三島由紀夫の噂at UWASA
三島由紀夫の噂 - 暇つぶし2ch450:名無しさん@お腹いっぱい。
09/06/03 11:13:25
>>449
威一郎さんは大学へは進学しなかったんじゃないかな。
真偽は定かじゃないですが、他のスレで誰かが言ってました。

451:名無しさん@お腹いっぱい。
09/06/03 12:36:31
開成なのに大学に行かないってかなり珍しいね。よほど成績が悪かったのか。

452:名無しさん@お腹いっぱい。
09/06/03 13:08:56
若者を道連れにして人生台無しにさせて自分は格好よく割腹ですか
多くの罪なき自衛隊に切りつけて何が武士だよ。武士はそんな卑怯な真似はしません

徴兵逃れの卑怯ものにふさわしい卑怯な最後だね
本当は徴兵行きたかったのに当日になってゴホゴホ咳でていけなかったお( ^ω^)
徴兵逃れした奴は大体戦後こうやって言い逃れしたんだねw

三島は子供のころから右翼的思想だった?ぷっwww
当時はみ~んな日記でも天皇万歳だったんだよw
三島が右翼的行動が目立ってきたのは「宴のあと」が落選して
ドナルドキーンに「三島は右翼じゃないから落選した」と聞かされてからだねwww
欲しかったみたいだねノーベル賞www残念三島無念の自決( ^ω^)

三島&三島信者「悔しいのう、ノーベル賞を涎たらして欲しがってたのがばれて、徴兵忌避もばれて、
        ライフワークの豊饒の海も結局生長の家思想で片付けられて、悔しいのう」
( ^ω^)
おっおっおっおっw火消し&負け惜しみ頑張れ!このスレもう見ないからw

三島信者「もうスレ見ないんじゃ反撃できない…勝ち逃げされた…悔しいのう、一生懸命釣ってみたけどやっぱり来ないのう、悔しいのう」

453:名無しさん@お腹いっぱい。
09/06/03 13:41:20
>>451
真偽は定かじゃないから本当に行ってないかは不明です。

454:名無しさん@お腹いっぱい。
09/06/03 13:50:42
>>451
ちなみに、平岡威一郎さんは三島の映画論文を編集した本を出してるよ。
映画「春の雪」のエンドロールに名前があったかな。

455:名無しさん@お腹いっぱい。
09/06/03 13:54:42
>>452
ネットアカヒが恣意解釈のかまってバカでご苦労さまでした。毎度つまんなすぎて聞きあきたわ。

456:名無しさん@お腹いっぱい。
09/06/03 14:36:43
南馬込の三島の家は冨田浩司氏と結婚した紀子さん一家が住んでいるので
いま威一郎さんは目黒に住んでいるらしい

457:名無しさん@お腹いっぱい。
09/06/03 15:12:32
三島というのは個人の筆名に過ぎないのに平岡瑤子は三島瑤子を名乗り、
平岡威一郎は三島威一郎を名乗っている。こんな奇妙な例は他にはないのではないか。

津島美知子が太宰美知子を名乗り、津島園子が太宰園子を名乗ったという話は聞いたことがない。

458:名無しさん@お腹いっぱい。
09/06/05 11:57:42
>>457
公私と分けて「三島」にしてるんじゃないかな。


459:名無しさん@お腹いっぱい。
09/06/05 19:17:29
むかし紀子さんの顔写真が写真週刊誌に載っていたが面長で三島そっくりだったね。
丸顔の瑤子さんには似なかったらしい。

460:名無しさん@お腹いっぱい。
09/06/05 19:31:23
四方田犬彦によると、中上健次は平岡瑤子に会った後で
「まったく、三島由紀夫ともあろう男がなんであんな醜い女と結婚したんだ」と蔭で嘆いていたらしい

461:名無しさん@お腹いっぱい。
09/06/05 22:12:46
>>459
へ~見たいな。

>>460
夫人の写真、何点か見るけど特に醜くはないよ。
文学風和風美人タイプじゃないけど、ハムスターや猫を可愛がる三島好みの猫顔、丸顔だね。

462:名無しさん@お腹いっぱい。
09/06/05 22:37:23
北杜夫は独身時代、瑤子さんから「北さんはなぜ結婚なさらないの」と訊かれて
「結婚するつもりだったんですが、奥さんを見たら勇気がなくなりました」と答えた。
そのとき同席していた三島は困った顔をして、瑤子さんに「北さんは物事をズケズケ言うので有名な人だから」ととりなした。

463:名無しさん@お腹いっぱい。
09/06/06 00:41:52
>>462
又聞きレベルや作り話じゃないなら出典ぐらい出せば?
北杜夫って、三島関連にほとんど出ない名前だから友達でもないでもない、ただの作家の知り合いでしょう。
そんなのが、たまたま客で呼ばれて言う言葉にしたらずいぶん不自然だね。

464:名無しさん@お腹いっぱい。
09/06/06 00:53:29
>>462
それから、あやふやな作り話で三島由紀夫以外の有名人でもない人をネットで中傷するような書き込みすると、
今は訴えられて書類送検されることもあるから注意した方がいいですよ。
その程度じゃ大丈夫だろうけどさ。

465:名無しさん@お腹いっぱい。
09/06/06 01:18:45
>>452
よく読むと、全く前後関係もめちゃめちゃだし、デタラメ解釈をここまで都合よく貼り合わせたもんだわ。
ドナルド・キーンから「極左と間違えられてノーベル賞落とされた」と聞かされたのは、三島が自衛隊活動しはじめてから、だいぶ後の話。
そのもっと前から、とっくに自衛隊に体験入隊して祖国防衛隊を作ってます。
それに「宴のあと」書いた頃の年には、まだノーベル賞の候補になってもないし、審査されてないから、
ドナルド・キーンがその時点で、何も言えるわけないしね。タイムスリップする以外は。


466:名無しさん@お腹いっぱい。
09/06/06 01:25:27
>>463
へえ、「マンボウ交友録」も読んでない知ったか野郎がシタリ顔でこんなスレに出入りしてるんだ。呆れ返った酢豆腐だね。
三島が奥野健男を介して北杜夫と知り合った最初の晩、文章の仮名遣いの間違いを北からしつこく追及されて激怒し
「天才だろうが何だろうが、俺はあんな無礼な奴は絶対に認めん!」と奥野に怒鳴った話とか、自分の小説の欠点を三島から
ズバズバ指摘された北が「いや、あれを書いたときはたまたま鬱だったので」と言い訳しようとしたら三島が憤慨して
「文学には躁も鬱もない!」と電話口で怒鳴った話とか、面白い逸話がたくさん出ているから読んでみれば?
キミに人の文章をまともに読む力があれば、の話だけど。

> 友達でもないでもない

意味不明。「友達でもなんでもない」と書きたかったのかね。何をムキになって慌てているのか不可解。

467:名無しさん@お腹いっぱい。
09/06/06 01:31:20
>>464
それから、あやふやな法知識で「訴えられて書類送検される」などと騒いでいると
逆にキミ自身の無知が露呈して笑いものにされてしまうから注意した方がいいですよ。
もう手遅れだけど。

468:名無しさん@お腹いっぱい。
09/06/06 02:02:16
>>466
普通そんなマイナーな作家の本なんか読んでる人いないよ。よほどの北杜夫ファンじゃない限り。
北杜夫なんて三島由紀夫を知ってから初めて存在を知ったしね。
その逸話を読んで、北杜夫ファンが女々しいつまらない逆恨みの粘着ですか?

469:名無しさん@お腹いっぱい。
09/06/06 02:14:29
>>467
別にそんな程度のことで笑い者にするほどのバカにこんなとこで笑われも、痛くも痒くもないよ、くだらない(笑)

470:名無しさん@お腹いっぱい。
09/06/06 14:29:09
>>468
> 普通そんなマイナーな作家の本なんか読んでる人いないよ。よほどの北杜夫ファンじゃない限り。

ほらほら、頭が悪くて何も言い返せないからといって「普通」とか「マイナー」とかいった曖昧で無意味な言葉の中に逃げ込んではいけないね。
お前は何を以て「普通」、何を以て「マイナー」とほざいてるんだ? こういう具体的な内容がない日本語は「ボクちゃんは頭の中が空っぽで
何も考えていない人間です」ということ以外何も表現していないに等しい。そんな人間がなぜ三島スレにいるのか不思議だね。
芥川賞作家かつベストセラー作家の北杜夫の著書を読んでいないというのはお前の無知と不勉強の証明にこそなれ開き直りの口実にはならないよ。
せめて池田得太郎ぐらいのレベルだったら一般的に「マイナー」と呼んでも異議は出ないかもしれないがね。

> 北杜夫なんて三島由紀夫を知ってから初めて存在を知ったしね。

なるほどなるほど。ことほど左様にお前は無知で愚鈍で文学的素養がないわけだ。でもお前がバカで日本語が不自由なのは
お前にきちんとした読書環境を与えてやらなかったお前の親のせいであって俺のせいじゃないんだよね。
そういう悲惨な自分語りはチラシの裏にでも書いていて欲しいね。

> その逸話を読んで、北杜夫ファンが女々しいつまらない逆恨みの粘着ですか?

ますますもって支離滅裂、ますますもって意味不明。俺は北杜夫の本「も」読んではいるが別にファンではないしファンと名乗った憶えもない。
「逆恨み」と言われても誰に逆恨みする必要があるのか判らんね。むしろ、三島文学に何の関心も理解もない一介の下賤なゴシップマニア(つまりお前のことね)が
好い気になってウンチクを披瀝していたらあべこべに不勉強をたしなめられて面目を失い、粘着逆恨みして意味不明な言い訳を並べているのが現況だね(笑)

471:名無しさん@お腹いっぱい。
09/06/06 14:31:18
>>469
「こんなとこで笑われも」か。痛いところを衝かれて余裕がなくなるとtypoが多くなるらしいね(笑)

472:名無しさん@お腹いっぱい。
09/06/06 14:37:57
おっと、一つ勘違い。>>462の逸話は『人間とマンボウ』(中公文庫)所収「表面的な思い出など─三島由紀夫氏」だった。
これは訂正する。

473:名無しさん@お腹いっぱい。
09/06/06 16:18:54
>>470
三島の文学に何の関心もないゴシップマニアはあなたでしょう。
自分のレスを顧みたら?
そんな細かい北杜夫とのごちゃごちゃした話なんか、三島の文学とは関係ありませんからね。
私は三島の文学作品はほぼ読んでますよ。文庫本は全部持ってるし、全集もいくつか持ってます。

それから、はっきり言って私の周りでは北杜夫を知ってる人はほとんどいませんよ。
芥川賞なんかとって昔話題になってたとしても、今現在読まれでなければ知らない人が多いのは当然でしょう。


474:名無しさん@お腹いっぱい。
09/06/06 23:54:51
>>473
横レススマソ。
三島の全集読んだりしたからって、必ずしもいい読者とは限らんよ。
読む人が読めば、長編ひとつでもその作家の真価がわかるし、
何編読んでもその作家の真価がわからず、ただ全作品読んだというだけで
得意顔で悪い評論文書いてる評論家ってたくさんいるから。

あと、北杜夫のことはわからないけど、現在読まれていないからって
取るに足らない作家だと決めつけるのはよくないよ。
そうやって文学は大衆化して衰退していったから

475:名無しさん@お腹いっぱい。
09/06/07 11:18:03
>>474
いい読者かどうかが問題にしてるんじゃなくて、三島文学に興味がないとデタラメなレッテル貼られたから、
ちゃんと三島文学作品を好きで読んでるって事実を言っただけ。
北杜夫のことも、作家の質のことまで私は言及してませんよ。
ただ現在読まれてない、って事実を述べただけです。
大衆がどうのいってるけど、昔だって芥川賞をとってそれが話題で大衆に読まれたんでしょうに。
その後、ミーハー以外の文学読みの人々に支持されていれば、多少は作品自体が何らかの形で語られて残るはずだと思いますが。

476:名無しさん@お腹いっぱい。
09/06/07 15:20:54
>>475
そうとも限らない。最近は文学が売れないせいか、大衆に知名度の低い作品は良作であっても
どんどん廃版になってるからな。
荷風の作品や鴎外の史伝も文庫なら岩波とかで集めるしかないって感じだし。
大手出版社は売れる村上春樹とか刷りまくるのに

このままじゃ谷崎は細雪と痴人の愛、川端は雪国と伊豆の踊り子といったように、大衆に「代表作」として認識
されているものだけが残って、ほかの作品が文庫では廃版になるんじゃないかと思う
実際荷風や泉鏡花はそういう煽りを受けてるような気がする

大衆化が悪いわけじゃないけど、大衆化されて出版社が売上重視になると、
やっぱ売れない文学は煽りを受けるよ

477:名無しさん@お腹いっぱい。
09/06/08 11:20:57
>>476
文学自体が読まれてないから、あまり知られていない作家でも良作があるのは当然でしょう。
だけど、それらの作家たちは、そういうふうに文学読みの人々の間やコアなファンの間で文庫絶版を惜しまれたりして、古本や何らかの形で作品が語られてますよ。

478:名無しさん@お腹いっぱい。
09/06/08 11:35:24
私は一度だけ三島由紀夫さんから葉書を頂戴したことがある。
葉書に十行足らずの簡潔な内容の便りで、私の住所がわからないため、私の著書の出版社経由で届いたのだった。
…葉書の消印は昭和三十六年五月一日。
「抒情の批判―日本的美意識の構造試論」は、当時新たに生まれたばかりだった出版社晶文社から刊行された、私のごく早い時期の著書で、
奥付によると、刊行は昭和三十六年四月二十日となっている。
つまり、三島さんはこの本が書店に並んだのとほとんど同時に、これを購入してくれていたのだった。
のみならず、三島さんは彼が発行同人(?)の一人でもあったらしい雑誌『風景』、さらに『東京新聞』書評欄でも「抒情の批判」を激賞してくれた。
それは何千部かの本がどんどん売れていくという、喜ばしい椿事を生んだ。

大岡信
「一度だけの便り」より

479:名無しさん@お腹いっぱい。
09/06/08 11:37:27
『風景』所収のものは三島さんの「日記」中、四月二十七日(木)付の一文である。
…もしこれらを読んだ時私が三島さんにそれに見合うだけの熱烈な礼状を書いていたとしたら、私のその後の人生は
多少とも変った流れになっていたかもしれない。
第一、本が書店に出まわるのとほぼ同時に銀座の本屋さんでこれを買い、〈匆々に帰宅してこれを読んだ〉と三島さんは書く。
そして〈本の副題の「日本的美意識の構造試論」の展開である「保田輿重郎ノート」といふ長文の評論を、
身も心も惹き込まれて読み、まだ会ったこともない大岡氏に、オマージュの葉書を書いた〉と三島さんはいう。
現在このような形で、自分より若い物書き、それも現代詩などというものを作っている人間に対して、熱烈というしかない
〈オマージュ〉を捧げてくれる文筆家などいるだろうか。

大岡信
「一度だけの便り」より

480:名無しさん@お腹いっぱい。
09/06/08 11:38:57
三島さんは十代のころから保田与重郎を読み、その〈謎語的文体〉に〈いつも拒絶されるやうな不快と同時に快感を味はつた〉と書く。
それは数歳年少だった私自身が感じていたものと、かなり近かった。
…三島さんが私に示された非常な好意も、戦後社会に対してどうしてもしっくりしないものを感じ続けていた精神が、
〈生の充溢感と死との結合は、久しいあひだ私の美学の中心であつた〉(「日記」)と、いわば晴れて堂々と
言い切る機会を得た満足感が、伴っていたのかもしれない。
残念だったことは、三島さんに直接お会いして、この時の礼を申しあげ、三島さんの戯曲についての賞賛的感想をのべる機会を、
永久に失ってしまったことである。

大岡信
「一度だけの便り」より

481:名無しさん@お腹いっぱい。
09/06/08 14:22:30
>>477
だから、良作文学より村上春樹とか石田衣良の方が読まれちゃってる現状が
よくないと思うんだよ
文学コアにしか読まれない、古本屋めぐりしないといけない、プレミアの値段がつく
とかそういうのって、読みもしないで書棚に珍しい本集めて悦に入ってる、俗な読書家でしょう
大衆に浸透して本当にいいものは残るっていうなら、戦後の日本人を嘆いてた三島はどうなるんだよ
大衆は所詮大衆であって、見識のあるものもいれば、ないものもいる、当てにならないものでしょ

というか、スレ違いでした、文学の未来を考える的なスレ探します

482:名無しさん@お腹いっぱい。
09/06/08 23:18:25
>>481
文学板でまた会いませう。

483:名無しさん@お腹いっぱい。
09/06/09 01:51:20
>>481
三島信者のババアは相手にしない方がいい
どうせ「文学読んでる私は知的」、「文学の中でも三島を読む私は知性溢れて感受性豊か」
「三島読んで今の日本の欠点を語れる私は頭がいい」そんな虚栄心だけで読んでんだろ
頭が悪いのに虚栄心の塊、仕事もしないニート、もう三十路も後半でお顔も醜い独身ババア。
三島の作品はそういう見栄っ張りの正味馬鹿にジャストフィットする。

現実世界じゃだぁ~れもババアの戯言に付き合ってくれないから、
毎日毎日ネット三昧の悲しい人生なんだよそのババアは


484:名無しさん@お腹いっぱい。
09/06/09 05:14:23
>>483
他人への煽りは己の自己嫌悪の裏返しにすぎない。

485:名無しさん@お腹いっぱい。
09/06/09 05:21:36
北杜夫(笑)

486:名無しさん@お腹いっぱい。
09/06/09 11:20:29
>>483
それに粘着してるあなたは私よりさらに暇人でしょうね。
名無しで書いてる私を識別できるほどまで、三島ファンでもないのに、スレをずっとガン見しているわけだから。ご苦労さまです。

487:名無しさん@お腹いっぱい。
09/06/09 15:56:19
文学の未来を語るスレはなさそうですね・・・
ヤフーのトピックにあったけど、村上春樹の新刊がやたら売れてるそうな
有名だからノルウェイの森、アフターダークっていう小説読んだけど面白くなかったな
これ文学っていうのか?って思いました正直

488:名無しさん@お腹いっぱい。
09/06/10 10:26:32
>>487
村上春樹は図書館でパラパラめくって拾い読みしたけど、じっくり読むほどでもなさそうだったから読んでないや。
私は日本語自体を堪能できる三島の「春の雪」「金閣寺」が好きです。

489:名無しさん@お腹いっぱい。
09/06/15 20:45:44
>>487
春樹の売れてるはKinKi Kidsのオリコン連続1位やジャニの初登場1位と同じ操作の売れてる詐欺

490:名無しさん@お腹いっぱい。
09/06/15 22:35:17
村上春樹てそんなにおもしろいの?
読んだことないんだけど
三島みたいにおもしろいのかな?

491:赤蜥蜴
09/06/18 00:23:47
>>490
三島由紀夫がラフマニノフかラヴェルだとしたら、
村上春樹はスガシカオって感じぢゃないかすら(笑)
BGM程度のそこそこ耳ざわりのいい、自分で買うほどでもない曲みたいなもんよ。

492:名無しさん@お腹いっぱい。
09/06/20 11:54:48
「日本語の堪能な留学生が入ってくる」というので、室の者全員が待機していると、
「平岡です。よろしくお願いします」といって現れたのが、何と三島氏だった。
昭和四十二年四月十九日のことだった。
彼は、久留米の陸上自衛隊幹部候補生学校で、その春防衛大や一般大学を卒業して入校したばかりの候補生を視察した後、
我々が教育を受けている富士学校普通科上級課程に「戦術の勉強をしたい」との目的で途中から加わってきたのだった。
…誰もが三島氏の研修目的を詮索したり、文学や芸術の話を持ち出したりすることもなく、ひとりの友人として自然に接したせいか、
すぐに打ち解け、室の雰囲気は一段と明るくなり、女性談義に花を咲かせたりした。
私はこの室の室長兼班長だったが、これに加え三島氏の対番学生(学友として寝食を共にしてお世話する係)を命ぜられた。

菊地勝夫
「三島氏の感激と挫折」より

493:名無しさん@お腹いっぱい。
09/06/20 11:55:35
教場では平岡学生と私は一番後方の長机に並んで座り、教官から出される問題を一緒に考えた。
…三島氏は問題の意味するところや私が作る案の内容の細部を真剣に聞き、自分でも
「連隊長の作戦命令の方針」を起案して発表したこともあった。
彼の案は、自衛隊の専門用語や文書の形式にとらわれていない実に力強い雅びな表現で、
固定観念に固まっている我々には、はっとさせられるものがあり、教室の雰囲気を和らげてくれた。
…夜は室で談笑したり、腹筋運動にエキスパンダーを使用したトレーニングをしたり、
ある夜は自演の映画「憂国」をクラスの全員に見せてくれたり、私といっしょに洗濯をしたりした。
当時の洗濯はまだ洗濯板に固形石鹸の時代だったので、固形石鹸をシャツにつけていた三島氏の
子供っぽい仕草が今でも目に見えるようだ。

菊地勝夫
「三島氏の感激と挫折」より

494:名無しさん@お腹いっぱい。
09/06/20 11:56:34
入校後一週間ぐらい過ぎた日に、私と話がしたいというので、彼が原稿を書いたり、東京から来る客と
応対したりするために充てられていた個室で、真剣な話を三時間以上も続けた。
「私は日本男子として国防に参加する名誉ある権利を有する。従って貴方たちは私に教える責任がある」
と彼は切り出し、次々と質問してきた。
その主な質問は、「クーデター」「憲法」「治安出勤」「徴兵制度」「シビリアンコントロール」についてだった。
その真剣さに私は、彼の入隊の本当の目的は、七十年安保に向かって騒然としつつある国内情勢に鑑み、
特に防衛大出身の幹部クラスの考え方や心意気、精密度などを肌で確認することにあったのではなかろうかと思った。

菊地勝夫
「三島氏の感激と挫折」より

495:名無しさん@お腹いっぱい。
09/06/20 11:57:27
彼はその後、同じ富士学校で教育中の幹部レンジャー課程の学生として自衛隊で最も厳しい訓練を体験し、
爽やかな印象を残して去っていった。
以後、三島氏は「檄」文に表現されたような感激を自衛隊で体験していくことになる。
三島氏は民間防衛を荷う祖国防衛隊を組織する夢を抱き、四十三年春、まず厳選された学生三十名を連れて
富士教導連隊で一ヶ月間の訓練を受けることからはじめた。
自衛隊にとっては三島氏のような知識人に自衛隊を理解してもらうことは歓迎すべきことであり、さらに、将来、
国の広い分野でリーダーとして活躍するであろう大学生の体験入隊は、特に当時の状況から願ってもないことであって、
マスコミによって潰されないように配慮して受け入れたものである。

菊地勝夫
「三島氏の感激と挫折」より

496:名無しさん@お腹いっぱい。
09/06/20 12:05:54
しかし、全国組織を目指した祖国防衛隊の構想は、政財界の協力が得られずに挫折し、自分の力で世話のできる
少数精鋭の「縦の会」へと展開していく。
そして彼は彼なりの情勢分析により、自衛隊が治安出勤する事態が来ると信じるようになる。
「縦の会」は自衛隊の尖兵としてデモ隊に突入し、あるいは皇居に乱入する暴徒に体当たりで斬り死にする
という考えに変わっていったものと思われる。
だが、四十四年の一〇・二一反戦デーの騒乱で、自衛隊の治安出勤は起こりえないと見てとった時、ほんとうの挫折を味わい、
三島氏は自衛隊にとって象徴的な場所で、自衛官たちに心の叫びで訴え、武士の最期を遂げたのだった。

菊地勝夫
「三島氏の感激と挫折」より

497:名無しさん@お腹いっぱい。
09/06/24 16:08:51
私が松濤二丁目のこの商家に嫁いだのは昭和二十二年の春のことです。当時は、近隣一帯は空襲で一面焼け野原になったままでした。
…私は二十三年に長女を産み、その子を連れてよくご近所を散歩したものです。
その折、始終三島さんの家(「平岡」という表札でした)の前を通りました。
…洋館のほうの二階の窓によく三島さんをお見かけしました。
夕方になると電気スタンドが点っていて、その光の中で白いシャツを着た三島さん(白がとてもお好きだったようです)が
いつも何か書きものをなさっていました。
人に聞くと「あの人はいまに小説家になる偉い方だ」という話でしたが、当時は私は三島由紀夫という名前は知りませんでした。
東大に行っている時分に小説を書いて一躍有名になった人ということで、とにかくいつ行ってみても、
机に座って仕事をしておられたのが印象深いのです。

原義穂
「渋谷大山町の頃の三島さん」より

498:名無しさん@お腹いっぱい。
09/06/24 16:11:09
私の家はタバコを商っていましたので、お父さまも三島さんもよくタバコを買いに見えました。
…息子さんの三島さんはよく「光」をお求めになりました。
もっともあの頃はまだ銘柄も少なかったうえに極端な品薄で選り好みなどできませんから、「光」がなければ
何でもお買いになりましたが。
どこかにお出かけになる前に立ち寄り、買ってすぐ一本抜き取ってお吸いになるというのが、あの方の習慣でした。
タバコを受け取るその手が細くて華奢だったのをよく覚えています。
それにしても三島さんはおしゃれでした。
戦後間もなくの頃ですから、おしゃれをしている人などあまり見かけることはなかったのですが、
三島さんはいつもピシッと決めていて一分の隙もなく、大山町あたりでさえすごく目立ちました。

原義穂
「渋谷大山町の頃の三島さん」より

499:名無しさん@お腹いっぱい。
09/06/24 16:12:38
夏など、真白の詰襟、真白の半ズボン、真白のハイソックス、真白の靴という、上から下まで白ずくめのいでたち。
たまに帽子をかぶっていることもありました。サファリ帽というのでしょうか、猟の時に使うような帽子で、
外国にでもいらしたことのある方かと思っていました。
服装だけでなく、三島さんはすごく清潔感のある方でした。
手もほんとにきれいでしたし、お顔なんか毎日当たるんでしょうね、頬など青白く見えるくらいでした。
いつもポマードのいい匂いをさせていました。でも、無駄口をたたくようなことはほとんどなく、
どちらかといえば「謹厳実直」という印象を受けました。
…ご一家が住んでおられた借家も今は取り壊されてなくなり、このあたりもずいぶんさま変わりしました。

原義穂
「渋谷大山町の頃の三島さん」より

500:名無しさん@お腹いっぱい。
09/07/01 11:53:13
三島さんの葬儀の日の少し前、実行委員会の打合わせがあった。
…式の段取り、各委員の仕事の分担、注意事項の検討、弔辞を読む方々の紹介があった。
その時、御父上が突然私を指名された。
思いもかけない発言に私は動転し、そのような大任の資格が私には無いと辞退した。
すると川端先生が例の鋭い目で、「資格のある人間はどこにも居ません。おやりなさい」と宣言された。
当日、私は緊張と悲しみに耐えながら弔辞を読んだ。
「私のこれまでの人生で、最高の喜びは、三島さん、あなたにお会い出来たことであり、
最大の悲しみは、あなたを喪って今ここにこうして立っていることです……」と。
私が三島由紀夫という名を識ったのは、昭和十九年、書店で見つけた「花ざかりの森」で、何故かすがすがしい感じがした。
戦後、雑誌『人間』で「煙草」を読んだ時、私はすぐ「花ざかりの森」を思い出した。

藤井浩明
「私の勲章」より

501:名無しさん@お腹いっぱい。
09/07/01 11:54:10
終戦前の昭和二十年一月、私は中島飛行機小泉工場へ勤労動員され、戦闘機を造っていた。
私たちの寮の隣りに東大法学部の学生たちがいた。
その中に三島さんがいて、明日をも知れぬ状況の中で、後に発表された小説「中世」を書き続けていたことを、
ずっと後で知って驚いた。
二十五歳までに戦争で死ぬものと覚悟していた私たちが、生きながらえて後に親交を結ぶとは……
不思議な運命を感ぜずにいられない。
私が初めて三島さんに対面したのは、昭和三十一年、「永すぎた春」映画化の交渉の時である。
…私は既に大映企画部にいて三島作品の映画化を夢見ていた。
緑ヶ丘の平岡邸で眷恋の人に対面した時、私は自信に満ち溢れた、それでいて折目正しいこの青年作家に圧倒された。
以来、私は三島文学の映画化に挑戦していった。
「金閣寺」(「炎上」)、「お嬢さん」「剣」「獣の戯れ」「憂国」「複雑な彼」「音楽」「鹿鳴館」。
そして、三島さん主演の「からっ風野郎」等。

藤井浩明
「私の勲章」より

502:名無しさん@お腹いっぱい。
09/07/01 11:55:39
「炎上」のシナリオ作業が難行している時、三島さんが「創作ノート」を見せて下さった。
絢爛たる文学が構築されてゆくプロセスが明解に読み取れ、目が開ける想いがした。
この映画は三島さんから最大の讃辞を頂き、以来、私は三島さんとの交友を深めていった。
時折、三島邸の書斎で話し込むことがあった。
私は天才的文章の錬金術師の仕事場へ忍び込んだような気持で、よく文学のことを質問した。
三島さんは門外漢の私に丁寧に誠実に答えて下さった。
当時のメモを繰ってみると、例えば「憂国」の製作準備をしていた年など、年間七十回も会っていた。
…「からっ風野郎」の後、日仏合作映画のため市川崑監督と私はパリへ飛んだ。
思いもかけず三島さんが空港へ見送りに来られた。
たまたま別便で発つ永田雅一大映社長がいた。社長は私を別室に呼んだ。
「お前のような若造を天下の三島が見送りに来る訳がない。それはお前が大映の社員だからだ。俺に感謝しろ」と。
ワンマン社長は大の三島ファンで、明らかに私に嫉妬しているのだ。三島さんには万人をひきつける魅力があった。

藤井浩明
「私の勲章」より

503:名無しさん@お腹いっぱい。
09/07/01 11:56:52
死の四日前、三島さんからいくら晩くても電話が欲しい旨の伝言があった。
深夜帰宅した私は電話で話した。
「憂国」がイタリアで上映され大好評だと伝えると、三島さんは大そう喜んで詳しいことを調べて欲しいと言った。
四日後に死を決意していることを知る由もない私は、連休明けに報告しますと約束した。
電話を切ってから、三島さんが「さようなら」と仰言ったことが何故か気に懸った。
いつもは快活に話してさっと切る人が……。
〈藤井氏はいついかなる場合にも、この作品に対する完全な愛着と信頼を少しでも失ふことがなかつた。
それがスタッフ全員をどれだけ力づけたかわからない〉
三島さんが「憂国 映画版」に書いて下さった文章は私の勲章である。
三十年祭の遺影の前に佇みながら、三島さんが以前、暇が出来たらポルトガルの鄙びた漁村を舞台に
映画を作ろうと話して下さったことを思い出した。
いつの日か私はその海辺で映画を撮影したいと思っている……。

藤井浩明
「私の勲章」より

504:名無しさん@お腹いっぱい。
09/07/07 12:49:50
主人比呂志は一九八一年の秋に逝った。
…三島さんと比呂志は、文学座時代の演劇の仕事を通じて、約十二年間のおつき合いがあった。
…後年の「黒蜥蜴」(六三年)は、三島さん脚色、演出は松浦竹夫さんで、比呂志は探偵明智小五郎、女賊は水谷八重子さんだった。
終演後、ロビーで今は亡き顔見知りの方々と談笑されていた三島さんは私を見付け近寄って来られ
「今夜の芥川さんは、六代目(尾上菊五郎)のようでしたよ」と仰言った。
帰宅後主人に伝えると「三島一流の皮肉だよ」と苦笑して云う。
その時は解らなかったが、あとで三島さんの評論集「美の襲撃」を読むと比呂志の言葉が理解できた。
三島さんが、不世出の名女形として高く評価していた六世中村歌右衛門と、六代目菊五郎についての、比較論めいた文章にぶつかる。

芥川瑠璃子
「鮮やかに甦るあの頃」より

505:名無しさん@お腹いっぱい。
09/07/07 12:51:33
ながい劇団関係のおつき合いともなると、さまざまな出来ごとがあり、三島さんも比呂志も文学座を離れることになった。
…三島さんは比呂志宛に、数多くの署名入りのご著書を贈ってくださり、私も時々借りては読んだ。
「美しい星」(新潮社)の読後、何やら興奮した比呂志は三島さんにお電話した。
劇化したい旨の相談だったらしいが、長電話に辟易されたのか断られた様子。
その時は迚も残念そうだったが、常々うちで三島さんのことが話題になったりするとき「三島、あれは天才だよ」は変らなかった。

芥川瑠璃子
「鮮やかに甦るあの頃」より

506:名無しさん@お腹いっぱい。
09/07/07 12:52:50
…後年、三島さんがお亡くなりになる一ヶ月前に、浪曼劇場で「薔薇と海賊」が再演された。
終演後に三島さんが涙を浮べ「海賊だらけになっちゃった」と呟かれたという。
同じ頃、学習院時代の先輩で「赤絵」の同人誌などで親交のあった、早逝された東氏を悼み
「東文彦作品集」(講談社)のために序文を書き、刊行の労をとられたという。
一流の皮肉や、あの有名な高笑いのかげに、「三島由紀夫十代書簡集」の頃の面影が浮ぶ。純粋な心情とあたたかさを想う。
三島さん没後、夫人の要請をうけて、主人は病躯を押して「サド侯爵夫人」を演出。
逝く二年前には「道成寺」も演出したが、「源氏供養」は念願のみで終ってしまった。
―三島さんと主人の過した、さまざまな演劇の世界、時の流れは今も消えず、折々の想念のなかに、
いまも鮮やかに甦りをつづけている。

芥川瑠璃子
「鮮やかに甦るあの頃」より

507:名無しさん@お腹いっぱい。
09/07/13 15:16:20
一九七〇年の秋、私たち三島の友人は、いつになく彼と頻繁に顔を合わせた。
当時、私は、「仮面の告白」と「潮騒」の翻訳者メレディス・ウェザビーと一緒に住んでいた。
そこに、写真家の矢頭保や、時には俳優のヨシ笈田が顔を出した。みんな三島とは旧知の間柄だった。
…日本は何処かへ行ってしまった、姿が見えなくなり、消えてしまった、僕はそう思うね、という三島の言葉を私は覚えている。
まさか、探し回ってみれば、日本はまだまだいろんなところに残っているはずだよ、と私は笑みを浮かべながら応えた。
三島は真顔で首を振った。
三島が冗談を言っているのだという思いを捨てきれなかった私は、日本を救う道はあるのかね、と訊ねてみた。
「ないね。もはや救いようがない」と三島は言った。
その言葉を聞いて、三島が冗談を言っているのではなく、大真面目なのがわかった。

ドナルド・リチー
「三島の思い出―最後の真の侍―」より

508:名無しさん@お腹いっぱい。
09/07/13 15:17:56
私は、三島が、合理主義一辺倒で、精神性を蔑ろにし、ぬるま湯に漬かったような現代日本の姿に嫌悪を催すようになり、
秩序の整っていた往時を懐かしんでいるのを知っていた。
以前、私がからかって、「楯の会」を三島のボーイスカウトだと発言したとき、三島は笑っていたが、
「数少ない彼らボーイスカウトと僕は、秩序を保つ核となるんだ」と言った。
あなたが社会の秩序を決めることができるというの、と私が訊ねると、三島は厳粛な顔で頷いた。
「あなたは誇大妄想狂だ。あなたは天皇を超えた存在だとでも」と私が冗談まじりに言うと、
三島はにこりともせずに、「そうなんだ」と言った。
私が三島に最後に会ったのは、彼の死の二、三週間まえだった。
晩餐に私たち友人を「クレッセント」に招待してくれ、食事中、何回となく西郷隆盛の話題―隆盛の最後の日々や
自決の前に隆盛を処断した親友について―にもどっていった。

ドナルド・リチー
「三島の思い出―最後の真の侍―」より

509:名無しさん@お腹いっぱい。
09/07/13 15:18:47
三島が言うには、西郷は自分では革命に失敗したことを知っていた。
武士道のあるべき姿を確立しているつもりでいたが、親政府は官僚主義に屈していたのである。
次いで、三島は、西郷の行動の美しさ、すべてが失敗に帰し、望みがすべて絶たれたとき、
西郷がとった伝統に則った自決の作法の美しさについて滔々と話し始めた。
「西郷は最後の真の侍だ」と三島が言ったのを記憶している。
だが、こう言いながらも、三島本人は自分こそ最後の侍だということを自覚していた。
今にして、私にもそのことは理解できる。
たぶん、三島はしゃべりながら、西郷に憧れて自分が企てたことを私たち友人が悟る瞬間を思い描いていたのだろう。

ドナルド・リチー
「三島の思い出―最後の真の侍―」より

510:名無しさん@お腹いっぱい。
09/07/13 15:19:32
そう思うのは、小説家としての三島は、作品の登場人物の人生ばかりか、友人の人生まで操っていたような節があるからだ。
…私たちは、三島の人生で演ずる、それぞれの役を振り当てられている。
たとえば、ドナルド・キーンは、三島の人生でもっとも重要な外国の文学上のかけがえのない友人であり、
文学や翻訳の問題点について議論できる相手だった。
私はというと、キーン氏に比べてたいした役割を担ってはいない。
私は外国人の傍観者で、三島が噂話をしたり、考えをぶつけたり、胸の内を打ち明けたりする存在だった。

ドナルド・リチー
「三島の思い出―最後の真の侍―」より

511:名無しさん@お腹いっぱい。
09/07/13 15:22:23
さらに、三島の死―彼が亡くなったという事実と自決したということ―
に対する私たちの反応においても私たちが演ずる役が決まっていたのである。
たぶん私の唯一の台詞は―「いや、違う。最後の侍は三島自身なのだ」
それが三島が私のために考えてくれた台詞かそうでないかはわからないが、三島が真の侍だったことは確かだ。
三島は、あるがままの物とそうあらねばならない物とを比較し、世間の無関心にもかかわらず、
自分でより良いと考える基準に従って生きる芯の強さを持っていた。
三島はまた、その基準に従って、侍本来のやり方で、死ぬ強さをも持ち合わせていた。

ドナルド・リチー
「三島の思い出―最後の真の侍―」より

512:名無しさん@お腹いっぱい。
09/07/14 23:25:04
ぼくがはじめて例のアポロン像のある三島邸に招待されて行ったとき、ニーチェの「悲劇の誕生」の話が出たが、
おそらく若い頃に読んだにちがいないニーチェの言葉をすらすら述べる三島の記憶力のよさに驚嘆させられた。
〈個体化は悪の根源であり、芸術とは個体化の束縛を破りうるという喜ばしい希望のことであり、
融合帰一をあらためて回復することへの予感である〉(「悲劇の誕生」)
というニーチェの言葉こそ、三島が最晩年に目指していたことそのものではなかろうか。

伊藤勝彦
「三島由紀夫の死の哲学」より

513:名無しさん@お腹いっぱい。
09/07/14 23:25:50
ミダス王がシレノスを追いつめ、人間にとってもっとも善いことは何であるかと問いつめたところ、
〈もっとも善いことは御身にとってまったく手が届かぬことだ。それは生まれてこないことだ。
次善のことは―すぐ死ぬことだ〉(同)。〈生よりも死が望ましい〉
というアポロン神学のテーゼ(この謎めいた言葉)をプラトンの描くソクラテスが解き明かそうとした。
「パイドン」には、〈哲学とは死の訓練である〉とあるが、
楯の会のメンバーと一緒に三島が死の訓練にはげんだという点においてプラトン的であるといってもいいだろう。

伊藤勝彦
「三島由紀夫の死の哲学」より

514:名無しさん@お腹いっぱい。
09/07/14 23:27:02
「対話・思想の発生―ヒューマニズムを超えて」(昭42・11番町書房)の中で、三島はぼくに対して、
〈…自分の信じていないもののために死ぬというアイロニーは、とっても魅惑的なアイロニーなんだよ。
…そして、自分が天皇陛下万歳と言って死ねば、そのアイロニーは完結するんだよ。…〉
…と語っている。たんなるイリュージョンのために人間は死ねるものではない。
三島は「人がそのために死ぬことができるような絶対者」つまり、「生命以上の価値」が
この世に存在しなければならないというゾルレン(当為)の論理に忠実であった。
…〈人がそのために死ねるもの、ある絶対的価値の存在を証明するためには、
そのために死んでみせる以外に道はない〉
このような不可解な死の哲学が三島由紀夫にとりつき、彼を自決へと直行させたのである。

伊藤勝彦
「三島由紀夫の死の哲学」より

515:名無しさん@お腹いっぱい。
09/07/16 11:17:59
三島由紀夫が小さな出版社の名前を付けた話はあまり知られていない。
三島には終戦の年の十月に勤労動員の疲れから腸チフスに罹って亡くなった妹がいた。
…たまたま私の家内がその妹の美津子と女学校時代の同窓だった。
母倭文重からその話を聞いた三島は
「あなたの奥さん、うちの妹と同級だったんですって……よかったらいちど遊びにいらっしゃいませんか」と言った。
そのころ家内は月刊の俳句雑誌『俳句とエッセイ』のほか、詩集や演劇関係の本を出す小さな出版社をはじめる準備をすすめていた。
後日揃って大森の新居に伺って、ロココ風の客間で歓談のとき三島は「こんどの出版社の名前は何んていうの」と聞いた。
私がいくつかの候補の中から牧神と牧羊の名前をあげたとき、三島はズバリ「牧羊社がいいね」と言った。
このとき家内の要望を容れて大判の色紙を用意し、墨痕鮮やかに「牧羊社」と揮毫をしてそのわきに三島由紀夫と署名した。
こんな縁で命名の儀式は思いがけなくトントン調子に行われた。

川島勝
「三島由紀夫の豪華本」より

516:名無しさん@お腹いっぱい。
09/07/16 11:18:51
…書斎に通されたとき、私は書棚に並んでいる一冊の本が目にとまった。
堅牢な黒い外函の中にベージュ色のフランス装の本が繭玉のようにひっそりと収まっていた。
ルミイ・グウルモン著、ジョルジュ・エスパニヤ画の「シモーヌ」堀口大学訳の詩画集であった。
三島は「これ学生のころからの愛蔵本ですよ。いつかぼくもこんな本を作りたいね。『岬にての物語』なんか
ぴったりと思うんだがね」といたずらっぽく言って爆笑した。
…この日は夕方までお邪魔をした。庭続きに住む両親の平岡梓夫妻も招んで、瑶子夫人の手料理の歓待を受けた。
…三島は父親と同席のときはたいてい聞き役に回っていたが、この日はとくに妹美津子と家内を重ねて当時のことを
思い出していたのか心なしか寡黙にみえた。

川島勝
「三島由紀夫の豪華本」より

517:名無しさん@お腹いっぱい。
09/07/16 11:20:47
この訪問がきっかけとなり発足間もない牧羊社で三島由紀夫の「岬にての物語」の豪華本を出すことになった。
装幀、造本について私はまえに担当した三島作品の「永すぎた春」で評判のよかった初山滋の抽象的な色感あふれる絵を
頭の中に描いていたが、三島は「ぼくもいろいろ考えたが蕗谷虹児はどうだろうか」と言った。
高畠華宵や加藤まさを風な少女像も魅力だが、蕗谷虹児の様式美の方がこの作品にふさわしいというのが三島の意見だった。
話がまとまって私は…蕗谷虹児のアトリエを訪ねた。
応接間に現れたのは繊細な画風からは想像もできない漁師のように日焼けした骨太の老画家だった。
蕗谷は三島からの名指しの依頼を喜び、アトリエの棚の上から一枚の金地の色紙をとって私に下さった。
花嫁人形の絵の脇によく知られた詩が書かれていた。
この「花嫁人形」の作詞家が蕗谷虹児だったことを、私はその時まで不覚にも知らなかった。

川島勝
「三島由紀夫の豪華本」より

518:名無しさん@お腹いっぱい。
09/07/16 11:22:14
「岬にての物語」の主調低音に三島の若き日の失恋の思い出があった。
そんな心象風景のなかにこの歌詞がどのように映っていたのか……
三島は「花嫁人形」の作詞家が蕗谷虹児と知ってこの画家を選んだのだろうか。
それから三ヶ月がたって、彩色されたあえかな少女像と黒白の五枚の線描きの挿絵が完成した。
蕗谷はテレたように「少々、苦心したんですよ」と自信ありげに言った。
「蕗谷虹児の少女像」のなかで三島は
〈……そしてどこかに漂ふかすかな「この世への拒絶」「人間への拒絶」ほど、「岬にての物語」の女性像として
ふさはしいものはないばかりでなく、おそらく蕗谷氏の遠い少年の日の原体験に基づいてゐるにちがひない……〉
と記しているが、ここには妹の死と失恋と三島自身の青春への訣別が色濃く反映されていた。
(略敬称)

川島勝
「三島由紀夫の豪華本」より

519:名無しさん@お腹いっぱい。
09/07/16 15:51:18
まさか三島のスレが存在するとは!

感激age

520:名無しさん@お腹いっぱい。
09/07/21 15:41:55
横尾(忠則)番記者として働きはじめた頃に、三島由紀夫とも親しくなった。
平凡パンチ誌で三島の悪口を書くという企画があり、他の編集者は担当したくない様子だったので、
自分が名乗りでた。すぐ三島に電話をし、「今回は三島さんの悪口を書く企画ですが…」
と正直に打ち明けて取材を申し込んだのが、三島の好感をよんだらしい。
三島は人気実力ともにトップの作家でありながら、ハリウッドスターのようなオーラを発していた。
三島はこれまで見たこともないような光り輝く“創造物”という感じであった。
パンダとかマダガスカル島の横っ飛びのベローシファカのようにいつ会っても新鮮な驚異を与えてくれた。

椎根和
「オーラな人々」より

521:名無しさん@お腹いっぱい。
09/07/21 15:42:58
…オーラを発する人々ということでは、やはり六〇年代後半の、三島、横尾、寺山、玉三郎、土方たちは
超弩級であった。彼らのそばにいるだけで、異世界に連れていかれそうな気分になった。
そのどこかに連れさられるという不安感が、悦楽味であった。
モノの時代に入ると、そばにいるだけで、異界へつれていってくれそうなスターはいなくなった。
…ぼくは、三島の最後の三年間を剣道の弟子として稽古をつけてもらい、一緒に学生デモ視察へ行き、
ボーリングをし、白亜の三島邸へ何度も行った。
三島は、文学の方では、大ベストセラーを何作も書き、今なら流行語大賞受賞まちがいなしの
国民的喝采をあつめた。
そういう文学的才能以外にも、新しい才能を発見する眼力があった。
横尾忠則、坂東玉三郎、美輪明宏、澁澤龍彦らは、三島の紹介によって市民権を得た、といってよい。

椎根和
「オーラな人々」より

522:名無しさん@お腹いっぱい。
09/07/23 15:43:03
私が三島さんに初めてお会いした、というよりは顔を見たのは学生時代、写真家・林忠彦さんの
助手をしていた昭和三十年頃だった。林さんの鞄を持って目黒のお宅に伺った。
純日本風の二階建で、有名作家の家にしてはちょっとボロ屋だなと思ったことを覚えている。
撮影は二階の書斎だったが、そのうち突然三島さんが立上がり、「屋上の狂人」をやりましょうかと、
出窓の向うの玄関の屋根瓦に足を掛けた。
「危いからいいですよ」と林さんと編集の人があわてて止めた。
「青の時代」や「仮面の告白」から受けるイメージとは全然違ってチャメっ気のある人だなあと思った。
折角なのにと残念でもあった。
帰りがけに三島さんは玄関で「歳をとった人って皆いい顔してますね。うらやましいなあ!」と突然言った。
「どういう意味かな。早く歳をとりたいということなのかな」と林さんは首をかしげていた。

齋藤康一
「ファインダーの中の三島さん」より

523:名無しさん@お腹いっぱい。
09/07/23 15:44:43
私は大学四年の時、林さんの助手から秋山庄太郎さんの助手に替った。
ある時秋山さんはどこかのお嬢さんのお見合写真を頼まれた。
…私たちは麻布今井町のスタジオで待機していたが「お嬢さん」は一向に現われず、連絡もつかない。
秋山さんは次の仕事が入ってしまっているので、「齋藤君、あとを頼むよ」と大慌てで出かけてしまった。
私は女性を撮るのは苦手、困ったなあと思っていると、女性が得意の助手仲間のアッチャンがやって来たので、
彼にうまく押しつけて帰ってしまった。ところがこれが逃したスクープ。
半年だか一年だか経った頃、この「お嬢さん」の家からアッチャンに結婚式を撮ってほしいとの依頼。
お相手は三島さん。お見合写真の「お嬢さん」というのは言うまでもなく杉山瑤子さんだったのだ。

齋藤康一
「ファインダーの中の三島さん」より

524:名無しさん@お腹いっぱい。
09/07/23 15:46:00
ある夜、「T社のSだけど、これからすぐ行くから、ちょっと写真を撮ってもらいたいんだが。
暗いけれどストロボは使えないと思う」という電話。
大急ぎで仕度して待っていると、黒塗りの車が到着した。
後部座席に乗っていたのは三島さん。「男の子が生まれたのでね」とひと言。虎の門病院に向う。
病室のガラス越しに赤ちゃんの顔を見詰める三島さんは、これまでとは違ってやさしいやさしい顔だった。
長時間の撮影中はいろいろとお喋りをする。
…「くだらない話ですけれど、先生のセイで、S社を落とされたことがあるんですよ」と冗談まじりに言うと、
三島さんは「なぜ」と問い詰めるように訊かれた。

齋藤康一
「ファインダーの中の三島さん」より

525:名無しさん@お腹いっぱい。
09/07/23 15:47:28
「実はS誌のグラビアのデスクが、うちに来ないかと誘ってくれたんです。ノコノコ面接に出掛けて行くと、
副社長  君、スポーツは?
私  高校の頃、器械体操やっていました。
副社長  三島さんの「仮面の告白」は読んだことある?
私  はい。
副社長  あの作品の中に、器械体操をやる人間はエゴイストだと書いてあるから、君は会社勤めには
向かないんじゃないかな。……
というわけで、あっけなくチョン」
三島さんは黙って聞いていたが、私が話し終ると例の声で豪傑笑い。
「それはよかったね、フリーで自由にできて」
何日間か撮影のために三島さんに密着したことがある。
最後日に、その頃はもう後楽園ジムになっていた旧講道館で空手の稽古を撮影した。
洋服姿の三島さんはボディビルのため上半身は立派だが、下半身は細身のズボンを好むせいもあってか、
どうしても貧弱に見えバランスが良いとはいえない。しかし、稽古着に身を包むと実に格好がいい。

齋藤康一
「ファインダーの中の三島さん」より

526:名無しさん@お腹いっぱい。
09/07/23 15:48:44
薄暗い道場の中で三島さんは十人近い若者の稽古を見守っていた。
「あれが森田で、こっちにあるのが古賀。その隣りが……。皆いい連中です」。
照明のせいか、気のせいか、彼等の表情はなぜか暗く見えた。
…二時間近い稽古が終り三島さんと一緒に外に出ると晴天だった。
水道橋駅に向う歩道の手前で礼を述べると、「もう終りなの?」と残念な様子。
じゃあと手を振って向う側に渡って行った。
それは三島さんが亡くなる六日前のことだったが、後になって思い返すと、楯の会の会員の名前をわざわざ
教えてくれたり、もう終りなのかと名残り惜しがってくれたり、やはり何かの思いがあったのかもしれない。

齋藤康一
「ファインダーの中の三島さん」より

527:名無しさん@お腹いっぱい。
09/07/29 12:27:54
だいぶ以前のことだが、三島君は私の家に遊びに来た時、デパートの売子たちの無知と無礼粗暴な態度を怒り罵倒し、
「こういうのが現代の若者だというなら、僕はできるだけ長生きして彼らが復讐を受けるのを自分の目で見てやりたい。
それ以外に対抗策はありませんね」と真顔で言って私を笑わせてたことがある。
彼にもこのような意味の長生きを考えていた一時期があった。
いわゆる「夭折の美学」を捨て、図太く生きて戦後の風潮と戦ってやろうと決意したのだ。

林房雄
「悲しみの琴」より

528:名無しさん@お腹いっぱい。
09/07/29 12:30:26
彼が週刊誌に荒っぽい雑文めいたものを書きはじめ、グラビアにも登場しはじめたとき、「いったいどうしたのだ」
とたずねたら、「戦後という世相と戦うためには、こんな戦術も必要でしょう」と笑って答えた。
だが、この「長生き戦術」または「毒をもって毒を制する戦略」はやがて捨てられた。
怒れる戦士は迂回作戦を軽蔑しはじめ、単刀直入を決意した。
『英霊の声』はこの視角から読まねばならぬ作品である。

林房雄
「悲しみの琴」より

529:名無しさん@お腹いっぱい。
09/08/01 15:46:00
アメリカの大神殿というべきWTCに旅客機が突っこみ、赤い炎に包まれながら超高層ビルが崩れ落ちていった日、
あの9・11を忘れる人はどこにもいないだろう。
もう一つ、同じような分岐点がある。
作家・三島由紀夫が割腹自殺したとき、自分がどこで何をしていたか、たちどころに思いだせるはずだ。
…一九七〇年、長距離バスでイランの砂漠をよぎっていたときのことだ。
まわりの乗客たちはモスリムの人々ばかりだった。
…モスリムは一日に五回の礼拝を欠かさない。その時間がやってくると、屋根を踏みならす音が響いてくる。
…運転手がしぶしぶエンジンを止めると、乗客たちは屋根や窓から飛びだし、いっせいに砂漠へ走っていく。
そして四つん這いになり、焼けついた砂に額を押しつけながらアッラーの神に祈る。
車内に残っているのは、運転手と、ぼくと、イギリス人だけだった。礼拝が延々とつづいているとき、
「ユキオ・ミシマのハラキリについてどう思うか?」唐突に、若いイギリス人が語りかけてきた。

宮内勝典
「混成化する世界へ」より

530:名無しさん@お腹いっぱい。
09/08/01 15:47:02
ぼくはしばらく考えてから答えた。
「ああ、映画の話だろう」
「いや、ほんとうにハラキリしたんだよ」と読みかけのNewsweekを差しだしてきた。
…窓の外ではモスリムの人々が真昼の砂漠にひれ伏しながらアッラーの神に祈っている。
そして、ふるさとの日本では「天皇陛下万歳!」と叫びつつ、三島由紀夫が切腹したのだという。茫然となった。
…アフガニスタン、パキスタンを過ぎてインドに入り、カルカッタの日本領事館の新聞でついに確かめることができた。
切断された首が床に据えられていた。
金とセックスと食い物しかない日本で、一つの精神がらんらんと燃える虎のような眼でこちらを見すえていた。

宮内勝典
「混成化する世界へ」より

531:名無しさん@お腹いっぱい。
09/08/01 15:48:21
それから二十数年が過ぎて、かれが切腹した市ヶ谷駐屯地の総監室を訪ねることができた。
…三島由紀夫が日本刀をふりおろしたときの刀傷が、飴色のドアの上に残っていた。
…モスリムの人々が礼拝する砂漠で三島由紀夫の自決を知ったのだが、偶然とはいえ、イスラム原理主義者たちと、
かれの思想には、通低するものがあると思われてならない。
…アッラーの神のような超越性のない日本で、かれは天皇に固執した。文化を防衛しようとした。
むろん肯定できないが、三島由紀夫の文学そのものをぼくは畏敬している。
恥ずかしいがあえて洩らせば、十代の頃、かれの文章をノートに筆写していた。
…紙数が尽きたから結語を述べよう。ぼくもまた西欧近代に追随したくはない。
だがそれを拒むナショナリストにもなりたくない。ぼくは混成化していく世界を生きたいと思う。

宮内勝典
「混成化する世界へ」より

532:名無しさん@お腹いっぱい。
09/08/02 03:28:43
『三島さんは吃驚するほど小さい人でした。』 五木寛之

167㎝の五木が吃驚するほど小さいと感じるなら最低で15㎝
おそらく20㎝くらいは差があると思われる

三島ヨイショの思い出や噂もいいけど
やはり三島の属性で最大の物はその驚くべき背の低さだから
それに関する話も貼って下さい

533:名無しさん@お腹いっぱい。
09/08/02 03:43:46
しかし、茂木の最大の驚きは、三島の「おおっぴらな同性愛」だった。
茂木によれば、三島は決まったように昼間のホテルに、「公園でうろついているような種類」の
17才前後の少年を連れてきていたとのことである。三島はそれをあけひろげにしていたので、
茂木は三島にどうやってそんな少年たちに近づくのかたずねてみた。
「あの世界」には言葉なしの了解がある、というのが三島の説明だった。
三島は自分に興味があるのは求愛の過程と女性心理であり、『最終的な行為』にはまったく興味がないといった。


534:名無しさん@お腹いっぱい。
09/08/02 09:51:04
>>532
三島の身長は163.3センチと解剖所見で公式記録されてます。
学生時代の身体測定の記録にも、すでに17歳当時163.1センチと学習院の毎年の身長測定記録に残されてます。
噂からあんたが捏造した作り話がどうあれ、三島が163センチ台なのは事実。

535:名無しさん@お腹いっぱい。
09/08/02 09:57:11
>>533
そんなのは三島が、禁色を書いてたころに、わざとこれ見よがしに海外同行の新聞記者に見せた振る舞いで、古いんだよ、ネタが。
干からびたエピソードご愁傷様です。

536:名無しさん@お腹いっぱい。
09/08/02 10:11:36
それから引用するときは話者と出典を明記してください。
三島と会話した人物とエピソード話者が違う場合のまた聞きレベルと区別をつける意味でね。

537:名無しさん@お腹いっぱい。
09/08/02 10:14:18
三島の死体は首がありませんよ
殺人事件の解剖にすら現金積む人間がいるのに
頼まれて首のない死体の身長10㎝15㎝水増ししても
良心は痛みますまい

538:名無しさん@お腹いっぱい。
09/08/02 16:50:07
学習院の生きてたときの17歳の163センチは首は付いてますから。
残念でした。

539:名無しさん@お腹いっぱい。
09/08/02 16:51:15

私にとって(文学と人生双方にとって)大事なのは「文」「武」もさることながら、「作」と「商」だった。
「作」と「商」なしには、人間は生きて行けない。
ことに古来日本の「商」の中心としてあって来た大阪生まれ、育ちの私にとって重要なのは「商」だ。
私と三島との次元のちがいは、ここにおいても明瞭だろう。
しかし、今、「商」はわが日本においてあまりにはびこりすぎている。
かつて、「文」「武」において大いに三島と共感したかつての若き過激派の学生たちも
今やそのはびこりの中心にいて、したい放題のことをしているように見える。
「文」においても、今や「商」あっての「文」。
私は三島の「文」「武」に賭けた純情をなつかしく思う。

小田実
「アンケート 三島由紀夫と私」より

540:名無しさん@お腹いっぱい。
09/08/07 09:54:23
…「三島由紀夫」をきわめて高く評価している。
その理由は拙著『戦後的思考』(1999年)に記した通りで、規定の枚数ではちょっと書けない。
できれば読んでいただきたいが、彼こそが、昭和天皇と戦争の死者の間の「約束違反」と、
またそれと自分の関係に目を向けた、そしてモラルということの初原の感覚を失わなかった、
例外的な戦後日本人だったからである。
三島は、戦後の小説家のうち、もっとも「戦後的」な作家だったといってよい。
戦後の天皇制から、一個人として、もっとも外に出ていた。
三島一人がいたお陰で、日本の戦後は道義的に、大いなる茶番の時代となることからかろうじて免れた、
といえるのではないかと思っている。

加藤典洋
「アンケート 三島由紀夫と私」より

541:名無しさん@お腹いっぱい。
09/08/08 20:47:03
三島由紀夫は南朝の血筋を担ぐと周囲の人間にいってたそうですね。

誰か貴種をみつけたんだろうか?

542:名無しさん@お腹いっぱい。
09/08/12 00:53:53
>>541
それは初耳です。

543:名無しさん@お腹いっぱい。
09/08/16 12:18:45
三島さんのこと少し判ってきたことがある。
…イランとか、近東イスラム教の国家っていうのは、祭政一致でしょ。
あの振舞いは西欧からは不可解なはずなんです。
でも、ぼくは戦争中の天皇というものを見ていると非常によく判る。
あれで類推すれば、もの凄くよく判る面があります。
アジア的な部分で、ラマ教とか、イスラムとか、生き神さまを作っといて、それを置いとくわけですね。
…三島さんは、多分、ぼくの考えですけれども、インドへ行って、インドにおけるイスラム教の
あり方みたいなものを見て、仏教も混こうしているわけでしょう。
そこの所で、天皇というものを国際的観点から再評価したと思います。
それがぼくは三島さんの自殺当時判らなかったのです。
…三島さんが国際的な視野を持ってきて、インドとか近東とかそういう所の祭政一致的考え方、
それだと思うんです。それ以外に日本なんて意味ないよと考えたとぼくは思うんです。

吉本隆明
「映画芸術」誌上、小川徹との対談より

544:名無しさん@お腹いっぱい。
09/08/19 12:14:26
少年の頃、父親の書棚に見つけた「美徳のよろめき」にこころが騒いだ憶えがある。
その見知らぬ言葉の配列は、油断すると血の匂いでも嗅いでしまいそうなたしか暗緑色と褐色の曲線でデザインされた
装幀以上に、こころが傷つけられたような印象がした。
そのせいか、多いとはいえない父親の蔵書にひととおり目を通したはずなのに、「美徳のよろめき」だけは、
書棚が設えてあった陽当りの悪い坪庭に面した廊下で床板の軋みを聞きながら読んだ記憶がない。
…いまでも読み返すことの多いこの作品をはじめて読んだのは、暗い意匠のほどこされた箱入りの本でではなく、
それに比べたらむしろ軽やかな印象さえする硬質なタイポグラフィで表紙が飾られた文庫本でだった。
実家を離れて東京の予備校に通いだしてからだったと思う。

売野雅勇
「言葉の音楽」より

545:名無しさん@お腹いっぱい。
09/08/19 12:15:34
当時、通学に一時間以上かかる私鉄電車の中で繰り返しページを開いていた文庫本が二冊あって、ひとつが
「コクトー詩集」で、もう一冊が「不道徳教育講座」だった。
…優雅さや皮肉といった、大人の秘密の匂いの予感に怯んだのが「美徳のよろめき」だとすれば、「不道徳教育講座」は
(そして、おそらく「コクトー詩集」も)、それらを享受するための練習だったのかもしれない―
それにしてもなんと贅沢な練習だろう。
「不道徳教育講座」のなかで見つけたのは、ユーモアに満ちた軽い語り口とは裏腹に、誇りや気高さといったものの
「実践の標本」であったし、俗に通じはじめた魂をふたたび無垢へと導く倫理だった。
そして、生活の細部にまで張り巡らされた美意識そのものだった。
三島由紀夫がどこかで「詩人とは新しい生き方を教えてくれる者である」といった意味のことを書いていたと思うが、
詩集のようにそれを毎日繰り返し読ませたものは、新しい生き方を発見しようとする幼くて切実な欲望だったのだろうか。

売野雅勇
「言葉の音楽」より

546:名無しさん@お腹いっぱい。
09/08/19 12:16:45
そのような迂回を経てふたたびたどりついた「美徳のよろめき」を、あっけないほど簡単に読めてしまったのは
―主人公の放つ匂いに恋してしまったということもあるが―、むしろ、もうひとつの愛読書だった
「コクトー詩集」のせいだったのではないかとも思う。
それを、言葉で書かれた、言葉で精確に組み立てられた音楽のように感じた。
粗野な感受性が直感した言葉は、コクトーの言葉の連なりのなかで不意に鳴りはじめる、あの聴きなれた音楽だった。
表象の宇宙的な連関を魔術にも似た不真面目さで透視させたり、世の中の価値や常識を一撃にして転覆させてしまう、
比喩や警句が、繊細な風景描写や明確な心理描写とともにそれを鳴らしていた。
詩人が秘密裏に共有するコードででもあるかのように。
なんて贅沢な小説だろうと、読み終えたばかりのページをふたたび開き、何度もため息をついたことを憶えている…。

売野雅勇
「言葉の音楽」より

547:名無しさん@お腹いっぱい。
09/08/19 12:17:51
…そのようにして三島作品と接してきたが、主人公たちの耳にも聴こえる音楽といえば、即座に「岬にての物語」で
海岸の断崖に近い草叢を歩きながら少年が聴いた、一音だけ鳴らない音がある壊れたオルガンを思い出す。
最初に読んだときから、少年が聴いたその音を想像するよりも、聴こえない音の方に想像力が働いた。
陰画を光にかざして眼を凝らすおなじ身振りで、その失われた音に意識が集中してしまう性癖のようなものが
こころのうちにあるのだろうか、―あるいは、そのように意識を誘導する意図のもとに書かれたものなのだろうか。
それはともかく、「美徳のよろめき」を知って以来、聴こえない音楽を聴くことが、三島由紀夫の作品を読む
最大の快楽のひとつになっている。
言葉の音楽である。

売野雅勇
「言葉の音楽」より

548:名無しさん@お腹いっぱい。
09/08/19 15:42:28
三島さんて自分が生まれる時の記憶があるって言ってましたね。
産湯の盥の鋼の線を覚えてるとか。
生きていたらもっと面白い文章が拝見できたかも。
残念です。

549:名無しさん@お腹いっぱい。
09/08/23 11:10:36
「おめこ」を「交接」と書くことが許されるのは三島先生だけ
「交接」を「こうぜつ」と読むのは麻生総理だけ

550:名無しさん@お腹いっぱい。
09/08/28 06:29:04
>>548
黒澤も赤ん坊時代の記憶があるって自伝に書いてるな。
女中が自分を背負ったまま小便したらしいw
でも赤ん坊の頃って視力はあっても情報を統括する神経がないから実はほとんど見えてないらしいね。
そういうのって後付けで記憶が作られてるんだろうな。

551:名無しさん@お腹いっぱい。
09/08/28 10:10:03
最後の試験も済み、学生生活が実質的になにもかも終わった夏休みのある晩であった。
…何かの拍子に三島は「アメリカって癪だなあ、君本当に憎らしいね」と心の底から繰り返しいった。
そしてかのレースのカーテンを指さし「もしあそこにアメリカ兵が隠れていたら、竹槍で突き殺してやる」
と銃剣術の動作をして真剣にいった。
当時の彼は学術優秀であり、品行も方正であったが、教練武術の方はまるで駄目であった。
…そういう彼が竹槍で云々といった時、彼には悪いが、突くといっても逆にやられるだろうがとひそかに思った。
けれども、彼のその気迫の烈しさには本当に胸を突かれた。
彼は当時、日本の、ことに雅やかな王朝文化に心酔していた(当時といわず、或は生涯そうであったかもしれぬ)。
そしてその意味で敬虔な尊皇家であった。

今、卒業式の時の彼を思い出す。
戦前の学習院の卒業式には、何年かに一度陛下が御臨幸になった。我々の卒業式の時もそうであった。
全員息づまる様に緊張し静まる中で式は進み、やがて教官が「文科総代 平岡公威」と彼の名を呼びあげた。
彼は我等卒業式一同と共にスッと起立し、落ち着いた足どりで恭々しく陛下の御前に出て行った。
彼が小柄なことなど微塵も感じさせなかった。瞳涼しく進み出て、拝し、退く。
その動きは真に堂堂としていた。心ひきしまり、すがすがしい動作であった。
あの時は彼の人生の一つの頂点であったろう。
そういう彼ゆえ、古来の日本の心を壊そうとするものを心の底から許さなかった。

三谷信
「級友 三島由紀夫」より

552:名無しさん@お腹いっぱい。
09/08/28 10:10:59
彼の感性は非凡なだけでなく時に大変ユニークで、常人の追随しかねる点があったけれども、
人間としての器量は大きかった。思えば、不良少年の親分を夢みるだけのことはあった。
…初等科六年の時のことである。元気一杯で悪戯ばかりしている仲間が、三島に
「おいアオジロ―彼の綽名―お前の睾丸もやっぱりアオジロだろうな」と揶揄った。
三島はサッとズボンの前ボタンをあけて一物を取り出し、
「おい、見ろ見ろ」とその悪戯坊主に迫った。
それは、揶揄った側がたじろく程の迫力であった。
また濃紺の制服のズボンをバックにした一物は、その頃の彼の貧弱な体に比べて意外と大きかった。

三谷信
「級友 三島由紀夫」より

553:名無しさん@お腹いっぱい。
09/08/28 10:12:09
初等科一年の時、休み時間になると、半ズボン姿の我々は、籠から放たれた小鳥の様に夢中で騒ぎ回った。
…そういう餓鬼どもの中で、三島は「フクロウ、貴方は森の女王です」という作文を書いた。
彼は意識が始まった時から、すでに恐ろしい孤独の中に否応なしに閉じこもり、覚めていた。
…彼は幼時、友達に、自分の生まれた日のことを覚えていると語った。
彼はそのことを確信していた。
そしておそらく、外にもその記憶をもつ人が何人かあると素直に考えていたのであろう。
初等科に入って間もない頃、つまり新しく友人になった者同士が互いにまだ珍しかった頃、ある級友が
「平岡さんは自分の産まれた時のことを覚えているんだって!」と告げた。
その友人と私が驚き合っているとは知らずに、彼が横を走り抜けた。
春陽をあびて駆け抜けた小柄な彼の後ろ姿を覚えている。
あの時も、すでに彼はそれなりに成熟していたのであろう。彼と周囲との断絶、これは象徴的であり、悲劇的である。
三島は生涯の始めから、終始悲劇的に完成した孤独の日々を送ったと思う。

三谷信
「級友 三島由紀夫」より

554:名無しさん@お腹いっぱい。
09/08/28 20:24:39
584 :名無しさん名無しさん@腹打て腹。:2009/08/28(金) 08:07:47
mp3音声2.39MB↓ここまでボロカスに腐したら長渕もスルーしないだろ
URLリンク(db6.voiceblog.jp)

7分20秒あたりから↓

歌手でもいるでしょ、アレ、長渕とかいう奴・・・アレね、昔ね、飛行機でいっしょになったことあるんですよ・・・
その頃ね、まだボデービルやってない…背のちっちゃい髪長くした、もうちっちゃな子供ですよ…ひ弱な・・・
…で、もの凄い、あ、コ、コイツ虚弱児かなって思うような子供、だからボデービルを一所懸命にやって
まぁそうとう劣等感があったんだなぁ、だいたいねボデービルする人ってみんな痩せて虚弱な人ですよ・・・
それで一所懸命こう自信をつけるためにつまり穴埋め、存在不安に陥ってるから肉体をつくることによって
自分の気持ちを埋めてくんですね、だからボデービルやってる人を見たらこの人は肉体的劣等感の塊だと思えばいいんです・・・

あのぉ三島由紀夫もそうですよね、三島由紀夫は、もうこんな痩せてですね、
彼、軍、軍隊っていうかねぇ、あのぉ兵隊に行こうとしたの、とてもじゃないけど、
そのぉ合格しない、そいでもう肉体的な劣等感があってあってあってそいでボディビルを始めたわけ、、、ね、、

だからボデービルする人を、やってる人を見たらその人は本当に劣等感の塊なんですよ・・・
だからどうしてボデービルをやっちゃうかなって思っちゃう、何でかというと私は劣等感の塊ですよと、
こう張り紙して歩いてるようなもんでしょ・・・
ほいで自分で強がってね、こう、俺はさぁ、みたいな、長渕のなんか喋るの見たらわかるじゃない・・・
俺はさ、ガンガンやってさぁみたいなねそんなことばっかり言ってるわけ、だから、まぁ、身体で虚勢を張る・・・
その発言で虚勢を張るっていうことで自分の劣等感とか存在不安を塗り込めちゃうんですね・・・

555:名無しさん@お腹いっぱい。
09/08/29 13:38:13
亀はしあわせをよぶという。
私の手許に、甲羅に彫りの入った八ミリほどの小さな金の亀のペンダントトップがある。
これは私が十代の頃、三島さんに頂いたもの。
戦後間もなく、現在のように海外渡航が自由でなかった頃、三島さんはいち早く外国に足を運ばれた。
この亀はその時のおみやげである。
…私のアクセサリー箱の中では一番の古株、出番も多く、いわばお守りのような存在だ。
私が三島さんにお目にかかるのは、いつも我が家が「鉢の木会」のお当番の時だった。
…今では、大岡昇平、中村光夫、吉田健一、福田恆存、三島由紀夫の各氏、それに私の父の神西清はみな故人となった。
三島さんは会の中では一番若く、そのせいか口うるさい面々の恰好の揶揄の対象になることもしばしばで、
その場合三島さんの逃げ道は二つ。
まずはあの豪快な笑いで、からみつく蜘蛛の糸を振り払い、次の手はゴロッと横になって高鼾をきめこむ。

神西敦子
「三島夫妻と二つの亀」より

556:名無しさん@お腹いっぱい。
09/08/29 13:40:00
元々が個性の強い人たちの集まりである。お酒の飲みっぷりも各人各様で、見飽きることがなかった。
酒宴が進むほどに、笑い声も賑やかになるのだが、三島さんのそれはいつも大きく際立っていた。
一人一人の顔にそれぞれの特徴ある笑い声が重なり、懐かしく往時を思い出す。
連歌を楽しみ、時にはお互いの仕事に対する鋭い批判も交錯し、この上なく濃密な時だった。
父の死後、「鉢の木会」が二階堂の家でひらかれたことがある。
三島さんは新婚間もなくで、座は瑤子夫人のお目出度の話題で盛り上がっていた。
襖越しに耳にした「医者に診てもらえと云ったんだ」という、三島さんのひときわ高い誇らしげな声は忘れることができない。
その時お顔は見なかったが、きっとあの大きな目が特別輝いていたことだろう。

神西敦子
「三島夫妻と二つの亀」より

557:名無しさん@お腹いっぱい。
09/08/29 13:41:08
たった一度だけ、三島さんと銀座を歩いたことがあった。
私の大学卒業に際し、「鉢の木会」が腕時計をくださるということで、和光に出向いた。
三島さんはいつもどおりの笑いを振りまき、もとより知られた顔だから、集まる人々の視線が眩しく、とても気恥ずかしかった。
三島さんは、大変几帳面で礼儀正しく、細やかな心遣いをされる方だった。
父の生前は父に、亡くなってからは母に、筆、あるいは万年筆で署名された三島さんの著書が律義に届けられた。
なかには、「神西清様」と記された名刺がはさんであるものも何冊かある。書体は均整がとれていて美しい。
…装幀も凝ったものが多い。
…代表作「金閣寺」の限定版は、年数のたった今も、手にとるとふんだんに使われている金箔が指につくほど豪華で、
本箱のたくさんの三島本の中でも王将格である。
奥付には、本書は二百部を限定刊行す、その内二十部は無番号著者家蔵本、本書はそのNo.、とあってナンバーはついていない。
これをみても三島さんが、いかに父に礼を尽くして下さっていたかがわかる。

神西敦子
「三島夫妻と二つの亀」より

558:名無しさん@お腹いっぱい。
09/08/29 13:42:06
季節毎の心遣いも、瑤子夫人が亡くなるまで途切れることなく続いた。稀有なことである。
瑤子夫人死去の報は、ご病気を知らなかったこともあり、私を大そう驚かせた。
夫人の通夜の晩はむし暑く、三島邸前の道路は別れの時を待つ人で埋めつくされ、月も動きをとめ、大気は重く悲しみに沈んでいた。
天空にあった細い月は夫人の魂をいざなうかのように、やがて視界から消えていった。
日ならずして、夫人を偲ぶ品が届けられた。
小箱の中には、甲羅が緑色、足が紫色の石の、美しい大きい亀のブローチ。
偶然とはいえ、この不思議な巡り合わせに私はしばし言葉もなかった。
金の亀と緑の亀。二つめの亀の出現で、三島夫妻は私の中で一つの像となった。

神西敦子
「三島夫妻と二つの亀」より

559:名無しさん@お腹いっぱい。
09/09/02 16:23:31
平成十年の春、私はある方を通して、三島由紀夫の学習院の中等科・高等科時代に、同校の先輩であり、
文学上の友人であった東文彦(本名・東健)に宛てた、多くの書簡を手にすることになった。
…この書簡の中味については、すでに解説で記したのでここでくりかえさないが、十代半ばからの、
まだどこか幼さを残す、平岡公威のその手紙の筆蹟を目にしたときの強い印象は、今も鮮明によみがえる。
後年の、作家・三島由紀夫の自筆原稿の見事な文字は写真で見たことがあったし、…短編小説「蘭陵王」の原稿の
完全復元版を私は持っていたので、そのほとんど直しのない楷書体の雄渾な手蹟は、天才のあかしのように見えた。
十代の手紙は、処女作「花ざかりの森」についての昭和十六年七月二十四日付の唯一の毛筆の書簡も含めて、
これもほとんど全て形の整った丁寧な文字で記されており、信頼する先輩にむけて、自らの堅忍不抜の
文学への思いを存分に披瀝している。

富岡幸一郎
「十代書簡、その手蹟」より

560:名無しさん@お腹いっぱい。
09/09/02 16:24:18
しかし、便箋をびっしりと埋めたその文字からは、やはり十代ならではの、初々しさと真摯さがうかがえた。
手紙の文面の、まさに天賦の才を、早熟に刻印した瞠目すべき内容とは、ときにちぐはぐとも見える、
その手蹟の生真面目さ、素朴さは、私にある哀しみのようなものを感じさせずにはおかなかった。
そうだ、この哀しみの感触こそ、自分が三島の文学のなかにずっと感じてきたものではないのか。
恋人であった園子と再会した「私」が、腕に牡丹の刺青のある半裸の男の肉体に、目をうばわれた瞬間を、
〈雷が落ちて生木が引裂かれるやうに〉と記した「仮面の告白」のラストシーン。
「真夏の死」の朝子がみせる、かつて愛児を呑み込んだ夏の海辺に戻って来て、放心したように〈何事かを待つてゐる表情〉。
金閣寺に火を放った主人公が、自分の死場所として夢みていた究境頂に入ろうとし、戸を叩くが、開かずに、
ためらわずに身を飜えして階を駈け下りる一瞬。
「三熊野詣」の藤宮先生が、熊野那智大社の境内で女の名を朱筆で記した櫛を、枝垂桜の下に埋めようとして、
爪で土を掻き出すところ。

富岡幸一郎
「十代書簡、その手蹟」より

561:名無しさん@お腹いっぱい。
09/09/02 16:26:15
また、「英霊の声」の次のような一節。
〈だが、昭和の歴史においてただ二度だけ、陛下は神であらせられるべきだつた。
何と云はうか、人間としての義務において、神であらせられるべきだつた。この二度だけは、
陛下は人間であらせられるその深度のきはみにおいて、正に、神であらせられるべきだつた。…〉
そして「豊饒の海」最終巻、「天人五衰」の最後で本多繁邦が、奈良の月修寺の門跡となっている聡子に会うために
車を走らせながら、その夏空の下の景色に目をやったときの感慨……。
〈……目の前に光りと感じられてゐるものは、底知れぬほどの闇の陰画なのであらうか。
さう思つたとき本多は、自分の目が又しても事物の背後へ廻らうとしてゐるのを感じた。…〉
…三島の光彩陸離たる作品群は、戦後の日本文学を四半世紀にわたってかたちづくった。
その多才と意志強固な行動力は、あの割腹死に至るまで揺らぐことはなかった。

富岡幸一郎
「十代書簡、その手蹟」より

562:名無しさん@お腹いっぱい。
09/09/02 16:27:58
しかし、その生と文学の底には、この〈世界〉を、〈自分の手の上にそつと載せて護つておかなければ〉、
そうしなければならない宿命を負った少年の自意識の哀しみが、つねに通奏音としてあったのではないか。
自決の直前のインタビューに答えて、三島は「十代の思想」への回帰ということを、自らの口で語った。
〈ひとたび自分の本質がロマンティークだとわかると、どうしてもハイムケール(帰郷)するわけですね。
(中略)十代にいっちゃうのです。十代にいっちゃうと、いろんなものが、パンドラの箱みたいに、
ワーッと出てくるんです〉(「三島由紀夫 最後の言葉」)
私がその十代書簡の筆蹟のうえに見たものも、三島由紀夫=平岡公威のハイマート、すなわち源泉の感情であった。
その自我は、彼の帰郷の道行きであったともいえよう。

富岡幸一郎
「十代書簡、その手蹟」より

563:名無しさん@お腹いっぱい。
09/09/04 23:28:50
吉田満は、三島由紀夫の「死」を、青春の頂点において「いかに死ぬか」という難問との対決を通してしか、
「いかに生きるか」の課題が許されなかった世代―そのような世代のひとつの死としてとらえ直してみせた。
あの自決がさまざまな意味を「異なる解明の糸口」を示していながら、実のところ戦争に散華した仲間と同じ場所を求めての、
死の選択であり、そのような願いによる決断であったという。
これはたんなる世代論だろうか。
三島由紀夫の生と文学を、あまりに単純な世代の「死」として単純化してしまうことになるのだろうか。私はそうは思わない。

保田輿重郎は三島の自刃に際して「三島氏の事件は、近来の大事件といふ以上に、日本の歴史の上で、
何百年にわたる大事件となると思った」と記したが、もし仮にそうだったとしても、それは三島由紀夫という個的な存在の、
その生と死の劇的な問いかけゆえにではなく、その「死」が疑いもなく一つの世代の夥しい「顔」と重なり合い、
その死のなかに埋没することを懇望したものであったからではないか。
あの自決事件は、決して特異なものでも異常なものでもなく、あえていえば平凡な静謐さのなかにある。
そう思うとき、『豊饒の海』第一巻の冒頭で描かれた「セピア色のインキで印刷」された日露戦没の写真―
その風景を想起せずにはいられない。

富岡幸一郎
「仮面の神学」より

564:名無しさん@お腹いっぱい。
09/09/04 23:31:17
…池田浩平や吉田満といった同世代の死者のなかにとらえるとき、戦後作家としての彼の仮面―『仮面の告白』についての
作家自身の注釈でいえば「肉づきの仮面」―の背後に隠されていた素顔が浮かびあがる。
戦後作家としての無数の華麗な「仮面」。
神学者の大木英夫は、三島由紀夫は、その文学は仮面をかぶることによって、「神学問題で灼けただれている現実にも耐える」と正確に指摘した。
《そして死を避ける。しかし、彼の文学は、かえってその仮面が割れて、素顔が出て、神学問題に直面するところがある。
そして死が避けられなくなる。
さまざまな奇行と試行の紆余曲折を経て、ついに市ヶ谷への突貫となるのである》(「三島由紀夫における神の死の神学」)

富岡幸一郎
「仮面の神学」より

565:名無しさん@お腹いっぱい。
09/09/04 23:32:47
『仮面の告白』が、『花ざかりの森』と彼の十代の青春の住処がであった「死の領域」への遺書であり、
まさに「死を避ける」ための人工の文学的仮面であったとすれば、最晩年に書かれたエッセイ『太陽と鉄』は、
「その仮面が割れて」いくところを詳細に辿ってみせた自己告白の書であった。
これまで何度も論じてきたように、そこに三島における「神学問題」が、すなわちあの「神の死」の問題が
露われているのはいうまでもない。
おそらく、日本における神学問題を最もラディカルに現実の光のなかに引きずり出したのが三島由紀夫である。
多くの宗教学者が決して見ようとしなかったものを、語りえなかった根底的な「神」の問題を、三島は自らの生と文学と、
そしてあの苛烈な死によって語ってみせた。
いや、「神学問題に直面」したとき、「死が避けられなく」なった。

富岡幸一郎
「仮面の神学」より

566:名無しさん@お腹いっぱい。
09/09/17 10:44:40
<お知らせ> 憂国忌は11月25日 午后六時開場、六時半開演。
会場は永田町の「星陵会館」ホールです。
シンポジウムのパネリストが内定しました
司会  富岡幸一郎(文藝評論家)
    西部 邁 (評論家)
    西村幸祐 (ジャーナリスト)
    杉原志啓 (歴史研究家)
     の各氏を予定します。

567:名無しさん@お腹いっぱい。
09/09/18 15:20:10
三島さんに初めて逢ったのは、一九五一年の夏だったと思う。
小さい頃から行っていた群馬県の高原の村に、吉田健一さんの山小屋もあった。
三島さんはその頃、吉田さんや大岡昇平、福田恆存、中村光夫さん達の「鉢の木会」というグループに入る事になっていて、
夏の一日、吉田さんの家で例会があり、父(岸田国士)の所に十人位で遊びにみえたのだ。
姉とわたしはお茶を運んだりしながら、ユーモア溢れる会話に聴き耳を立てていた。
何といってもイジメの対象は、他の人より一廻りは若い三島さんで、三島さんも又、からかわれるのが嬉しいように、
あの独特の笑い声を挙げていた。
皆、その夜は村のクラブに泊まって翌日帰京なさる中で、三島さんだけは二、三日帰るのを延ばすことになった。
「仕事は夜するから」といって、昼間はわたしたち、夏の遊び仲間やその友人と、目一杯遊んだ。
年長の作家たちとのお付き合いでは満たされないものを、少し年下の大学生や芸術家の卵たちと、体を使って
取り返そうとでもするように。乗馬、ボート、ダンス。

岸田今日子
「わたしの中の三島さん」より

568:名無しさん@お腹いっぱい。
09/09/18 15:21:41
…この村が気に入ったという三島さんは、翌年の夏も一週間ぐらい滞在した。帰りはわたしも一緒だった。
旧軽井沢のパーティーに寄ってそのお家で泊まることになっていた。
ちょっと危ないメンバーだったみたいで、一晩中、わたしの枕元で仕事をしていた三島さんを忘れない。
…その年の秋、わたしは文学座の研究生になった。文芸部に所属していた三島さんは、一年おき位に作品を提供していて、
わたしは文学座にいた十年の間に、外部出演も含めて三島作品七本、潤色と演出それぞれ一本ずつに出演した。
三島さんは稽古場にもよく顔を見せた。
舞台の出来も気になっただろうけれど、その後で若い俳優たちと遊ぶのが楽しみだったように見えたのは、
わたしの勝手な思い込みだろうか。皆、作品については十分敬意を払っていた。
でも運動神経やファッションセンスに関しては、言いたい放題だった。
自虐的な所のある三島さんが、それを喜ぶことを知っていて、一種のおもねりだったと言えるかもしれない。

岸田今日子
「わたしの中の三島さん」より

569:名無しさん@お腹いっぱい。
09/09/18 15:22:47
ボディビルやボクシングを始めた時も、遊びのふりをしていたような気がする。何回戦だかの試合に出た時は皆で見に行った。
かなり痛々しかったけれど、いつものように後でさんざん悪口を言ってあげた。三島さんは嬉しそうに、大きな声で笑った。
舞台の初日には女優の楽屋の化粧前にカトレアの花が届けられ、客席と楽屋を往ったり来たりするのも嬉しそうだった。
本公演ではたった一本の演出作品「サロメ」の時は、見違えるように真剣だった。
様式的な舞台を創ろうとして、俳優たちに一せいに左右へと首を廻すように指示した時、わざと反対の方を向く人が一人いて、
あんなに怒った三島さんを見たことがない。いつも血の気のない顔が、死人のように蒼白だった。

岸田今日子
「わたしの中の三島さん」より

570:名無しさん@お腹いっぱい。
09/09/18 15:24:22
映画「からっ風野郎」出演の時、ちょうど仕事で同じ撮影所にいたので、三島さんのセットを覗きに行った。
ビールを抜いてたくさんのコップに注ぐ所で、三島さんは何度もNGを出していた。増村保造監督の「もう一度」の声に、
三島さんはますます緊張してリズムが崩れ、ビールが足りなくなって小道具さんが酒屋に走った。
完成すると三島さんは自宅で試写会を開いた。
さんざん悪口を言われて、やっといつもの自分に戻ったようだった。セットを覗いた話はしなかった。
芥川比呂志さんはじめ、これから一緒にやって行こうと思う若手の俳優たちが、レパートリーに不満を持って、
文学座脱退のことを福田恆存さんに相談しているのは知っていた。
福田さんに誘われたわたしは「三島さんが一緒なら」と言った。
「もちろん僕から誘います。三島君に言うと直ぐ洩れるから話さないように」と念を押された。
お家に招ばれながら黙っているのは辛かったけれど、お二人は「鉢の木会」以来の親友だからと、自分に言い聞かせた。

岸田今日子
「わたしの中の三島さん」より

571:名無しさん@お腹いっぱい。
09/09/18 15:25:38
京都に撮影で行っていた或る朝、新聞に脱退の記事が出た。三島さんの名前はない。
帰京してすぐ三島さんのお家へ行くと、「新聞に出る前の晩に聞かされて、動けると思う?」と言われた。
福田さんにだまされたと思ったけれど、どうしようもなかった。
「『双頭の鷲』は生きられないんだよ」。福田さんと三島さんのことだ。慰めだったろうか。
「そのうち、又、一緒に何かする機会もあるから」と言われて、帝国劇場で『癩王のテラス』を上演する時、
六年ぶりに呼ばれた。王の病気が感染して、焼身自殺する妃の役だった。
御自身も文学座を脱退し、楯の会を作った三島さんは遠い人のようで、あまり話もしなかった。
初日には、やっぱりカトレアが置いてあった。
「精神が滅んでも肉体は滅びない」という逆説に満ちたこの芝居が、三島さんの最後の戯曲になった。

岸田今日子
「わたしの中の三島さん」より

572:名無しさん@お腹いっぱい。
09/09/28 14:28:17
戦後二回だけ復活した高等文官試験の二回目が昭和二十二年に実施された。
大蔵省の面接試験はその年の十二月に麻布二の橋の大蔵省公邸(…旧渋沢邸)で行われた。
面接の順番待ちの時、ふと隣を見ると“例の男”がいるではないか。
“例の男”とは私が当時住んでいた渋谷松濤に近い旧大向小学校前の通りでよく行き会ったことがある男だ。
黒髪豊かで白皙、頬の髯の剃り跡蒼々とし、面長で額広く眉が濃くて目がぎょろりと大きな、一度会ったら
忘れられないあの男である。
如何にも育ちがよさそうで眉目秀麗な貴公子風の顔でありながら、妙に人なつっこい魅力も漂わせていた。
彼は平岡と名乗り、「実はおやじが農林省の役人だったので、どうしてもお前も役人になれ、できれば俺が
予算でいじめられた大蔵省に入れと強く迫るので、本当は他にしたい仕事もあるのだが、父親孝行のために
大蔵省に志望してここに来ているのだ」という説明をした。

和田謙三
「平岡公威さんとの忘れ難き出会い」より

573:名無しさん@お腹いっぱい。
09/09/28 14:29:57
私たちは昭和二十二年十二月付で採用ときまったが、平岡さんはすでに大学を卒業していたので即事務官として
採用され(二十二年後期組)、私の方は未だ在学中だったので、卒業予定の翌年三月まで「無給嘱託」という
辞令を渡された(二十三年前期組)。
これは二十二年後期組の人から聞いた話だが、このクラスの初顔合せで各自が自己紹介した時、彼は
「こんなのっぺりした野郎でござんすが何分よろしく」と挨拶したそうである。
平岡さんは最初、銀行局国民貯蓄課に配属された(給与は一八〇〇円ベースの時で、初任給は基本給一三五〇円)。
当時の国民貯蓄課はM課長の下にH課長補佐がおり、平岡さんはH課長補佐の部下として貯蓄奨励などに関する
大臣の挨拶原稿の下書きを命ぜられていた。

和田謙三
「平岡公威さんとの忘れ難き出会い」より

574:名無しさん@お腹いっぱい。
09/09/28 14:32:02
大臣の挨拶文は当然ひとつの定型があり、H補佐は前例の挨拶文を平岡さんに示して、それにならって
草案をまとめるように指導したのだろう。
ところが平岡さんの作る草案は普通の官庁文書に使われたことかない美辞や修辞句に溢れた破天荒なものであった。
M課長やH補佐としては何とか折角の文才を生かしながらこれを定型的な官庁文書の鋳型にはめこむための
添削、推敲に苦労したらしい。
他方、平岡さんの方からすれば、今まで人から手を入れられたことがない自分の文章が完膚なきまでに直され、
無機質、無味乾燥な官庁文書に変形してゆくことで著しくプライドを傷つけられる面もあったようだ。
ともかく文豪三島由紀夫の文章に手を入れたのは後にも先にもこのM課長とH補佐だけということは、
旧大蔵省時代から長く語り伝えられた伝説である。

和田謙三
「平岡公威さんとの忘れ難き出会い」より

575:名無しさん@お腹いっぱい。
09/09/28 14:33:12
当時の大蔵省は、霞ヶ関の庁舎がGHQに接収されていたため国電四ッ谷駅のすぐ西側の四谷第三小学校の
校舎に仮住まい中であった。
渋谷に住んでいた平岡さんは私と同様、渋谷駅から代々木まで山手線に乗り、代々木で総武線に乗り換えて
四ッ谷駅下車というルートで通勤していた。
比較的早い時刻での役所からの帰途、よく一緒に空襲で未だ焼け跡だらけの渋谷の町を歩いた。
そんな時、「昨夜は殆んど徹夜だったので今日は目がかすみ、頭が朦朧として、課長から作成を指示された資料の
数字を何ヵ所も間違えて大分油をしぼられたよ」とこぼしていた。
まだ文壇に本格的にデビューする前であり、彼の作家活動を余り認識していなかった私は、
「この人、徹夜までして一体何をしているのかな」と一時は思ったりした。

和田謙三
「平岡公威さんとの忘れ難き出会い」より

576:名無しさん@お腹いっぱい。
09/09/28 14:34:45
私が入省して半年くらい経った昭和二十三年九月、偶々前述のM課長が私の上司となっていた時、
平岡さんが役所を辞めるのでM課長のところに挨拶にきた。
その折私の席にも立ち寄って次のような話をしてくれた。
「和田君、君には入省面接の際、おやじ孝行でこの役所を志望したといったが、実はもっと重要な理由があったのだ。
それは生活のために書く小説はとかくいじけたものになりがちなので、森鴎外(軍医)のように生活の支えは
作家とは別の職業に求めたいという考えがあったわけだ。
そしてできることなら役人生活を続けながら作家活動を続けてゆきたいと願っていたが、…役所というところは
仕事と文筆稼業を両立させがたい職場であることがよくわかった。
偶々最近僕にもやっと大きな出版社から声がかかるようになったので自分の“ヰタ・セクスアリス”のようなものを
書いてみようと思っている。
僅か八~九ヶ月の御奉公で去ることは折角採用してもらった大蔵省には申し訳ないが、これを機会に役所を
辞めることにしたよ」と云って彼特有の大口をあけて哄笑して去っていった。

和田謙三
「平岡公威さんとの忘れ難き出会い」より

577:名無しさん@お腹いっぱい。
09/10/05 23:37:17
「最初はご自宅に伺ったんです。『論争ジャーナル』発刊の主旨、論調は当時反主流でした。
先生(三島由紀夫)は、その当時から一つの輝く北斗の星でしたよ。
思想的な評論など出していましたからね。
例えば、『対話・日本人論』とか、思想的な評論関係の著作を出していましたから。
文学者としてではなく、思想家として見ていましたよ。
小説家三島由紀夫と我々は見てなかったですよ。おそらく誰も。
…あの頃は、慶応で最初の学園紛争がありまして、それから早稲田、日大、明治、東大って
どんどん広がっていったわけです。
当時の思想風景というのは、左翼でなければ人にあらずという……。
想像できないでしょうが、そうだったんです。
で、やっぱり、そのうちとんでもないことが起きる、と。
今見れば漫画みたいになっちゃうかもしれないけど、革命というのを、我々は真剣に
危機的に感じていました。
そういう時代風潮を押さえて見ないと、あの頃の行動というのはわからないんですよ。
今の、この社会状況から見てたんじゃ」

持丸博(元楯の会初代学生長)

鈴木亜繪美
「火群のゆくへ 元楯の会会員たちの心の軌跡」

578:名無しさん@お腹いっぱい。
09/10/11 13:13:03
同性愛サロンについて

同性愛者をはじめとするセクシュアルマイノリティが集い、独自の観点・視点から様々な事象を語る板です。
(同性愛とは直接関係のない芸能・音楽・テレビ・映画等の娯楽、日常生活、一般時事など)
セクシュアルマイノリティ(Lesbian, Gay, Bisexual and Transgender)限定の板です。

★次の行為は禁止です

* ブラウザクラッシャー・ウィルスコード等の貼付け・リンク。
* 同性愛者、その他の同性愛等に関する、差別、蔑視、挑発、誹謗中傷発言。
特定の人物や固定ハンドル、お店への叩き。
* 板違いである話題。801、ボーイズラブ、同人。実況。同性愛者になりきりで書込み。
同性愛者独自の視点で語れない内容。
* 単発質問スレッド。板を跨いだ重複スレッド。


以上の板の看板を見ればわかるように同性愛サロンは、非同性愛者、とくに腐女子と言われる人々の
書き込みをローカルルールで固く禁じている板です。
非同性愛者、腐女子の書き込み・スレ立てはそのまま板荒らし行為になります。
また、同一のスレタイ・内容のスレを多数の板へ板をまたいで乱立するのはガイドラインでもローカル
ルールでも二重に禁止されている違反行為です。
2ちゃんねるには書き込みするユーザーを制限している板もあります。
おすすめ、検索から書き込みするときには注意しましょう。

579:名無しさん@お腹いっぱい。
09/10/12 20:53:19
>>473
>三島の文学に何の関心もないゴシップマニアはあなたでしょう。
>自分のレスを顧みたら?
>そんな細かい北杜夫とのごちゃごちゃした話なんか、三島の文学とは関係ありませんからね。
>私は三島の文学作品はほぼ読んでますよ。文庫本は全部持ってるし、全集もいくつか持ってます。

>それから、はっきり言って私の周りでは北杜夫を知ってる人はほとんどいませんよ。
>芥川賞なんかとって昔話題になってたとしても、今現在読まれでなければ知らない人が多いのは当然でしょう。

「あとはやっぱり、過去と現在との因果関係の牢獄にはまりこんでしまわないことです。 未来の方から現在を考えて、何をすべきかを考えるべきではないでしょうか。
何歳であっても、残りの人生をよくすることを一番に考えるべきです。」
                    平野啓一郎

580:名無しさん@お腹いっぱい。
09/10/17 16:24:18
ある晩、事件の年の春頃でしたか、伜(三島由紀夫)は茶の間で、
「日本は変なことになりますよ。ある日突然米国は日本の頭越しに中国に接触しますよ、
日本はその谷間の底から上を見上げてわずかに話し合いを盗み聞きできるにとどまるでしょう。
わが友台湾はもはやたのむにたらずと、どこかに行ってしまうでしょう」と申しました。
これを後で伜のある先輩に話しますと自分もあなたよりずーっと早い四十三年の春に、
銀座で食事中にまったく同じ予言を聞かされたものです、と驚いておりました。

平岡梓
「伜・三島由紀夫」より

581:名無しさん@お腹いっぱい。
09/10/17 19:49:52
三島由紀夫の一番好きなタイプの男性は、どんな人だったのですか?

582:名無しさん@お腹いっぱい。
09/10/17 23:31:39
>>581
それは三島由紀夫本人にしかわからないことでしょうね。
不良の武骨な落第生に惹かれたこともあったようだし、
色白の目のパッチリした下級生の美少年に惹かれ恋していたとも、エッセイには書いてあるよ。
でもホモ傾向は一般的に言われて思われてるほど、あまりないと感じます。

583:名無しさん@お腹いっぱい。
09/10/17 23:35:25
>>581
こんな小論もあるので参考まで。

「男のおしやれ」三島由紀夫
男のおしやれがはやつて、男性化粧品がよく売れ、床屋でマニキュアさせる男がふえた、といふことだが、
男が柔弱になるのは泰平の世の常であつて、大正時代にもポンペアン・クリームなどといふものを頬に塗つて、
薄化粧する男が多かつたし、江戸時代の春信の浮世絵なんかを見れば、男と女がまるで見分けがつかぬやうに描かれてゐる。
…私はこんな風潮一切がまちがつてゐると考へる人間である。男は粗衣によつてはじめて男性美を発揮できる。
ボロを着せてみて、はじめて男の値打がわかる、といふのが、男のおしやれの基本だと考へてゐる。
といふのは、男の魅力はあくまで剛健素朴にあるのであつて、それを引立たせるおしやれは、
ボロであつても、華美であつても、あくまで同じ値打同じ効果をもたらさなければならぬ。
…多少我田引水だが、日本の男のもつとも美しい服装は、剣道着だと私は考へてゐる。
これこそ、素朴であつて、しかも華美を兼ねてゐる。
学生服をイカさない、といふのも、一部デザイナーの柔弱な偏見であつて、学生服がピタリと似合ふ学生でなければ、
学生の値打はない。あれも素朴にして華美なる服装である。
背広なんか犬に喰はれてしまへ。世の中にこんなにみにくい、あほらしい服はない。
商人服をありがたがつて着てゐる情ない世界的風潮よ。
タキシードも犬に喰はれてしまへ。

584:名無しさん@お腹いっぱい。
09/10/20 09:22:58
雑誌『デリカ』の1983年12月号を読み返えした。
自分が書いた音楽記事である。
見出しに『確かなホンモノの手応えと時代の趣味』と付け、
CBSソニーからオリジナルアルバム『あの頃、
マリー・ローランサン』をリリースした加藤和彦にインタビュー。
記事から抜粋する。
僕が『音楽を好んで聴く年代層が若いせいかもしれないけど、
この頃は技術的なことは別として、
内容のレベルが低すぎるように感じますけど』と問いかけた。
加藤は『それは当たっていると思う。
僕が音楽を始めた18、9の頃は、僕達向けの音楽も雑誌もなかった。
洋服にしてもそうですよね?
大人の着方を真似してみたりとか、音楽でも無理をして聴いたり、
わからないのに三島由紀夫の本を読んだり、
背のびしたことが今になって役に立っている…』
そして『若い人に言えることは、
与えられたものをそのまま素直に受けとめる姿勢は危険だということを
少しは知ってほしい…』

585:名無しさん@お腹いっぱい。
09/10/29 10:39:16
【源泉の】平岡公威・三島由紀夫の詩【感情】
スレリンク(poetics板)

586:名無しさん@お腹いっぱい。
09/11/02 11:16:58
「ミシマの作品くらいは読まなくてはね」

ビョーク
来日した際の発言

587:名無しさん@お腹いっぱい。
09/11/05 14:57:51

[神立つ国から 伊藤好雄さんのホームページ]
URLリンク(www2.odn.ne.jp)

588:名無しさん@お腹いっぱい。
09/11/06 10:24:37
イタリア最大の出版社の一つであるモンドダリは、二年後(投稿時2002年)に、三島由紀夫選集を出すことを
企画している。ローマ大学のマリアテレーサ・オルシ教授を編者とするこの選集の目的は、三島文学の美しさを
あらためてイタリアに紹介することにある。
その目標を達成するため、序文、解題と共に訳文の精確さが大切なポイントとして顧慮され、日本語からではなく
英語などから重訳されている作品も、今度は新しく日本語から直接翻訳される。
その中には…(中略)「鏡子の家」等も含まれる。この最後の作品は私の担当作品なので、少し考察したい。
周知のように、三島がひたすら情熱と才能を傾けて書いた「鏡子の家」は非常に評価が低かった。
予想を裏切る反応に作者は落胆したが、昭和42年にはこの小説を「自分の好きな作品」に数えている。
それにも関わらず、この作品はあまり研究の対象になっていない。評判が良くなかった理由は様々に書かれて
いるが、ここでは反論するよりも、私にとって興味深く、秀逸と思われるところをすこし分析してみたい。

マティルデ・マストランジェロ
「『鏡子の家』イタリア語初訳」より

589:名無しさん@お腹いっぱい。
09/11/06 10:25:21
「鏡子の家」は構成が見事である。その枠組みの中に、美しく表現力豊かな文章や隠喩がちりばめられている。
冒頭に〈みんな欠伸をしてゐた〉という、短いが意味深長な一文がある。
「みんな」に含められる登場人物たちは、生との関わりに困難をきたし、倦怠感に蝕まれている。
群小人物の光子と民子は倦怠を逃れるため銀座の美容院に行って満足する。
他の主要人物たちは自分の内面世界と外界との関係に支障をきたしている。
俳優志願の収は自分の身体を明確に知覚できず、身体と存在を同一視するに至る。画家の夏雄は突然視界が
消滅する出来事に遭遇して以来、絵が描けなくなるが、内面世界をより狭くすることで再び描けるようになる。
拳闘選手の峻吉は記憶空間のない生活を構築する。鏡子は自分の内面世界についてあまり考えないようにし、
友人たちの経験、思想に満ちている「家」に住んでいる。

マティルデ・マストランジェロ
「『鏡子の家』イタリア語初訳」より

590:名無しさん@お腹いっぱい。
09/11/06 10:27:16
しかし冒頭の「みんな」には、会社員である清一郎が意図的に挿入されていない。清一郎は一番俗世に混じって
生活している人物で、日本だけではなくニューヨークに住んでいる時も問題なく仕事環境に溶け込める。
しかしその能力は世界崩壊を固く信じることから来るものと言うべきである。
「鏡子の家」の完璧な構造では、鏡子が友人たちを追い出して自分の家を“閉める”という経緯が作品の
結びとなる。つまり小説の終わりと“家の終わり”が一致するのである。
そして冒頭と同じく、光子と民子はつまらなそうに「仕方なし」に銀座の美容院に行く。
三島の描写は暗示的で、しかも読者の目前に見えるような印象的なイメージが豊かである。
最も顕著で、優雅なイメージ操作は「鏡」をめぐるものであろう。
タイトルとなる女主人公の名前を始め、すべての人物にそれぞれ自分の「鏡」がある。

マティルデ・マストランジェロ
「『鏡子の家』イタリア語初訳」より

591:名無しさん@お腹いっぱい。
09/11/06 10:28:22
収は本物の鏡に映るとほっとするが、鏡より肉体を強く感じさせる女性と出会った時、その人間的な鏡と
死ぬことを決意する。
夏雄は自分の絵におのれを投影する。それゆえ、絵が描けなくなった時、一旦自分を見失う。
峻吉は力を自分の鏡とする。しかし喧嘩で手を怪我して拳闘ができなくなると、自分の鏡である力を右翼の
青年団に入って使う。
鏡子は自分を皆の鏡であると思いながら、他人を自身の鏡として使う。最後に娘と互いに映しあう鏡遊びで、
どちらが娘かどちらが母か、どちらが女らしい魅力と欲情をよりそなえているかわからなくなる。
ちょうど金閣寺が素晴らしく金色に輝く姿を鏡湖池に映すように、「鏡子の家」の人物たちは自らを
映す物なしでは生きられないのである。ひょっとしたら、作者も小説に自分を映したのかとも思われる。
登場人物に三島自身の投影が認められるかどうかは別として、隠喩やイメージが豊富で、とても面白く読める
作品である。

マティルデ・マストランジェロ
「『鏡子の家』イタリア語初訳」より

592:名無しさん@お腹いっぱい。
09/11/06 10:29:57
個性的であざやかな表現が多いので、翻訳する側はそれをうつし変える困難を何とか切り抜けなければ
ならないが、作者の力量や熱意がページごとに感じられる。
古典文学を翻訳するとき、イタリアの読者に伝えにくい雰囲気、理解しがたい習慣等がある。
しかし「鏡子の家」の場合、そのような難しさはなくて、例えばサルトル、モラヴィアを読んだ者には
感じやすい倦怠感もあり、場面がニューヨークになっているページもあるし、それほど遠い文化が感じられる
ところはないと言える。
ただ、完璧に文体の美しさを伝えることはやはり容易ではない。しかし、それは読者より翻訳者の問題であろう。
原文の美しさに感服しつつ、同レベルの文体の文章を作ろうと格闘中の私には、何故今まで「鏡子の家」が
訳されなかったのか不思議に思われる一方、その任を受けたことを幸いに思い、この作業がたいへん有意義な
経験となることが確信されるのである。

マティルデ・マストランジェロ
「『鏡子の家』イタリア語初訳」より

593:名無しさん@お腹いっぱい。
09/11/08 11:34:59
わたしの考えでは、一九六六年に書かれた「英霊の声」は、日本の戦後にとってたぶんもっとも重要な作品の
一つである。この作品には、作者の分身と目される語り手「私」とやはり作者の分身である霊媒の盲目の美少年が
登場し、帰神(かむがかり)の会で後者の語る死者の声を前者が聞くが、霊媒者となり、二・二六事件と特攻隊の
死者の声を口寄せする青年は、降霊が終わると落命する。見るとその顔はすっかり面変わりしている。
後に明らかにされる三島自身の証言では、青年は死んで昭和天皇の顔になるのである。
この作品で三島が言うのは、自分のために死んでくれと臣下を戦場に送っておきながら、その後、自分は
神ではないというのは、(逆説的ながら)「人間として」倫理にもとることで、昭和天皇は、断じて糾弾される
べきだということ、しかし、その糾弾の主体は、もはやどこにもいないということである。
戦争の死者を裏切ったまま、戦前とは宗旨替えした世界に身を置き、そこで生活を営んでいる点、彼も同罪である。
糾弾者自身の死とひきかえにしかその糾弾はなされない。
そういう直感が、この作品の終わりをこのようなものにしている。

加藤典洋
「その世界普遍性」より

594:名無しさん@お腹いっぱい。
09/11/08 11:36:32
ところで、わたしは、日本の戦後に三島のような人間がいてくれたことを日本の戦後のために喜ぶ。
わたしがこう言ったとしてどれだけの人が同意してくれるかわからないが、彼がいるといないとでは、
日本の戦後の意味は、大違いである。
その考え方には、誰もが、もしどのような先入観からも自由なら、こう考えるだろうというような普遍的な
みちすじが示されている。
三島は、日本の戦後のローカルな論理、いわばその「内面」に染まらず、普遍的な人間の考え方を示すことで、
はじめて日本の戦後の言語空間がいかに背理にみちたものであるかを、告知している。
これは、旧ドイツにおけるアンセルム・キーファーなどとほぼ比較可能なあり方であり、もし三島がいなければ、
日本の戦後は、一場の茶番劇になり終わるところだった。

加藤典洋
「その世界普遍性」より

595:名無しさん@お腹いっぱい。
09/11/08 11:37:17
たしかに彼の作品は、化粧タイルのような人工的な文体を駆使して書かれている。…でも、そのことが、
三島の小説を世界の文脈で見た場合の、「世界の戦後」性にたえる制作物にしている。
(中略)
三島は戦前、レイモン・ラディゲの「ドルジェル伯の舞踏会」に夢中になる。でもそのラディゲの作がすでに
第一次世界大戦の戦後文学だった。そのもっとも深い理解者は、あのジャン・コクトーである。
その心理小説に心理がなく心理の剥製があること、しかしそのことこそがその第一次世界大戦の戦後文学で
めざされていること、そしてそのようなものとして、それが三島の戦前と戦後の指標たり続けること。
つまり、人工性はここでは、世界性、現代性の明らかな指標なのである。
「世界の戦後」とは第一次世界大戦の戦後のことであり、「日本の戦後」とは第二次世界大戦の戦後のことである。
この二つは同じではない。簡単に言うなら、前者の戦後で、人と世界は壊れ、後者の戦後で、人と世界は
自分を修復している。

加藤典洋
「その世界普遍性」より

596:名無しさん@お腹いっぱい。
09/11/08 11:39:00
サルトルの「嘔吐」は第一次世界大戦の戦後文学であって、そこで彼は人が壊れたこと、そこからの回復には
アヴァンチュール(芸術と犯罪)による特権的瞬間しかないことを述べている。
しかしその彼が、第二次世界大戦の戦後になると、アンガジュマンによる人間の回復を唱える。
三島は、戦前のサルトルに似ている。わたし達は、ここでは、そこに二つの戦後の重層(ズレ)があることに
自覚的であるべき、「遅れてきた青年」なのである。
〈ラディゲから影響を受けてゐた時代はほとんど終戦後まで続いてゐた。さうして戦争がすんで、日本にも
ラディゲの味はつたやうな無秩序が来たといふ思ひは、私をますますラディゲの熱狂的な崇拝者にさせた。
事実、今になつて考へると、日本の今次大戦後の無秩序状態は、ヨーロッパにおける第二次大戦後の無秩序状態
よりも第一次大戦後の無秩序状態に似てゐたと思はれる。(「わが魅せられたるもの」一九五六年)〉
こういう洞察がなぜ当時、三島にだけ可能だったか。
そういうことをわたしとしてはいま、改めて、考えてみたいと思っている。

加藤典洋
「その世界普遍性」より

597:名無しさん@お腹いっぱい。
09/11/10 06:47:22
Ametsub
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serph
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a whim 、、circus
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JimBeard
Hand to Hand
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