉洞寺の離れに一室を借りて、国文科の卒業論文を書いていた。(中略)
落下傘のやうに 開かぬこともあるのかしら 咲き遅れた月見草よ
七月、私はこんな詩を、東や三島に書き送った。三島は、「落下傘のやうに」という比喩を褒めてくれた。
「時代の不安」が、そこはかとなくあらわれている、といって。
(中略)短い一行のなかに、三島が「時代の不安」をよみとってくれたことはうれしかった。
その年の九月、三島に送った詩はつぎのとおりである。
新たな眠りに半身の侵される儘に 
額に額をおしあてたままに 
見るとなくあなたを眺めるとき
近過ぎて朧げな唇は 青い空気に湿つた
不機嫌に目覚めた山肌から 
立ち昇る香の漂ひに 
幽かにしののめが響いてきた
頬にもつれる髪の潤ひ 
髪にもつれる息の静けさ
冷え冷えと 
冷え冷えと 
光ほのかに白らむ窓

…そのころの作品を読みかえしてみると、このように、至るところに、少年三島が投影していることに気づくのである。

坊城俊民
「焔の幻影 回想三島由紀夫」より

718:名無しさん@お腹いっぱい。
10/02/28 12:47:50
『詩を書く少年』の先輩Rは、私である。Rは少年に自分の恋愛を告白する。(中略)
私はこの恋愛を『舞』と題する小説に書いた。昭和十六年から十七年にかけてのことである。
三島は『舞』が、事実にもとづいて書かれたものであることを百も知っているのに、まったくの虚構としてあつかい、
たとえば、「こんな会話はあり得ません」とか、「こんな情景はあり得ません」といった言い方をした。
今になって考えると、三島の言葉には省略があった。「われわれ(貴下と私)の文学の世界においては、
こんな会話はあり得ません」という意味であった。三島は『文章読本』で、「格調と気品」を守るためには、
多少の現実性は犠牲にしても、会話における倒置法などは用いない、と記している。ところがそのころの私は、
実際の会話をそのまま写して、得意になっていた。だから三島は、「こんな会話はあり得ません」といったのである。

坊城俊民
「焔の幻影 回想三島由紀夫」より

719:名無しさん@お腹いっぱい。
10/02/28 12:48:09
(中略)三島は度し難いと思ったのであろう。手をかえて、この女主人公は下品だとか、野卑だとか言い出した。
あるいは、この地の文は、新聞記事のようで個性がない、とか。
私はその時気づかなかった。十六歳の三島は、すでに脱皮していたということに。三島はもう『詩を書く少年』
ではなかった。清水文雄氏はじめ、『文芸文化』の同人にみとめられ、『小説を書く少年』になっていたのである。
Rの中に滑稽なナルシスムを発見した少年は、みずからのナルシスムにも気づいたのである。(中略)
こうして、私の恋愛は、ひそかに私が期待していたのとは反対に、三島からも、そうして東からも、何の尊敬も
同情も得られなかったばかりか、むしろそのために、私は彼らから見棄られた恰好になった。
彼等は、私のかわりに徳川義恭を仲間に入れ、『赤絵』を創刊した。それは私に対する叛旗であり、私の恋愛に
対する、彼らの復讐のような気がしたのである。

坊城俊民
「焔の幻影 回想三島由紀夫」より

720:名無しさん@お腹いっぱい。
10/02/28 12:48:28
(中略)私から完全に消え去るためには、三島はあまりに高名であった。私はいやでも神輿をかついでいる
彼の写真や、ボディ・ビルできたえた肉体のそれを見なければならなかった。
…私にはそんな三島が、いたずらに、鬼面人を驚かす貝殻に、つぎからつぎと宿ってみせる、宿かりのように
見えたのだった。勿論、三島の真意は、そのような趣味の問題ではなかった。最も不慣れな、不器用な面で、
彼は生きようと欲したのである。この血のにじむ「生」のなかにしか、彼の求める「創造」はあり得なかった。
ある時、末弟俊周がこんなことを言った。「三島さんに会ったらね、俊民さん、お元気、って聞いていたぜ。
三島はこのごろ、変な映画を作ってるといって、俊民さん笑っていなさるだろうな、って」
三島の共通の知人に出会うと、これに似た三島の言葉が、何回か伝えられた。しかし、所詮は戻ることのできない
彗星の小さき影として、三島は私のはるかな空に、またたいているにすぎなかった。
…かくして二十年の時はながれた。


坊城俊民
「焔の幻影 回想三島由紀夫」より

721:名無しさん@お腹いっぱい。
10/02/28 12:48:47
昭和四十五年正月のある日だった。偶然手にした月遅れの婦人雑誌の新刊書紹介の欄に、『春の雪』の梗概が出ていた。
「やった。とうとうやった」と私は思った。私は早速『春の雪』を購入、ひと息に読んだ。『春の雪』の世界は、
三島の世界というよりも、私の世界に近かった。登場人物のすべては、あるいは私の肉親であり、親戚であり、あるいは
その召使であるような気がした。広大な松枝邸も、鎌倉の別業も、かつてそこに遊んだ記憶があるように思われた。
三島が十四、五歳のころ、私は『夜宴』という散文詩を書いた。
「今度はぼくに書かせてください」三島は言った。「坊城伯の夜宴を」
三十年前のこの約束が、今、目の前に果たされたのを、私は見た。三島と私との、二十年に及ぶ空白は、一瞬にして
消滅している。三島は少年の日のように、ふたたび私のかたわらにある。奇蹟は、まさに起こったのである。


坊城俊民
「焔の幻影 回想三島由紀夫」より

722:名無しさん@お腹いっぱい。
10/02/28 12:49:04
そうして、読後のこころよい興奮のうちに、『源氏物語』をはじめて読んだ日々のことが、二重写しになって、
おもむろに浮かんできた。
…今になって『源氏』が読みたくなった…(中略)
『夕顔』にいたるや、小躍りして私は思った。これこそ『源氏』だ、と。ふたつのイメージが重なったばかりでなく、
重なると同時に、忽然、ひかりを発し、匂いを発し、小天地はおのずから展開してゆく。私は静かな熱狂を覚えた。
そのしずかな熱狂が、『春の雪』読後、私によみがえった。
それは、この国の暗い地下水、「優雅」に対する讃嘆であった。


坊城俊民
「焔の幻影 回想三島由紀夫」より

723:名無しさん@お腹いっぱい。
10/02/28 12:51:25
(中略)優雅とは、洗練された、優美繊細なものと一般に言われているが、その根底には、いつも野性を秘めて
いなければならない。(中略)
優雅とは、地上のあらゆる権勢富貴を、つねに見おろす魂の高貴さにあり、言い替えれば、すべての物質に
対する精神の優位を示すものである。(中略)
まことの「優雅」は、現代人のいわゆる「優雅な生活」を棄てた人たちの手によって、受け継がれて来たのである。
(中略)私は『春の雪』が、三島のすべてではないことを知っている。しかしそこには、作者三島のふるさとがある。
三島ばかりでなく、日本文学が、否定しようとしても否定できないもの、脱皮しようとしても脱皮できないもの、
ひとたびは回帰すべき、この国の「深い根」が描かれている。「優雅」が描かれている。だから私は『春の雪』を、
『豊饒の海』の第一巻としてばかりでなく、三島の全作中の、最も高い位置に置きたいのである。

坊城俊民
「焔の幻影 回想三島由紀夫」より

724:名無しさん@お腹いっぱい。
10/02/28 12:51:54
(中略)「坊城さん、ぼくは五十になったら、定家を書こうと思います」
「そう。俊成が死ぬとき、定家は何とか口実を設けて、俊成のところへ泊らないようにするだろう?あそこは面白かった」
「あそこも面白いですが、定家はみずから神になったのですよ。それを書こうと思います。定家はみずから
神になったのです」三島の眼は輝いた。(中略)
今になって思うのだが、三島は少なくともそのころ、四十五年正月ごろは、進むべきふたつの道を想定して
いたのではなかったろうか。ひとつは、世人が皆知っている、自決への道である。これを三島の表街道とすれば、
裏街道は、定家を書く道であった。裏街道をたどらざるを得ないことが起こったとすれば、それは三島にとって
不本意にはちがいなかろうけれども、私は後者をとってほしかった。

坊城俊民
「焔の幻影 回想三島由紀夫」より

725:名無しさん@お腹いっぱい。
10/02/28 12:52:15
(中略)きみは自決の六日前、最後の手紙を書いてくれた。
「十四、五歳のころが、小生の黄金時代であったと思ひます。実際あのころ、家へかへるとすぐ、『坊城さんの
お手紙は来なかつた?』ときき、樺いろと杏子いろの中間のやうな色の封筒をひらいたときほどの文学的甘露には、
その後いきあひません。」(中略)
フロベエルの、なつかしい『トロワ・コント』モオパッサンの『メエゾン・テリエ』こうした題名を目にしただけで、
あのころの学習院が、きみとはじめて会ったころの、昭和十年代の学習院が、瞼に浮かんでくる。きみは中等科一年、
ぼくは高等科三年だった。きみが『春の雪』に克明に描いている、天覧台の芝生、お榊壇、血洗の池……。
そうして、誰がいつ掃除したのかもわからない、古い寮の一室、すなわち、雑然たる文芸部の部室。(中略)
…ラディゲもまた、反近代の戦士のひとりに数えられるだろう。伝統の美神の帰依者だった。これら文学の
大先輩達を、われわれはいかに讃美したか。あのころ、きみは十四、五歳。ぼくは二十二、三歳であった。

坊城俊民
「焔の幻影 回想三島由紀夫」より

726:名無しさん@お腹いっぱい。
10/02/28 12:52:36
(中略)三島由紀夫の最期は、私にとって、みずからが生きるみちの困難さを、思い知らされるものがあった。
(中略)現代とは、アメリカの一作家によれば、「社会が、熟練した、facelessな人間を求めている時代」である。
即ち、人間は、その故郷の灯を見失おうとしている。忘れるということならば、思い出すこともあろう。
けれども、忘却ではなくて、喪失の時が来てしまったような気がする。(中略)
絵文字のやうに
楔形文字のやうに
我等の詞華は滅びるであらう
しかし 誰か人あつて我等の廃墟を訪ひ
たれか人あつて我等の文字を目にする時……
三島由紀夫とめぐり逢うた二十歳のころ、私はこんな詩句を彼に示した。
…この気持は少しも変わっていないので、ここに揚げて結びの言葉にかえたい。

坊城俊民
「焔の幻影 回想三島由紀夫」より

727:名無しさん@お腹いっぱい。
10/03/04 12:44:32
百年読書会(朝日新聞社):3月 金閣寺 [著]三島由紀夫
URLリンク(book.asahi.com)

728:名無しさん@お腹いっぱい。
10/03/08 11:38:48
私と彼とは文体もちがい、政治思想も逆でしたが、私は彼の動機の純粋性を一回も疑ったことはありません。
(略)最近の彼は、私など好きでなかったかもしれないが、そんなことは一向にかまいません。むしろ、彼に
嫌われるやりかたで、私は、彼を好きのままでいてやりたいと思います。

武田泰淳
週刊現代増刊・三島由紀夫緊急特集号のコメントより

729:名無しさん@お腹いっぱい。
10/03/08 11:39:12
人間的に中身も何もないような、若いタレントのような人たちが、自衛隊の反応は正しかった、とか社会的な
影響はどうだとか、三島さんを断劾するようなことをしたり顔でテレビやラジオでいっているのを聞くと、ばかげてる。
ほんとに蹴とばしてやりたくなりますよ。

倉橋由美子
週刊現代増刊・三島由紀夫緊急特集号のコメントより

730:名無しさん@お腹いっぱい。
10/03/09 17:18:41
三島は高度の知性に恵まれていた。
その三島ともあろう人が、大衆の心を変えようと試みても無駄だということを認識していなかったのだろうか。
…かつて大衆の意識変革に成功した人はひとりもいない。アレキサンドロス大王も、ナポレオンも、仏陀も、
イエスも、ソクラテスも、マルキオンも、その他ぼくの知るかぎりだれひとりとして、それには成功しなかった。
人類の大多数は惰眠を貪っている。あらゆる歴史を通じて眠ってきた…(略)大衆を丸太みたいにあちこちへ
転がしたり、将棋の駒みたいに動かしたり、鞭を当てて激しく興奮させたり、簡単に(特に正義の名を持ち出せば)
殺戮に駆りたてることはできる。しかし、彼らを目ざめさせることはできない。

ヘンリー・ミラー
週刊ポストへの特別寄稿より

731:名無しさん@お腹いっぱい。
10/03/11 22:58:06
166:この子の名無しのお祝いに 2007/11/29(木) 00:03:31 ID:0/cnGKSq
「曽根崎心中」は、公開当時には"宇崎竜童のサングラスを外した素顔にちょんまげ"
という事に、少しは話題性があったのかな?
今となっては、そんな事、面白くもないけどね。
でも、増村保造は、新人やあまり目立たなかった役者を使うのが上手かったね。
三島由紀夫なんかも、下手だけどそれなりに作品世界にハマってる。
そういえば、三島の企画は当初、"インテリの役は絶対にやらない、
ヤクザとか競馬の騎手とか、そういう役をやりたい。"と三島自身から注文があって、
競馬の騎手の話を考えたのだけど、ボツになったそうだ。三島の騎手というのは
すごく似合うと思う。で、「からっ風野郎」になったのだけど、これがもともと
裕次郎の為に書かれていたもので、主人公が颯爽としていて格好いいので、増村が
それはおかしいと書き直したのだそうだ。"この改訂のやり方は、さすが増村演出
と思わせるうまさでした。"と、藤井浩明氏がインタビューで語ってた。

732:名無しさん@お腹いっぱい。
10/03/11 22:58:48
167:この子の名無しのお祝いに 2007/11/29(木) 00:13:02 ID:YJYCgnU6[sage]
あの三島はいい。
川地民夫や浜田光夫みたいな雰囲気がある。
168:この子の名無しのお祝いに 2007/11/29(木) 01:02:26 ID:JCoftKUX
>167
4,5年前にパリで増村特集が組まれ、満員盛況だった。
そのなかに「からっ風野郎」がはいっていて、あの愚作をなんでまた、
とおもったら、ぼくの認識の甘さを後悔するほど、おもしろかった。
最初に、いわゆる文化人がでてきて、これはあの三島由紀夫主演の映画で
たいへん貴重です。とのたまい、作品の質についてはいっさいふれなかったが、
最後のエスカレーターのうえに倒れするシーンまでみんな息をつめて
見ていた。フランスで増村の評価が高まったのは、これがきっかけかもしれない。

733:名無しさん@お腹いっぱい。
10/03/11 22:59:36
170:この子の名無しのお祝いに 2007/11/30(金) 02:27:24 ID:39A0yyk4[sage]
>>168
俺もあの最後のシーンは好きだよ。
三島のことは別に好きじゃないんだが、
「三島、頑張れ」と思わず心で叫んでしまうな。
フランスのみんなも三島のことを見守る気持ちだったのかな。

174:この子の名無しのお祝いに 2007/12/06(木) 00:32:15 ID://giqsWd
>170
なにしろ、フランスじゃ、三島の作品は日本の文庫本にあたるものに
入っているぐらいだからね。
とっくに、東洋のエキゾチックという領域から外れていて、
一般の人が読むものの中にはいっている。

734:名無しさん@お腹いっぱい。
10/03/13 11:23:15
□□□評論家・三島由紀夫■■■
スレリンク(books板)

三島由紀夫と楯の会
スレリンク(war板)

735:名無しさん@お腹いっぱい。
10/03/15 23:09:36
彼は、初代樺太庁長官を祖父として、農林水産局長を父に、開成中学の名校長橋家の令嬢を母に、いわゆる
折紙つきの固い家系の中で生をうけ、おまけに父方の祖母育ちで、小さい時から母のひざの暖かさの充分に
得られぬ淋しさの暮しで、とても我慢強かった。
母は、その時代には当然のことながら、父梓氏につかえきりの忍従の生活で、彼は体力的にも頑健ではなく、
学習院時代、稚児さんと呼ばれたことをとても残念がっていた。
彼の心は傷つきやすく、その傷の痛みを知っているがゆえに、祖母、母、父という大人たちの中でじっと静かに
考える青年に育っていった。大きくなっても、言葉の上でのちょっとした意地悪でも、深く傷つき、悲しんだ。
そんな彼が、昭和二年生まれの妹、美津ちゃんを、とても可愛がっていた。自分と違い、思ったことをハキハキいえ、
きかん坊でイタズラっ子で、平岡家の太陽だった。

湯浅あつ子
「ロイと鏡子 三島由紀夫と『鏡子の家』秘話」より

736:名無しさん@お腹いっぱい。
10/03/15 23:10:07
私には下級生に当り、私の妹と同級で仲もよく、あだ名の「ヒラメ」のように、軽やかに海中を泳ぐがごとく、
学校中に明るさをまきちらしながら、楽しげによく遊び、よく学んでいた。頭脳明晰は、まさに平岡家のもので
素晴らしかった。
そんな美津ちゃんが、勤労動員中に飲んだなま水に、多分体調をくずしていたのであろう一人だけ腸チフスになり、
三、四日で呆気なく、しかし意識だけは最後まではっきりしていて、オロオロつきそう三島由紀夫に、はっきりと、
力をこめて、「お兄ちゃま!有難う」と別れを告げて、十七歳ちょっとで避病院で息をひきとった。
三島由紀夫は、生まれて初めて号泣した。

湯浅あつ子
「ロイと鏡子 三島由紀夫と『鏡子の家』秘話」より

737:名無しさん@お腹いっぱい。
10/03/15 23:10:38
父梓も、ただ一人の女の子として、溺愛していたため、最期を看取ることさえ出来ぬほどのショックだったそうだ。
この美津ちゃんの最期を語る彼を、私は何度となく見たが、その度に、今の目の前の現実のように、三島由紀夫の
目からは涙がハラハラとこぼれ落ちた。
母倭文重も彼と同じように何十年たっても、語る前、名前を口にしただけで、涙声にかわったのを見て、私は、
美津ちゃんがこの平岡家で、とかく気持がバラつく一族をうまくかしこく結ぶ貴い糸の存在だったのが分かった。
そして、三島由紀夫は、妹を女(異性)として第一番に感じ、それは肉親愛ともちょっと違う初めての
「愛」だったのだと思える。

湯浅あつ子
「ロイと鏡子 三島由紀夫と『鏡子の家』秘話」より

738:名無しさん@お腹いっぱい。
10/03/15 23:11:09
これから書く彼の女性との愛は、すべて結婚一年前までのものである。(中略)
本人が並はずれて女性に無免疫だったので、余り上手くない字を、ペン習字で猛練習し、すぐに臣三島由紀夫拝、
などと書いたラブレターを、自分の目にとまり、また、人の目にとめられると、相手かまわずせっせと書きつづけていた。
私は、げっそりして、「又、臣か」というと、彼は、「うるせえ」
横目でチラチラすると、彼は滅法だらしない、たのしそうな顔をし真赤に上気していた。
この手のラブレターを、大手建設会社の令嬢、ミスM・K、そして代議士令嬢で、母がドイツ人のハーフ、
ミスH・K(在アメリカ)に送り、さらに後には紀平悌子女史にまで名乗りをあげられ、(略)…あの彼の
筆まめさから考えあわせれば、嘘とは思えない。

湯浅あつ子
「ロイと鏡子 三島由紀夫と『鏡子の家』秘話」より

739:名無しさん@お腹いっぱい。
10/03/15 23:11:41
(中略)文士として大成して来た三島由紀夫に私はミスM・Kへのあこがれに似た子供っぽい愛も、ミスH・Kの
とてもハーフというだけで失格とする固い平岡家の家風のためにも、彼に自覚をうながし、「美徳のよろめき」の
モデルの夫人との火遊びにもケチをつけたりして、何となく彼の身辺を整理した。彼には内緒だったが彼の父母に
たのまれてやったことである。(中略)
彼が真剣に愛した女性は、M・KでもH・Kでもない華やいだ絹張りの令嬢だった。
彼女が十九歳から二十歳代始めの年頃の付き合いだったので、三島由紀夫の才には充分の尊敬と愛をもちながら、
ストイシズムの彼についてゆくには、何としても幼く、いくら背のびをして勉強しても、相手をするだけで
すっかりくたびれはててしまった。
彼が幼い彼女に求めていたものの実体はそんなものではなく、彼が、心地よく、何の抵抗もうけず、暖かく
見守ってくれるその雰囲気が、彼の創作意欲につながり、名作が出来上がってゆくことだったのだ。
その温床を彼女とともにいるだけで、彼は充分得られていたのだ。

湯浅あつ子
「ロイと鏡子 三島由紀夫と『鏡子の家』秘話」より

740:名無しさん@お腹いっぱい。
10/03/15 23:14:38
だが考えれば随分と三島由紀夫も作家としては自分勝手だったことはいなめない。
しかし離れてゆく彼女の心に逆行して彼は結婚を真剣に考えていたのだ。それが理解出来なかった彼女は、
昭和三十二年五月、新派「金閣寺」観劇を最後に離れていった。私は彼女と三島由紀夫との四年間を、二人の
影としてずっと過ごして来て、今も彼女との交流は続いている。(中略)
その彼女も、ご主人は別として、私と逢って何について話しても、世の中に三島由紀夫ほど頭がよくて、
やさしい人に巡り逢ったことがないという話にたどりつく。
いくら女友達と割り切っていても、もしかしたら私の中の女の部分が、心の奥底で彼を愛していたのかも知れない。
とすれば私は随分長い間罪深く生きて来たことになってしまう。

湯浅あつ子
「ロイと鏡子 三島由紀夫と『鏡子の家』秘話」より

741:名無しさん@お腹いっぱい。
10/03/15 23:15:07
(中略)「絶対これは内緒なんだからな。喋っちゃ駄目だよ。そのかわり彼女のことを全部君だけに教えるよ」
といっていた。冗談じゃない。人の彼女のことなど全く興味のあろうはずもないのに。(略)…実物の彼女は
とても美人で、お人形のような顔立ちで、不思議に亡妹美津ちゃんに似ていた。そして身につけているものは、
すべてリッチでだった。
しかし、彼女を紹介されたほんの瞬間だが、私の心は女として不快だったのは事実である。三島由紀夫自身も
それを十分計算に入れていたと思う。(中略)
三島由紀夫には、彼女との別れがひどくこたえていた。そんな彼を支えていたものは「三島由紀夫」という
プライドだけで、実に寒々としたかわいた心で毎日を送っていた。

湯浅あつ子
「ロイと鏡子 三島由紀夫と『鏡子の家』秘話」より

742:名無しさん@お腹いっぱい。
10/03/15 23:15:36
余りにも深く愛してしまった彼女のかわりは、楽しんだ私のサロンも、母倭文重のいつくしみも役に立たなかった。
ただあるのは、物書きのきびしい宿命だけだった。(中略)
ただ一度の愛にしか青春のよろこびを見いだせずにいたなど、あの得意の空笑いと外見の明るさから誰一人
気づいた者などいなかったろう。私は出来る限り無理をして、彼によりそうようにして約一年を過ごしたが、
負けず嫌いの三島由紀夫の口からは、一度も彼女の名を耳にしたことはなく、空虚さの片鱗だに見せはしなかった。
きっかり一年後、彼は結婚した。
私の半生を通じての最高の友「三島由紀夫」は、今、皮肉にも自ら棄てた文学の中で生きつづけている。

湯浅あつ子
「ロイと鏡子 三島由紀夫と『鏡子の家』秘話」より

743:名無しさん@お腹いっぱい。
10/03/20 10:04:52
三島由紀夫氏に初めて会ったのは昭和二十二年である。
三島氏の学習院時代の師であった豊川登氏の紹介によるものであった。当時、三島氏は渋谷に住んでいた。
初対面で心をうったのは彼の母倭文重さんの美貌だった。実に気高く美しい婦人だなあと思った。そして
三島氏が発した言葉で今もはっきり覚えているのは、「おかあさま、お客さまにお紅茶をお願いします」であった。
そしていろいろ語り合ううちに、「伊沢さんは保田与重郎さんが好きですか、嫌いですか?」との質問だった。
私は直ちに、「保田さんは私の尊敬する人物です。しかし、まだお目にかかったことはありません。御著書を
読んでいろいろ教えられている次第です。戦後、保田さんを右翼だとか軍国主義だとか言って非難するものが
ありますが、私はそのような意見とは真向から戦っています。保田さんは立派な日本人であり文豪です」と答えた。

伊沢甲子麿
「思い出の三島由紀夫」より

744:名無しさん@お腹いっぱい。
10/03/20 10:05:19
三島氏は嬉しそうな顔をして「私は保田さんをほめる人は大好きだし悪く言う人は大嫌いなのです。今、
伊沢さんが言われたことで貴方を信頼できる方だと思いました」と言われたのである。これを御縁として、
しばしば面談するようになった。当時、三島氏は大蔵省の若手エリート官僚であった。そのため私は大蔵省へ
時おり三島氏に会うために通うようになった。
私は若手のエリート官僚に友人が何人か居たが、三島氏の立派な人格には心から惚れこんでしまったのである。
何しろ三島氏は天才的な作家であり東大法学部出身の最優秀の官僚であり乍ら、いささかも驕りたかぶるところがない
謙虚な人柄であった。そして義理と人情にあつい人であるということがわかったのである。
つき合えばつき合うほど尊敬の念が湧いてくるのであった。東大出の秀才というのは思い上った人間がよくいる
ものだが、三島氏には全くそのようなところがなかったのである。
伊沢甲子麿
「思い出の三島由紀夫」より

745:名無しさん@お腹いっぱい。
10/03/20 10:05:46
この人は作家として偉大であるのは勿論だが、人格者として最高の人だと、つき合えばつき合うほど思うように
なっていった。その後、毎月のように三島氏と私は食事を共にし語り合ったのだ。(略)それと共に三島氏の
要望により私は歴史と教育に関する話をいろいろとするに至った。特に歴史では明治維新の志士について。
中でも吉田松陰や真木和泉守の精神思想を何度も望まれて話した。話と同時に松陰の漢詩と真木和泉守の辞世の和歌を
三島氏の強い頼みで私は朗吟したのである。三島氏は松陰や真木和泉守の話を私が始めると、和室であったため
座布団をのけて正座してしまうのだった。私も特に吉田松陰の最期の話をする時などは情熱をこめ、時には涙を
浮かべて語ったものである。三島氏は吉田松陰の弟子たちに贈った「僕は忠義をするつもり諸友は功業をなすつもり」
という言葉が大好きになったようだった。

伊沢甲子麿
「思い出の三島由紀夫」より

746:名無しさん@お腹いっぱい。
10/03/20 10:06:24
その外では西郷隆盛の西南の役の話や、また尊皇派の反対の佐幕派の人物である近藤勇や土方歳三の話も何度となく
望まれて語った次第である。特に近藤勇は三島氏の祖母の祖父である永井尚志が近藤勇とは心を許し合った
友人であったため、深く敬愛の情を寄せていた様である。ついで乍ら記せば、永井は幕府の若年寄という重要な
地位にいた人で、アメリカの外交官であるハリスが尊敬の念を抱いていた程の欧米の事情に通じていた人物であった。
そのため後に私が主宰して行った近藤勇死後百年祭に真っ先に参加してくれたのだった。
三島氏が私に語った言葉で今も忘れられないのは、「私が日本を愛したのは源氏物語の世界だった。それが
伊沢さんとつきあう様になり幕末の志士たちの精神を知り、今は吉田松陰をはじめとする志士の世界に心が
入るようになった」ということである。

伊沢甲子麿
「思い出の三島由紀夫」より

747:名無しさん@お腹いっぱい。
10/03/20 10:06:52
また或るとき私が、「三島さん、尊皇攘夷でなければならん。現代でも外国の思想によって、どれだけ日本人の
心が汚されているか計り知れないものがある。外国のいいところは進んで取り入れなければならないが、
功利主義の外国思想は打ち払わなければならないので、攘夷の精神を現代こそ日本人は堅持しなければならない」
と言うと三島氏は「その通りだ、あなたの意見に全く賛成だ」と言ってくれたのであった。
三島氏は死ぬ数年前から小説家三島由紀夫ではなく尊皇憂国の志士となっていたのである。三島氏の母の
倭文重さんは、この点をはっきり認めていた。三島氏が自決したことは日本だけでなく世界の文化にとっても
残念なことであるが、尊皇憂国の志を貫かんとしたので止むを得なかったのであろう。
偉大なる三島、高貴なる三島、この様な人は二度と現われてこないであろうと思う。
だが、悲しい、三島が死んだことは悲しい、今も生きていて呉れていたらいいなあと思う次第だ。

伊沢甲子麿
「思い出の三島由紀夫」より

748:名無しさん@お腹いっぱい。
10/03/23 23:13:39
オペラ『鹿鳴館』がやって来る  
  6月24日から四日間、国立劇場で

 三島由紀夫原作『鹿鳴館』が日本でオペラになって上演されます
 池辺晋一郎音楽
 新国立劇場創作委嘱作品(世界初演)

 三島由紀夫の傑作戯曲『鹿鳴館』を池辺晋一郎が初オペラ化!
 出演 
 影山伯爵 黒田博(6月24,26日)、与那城敬(6月25,27日、以下同様)
 影山夫人 大倉由紀枝、腰越満美
 大徳寺侯爵夫人 永田直美 坂本朱
 その娘 顕子  幸田浩子 安井陽子
 久雄      経種康彦 小原敬楼ほか

 あらすじはご存じの通り
 かってドイツに委託されて黛敏郎が『金閣寺』をオペラ化した。今回は初の『鹿鳴館』のオペラ化である。詳細は下記に。
 URLリンク(www.nntt.jac.go.jp)
 昨日より発売開始 S席15750円、A席12600円 B席8400円
          C席6300円 D席3150円

 公演日程     6月24日 午後6時半
            25日 午後6時半
            26日 午後二時
            27日 午後二時
 チケット予約  03-5352-9999
0570-02-9999

749:名無しさん@お腹いっぱい。
10/03/25 10:55:55
三島由紀夫のツイッター
スレリンク(cafe30板)

750:名無しさん@お腹いっぱい。
10/04/01 10:15:34
岡潔:三島由紀夫は偉い人だと思います。日本の現状が非常に心配だとみたのも当たっているし、天皇制が
大事だと思ったのも正しいし、それに割腹自殺ということは勇気がなければ出来ないことだし、それをやって
みせているし、本当に偉い人だと思います。

Q(編集部):百年逆戻りした思想だと言う人もありますが、それは全然当たっていないと言われるのですか?

岡潔:間違ってるんですね。西洋かぶれして。戦後、とくに間違っている。個人主義、民主主義、それも
間違った個人主義、民主主義なんかを、不滅の真理かのように思いこんでしまっている。
ジャーナリストなんかにそんな人が多いですね。若い人には、割合、感銘を与えているようです。
かなり影響はあったと思います

岡潔「蘆牙」より

751:名無しさん@お腹いっぱい。
10/04/04 22:26:13
たとえこのたびの事件が、社会的になんらかの影響をもつとしても、生者が死者の霊を愚弄していいという
根拠にはなりえない。また三島氏の行為が、あらゆる批評を予測し、それを承知した上での決断によるかぎり、
三島氏の死はすべての批評を相対化しつくしてしまっている。それはいうなればあらゆる批評を峻拒する行為、
あるいは批評そのものが否応なしに批評されてしまうという性格のものである。三島氏の文学と思想を貫くもの、
それは美的生死への渇きと、地上のすべてを空無化しようという、すさまじい悪意のようなものである。(中略)
恋愛結婚を人々が夢見ていたとき、結婚の夜に情死をとげる『盗賊』は、なんと悪意にみちた時代への挑戦で
あったろう。また、文学上の誠実主義が“自己確立”の名のもとに謳歌されていたとき、『仮面の告白』は、
なんと反時代的な作品であったろう。あるいは、人々は戦争の危害について語っていたとき、「金閣とともに
滅びうる幸福」を語った『金閣寺』は、なんと不吉な夢に貫かれていたことであろう。

磯田光一
「太陽神と鉄の悪意―三島由紀夫の死―」より

752:名無しさん@お腹いっぱい。
10/04/04 22:26:32
三島氏が『憂国』あたりを境にして、急速に変貌したという見解を、私はほとんど信じることができない。(略)
三島の宿命は、すでに『仮面の告白』において、ほとんど予定されていたといってもよい。仮面の背後にある
空白が、いわば“太陽神”の欠落であるなら、それがやがて『林房雄論』や『英霊の声』となって蘇生する
ことは、なかば必然といってもいいものであった。“太陽神”が失われたとき、あの東京の廃墟の上に広がって
いた青空には、夥しい日光の氾濫があった。(略)廃墟の太陽への偏執は、やがてギリシャの廃墟の夥しい
陽光の氾濫に接続する。そして氏は、人間性という名の自然を否定するために、“肉体”を“鉄”のように
鍛える道を選んだのである。(略)三島は徹底して明るさに固執した作家であった。その明るさは健康優良児の
明るさとは、まったくの対極をなすものであった。それは“鉄の悪意”を秘めた明るさ、あるいは悪意を証明
するためには、死をも辞さないような、鉄の意志に裏づけられた明るさである。

磯田光一
「太陽神と鉄の悪意―三島由紀夫の死―」より

753:名無しさん@お腹いっぱい。
10/04/04 22:26:50
(中略)氏にとって天皇とは、存在しえないがゆえに存在しなければならない何ものかであった。それは氏の
“絶対”への渇きの喚び求めた極限のヴィジョンといってよく、もし氏がそこへ向かって飛翔するならば、
ただちに地上に失墜するであろうことを、氏は『イカロス』という詩に述べているように、どこまでも知り
ぬいていたのである。
三島氏にとって必要なこと、それは「戦後」という時代、あるいはストイシズムを失った現実社会そのものに、
徹底した復讐をすることであったと思われる。イデオロギーはもはや問題ではない。自衛隊も、自民党も、
共産党も、氏の前には等しく卑俗なものに見えたのである。この精神の貴族主義者にとって、いったい不可能
以外の何が心を惹いたであろうか。思えば氏の不可能への夢、あの「青空による地上の否定」は、典雅な
造形力によって、作品のなかに封じこめられた。その危険な思想、不可能への渇きは、優に氏を“危険な思想家”
たらしめるに十分であった。

磯田光一
「太陽神と鉄の悪意―三島由紀夫の死―」より

754:名無しさん@お腹いっぱい。
10/04/04 22:27:14
(中略)現世には仮構としての生活しかありえず、その「嘘偽の本質」を愛するほかはない。すでに世間的には
スタアであった三島氏は、その「嘘偽の本質」を、あるいは嘘偽のパラドックスを、どれほど深く愛したこと
であろう。その「嘘偽」の背後にある本心、それはあの“太陽神”の生きていた時代にたいする渇きである。
その渇きの基底にあるのは、いうまでもなく『葉隠』につながる日本的なラジカリズムの精神である。それは
いうなれば、有効性の彼岸にあるがゆえに聖なるもの、また聖なるがゆえに地上の汚濁に染まってはならない
ものであった。(略)この『葉隠』にたいする二重の自覚は、いうまでもなく“太陽”と“鉄”との二重性に
通じている。氏の渇きの喚び求めた、あの極限像としての“太陽神”は、つねに“鉄の悪意”に裏づけられた
ものであった。それは「戦後」という時代に向けられた悪意、あらゆる微温的な偸安にたいする悪意である。
(略)そして無効性を承知の上で、不可能性の一端を“死”によって可能に転化したとき、氏の“鉄の悪意”は、
ほとんど完璧な意味において、時代の偽善にたいする批評と化する。

磯田光一
「太陽神と鉄の悪意―三島由紀夫の死―」より

755:名無しさん@お腹いっぱい。
10/04/04 22:27:37
遺作『天人五衰』の結末部に出てくる鼠の自殺のエピソードは、三島氏がどれほど醒めきっていたかを証して
余りある。(略)その自殺によって、猫や鼠の世界に大きな変動が起こりうるであろうか。猫がその奇妙な
鼠のことを忘れて、なおも偸安をむさぼっていることを、三島氏ははっきり書きそえている。いいかえれば、
氏は自分を愚かな鼠に擬したとき、氏にたいするいっさいの批評の無効性を、氏みずから確立してしまった
のである。この驚くべき自意識の屈折、残忍なまでのダンディズム、あらゆる批判の可能性を封じた鉄の悪意と、
不可能に挑んだこの倨傲。(中略)
“太陽神”の実在していた時代に、どうして不可能への渇きが必要だったであろう。また、戦後精神の
極限としての“鉄の悪意”なくして、どうして現実の戦後文化を軽蔑しつくすことができたであろう。(略)
三島氏には、死ぬというより死んでみせることが必要であった。そのかぎりにおいて、私小説家の追いつめ
られた生活演技とも、明確な一線を画している。政治的・外在的批判は別として、いったいここまで意識化
された死に、どんな批判が可能であろうか。

磯田光一
「太陽神と鉄の悪意―三島由紀夫の死―」より

756:名無しさん@お腹いっぱい。
10/04/04 22:47:35
道徳を信じない道徳家、愛を拒否する愛の詩人、詠歎的であることを恐怖する、しかもロマンティックな歎美家。―
『沈める滝』の背後にある作者の姿を、一口にいえば、そういうことになるのではないか、とぼくは思っている。
既成のものを信じないという立場に立って、その荒廃の上に、あらためて夢なり美なりを、人工的につくり出そうと
するところに成りたってきたのが、一般に三島由紀夫の文学の世界なのである。(中略)
夢が、告白が、ありきたりの男女の物語が、もし信じられないのだとしたら、その信じられないという地点に立って、
ひとはなお、夢や告白や物語の花々を、咲かせることができないものか。人工の花々を。―三島由紀夫の文学は、
その設問から出発するのであって、例はそのほか、あげてゆけば彼の全作品に及ぶことになるだろう。(中略)
彼はたしかに、古い夢の、神々の、死の自覚の上に立って、つねに仕事をしてきた作家であるといえるだろう。
彼は神々を、錬金術師のように、合成することを夢みる。そこに彼の批評精神があり、光栄があり、そしてまた
苦しみがあるばずだ。

村松剛
「『沈める滝』解説」より

757:名無しさん@お腹いっぱい。
10/04/04 22:55:00
あの人(三島)は、ほんとうに純粋で赤ちゃんみたいにきれいな魂の持ち主だったんですよ

「日本少年」とか「少年倶楽部」で育った時代なんですよね。
少年というのは凛々しくて、潔く清くて、正しくて、優しくて、思いやりがあって、親孝行だという
「少年倶楽部」の世界そのまま律儀に全部、細胞の中までにしみこませて、そのまま死んじゃった人なのね。
普通、中年になったら、世俗的な手垢がついてきて、小ずるくなったり、いろいろするじゃないですか。
それに全然染まらなかった不思議な人でしたよ。

美輪明宏
「ぴんぽんぱん ふたり話」より

758:名無しさん@お腹いっぱい。
10/04/04 22:55:29
瀬戸内「三島さんのことを書いた福島次郎という人がいるじゃないですか。私は、ああいうの嫌いなの。…」
美輪「前にも、一人出たんですよ。『週刊読売』で私、対決したことがある。話を聞いてみますと、三島さんが
車で迎えに来てくれたとか言うんですね。でも三島さんは、いつも奥さんに運転してもらってたくらいだから、
自分では運転できなかった。自動車教習所には行くことは行ったんだけど、実技になって、ワンブロック外を走ったら
胃が痛くなって、ひっくり返ったんだって。(略)それで運転するのは、いつも奥さんだったんですよ。だから、
その男の話は根っからの嘘だったの。でも、まあ世間という魔界には根も葉もないことを言うのがいますからね。」
瀬戸内「…あの小説は、三島さんからもらった手紙を売りに行くところから始まりましたよね。ひどいんですよ。
ほんとうにけしからんと思うのね。三島さんのお母さんやお父さんにご飯を御馳走になったり、とっても世話に
なってるでしょ。あの男の小説は卑しい。…もう呆れる。」

美輪明宏、瀬戸内聴寂
「ぴんぽんぱん ふたり話」より

759:名無しさん@お腹いっぱい。
10/04/04 22:56:13
美輪「でも、三島さんにも非があるんですよ。だれにでも彼にでも、手紙を出してね。あの人は、まあ呆れるくらいに
手紙魔で、何で、こんな人に手紙を出すんだろというようなゴロツキみたいなのにも、丁寧な手紙を出しているんです。
そのゴロツキが、おれはこれだけ三島に思われてるんだと、私のところに三島さんの手紙を寄稿したことがあるの。
そのことを私が話すと、三島さんの目が泳いだんです。「これは私が始末しておきますからね、よござんすね」
と言ったら、素直な子供みたいに「ありがとう」と。そういうドジをあの人はよくやったの。そういう点は
ほんとにまあ呆れるほど世間知らずでしたね。」
瀬戸内「…人を疑わないのね。おぼっちゃんね。あれだけ小説の中では、人間の悪とか悪意とか、いろいろな
権謀術数を書いて、頭の中ではあそこまで理解していた人なのに…」

美輪明宏、瀬戸内聴寂
「ぴんぽんぱん ふたり話」より

760:名無しさん@お腹いっぱい。
10/04/06 11:40:37
彼と知り合いになったのが、彼の十七、八歳の頃で、それからの数年、昭和二十四年七月、文壇的処女作とも
云っていい「仮面の告白」を書き出し、出版する頃までは、お互いに、文学に志し、文学で身を立てようと
励まし合い、刺激し合い、くどくつき合ったものであった。尤も、私は彼より十歳近くも年長であったが。
富士正晴氏は次のように「思い出」を語っている。
「三島と知り合ったきっかけは、伊東静雄の紹介によってやな。(略)伊東が『三島の本を出してくれへんか』
というので、七丈書院に三島を呼び出して会った。来たのは、えらい頭のデカイ目玉がギョロギョロした、
ゲジゲジ眉毛の長い色の青い少年やったけど、語る言葉は上流コトバ。(略)その足で林富士馬のところへ
連れて行ったんやが、林が『ビールでも飲もうか』といったら『私は外では飲みません』というのを、甚だ
きれいなコトバで云ったんやが、それで林はゾッコン参っちゃったんや」富士氏の回想に間違いがないなら、
私は三島君と知り合いになった当初から、三島君の拒絶にあっているわけだ。生涯、私はその三島君の拒絶に
心惹かれていたのかも知れない。

林富士馬
「死首の咲顔」より

761:名無しさん@お腹いっぱい。
10/04/06 11:40:56
併し、その日常生活のなかで、知り合いになったばかりの三島君は、大変素直な、律義で、礼儀正しい、幾分
世間知らずの大人びたところもある少年であった。ひととはなしをする時、凝っとまともに正視した。
その当時の他の私達の仲間の、どこか、くずれたようなところ、だらしないところは微塵もなかったのが、
ひどく印象に残っている。当時、既に私は妻子持ちであったが、部屋によちよちと歩いて入って来る子供を、
三島少年は熱心にあやしたのを、そのいじらしい少年の姿を、不思議な思いで眺めていた。(中略)
私は他の私の年少の仲間を紹介し、毎日のようによく遭い、それでも手紙を書いた。私達はやがて、誰でもが
お召しを受け、血腥い戦場に遠征することは解っていたので、明日のない一日一日を、如何に文学だけを信じ、
それに縋って、一日一日を生きるか、ということに肝胆を練っていた。(略)仲間の一人、一人、戦場に
出掛けて行ったが、私達は謄写版で、五十部くらいの部数の同人雑誌を編みつづけた。それが私達の
レジスタンス運動であった。

林富士馬
「死首の咲顔」より

762:名無しさん@お腹いっぱい。
10/04/06 11:41:15
(中略)
テレビの画面にあなたが七生報国と書いた白い鉢巻をしめ、「楯の会」の隊長の正装で、バルコニーから、
演説をしているのが見えた。それは演説というより、手を挙げて叫んでいる姿が見えた。声は聞こえない。
(略)三島君の身体は、傾くようにして動く。唇がはっきり見える。からからに乾いた舌が見えたように思った。
(略)併し、そういう画面だけが映し出されて、声はすこしも聞こえないのが却って、印象に鮮やかである。
三島君が、何を必死に訴えようとしているのか、勿論、こっちには、さっぱり判らないが、(略)コップ半分の
水でも、手渡すことが出来たら、自分自身が、どんなに楽になるだろう、(略)そんな思いがちらちらして、
数日間は安眠出来なかった。(略)
可哀そうな三島君、強情っぱりの三島君よ。(略)私が水を差し出しても、あなたはまた拒否しただろうか。
あなたのような憂国の士ではないが、私もつくづく、世の中が、近頃の人の心と云うものが味気ない。

林富士馬
「死首の咲顔」より

763:名無しさん@お腹いっぱい。
10/04/06 11:41:37
(中略)
三島君の人生も作品も、あんまりひと筋で、そこに余裕がなかったので、私はむしろ、それを三島君の擬装とし、
遊びとして受けとろうとしていたようだ。そこで遠慮なく揶揄し、あなたの文学は新官僚派の文学ではないかと
悪口を云った。あなたは少しも弁護しなかった。弁護などすることが、男らしくないと思っていたのだろう。
腹の底では、腹を立て、ほんとうに理解する人のいないことを、くやしがっていたのだ。
併し、いまになってみると、あの人は、どんな作品に於いても、エッセイ、評論、日記、又、どんな座談会の
尻っ尾ででも、素直に、右顧左眄することなく、手を振り、声を高くして、おのれを語り、決意を云っていたのだ。
擬装などと、どうして私は受けとっていたのだろう。
いまになって、「仮面の告白」という文壇に登場して来た時の作品のほんとうの意味が判ったような気がする。

林富士馬
「死首の咲顔」より

764:名無しさん@お腹いっぱい。
10/04/06 11:41:54
あの仮面は、「素顔」に対しての「仮面」ではなかった。告白するために「仮面」を使用したのではなかった。
「失われた世代」の一人として、私が在来の文学現実で考えていた「素顔」などを、既に喪失した人間として、
持ってはいなかった。その悲しみを、いっしんに訴えていたわけである。ほんとうの意味の新しい世代、
戦後派文学のほんとうの意味が、あそこにあったのだ。あの人は、仮面しかない悲しみを、一生懸命、文学の
世界に定着させようとしていた。(中略)
人間はいつでも、告白をするとき、うそをついて願望を織り込んでしまう。それを潔癖に嫌悪した。文学という
ものは、あくまで、そうなるべき世界を実現するものだと信じ、作品における告白は、実は告白自体が
フィクションになっていた。(中略)
三島君の文学を一口に云うと、明治、大正、昭和の三代の近代日本文学にあって、はじめての意識された世界的
作家であったことではないか。

林富士馬
「死首の咲顔」より

765:名無しさん@お腹いっぱい。
10/04/06 11:43:53
(略)その世界的作家としての気宇について云えば、その処女短編集「花ざかりの森」の後記に、少年らしい
気負いで、「そして、戦後の世界に於て、世界各国人が詩歌をいふとき、古今和歌集の尺度なしには語りえぬ
時代がくることを、それらを私は評論としてでなく文学として物語つてゆきたい」と、既に決意している。
又、それを獲得するために、どんなに刻苦勉励の一生であったか、その忍耐と憎悪と愛情とを思うと、胸が痛い。
彼は決して、器用な人でも、器用な作家でもなかった。人の知らぬ屈辱のなかで、男らしく愚痴を云わずに、
ひとり、たたかっていたのである。(中略)三島君の突然の死が白日夢の如く報ぜられる数日前、私は東武デパートで行われている三島由紀夫展に行った。
(略)いろんなものが、小学校時代の通信簿や図画や習字などまでが陳列してあった。(略)「文芸文化」
という戦時中の雑誌、そこに三島君の処女作とも云える「花ざかりの森」が発表された雑誌の終刊号が、
ガラス・ケースのなかに、見ひらきにして飾ってある。

林富士馬
「死首の咲顔」より

766:名無しさん@お腹いっぱい。
10/04/06 11:44:10
その見ひらきの左の方は、三島君の「夜の車」という作品の書き出しになっているが、右の方の一頁は、私の
「終焉」という詩になっているのだ。(略)
   終焉
(略)道義の退廃と、忍従に姿が似てゐる無気力とに、詩人が身を以て弾劾と警告を発することをしないで、
誰れがこの危機の時代の、この任務につくひとがありませうか?

いまはなにを歎く?
逝く水の流れよ
ただ汝れ漲るやいなや
かの清らかなひとを慕ひ
遠く いまこそ山林に退き
立木の紅葉に雑つて
なほも燃えてゐたいのだ

以上のことがあってから数日して、私は青天の霹靂の如くに、あなたの激烈な死に出逢ったのだった。

林富士馬
「死首の咲顔」より

767:名無しさん@お腹いっぱい。
10/04/08 11:59:28
私はこの三年にわたって折にふれ三島とあってきたが、私がいつも感じたのは、彼は現存の日本人のうちでは
最も重要な人物だったということだ。当然のことながら、私には彼がその生涯の終わりにどのようなコースを
たどるかについては想像もつかなかったが、たとえその範囲は限られたものであるにせよ、彼はその
ダイナミズムと懐疑主義と好奇心によって日本の歴史に永久にその名をとどめる地位を占めるにちがいないと
確信していた。(中略)
三島の行動は、今日の日本の右翼の大物たち―その名前をあげる必要はあるまい―を、道化役者のように
見えるようにした。私と議論した一部の人々は、三島はその行動によって、笑止千万なピエロの役割を演ずる
ことになったと主張した。これに対し私は三島はピエロどころか、逆に他の人々をピエロとして浮かびあがらせた
―つまり、彼等をつまらない行動によって、金をもらいたがったりするようなピエロに仕立てあげたのだといいたい。

ヘンリー・S・ストークス
「ミシマは偉大だったか」より

768:名無しさん@お腹いっぱい。
10/04/08 12:00:08
三島を高く評価したい私の次の理由は、私の見るところでは、彼は日本の政治論争にこれまで見られなかった
深みをつけ加えた点である。(略)…三島を「右翼の国家主義者」といった言葉で片づけることはできない。
三島は「右翼」とか「国家主義者」とかいったレッテルを貼った箱に、絶対におさめることのできない人物である。
彼の思想の広さといい深さといい、そうした単純な分類に入れることを許さない。
三島が何をいわんとしていたか、それを一言にして説明するには、何か新しい言葉を見つけださなければなるまい。
三島について注目すべき理由はほかにもある。彼は今日の政治論争のすべてを公開の席に持ちだした―(略)
…これらの問題については、自民党の幹部たちは私的な場所でのみしばしばその意見を表明してきたのである。
しかるに三島は敢然として、政治家たちがこれまでおっかなびっくりで、私的な場所だけで取りあげてきた
政策論争を、公けの席に持ちだした。職業政治家になぜこれができなかったのであろうか。

ヘンリー・S・ストークス
「ミシマは偉大だったか」より

769:名無しさん@お腹いっぱい。
10/04/08 12:01:15
…三島を西洋に「説明」できるだけの資格を持つ西洋の学者は、ほんの一にぎりしかいない。しかもこれらの
学者たちでさえ、今までのところでは、三島をもっぱら文学者としてだけ扱い、彼の政治活動は重視していないようだ。
私はそれはあやまっていると考えるし、三島自身がなくなる二週間前に、これらの学者について語った言葉から
推察すると、こうしたあやまりは彼自身予想していたようだ。彼は英語でこう言っていた。「あの人たちは
日本の文化の中のやさしいもの、美しいものばかりを取りあげる」したがって外国の批評家に限っていえば、
三島が全く誤解されてしまう可能性はきわめて大きい。この国の政情の非現実性―国防の問題をトランプ遊びか
ポーカーの勝負をやっているかのように議論する国である―を、認識できる人はほとんどあるまい。(略)
…外国人は日本で自由な選挙が行なわれ、それに過剰気味なくらいおびただしい世論調査と言論の自由があるという事実こそが、
日本に民主主義のあることを物語っていると頭から信じこんでいる。三島は日本における基本的な政治論争に
現実性が欠けていること、ならびに日本の民主主義原則の特殊性について、注意を喚起したのである。

ヘンリー・S・ストークス
「ミシマは偉大だったか」より

770:名無しさん@お腹いっぱい。
10/04/10 11:29:59
森田必勝は私より一、二歳年長の同じ大学の学生であった。面識はなかったが、彼を見知っている友人もいて、
自分と同時代の人間の起こした事件という思いはある。(中略)
その日の昼ごろ、電話が鳴った。受話器からは友人の少し緊張し少し興奮した声が聞こえてきた。
「三島由紀夫が自衛隊に立て籠ったぞ」。友人はニュースで知った事件のあらましを語った。私が当時は昼ごろ
まで寝ており、テレビも全く見ないことを知っていたから、電話で教えてくれたのである。(中略)
私は大学に行った。大学では学生たちは既に事件を知っており、みんなこれを話題にしていた。(略)
三島由紀夫は森田必勝とともにその日の昼すぎには割腹自殺を遂げていた。夜には事件の全容がほぼ明らかになり、
翌日からはマスコミがさまざまな人の意見を取り上げた。左翼側は、当然、事件に否定的、批判的であった。
中には三島を嘲弄する口調のものもあった。しかし、これには私は同感し得なかった。

呉智英
「『本気』の時代の終焉」より

771:名無しさん@お腹いっぱい。
10/04/10 11:30:17
当時の学生たちの中の少しアタマのよい連中は、旧来の左翼理論が行きづまりかけていると皆思っていた。
しかし、それに代わりうるものを創出するだけの知性も覚悟もなかった。人のことはいえない。私もただ惰性で
落第をくり返していた学生だったのだから。そういった学生たちを誘引したのは、ハッタリとヒネリだけの
突飛な言辞を弄する奇矯知識人だった。十数年の後に、私はこれらを「珍左翼」と名付けることになるのだが、
当時はそう断ずるだけの自信はなかった。
そんな奇矯知識人、奇矯青年に人気があったのが八切止夫という歴史家だった。歴史学の通説を打ち破る珍説を
次々に発表する在野の学者だという。判断力がないくせに新奇なものには跳びつきたがる学生がいかにも喜び
そうな評価である。私も一、二冊読んでみたが、どれも三ページ以上は読めなかった。あまりにも奇怪な文章と
構成で、私がそれまで知る日本語とはちがうものが記されていたからである。その八切止夫が、どこかの新聞か
雑誌に切腹不可能説を書いているのを読んだことがあった。(中略)

呉智英
「『本気』の時代の終焉」より

772:名無しさん@お腹いっぱい。
10/04/10 11:30:37
しかし、三島由紀夫は見事に切腹した。しかも、介錯は一太刀ではすまなかった。恐らく、弟子である森田必勝には
師の首に刀を振り下ろすことに何かためらいでもあったのだろう。三島の首には幾筋もの刀傷がついていた。
それは逆に、三島が通常の切腹に倍する苦痛に克ったことを意味する。罪人の斬首の場合、どんな豪胆な
連中でも恐怖のあまり首をすくめるので、刀を首に打ち込むことはきわめて困難であると、山田朝右衛門
(首切朝右衛門)は語っている。しかし、三島は介錯の刀を二度三度受け止めたのである。このことは、
三島由紀夫の思想が「本気」であることを何よりも雄弁に語っていた。楯の会が小説家の道楽ではないことの
確実な証拠であった。だからこそ、「本気」ではなかった左翼的雰囲気知識人は、自らの怯えを隠すように
嘲笑的な態度を取ったのである。八切止夫が切腹不可能説を撤回したという話も聞かなかった。

呉智英
「『本気』の時代の終焉」より

773:名無しさん@お腹いっぱい。
10/04/10 11:30:56
しかし、「本気」とは何か。「本気」に一体どれだけの価値があるのだろうか。三島由紀夫は「本気」の価値を
証明しようとしたのではなく、「本気」の時代が終りつつあることを証明しようとしたのではないか。
「本気」の時代の弔鐘を鳴らし、「本気」の時代に殉じようとしたのではないか。(中略)
三島由紀夫は私財を擲(なげう)って楯の会を作った。共産主義革命を防ぎ、ソ連や支那や北鮮の侵略には
先頭に立って闘う民兵組織である。(略)三島はこの行動について「本気」だった。小説家の気まぐれな
道楽ではなかった。しかし、現実に治安出勤や国防行動を最も効果的にするのは、税金で維持運営される
行政機関である自衛隊なのである。自衛隊員は、法に定められた義務のみを果たし、法に定められた権利を
認められる。まるでお役所である。いや、事実、お役所なのである。(略)
「本気」の武士より、権利義務の関係の中でのみ仕事をする公務員の方が尊ばれ、価値がある時代が始まり
かけていた。換言すれば、これは「実務」の時代の始まりであった。

呉智英
「『本気』の時代の終焉」より

774:名無しさん@お腹いっぱい。
10/04/10 11:31:18
私は実務の時代の価値を否定しない。(略)英雄が待ち望まれる時代は不幸な時代である。思想や哲学や
純文学が尊敬を集める時代も不幸な時代である。一九七〇年以降、日本は不幸な時代に別れを告げた。
英雄はいうまでもなく、思想や哲学や純文学、総じて真面目な「本気」は「実務」の前に膝を屈し、幸福な
時代が到来した。(略)
だが、時代はそうなりきることはなかった。一九九五年、歪んだ醜怪な「本気」が出現した。オウム事件である。
(略)本当に不気味で醜悪な恐怖の事件は、三島が「本気」に殉じた後の時代に出現したのであった。

呉智英
「『本気』の時代の終焉」より

775:名無しさん@お腹いっぱい。
10/04/12 00:36:42
三島由紀夫の墓参り
Tokyo Swan 40: Mishima's Grave
URLリンク(www.youtube.com)

776:名無しさん@お腹いっぱい。
10/04/15 23:50:26
「花ざかりの森」の作者は全くの年少者である。どういふ人であるかといふことは暫く秘しておきたい。
それが最もいいと信ずるからである。
若し強ひて知りたい人があつたら、われわれ自身の年少者といふやうなものであるとだけ答へておく。
日本にもこんな年少者が生まれて来つつあることは何とも言葉に言ひやうのないよろこびであるし、日本の
文学に自信のない人たちには、この事実は信じられない位の驚きともなるであらう。
この年少の作者は、併し悠久な日本の歴史の請し子である。
我々より歳は遙かに少いが、すでに、成熟したものの誕生である。
此作者を知つてこの一篇を載せることになつたのはほんの偶然であつた。
併し全く我々の中から生れたものであることを直ぐに覚つた。さういふ縁はあつたのである。

蓮田善明
昭和16年「文芸文化 編集後記」より

777:名無しさん@お腹いっぱい。
10/04/15 23:50:42
交遊に乏しい私も、一年に二人か一人くらいづつ、このやうに国文学の前にたゝづみ、立ちつくしてゐる少年を
見出でる。
「文芸文化」に〈花ざかりの森〉〈世々に残さん〉を書いてゐる二十歳にならぬ少年も亦その一人であるが、
悉皆国文学の中から語りゐでられた霊のやうな人である…。

蓮田善明
昭和18年「文学 編集後記」より

778:名無しさん@お腹いっぱい。
10/04/15 23:54:45
三島由紀夫の憂国による割腹自殺は、敗戦に際し国体護持を念じてピストル自殺をとげた蓮田善明の影響だろう
……とは、由紀夫の少年時代のシンパだった富士正晴氏をはじめ、大久保典夫氏その他の推量である。晩年の
由紀夫に、蓮田善明伝の序を頂戴するという特別のかかわりを持った私は、あながちその推量を否定しえない。
(中略)善明が由紀夫を「われわれ自身の年少者」という親愛な言葉で呼び「悠久な日本の歴史の請し子」と
仰望をしたのは、まだ由紀夫が学習院中等科五年生の昭和十六年九月だった。(中略)
「われわれ自身の年少者」という愛称と、正体をわざと明かさぬ思わせぶりな語韻のどこかには、まるで
お稚児さんにでも寄せるような愛情がぬくぬくと感じられる。まことこの日頃、由紀夫を伴い、林富士馬氏と
一緒に善明を尋ねたことがある富士正晴氏は、帰りに善明がわざわざ駅まで見送ってくると、まるで恋人が
別れの際にするような別れたくないといった感情を、あらわに由紀夫に示したのを見ている。

小高根二郎
「善明と由紀夫の黙契」より

779:名無しさん@お腹いっぱい。
10/04/15 23:55:16
又、由紀夫の方も、「花ざかりの森」を発表したのを契機に、たびたび寄稿を許され、あまつさえ同人の集まり
にも出席を認められた。そして同人の(略)栗山理一氏に対しては大人のシニシズムを感応しているが、特に
善明には「烈火の如き談論風発ぶり」に、男らしさと頼もしさを感じたのだった。
当時、由紀夫は十七歳、善明は三十八歳だった。善明は由紀夫の十七歳に、己の十七歳を回想したであろう。
善明も人一倍に早熟だったからだ。彼は中学の学友丸山学と刊行した回覧誌『護謨樹』に、すでに次のような
老成した人生観を述べていた。(引用略)
敗戦で自決した覚悟の決然さの萌芽は、すでにこの少年の日にできていたのである。この善明の悟達は、
十五歳の歳一年間、肋膜炎で瀕死の床にあった経験から、死を凝視める習慣がついたものだった。

小高根二郎
「善明と由紀夫の黙契」より

780:名無しさん@お腹いっぱい。
10/04/15 23:55:37
(中略)善明の「死から帰納した生涯」と由紀夫の「椿事待望」の早熟な資質は、やがて「死もて文化を描く」
という夭折憧憬につながるのだ。換言すれば、それは「大津皇子」と「聖セバスチャン」の邂逅―殉難の
讃仰なのである。
大津皇子は朱鳥元年(六八六)父天武天皇が崩御してから一ヶ月も経たぬうちに決起を思い立った。(中略)
「『予はかかる時代の人は若くして死なねばならないのではないかと思ふ。……然うして死ぬことが今日の
自分の文化だと知つてゐる』(大津皇子論)
この蓮田氏の書いた数行は、今も私の心にこびりついて離れない。死ぬことが文化だ、といふ考への、或る
時代の青年の心を襲つた稲妻のやうな美しさから、今日なほ私がのがれることができない…(略)」
(三島由紀夫「蓮田善明とその死」序)
由紀夫の決起への啓示は、ここに発していたのかもしれない。

小高根二郎
「善明と由紀夫の黙契」より

781:名無しさん@お腹いっぱい。
10/04/15 23:56:16
(中略)
元旦の夜、楯の会と浪漫劇場のごく親しい人々が三島邸に集まったとのことだ。(略)談たまたま亡霊談義に
なるや、(略)由紀夫の左肩のあたり、顎紐を掛け刀を差した濃緑の影が佇んでいるのを、丸山明宏氏が
発見したということだ。「あッ!誰か貴方に憑いてます」と丸山氏が注意すると、由紀夫は真顔になって、
「甘粕か?」と問い、たて続けに二三の姓名を上げ、最後に二・二六事件の磯部の名をあげた由である。
同席の村松英子さんは丸山氏に亡霊を追払ってくれと要請した。すると由紀夫は笑って、『豊饒の海』が
書けなくなるから止めてくれといったという。
私はこの記事を読んで冷水を浴びたように慄然とした。丸山氏の記憶せぬ二三の姓名の中に、間違いなく善明の
名も入っていたはずだからだ。と、いうのは、その日頃、由紀夫は拙著『蓮田善明とその死』の序を執筆して
いたか、執筆すべく構想をしていたからだ。

小高根二郎
「善明と由紀夫の黙契」より

782:名無しさん@お腹いっぱい。
10/04/15 23:56:37
執筆にあたって彼は、当然シンガポール近くのゴム林に眠っている善明を想起し、その霊を呼んだろう。(略)
そういえば善明は前にも海を渡って帰ってきた。昭和二十年八月十九日、敗戦の責任を天皇に帰し、皇軍の
前途を誹謗し、日本精神の壊滅を説いた職業軍人・上條大佐をピストルで射殺し、かえす筒先で己がコメカミを
射抜いて果てた善明は、その時の完全軍装の姿で熊本県は植木町の留守宅に帰ってきた。明け近く、青蚊帳を
透かし、縁の外に佇んでいる夫をみつけた敏子さんは、「おかえりなさい」と挨拶した。善明は佇んだままだった。
「どうなさいました。お入りなさいまし」というと、前にくずおれるように姿はかき消えた。
その善明が、由紀夫の決起を知って帰ってこぬはずはない。
二人の合言葉は、『英霊』の「などてすめろぎは人間となりたまひし」であったはずだ。そう、私が夢想し
思量するのも、或いは絶作『豊饒の海』の輪廻転生の示唆なのかもしれない。

小高根二郎
「善明と由紀夫の黙契」より

783:名無しさん@お腹いっぱい。
10/04/19 02:08:55
これ本当?

142 :名無しさん@お腹いっぱい。[sage]:2008/01/11(金) 01:17:28
美輪さん主体で関わっている作品は
寺山だと青森県のせむし男、毛皮のマリー。
三島だと禁色という小説に美輪さんをモデルに登場させているし
舞台では卒塔婆小町(三島由紀夫)、葵の上(これも三島だったかな?)
黒とかげ←この字は変換正しくないです;ゴメン
(江戸川乱歩原作、舞台用に三島由紀夫が作り直し
後に美輪さん主演で映画も作られた)


784:名無しさん@お腹いっぱい。
10/04/19 11:52:54
>>783
禁色には美輪モデルはないと思います。
それ以外は大体あってると思いますが、三島戯曲は、特に美輪さんを主体(最初に美輪さんありきで、美輪さんを主人公に想定して)書き上げたものではないですよ。
後から、はまり役になったという結果的なものです。黒蜥蜴の映画に関しては美輪ありきの美輪主体だと思います。

785:名無しさん@お腹いっぱい。
10/04/19 20:52:32
ホモ

786:名無しさん@お腹いっぱい。
10/04/21 11:09:07
娘さんにあったことある

787:名無しさん@お腹いっぱい。
10/04/21 20:03:19
美輪が家に坊さんを入れようとしたら、首のない霊が云々

三島さんは5年くらいで成仏したとかしないとか

788:名無しさん@お腹いっぱい。
10/04/21 22:52:39
なんか怖い話だ

789:名無しさん@お腹いっぱい。
10/04/22 00:17:50
思いついたまま適当に言ってるんじゃないの?
あの大風呂敷爺さん


790:名無しさん@お腹いっぱい。
10/04/22 00:49:13
婆じゃないの

791:名無しさん@お腹いっぱい。
10/04/22 01:34:55
紫の履歴書では三島を先生と呼んで、ステージを見に来てくれると感激し、
どんな本を読めばいいか尋ねたり、意見を求めたり、まさに師と仰いでる。
でも最近は「私のお友達の三島さん」とは対等に言いたいことを言い合う仲だったとさ。
本当かどうかわかんないようなエピソードが年々増えていって、
ひとり噂板三島スレ状態の美輪。


792:名無しさん@お腹いっぱい。
10/04/24 11:55:10
昭和四十一年七月九日、三島さんは美輪明宏さんの日経ホールでのチャリティ公演に歌手として出演、美輪作曲で
自作詞の「造花に殺された船乗りの歌」を歌った。その年は「サド侯爵夫人」が芸術祭賞をとり、劇団NLTを
創った私たちは六月から七月にかけて関西公演に行く所だった。私はその打ち合わせに三島邸を訪ねた。
帰り際に三島さんは、いたずらっぽい笑みをたたえ「ちょっと聞かせたいものがあるんだが、今度ねえ、僕が
歌うんだよ。それをテープに入れたから―」と、既に用意してあったテープレコーダーをかけた。
ほとんどのものに手をそめた三島さんだったが、歌は初めてだった。お世辞にもうまいとは言えず、ためらう私に
たたみ込むように「丁度、関西から帰って来る日だろ。切符を用意しておくよ」と、にこりと笑った。

寺崎裕則
「私の心の中に生きる三島さん」より

793:名無しさん@お腹いっぱい。
10/04/24 11:55:30
三島さんは、胸の開いた黒のポロシャツに真白なズボンの格好いいマドロス姿で歌った。素晴らしかった。
舞台には歌の巧拙を超越し、そこに一人の詩人がすっくと立っていた。私の不安は雲散霧消。
終って明宏さんを囲んで打ち上げパーティーをした。三島さんは私に感想を求めた。思った通りを話したら
「そうか」と言ったものの、ちょっと不満気だった。
おひらきになると三島さんは「寺崎君、プロの歌手の手前、あれ以上、ほめると明宏さんに悪いと思ったんだろ。
これからはもう遠慮はいらない。ほめ言葉というものは幾らあっても多過ぎることはないんだよ」と、瑤子夫人と
六本木のステーキ屋へ拉致され、朝迄、“歌手三島由紀夫讃”をする破目になった。三島さんはすっかり
満足され、瑤子夫人と夏の、昇る朝日に向かって帰って行かれた。そのうしろ姿に好奇心と、稚気が戯れ合って
美しいオーラ(光輪)を描いていた。

寺崎裕則
「私の心の中に生きる三島さん」より

794:名無しさん@お腹いっぱい。
10/04/24 12:47:25
オーラの人

795:名無しさん@お腹いっぱい。
10/04/24 12:52:48
寺島さん?

796:名無しさん@お腹いっぱい。
10/04/26 02:42:45
これを見てください

日本の高校と変わらないし、決して特殊な学校ではないですから

入学式や卒業式
URLリンク(img63.imageshack.us)
URLリンク(img.gazo-ch.net)
URLリンク(img692.imageshack.us)

運動会の入場行進
URLリンク(www.nicovideo.jp)


797:名無しさん@お腹いっぱい。
10/04/27 19:53:28
ネット時代の現在、いくら日本人を言いくるめようとしても無駄だよね

798:名無しさん@お腹いっぱい。
10/04/28 22:41:24
昭和四十三年の春、青梅市郊外、吉野梅郷近くにある愛宕神社に、見なれぬ軍服姿の男たちが集まった。
作家の三島由紀夫と論争ジャーナルのスタッフ、そして学生たちのグループ十二人である。
社殿を見上げる百尺ほどの石段は、今を盛りの桜の花でおおわれ、その下で一行は記念の写真撮影をした。
この一行こそが「楯の会」創設時のメンバーである。しかしこの時「楯の会」という名前はまだなかった。
楯の会を考える時、どうしても『論争ジャーナル』をぬきにしては語れない。この月刊誌は昭和四十二年一月に
創刊され、当時左翼一辺倒の論壇に、真正面から立ち向った保守派のオピニオン雑誌であった。そのスタッフの
一人、万代潔が昭和昭和四十一年春、三島由紀夫を訪ねたことから、三島と論争ジャーナルの関係は始った。

持丸博
「楯の会と論争ジャーナル」より

799:名無しさん@お腹いっぱい。
10/04/28 22:41:45
この時、三島は既に「英霊の声」「憂国」を世に出し、この頃「奔馬」の執筆に取りかかっていた。
「恐いみたいだよ。小説に書いたことが事実になって現れる。そうかと思うと事実の方が小説に先行することも
ある」(小島千加子「三島由紀夫と檀一雄」)と自ら語っているように、四十二年の初めから、三島と
論争ジャーナルグループとの急速・急激な接近が始った。編集長中辻和彦と万代、そして当時学生であった私は
頻繁に三島家を訪ねるようになり、「俺の生きている限りは君達の雑誌には原稿料無しで書く」と言わせるまでに
信頼を勝ち得ていた。実際この年の三月から四十四年の三月までの二年間、三島は十回以上にわたって
論争ジャーナル誌上に登場した。四十二年の十一月号では、その頃交際を断っていた福田恆存と対談し、
論壇を驚かせた。この時期、三島はあたかも論争ジャーナルの編集顧問のような熱の入れようであった。

持丸博
「楯の会と論争ジャーナル」より

800:名無しさん@お腹いっぱい。
10/04/28 22:42:13
昭和四十二年四月から、三島は自衛隊に体験入隊し、四十五日間の訓練をした。これを機に「祖国防衛隊」構想が
計画され、論争ジャーナル編集部との間に、活発な議論が展開された。明けて四十三年一月、この構想は
「祖国防衛隊はなぜ必要か?」という表題でタイプ印刷され、限定で関係者に配られた。内容は、自衛隊を
補完する民兵の設立を想定したもので、その網領案によれば「市民による、市民のための、市民の軍隊」であり、
一朝事あれば「以て日本の文化と伝統を剣を以て死守せん」とする有志市民の「戦士共同体」であるとされた。
この「戦士共同体」の中核を作るために計画されたのが学生達の体験入隊である。「祖国防衛隊」の名は
外部には一切秘して、第一回体験入隊は昭和四十三年三月から一ヶ月間、私が学生長として御殿場の富士学校
滝ヶ原分屯地で実施された。以後四十五年三月まで五回にわたり、のべ約百二十人の体験学生を生んだ。

持丸博
「楯の会と論争ジャーナル」より

801:名無しさん@お腹いっぱい。
10/04/28 22:42:37
「楯の会」の名前が出来たのは、第二回の体験入隊終了後、会員数が四十名余りとなった昭和四十三年九月の
ことである。これから一年後の四十四年九月まで、会の事務局は論争ジャーナルの編集部内に置かれ、当時、
副編集長の私が会員の募集、選抜、事務手続き等実務に当って来た。しかし、楯の会とはいわば表裏一体として
マスコミ界に新風を吹き込んできた論争ジャーナルは、昭和四十四年頃から経営がきわめて悪化し、時には
発行が遅れることもあった。この財政上の危機をのりきるために、責任者の中辻は大変な苦労をした。父親の
退職金を全てつぎ込んでも足りなかった。そこで右翼系のある財界人から資金援助を受けることになる。
それまでどこからも資金援助をうけずに楯の会を維持してきた三島にとって、論争ジャーナルに「黒い噂」が
あることは、同時に楯の会の資金的な倫理性を損なうことになると考えた。それほど両者は密接に結びついていた。

持丸博
「楯の会と論争ジャーナル」より

802:名無しさん@お腹いっぱい。
10/04/28 22:42:59
体験入隊を「純粋性の実験」といい、楯の会を「誇りある武士団」と見る三島は、これを看過できなかった。
こうして三年近く密接な関係にあった三島由紀夫と論争ジャーナルは訣別した。確かにこれは悲劇であった。
しかしこの二つの運命的な出会いがなければ、楯の会がこの世に生まれなかったこともまた確かであったろう。
     ※
ここに一枚の誓紙がある。
〈誓 昭和四十三年二月二十五日
我等ハ 大和男児ノ矜リトスル 武士ノ心ヲ以テ 皇国ノ礎トナラン事ヲ誓フ〉
三島は平岡公威の名で署名し、以下あの愛宕神社の撮影会に参加した中の十名の名前が続く。
今は伝説となった血判状である。
今春、私は三十五年ぶりに愛宕神社を訪ねた。花の盛りには少し早かったが、桜の木々は昔のまま立っていた。
あの日満開の桜の中に立つ三島由紀夫の姿は、「我が生涯の師」として、今なお私の心の中に、あの時、
あのままの姿であざやかに生きている。

持丸博
「楯の会と論争ジャーナル」より

803:名無しさん@お腹いっぱい。
10/05/02 18:48:48
あんまりスポーツ得意じゃなかったんでしょ

804:名無しさん@お腹いっぱい。
10/05/02 19:23:14
ホモなのかどうかが知りたい

805:名無しさん@お腹いっぱい。
10/05/02 20:46:14
切腹失敗

806:名無しさん@お腹いっぱい。
10/05/02 23:28:53
>>792
それってまだ買えますか?

807:名無しさん@お腹いっぱい。
10/05/04 07:09:32
娘さんいるよね

808:名無しさん@お腹いっぱい。
10/05/04 11:18:04
>>806
売ってないようです。

809:名無しさん@お腹いっぱい。
10/05/04 19:45:55
>>808
図書館で探してみます

810:名無しさん@お腹いっぱい。
10/05/08 23:29:43
「黒い大佐」と呼ばれるヴィクトル・アルクスニスという軍人がいた。ソ連邦維持、反共、反欧米を主張する
滅茶苦茶だが高潔な保守派の人物だ。ペレストロイカは世界革命のためだとわかっていた。領土問題については、
日本の北方領土に対する要求は絶対に認めない「愛国」、「憂国」の士だ。父はラトビア人、母はロシア人。
祖父は建国の大立者で、ナチスの陰謀だったといわれる「トハチェフスキー事件」ではトハチェフスキーを
ヒトラーのスパイとして死刑にした一人で後に銃殺された。父はカザフスフタンの炭坑に送られ一家で辛酸を
なめるが第20回党大会で祖父の名誉回復がなされた。
ラトビアに帰国したアルクスニスは航空学校に入るが目が悪く、ミグの整備兵になる。(中略)
アルクスニスはペレストロイカのもと、保守派に押されて国会議員になり、「反共ソ連邦維持連盟」を結成し、
改革派を西欧とつながった売国奴と非難してシュワルナゼ外相を辞任に追い込んだ。

佐藤優
講演「ロシアから吉野へ 神皇正統記から三島へ」より

811:名無しさん@お腹いっぱい。
10/05/08 23:30:07
1991年8月19日から21日にかけて保守派によるクーデタが起こったが失敗する。
私は枝村大使の了解を得て、24日の朝アルクスニスに電話し国会で演説する前に昼飯の約束をした。
日本人は情報が入らないと離れる、力のある者にだけすり寄りよると思われることを危惧したからだ。
中華レストランに誘い、自分の母が14歳で沖縄戦に巻き込まれた苦難を、人民の敵として辛酸をなめた
アルクスニスに語り、以下のやり取りをした。
アルクスニス「これから国会でソ連邦維持の演説をする」
佐藤「やれ、信念を通せ!」
アル「日本はカミカゼの国だろう」
佐藤「実は(熱心な社会党支持者の)母はこっそり靖国神社に通っている。姉が祀られているからだ」
アル「スターリングラードでソ連兵はドイツ戦車に特攻した。このことはタブーとして歴史から隠ぺいされている」
佐藤「カミカゼの精神とスターリングラードの精神は同じだ!」
アル「北方領土は日本からスターリンが盗んだ土地だ。おれはそれを知っている。日本は還せと言い続けるべきだ」

佐藤優
講演「ロシアから吉野へ 神皇正統記から三島へ」より

812:名無しさん@お腹いっぱい。
10/05/08 23:30:31
アルクスニスは三島由紀夫の愛読者で、1989年ロシア語で出版された『憂国』が一番いいと言い次のように
評価した。 
・2.26事件の世直しとソユーズ(連邦維持を唱える院内会派)とは似ている。
・これは友情の小説だ。 
・主人公が決行部隊から外されたのは結婚したばかりというのはウソだ、決行の中心人物でなかったからだろう。 
・しかし主人公は夫人との愛、同志との友情の中にいる。

アルクスニスは私にボリス・プーゴのことを覚えているかと訊き、次のように語った。
「クーデタ派は破れソ連国家は崩壊した。 セルゲイ・アフロメーエフ参謀長はこめかみを打ち抜いた。
ラトビア人のプーゴ内務大臣はKGBが自宅に逮捕に来たが、役人を外で待たせ2発の銃声を発し、夫人と
一緒に死んだ。ラトビア人には血の掟がある。 名誉を守るために自決を選んだのだ。
ラトビア人は奥さんを先にし、『憂国』では奥さんが後だ。日本人は奥さんへの信頼が篤いからだろう」

佐藤優
講演「ロシアから吉野へ 神皇正統記から三島へ」より

813:名無しさん@お腹いっぱい。
10/05/08 23:30:49
日本人もキリスト教的で死後のよみがえり、死後の復活を前提にしているといえる。
私はキリスト教(プロテスタントのカルバン派)だが、日本の神話にある世界観と聖書の世界観は同じだと思う。
天照大神とキリストは同じだ。仏教は壮大精緻な世界観を持つが、日本の神話では、聖書同様混沌の中から
世界がうまれる。いざなぎ、いざなみの営みからだ。これは平田篤胤に継承されている。
近代国家は欧米思潮の流れにあるが、その源流はギリシアにあり、ギリシア世界はドイツ語にある。日本の
知的退廃はこのドイツ語を学ばなくなっているせいだ。(中略)
新渡戸稲造や内村鑑三などの神学者が日本の「国体論」を一番わかっている。各国のキリスト教は別々に
つくられ、存在している。臣民の道、靖国を位置付けられなければ、日本のキリスト教とはいえない。(中略)
靖国に行くなというキリスト教徒はダメだ。霊性、リインカネーションを感じる力が衰えているのだ。

佐藤優
講演「ロシアから吉野へ 神皇正統記から三島へ」より

814:名無しさん@お腹いっぱい。
10/05/08 23:31:06
旧ソ連国家保安委員会(KGB)の後身であるロシア連邦保安庁(FSB)ではカリキュラムの中で日本語の
三島の作品を読ませている。物欲のないこういった日本人にしてはならないと警戒しているのだ。
ロシアは新自由主義経済の流れの中でサブプライム問題に引っ掛からなかった日本の国力を恐れている。
ただぼんやりしていただけだが。
「ファシスト・サムライ」というロシア語には日本人への尊敬と畏敬の気持ちがある。
本当の日本人は「ファシスト・サムライ」でヘナヘナしているのはウソである、と思っている。
大いなる誤解だが誤解のままにしておけばいい。

佐藤優
講演「ロシアから吉野へ 神皇正統記から三島へ」より

815:名無しさん@お腹いっぱい。
10/05/08 23:32:44
(中略)
私は大学の2回生のときに小説を読まないことにした。哲学と神学書を読み、そのためにヘブライ語、ラテン語、
ギリシア語を勉強する時間を確保するためだ。ただし役に立つ小説は読む。
モスクワでは30冊くらい『憂国』をロシア人に渡した。三島にはテクストだけではない生き方がある。
三島は個別の命を超えた大義に生きた。
言っていることとやったことがかい離していない三島はロシア人の心を打つ。
キリスト教は自殺を禁止しているというが、国家に忠義を尽くすことをヤン・パラフというチェコの青年は
「プラハの春」の1968年ヴァーツラフ広場で焼身自殺して示した。
15世紀宗教改革に命をかけたヤン・フスの末裔の殉教者と見られて、今でも広場に献花が絶えない。

佐藤優
講演「ロシアから吉野へ 神皇正統記から三島へ」より

816:名無しさん@お腹いっぱい。
10/05/09 00:04:51
噂の真相に部落説が載ってた
娘さんが寺に過去帳の閲覧断られたとかって話

817:名無しさん@お腹いっぱい。
10/05/09 01:05:54
>>816
祖父の祖先に、禁じられていた雉射ちを子供のときして、お上に怒られた人がいたかもしれない、ってだけの話だよ。

818:名無しさん@お腹いっぱい。
10/05/09 01:12:23
>>816
部落民説を国士様に話すと真っ赤になって怒るんだよね。
部落民だろうがホモだろうが三島ぐらいになると名声に影響ないのに。

819:名無しさん@お腹いっぱい。
10/05/09 01:20:44
左翼が血眼になって必死にあら探ししても、雉射ちした子供しか出て来ないんだから。
それをまた必死に部落だとか大袈裟に捏造してまでご苦労なこった。

820:名無しさん@お腹いっぱい。
10/05/09 01:31:38
>>817
雉射ち詳しく知りたい

821:名無しさん@お腹いっぱい。
10/05/09 01:38:59
>>820
Wikipediaに載ってない?あくまで噂レベルの域

822:名無しさん@お腹いっぱい。
10/05/09 01:43:24
ちなみに「奔馬」のなかにも、勲が雉(だったかな?)、鳥を討つ場面があったね。

823:名無しさん@お腹いっぱい。
10/05/09 04:15:03
確か先祖に切腹した人がいたとか

824:名無しさん@お腹いっぱい。
10/05/09 10:13:26
兵庫のその平岡姓は、平家が逃れて流れてその地で農民に身を隠して暮らしてた人たちの子孫という説もあるね。

825:名無しさん@お腹いっぱい。
10/05/09 13:56:15
実家の先祖は豪農だったって聞いた

826:名無しさん@お腹いっぱい。
10/05/11 06:18:05
ホモだちは誰だろう

827:名無しさん@お腹いっぱい。
10/05/11 14:57:53
曾おばあさんが水戸徳川家出身だっけ?

828:名無しさん@お腹いっぱい。
10/05/11 15:24:29
松平家だよ。祖母の祖父は永井尚志。

829:名無しさん@お腹いっぱい。
10/05/11 16:24:42
その松平家は水戸の分家だよね

830:名無しさん@お腹いっぱい。
10/05/11 17:24:12
このお方?切腹してるね。
松平頼徳 - Wikipedia
URLリンク(ja.wikipedia.org)

831:切腹
10/05/11 21:57:35
三島由紀夫の切腹
URLリンク(yaplog.jp)

832:切腹
10/05/11 22:00:17
当時の週刊誌に載った遺体

833:名無しさん@お腹いっぱい。
10/05/12 04:05:12
怖くて見れない

834:名無しさん@お腹いっぱい。
10/05/12 15:06:24
>>830
たしか天狗党関連で切腹したんだよね

835:名無しさん@お腹いっぱい。
10/05/12 20:52:06
切腹画像って何が映ってるの

836:名無しさん@お腹いっぱい。
10/05/13 00:02:24
>>834
三島由紀夫はその先祖の転生かもね

837:名無しさん@お腹いっぱい。
10/05/13 08:36:45
結構先祖に有名な人がいるんだね

838:名無しさん@お腹いっぱい。
10/05/13 18:22:55
先祖の腹きりに影響されちゃったのかな

839:名無しさん@お腹いっぱい。
10/05/13 21:40:15
なんか因縁を感じるな

840:名無しさん@お腹いっぱい。
10/05/15 20:57:13
あの方は天草四郎の生まれ変わりだったはずw

841:名無しさん@お腹いっぱい。
10/05/16 01:13:13
みわさんね

842:名無しさん@お腹いっぱい。
10/05/25 02:07:19
美輪さんは・・・

843:名無しさん@お腹いっぱい。
10/05/26 13:23:48
>>828
永井尚志は旗本だね

844:名無しさん@お腹いっぱい。
10/05/27 18:47:33
永井荷風と遠い親戚だと聞いた。
文学の血はあるんだと思った。
因みに荷風と従兄弟が高見順。

845:名無しさん@お腹いっぱい。
10/05/27 21:02:45
歴史上の人物と繋がってるのが凄い

846:名無しさん@お腹いっぱい。
10/05/28 19:34:43
娘さんって綺麗なのかな

847:名無しさん@お腹いっぱい。
10/06/06 11:09:44
>>846
息子は美男子だと聞いたことあるよ。

848:名無しさん@お腹いっぱい。
10/06/06 12:59:22
息子さんは銀座で宝石関係のお店やってるらしい
娘さんのことは聞いたことも無い

849:名無しさん@お腹いっぱい。
10/06/10 23:49:11
吉田松陰が七世紀の壬申の乱のことを『講孟剳記』で語っています。そこで、たとえば弘文天皇が天武天皇に
三種の神器を奪われてしまったとき、レガリアがないとはたしてレジティマシーが天皇としてあるのかという
議論を、前期水戸学が問題にしている。これについて、吉田松陰はそんなことはどうでもいいと言うんです。
三種の神器を天武天皇から弘文天皇の臣下が奪い返せばいいんだと言うんです。つまり認識や理屈よりも行動だと。
実践的な行動が大事だと言っているんです。(中略)
(私は)日本人を非常に信頼しています。特に一般大衆と言いますか、庶民を昔から信頼しています。たとえば
徳富蘇峰が『近世日本国民史』で元禄時代の忠臣蔵、赤穂義士の事件のことについて触れています。

杉原志啓「第39回憂国忌『現代に蘇る三島由紀夫』」より

850:名無しさん@お腹いっぱい。
10/06/10 23:49:30
あれはいつどういうときに勃発しているかと言いますと、元禄時代ですので、およそ享楽と歓楽の世です。
元禄の世の中は黄金万能主義で拝金万能主義の世の中だと。太平楽で一切戦争から離れて、元禄のデタラメかつ
狂乱の文化を謳歌していた時代に、突如として江戸に腹を斬らなければならない人たちが四十何人も出た
驚くべき事件が出来したと言っている。蘇峰はこれを大正時代の今日に東京丸の内へ虎が飛び出すよりも
驚くべき事件だと言っている。
つまり日本国民に潜在している尚武の気性は、歴史的にいよいよ危機になってくると必ず実践として噴出する
というわけです。山路愛山も福本日南も、歴代の近代ヒストリアンは皆同じです。
まさにその伝で三島由紀夫さんが身を捨てて、戦後の昭和元禄みたいな世の中に警鐘を鳴らしてくれたわけです。

杉原志啓「第39回憂国忌『現代に蘇る三島由紀夫』」より

851:名無しさん@お腹いっぱい。
10/06/10 23:49:48
確かに表面上はどんどん悪くなっていると思います。たとえば北朝鮮の拉致問題とか、憲法改正問題を含め
何一つ手を付けられない。その背後には日本国民の国家意識の問題がありますね。
たとえば有事法制を作った。北朝鮮で不審船の侵入事件がありましたが、あのときに自衛隊法八十二条で
海上警備行動を発動しようとしましたが、最初は巡視船でやっていて自衛隊はなかなか出ない。私が教えを受けた
坂本多加雄先生に言わせると内閣がもたもたしていたからだと言う。ではなんでもたもたするのかと言うと、
一般国民のなかにそういう構えができていないからです。しかし日本国民は健全だから必ず目覚めると常に
一貫しておっしゃっていました。私もそう信じています。三島さんのような人が、まさに昭和元禄の頃に
突如としてああいう行動を噴出させたようにです。

杉原志啓「第39回憂国忌『現代に蘇る三島由紀夫』」より

852:名無しさん@お腹いっぱい。
10/06/10 23:50:09
私はどんどん駄目になって遂に破滅に至る、日本が溶解するとは思っていません。近代以前もそうですけれども、
歴史を勉強しているうちに、そんなに捨てたものではないだろうと思うようになりました。
むしろこれから真の三島のような人がまた出てくるであろう。本当の危機のときに必ず日本人は英雄を生み出すと
山路愛山も徳富蘇峰も言っています。そちらのほうに私は賭けたいと思っています。
そもそも日本を溶解に導いているのは、むしろ政治家や知識人といったエリート層です。戦前も戦後も
そのパターンで、大衆国家日本の庶民の常識こそ信じたいのです。そしてそこから英雄が出現するだろうと。

杉原志啓「第39回憂国忌『現代に蘇る三島由紀夫』」より

853:名無しさん@お腹いっぱい。
10/06/11 03:36:47
昨日三島さんが行きつけだった旅館に行ってきました

854:名無しさん@お腹いっぱい。
10/06/13 14:26:14
>>853
温泉ですか?

855:名無しさん@お腹いっぱい。
10/06/13 22:42:54
>>854
そうです

856:名無しさん@お腹いっぱい。
10/06/18 02:48:15
生きてたら今の政治についてなんって言ってるかね

857:名無しさん@お腹いっぱい。
10/06/19 11:14:24
鳩山は「命を賭けて…」と言いながら、議員もやめないことに、呆れてしまうんじゃない?
殺すほどの価値もないから、ただ呆れるだけだと思う。

858:名無しさん@お腹いっぱい。
10/06/26 23:30:50
『潮騒(しほさゐ)に、伊良虞(いらご)の島辺(しまへ)、漕ぐ舟に、
妹(いも)乗るらむか、荒き島廻(しまみ)を』

(さわさわと波がさわいでいる伊良虞の島のあたりを漕いでゆく舟に、
今ごろあの娘は乗っているのだろうか、潮の荒いあの島の廻りを。)

詠人 柿本人麻呂


三島由紀夫は、万葉集に歌われている伊良湖岬を歌ったこの歌から「潮騒」の題名をとりました。
この歌は、持統天皇が伊勢に旅された時に、都に残った柿本人麻呂が詠んだ歌です。

ちなみに、潮騒を万葉仮名で書くと『潮左為』だそうです。

859:名無しさん@お腹いっぱい。
10/06/27 00:07:00
中曽根と長島さんと美和のネットワークとは何?

860:名無しさん@お腹いっぱい。
10/07/01 12:29:36
戦後の日本人に大きな魂を残したのは、三島由紀夫と神風特攻です。これも実はフランス人がそう言っているんです。
ベルナール・ミローが『神風』という本を書いていまして、「特攻の精神は、千年のときを貫いて人間の
高貴さを示している」と1970年代に書いています。戦後の日本人に対して特攻隊と三島の死が非常に大きな
力と言いますか、日本精神の原点は何かということを教えてくれた気がします。
憲法の問題ですが、アメリカが作って翻訳された「たかが成文憲法」です。しかしこのたかが成文憲法を戦後
60年近く押し戴いている日本は一体なんなんだというのが私の今の正直な感想です。自民党がこうなったのも
当然だと思います。

富岡幸一郎「第39回憂国忌『現代に蘇る三島由紀夫』」より

861:名無しさん@お腹いっぱい。
10/07/01 12:29:57
三島が45年の11月25日に、自民党政権はもはや火中の栗を拾わない、すなわち憲法改正をしなくても
政権は維持できる。このことにどうして自衛隊の諸君は気がついてくれなかったんだと言っています。
そういう意味で、政治論ですけれども、たかが成文憲法を変えられない我々の問題も感じます。
あと二年のうちにということがどういう意味かと考えると、三島没後の72年にあれほど対立していた米中が
手を結びました。つまりあの瞬間に日本の憲法改正も、自衛隊が国軍になる日もなくなった。あるいはその
チャンスが失われかけた大きな危機だったのではないか。今はそれと同じ状況だと思います。スケールは違いますが、
同じ事態が出来している。アメリカと中国が経済同盟を結んで日本をスルーしていく。民主党政権の外交は全く
機能しておりません。

富岡幸一郎「第39回憂国忌『現代に蘇る三島由紀夫』」より

862:名無しさん@お腹いっぱい。
10/07/01 12:30:29
何年も前から檄文のなかにあった二年後というのが気になっていて、一体なんなんだろうとずっと考えていました。
あるとき気づいたんですが、一つは米中接近がありますね。もう一つは沖縄返還です。昭和47年に沖縄返還が
行われることは決まっていて、そのときにどういうかたちで返還されるのか。それによって日本という国家が
相変わらず独立できないまま半独立国家として、アメリカの永久占領が限りなく続いていくことを三島は見抜いていた。
彼が45年の生涯で書いたものの全てが、今の21世紀の私たちに突き刺さってくる問題ばかりを書いている。
それが天才の所以なんでしょうけれども、認識と行動の問題もつくづく考えさせられます。二元論に自分を
追い込んでいって、ラディカリズムがニヒリズムを克服するという方法論をとったのではないかと私は解釈しています。

西村幸祐「第39回憂国忌『現代に蘇る三島由紀夫』」より

863:名無しさん@お腹いっぱい。
10/07/01 12:30:49
(中略)
三島は現実的な問題も、十分捉えていたわけです。二年後に自衛隊はアメリカの傭兵になってしまうと
1970年の時点で言い切っていたのは、米中接近と沖縄返還のことを、すでに視野に入れていたということです。
(中略)
最近よく話題になる核のシェアリングの問題がありますけれども、そういったことも三島さんは考えていた。
それは日本の核戦略はどういうものになるのかと、40年前の時点で考えられ得る現実的なこともちゃんと
提起していた。国土を守るほうの自衛隊を、国軍として成立させることで、日米安保体制下のなかでの日本の
自主防衛をどうしていくかを、40年前のあの制約のなかで考えていたことは素晴らしい慧眼だと思います。

西村幸祐「第39回憂国忌『現代に蘇る三島由紀夫』」より

864:名無しさん@お腹いっぱい。
10/07/05 19:49:43
 松本徹先生『三島由紀夫を読み解く』がNHKテキストに
  ラジオ第二放送で7月から9月放送のテキストです
****************************************

 NHKカルチャーラジオ『文学の世界』は、七月から九月が松本徹(文藝評論家、三島文学館館長、憂国忌発起人)が語りおろす「三島由紀夫を読み解く」である。
 放送日は七月から九月
 木曜日 午後八時半から九時
 再放送は
 金曜日 午前1015-1045

 なお写真十数葉を配した、松本先生執筆のテキストはNHKから出版されており、書店で買い求めることができる。
 NHKカルチャーラジオ 松本徹 『三島由紀夫を読み解く』(857円)


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