三島由紀夫の噂at UWASA
三島由紀夫の噂 - 暇つぶし2ch329:名無しさん@お腹いっぱい。
08/08/04 16:41:05
唯識論入門として、(暁の寺は)これほど簡にして要を得たものを知らない。
難解なことで有名な仏教哲学の最高峰が、われわれの足下に横たわっているのだ。
仏教を研究しようとする学徒のあいだでは、よく、倶舎三年、唯識八年、といわれる。
『倶舎論』を理解するのには三年かかり、唯識論を理解するのには八年はたっぷりかかるというのだ。
それが僅か三島由紀夫の作品では十二頁にまとめられている。エッセンスはここにつきている。くりかえし精読する価値は十分にある。

小室直樹
「三島由紀夫と天皇」より

330:名無しさん@お腹いっぱい。
08/08/05 10:18:53
左翼のいう、日本における朝鮮人問題、少数民族問題は欺瞞である。
なぜなら、われわれはいま、朝鮮の政治状況の変化によって、多くの韓国人をかかえているが、彼らが問題にするのはこの韓国人ではなく、
日本人が必ずしも歓迎しないにもかかわらず、日本に北朝鮮大学校をつくり、都知事の認可を得て、反日教育をほどこすような北朝鮮人の問題を、無理矢理少数民族の問題として規定するのである。

三島由紀夫
「反革命宣言」より

331:名無しさん@お腹いっぱい。
08/08/05 10:20:29
彼ら(左翼)はすでに、人間性の疎外と、民族的疎外の問題を、フィクションの上に置かざるを得なくなっている。
そして彼らは、日本で一つでも疎外集団を見つけると、それに襲いかかって、それを革命に利用しようとするほか考えない。
たとえば原爆患者の例を見るとよくわかる。原爆患者は確かに不幸な、気の毒な人たちであるが、この気の毒な、不幸な人たちに襲いかかり、
たちまち原爆反対の政治運動を展開して、彼らの疎外された人間としての悲しみにも、その真の問題にも、一顧も顧慮することなく、たちまち自分たちの権力闘争の場面へ連れていってしまう。

三島由紀夫
「反革命宣言」より


332:名無しさん@お腹いっぱい。
08/08/05 10:21:23
日本の社会問題はかつてこのようではなかった。
戦前、社会問題に挺身した人たちは、全部がとはいわないが、純粋なヒューマニズムの動機にかられ、
疎外者に対する同情と、正義感とによって、左にあれ、右にあれ、一種の社会改革という救済の方法を考えたのであった。
しかし、戦後の革命はそのような道義性と、ヒューマニズムを、戦後一般の風潮に染まりつつ、完全な欺瞞と、偽善にすりかえてしまった。
われわれは、戦後の社会全体もそれについて責任があることを否めない。
革命勢力からその道義性と、ヒューマニズムの高さを失わせたものも、また、この戦後の世界の無道徳性の産物なのである。

三島由紀夫
「反革命宣言」より


333:名無しさん@お腹いっぱい。
08/08/05 10:52:05
近代西欧文明がもたらした物質万能への傾倒が、いまや極点に達していることは言うまでもない。
人間としての存在が、どうあらねばならないのか。それを問う時はきている。
三島由紀夫は、究極のところ、そのことを人々に問いかけたのだ。
作品によって問いつづけ、さらには自決によって問うた。いや、問うたというよりも、死の世界に生きることを選び、この世への「見返し」を選んだ。
五年後、十年後、いや百年後のことかもしれない。だか、そのとき三島由紀夫は、復活などというアイマイなものでなく、さらに確実な形……存在として、この世に生きるであろう。

小室直樹
「三島由紀夫と『天皇』」より

334:名無しさん@お腹いっぱい。
08/08/19 14:02:28
彼(川端康成)は、確かにこの受賞(ノーベル文学賞)に値した。
それでも今もって私は、どういうわけでスウェーデン・アカデミーが三島でなく川端に賞を与えたのか不思議でしようがない。
1970年5月、私はコペンハーゲンの友人の家に夕食に招待された。同席した客の一人は、私が1957年の国際ペンクラブ大会の時に東京で会った人物だった。
日本で数週間を過ごしたお陰で、どうやら彼は日本文学の権威として名声を得たようだった。

ドナルド・キーン
「私と20世紀のクロニクル」より


335:名無しさん@お腹いっぱい。
08/08/19 14:03:17
ノーベル賞委員会は、選考の際に彼の意見を求めた。その時のことを思い出して、居合わせた客たちに彼はこう言ったのだった。「私が、川端に賞を取らせたのだ」と。
この人物は政治的に極めて保守的な見解の持主で、三島は比較的若いため過激派に違いないと判断した。
そこで彼は三島の受賞に強く反対し、川端を強く推した結果、委員会を承服させたというのだ。
本当に、そんなことがあったのだろうか。三島が左翼の過激派と思われたせいで賞を逸したなんて、あまりにも馬鹿げている。
私は、そのことを三島に話さずにはいられなかった。三島は、笑わなかった。

ドナルド・キーン
「私と20世紀のクロニクル」より


336:名無しさん@お腹いっぱい。
08/08/19 14:06:47
東京に着いたのは1月24日の三島の葬式の直前で、私は弔辞を述べることを引き受けた。ところが、私の親しい友人三人は葬式に出席してはいけないと言う。
私が弔辞を述べることで、三島の右翼思想を擁護しているように取られてはまずいと言うのだった。
最終的に彼らの説得に応じたが、それ以来私は、自分がもっと勇気を示さなかったことを何度も後悔した。
私は三島夫人を訪問した。三島の写真がある祭壇に、私は彼に捧げた自分の翻訳『仮名手本忠臣蔵』を置いた。
その本には、下田で会った時に三島自身がこの浄瑠璃から選んだ次の一節が題辞として揚げられていた。

国治まつてよき武士の忠も武勇も隠るるに
たとへば星の昼見へず、夜は乱れて顕はるる

ドナルド・キーン
「私と20世紀のクロニクル」より


337:名無しさん@お腹いっぱい。
08/08/26 00:13:27
麻酔で眠ったことある?
麻酔で眠っている間は無意識で夢は見ないと言われています
死という感覚は麻酔で気を失った状態が永遠に続くようなものだと誰かが言ってました

338:名無しさん@お腹いっぱい。
08/09/02 12:26:57
へー

339:名無しさん@お腹いっぱい。
08/09/03 15:13:24
人間の運、不運の岐れ道は中国では残酷なまでに鮮明である。不運な人間に誰も同情しない。この国では悲劇も哀話も人の心を動かさない。
だから中国の文学にはギリシャ悲劇のような悲劇が存在しない。
中国人は赤穂浪士と三島由紀夫の悲劇をどうしても理解できないそうである。

西尾幹二

340:名無しさん@お腹いっぱい。
08/09/03 16:55:41
>>26
公務員試験の席次が150番とか180番だったから大蔵にいてもまず
本省局長にはなれなかった。最初の配属先は銀行局だかの超マイナー課。
期待の新人エースなら官房秘書課、文書課或いは主計局に配属される。
だいたい大蔵で次官・局長目指すなら一桁合格じゃないと無理な訳で
退官して正解

341:名無しさん@お腹いっぱい。
08/09/04 02:02:42
ここのスレ主さん的に
映画「MISHIMA」はどうなの

342:名無しさん@お腹いっぱい。
08/09/04 10:31:14
>>26>>340
大蔵省をやめてから作家になったわけじゃなく、その前から作家だったからね。


343:名無しさん@お腹いっぱい。
08/09/04 10:49:18
>>341
まだ全部ちゃんと全般的に見てません。

三島の薔薇刑をとった写真家の話だと、実際の三島とは違う描かれ方をしているらしいし、
海外の映画監督から見た三島像、ミシマという実際の三島由紀夫とは少し違うある一人の芸術家を描いた映画として見ればそれなりにいいんじゃないでしょうか。

344:名無しさん@お腹いっぱい。
08/09/04 22:02:08
なんだ、見てないのか
では映画「憂国」はどうですか

345:名無しさん@お腹いっぱい。
08/09/05 12:28:05
>>344
小説より、妻の心理描写が巧く描かれていたと思うし、切腹の迫真で怖かったよ。
あなたのミシマと憂国の感想はどうですか?

346:名無しさん@お腹いっぱい。
08/09/12 21:26:59
三島論
URLリンク(www.geocities.jp)

347:名無しさん@お腹いっぱい。
08/09/22 17:04:53
三島ほしゅ

348:名無しさん@お腹いっぱい。
08/09/23 00:53:03
NHKのアーカイブで川端と三島と志賀の対談見たとき
川端は年下の三島に精神的甘えてるように映った。三島もそれを
受け入れてるような間柄に見えた。親が子供に甘えるような感じ。
三島が割腹する前に川端も自ら命を絶ってしまった。

349:名無しさん@お腹いっぱい。
08/09/23 00:56:40
>>337
麻酔で眠ったことは2度あるけど
2回ともものすごく怖くて奇妙な夢を見てうなされたよ。
麻酔が醒めかかったときだったのかな。

350:名無しさん@お腹いっぱい。
08/09/23 15:05:04
>348
川端が自殺したのは三島切腹の約一年半後だよ。

351:名無しさん@お腹いっぱい。
08/10/04 13:37:48
三島由紀夫の妹は敗戦後まぎわにチフスで17歳で死んで、そのとき聖心女子学院生だったけど、
『朱雀家の滅亡』のなかで制服で出てくる璃津子について三島は「僕のノスタルジーだよ」と言ったらしい。
璃津子(ritsuko)は
妹の名前、美津子(mitsuko)の音(iuo)を表していたのかな。
もしかして、美智子皇后とお見合いしたのも、妹と同じ聖心女子学院だったからかもしれないと、ふと思った。
お見合いの前か後かは判らないけど、美智子さんの聖心女子大の卒業式も三島は見に行ってたらしい。たぶん聖心だったからだと思う。

352:名無しさん@お腹いっぱい。
08/10/11 17:55:25
 天才数学者、岡潔氏の三島由紀夫論を再発見
  岡潔研究会が三十八年前の『蘆牙』掲載箇所を発見
************

 岡潔研究会(横山堅二代表)が復刻した『蘆牙』第三号は原号が昭和四十六年四月に奈良で発行されたもの。

 同誌は当時、奈良で発行され、同市に住まわれていた天才数学者・岡潔を囲むグループが出していた。岡潔は岩下志麻、笠智衆が主演の映画『秋刀魚』のモデルでもある。

 このなかで岡潔が三島由紀夫に触れた箇所がある。
 岡潔先生曰く。
 「三島由紀夫は偉い人だと思います。日本の現状が非常に心配だとみたのも当たっているし、
天皇制が大事だと思ったのも正しいし、それに割腹自殺ということは勇気がなければ出来ないことだし、それをやってみせているし、本当に偉い人だと思います。」

 編集部が「百年逆戻りした思想だと言う人もありますが、それは全然当たっていないと言われるのですか?

 岡潔の答え。
「間違ってるんですね。西洋かぶれして。戦後、とくに間違っている。個人主義、民主主義、それも間違った個人主義、民主主義なんかを、
不滅の真理かのように思いこんでしまっている。ジャーナリストなんかにそんな人が多いですね。若い人には、割合、感銘を与えているようです。かなり影響はあったと思います」。


353:名無しさん@お腹いっぱい。
08/10/29 15:41:13
三島由紀夫氏、没後三十八年『憂国忌』の御案内
============

 記
とき   11月25日 午後六時(五時半開場)
ところ  九段会館 三階「真珠の間」(地下鉄「九段下」)
記念講演 評論家 西尾幹二氏
演題   「三島由紀夫の死と私 ―限界を超えた『芸術と実行』の分離の理念」

ほかに発起人の追悼挨拶があります。

代表発起人 井尻千男、入江隆則、桶谷秀昭、嘉悦康人、小室直樹、佐伯彰一、篠沢秀夫、竹本忠雄、中村彰彦、細江英公、松本徹、村松英子

(当日、一般入場者の会場分担金はおひとり千円)
 皆様のふるってのご参加をお待ちします。

354:名無しさん@お腹いっぱい。
08/11/06 12:00:59
URLリンク(www.nicovideo.jp)


緒形拳が演じる三島由紀夫の最期

355:名無しさん@お腹いっぱい。
08/11/22 12:57:06
今年もお墓に行きます
白菊と葉巻を持って
待っていてくださいね(^-^)

356:名無しさん@お腹いっぱい。
08/11/26 14:51:31
褌が似合う三島由紀夫
URLリンク(www.vipper.org)
URLリンク(www2.vipper.org)


357:名無しさん@お腹いっぱい。
08/12/01 00:30:34
「五十になったら、定家を書こうと思います」三島由紀夫は、友人の坊城俊民氏にそう言った。
「…定家はみずから神になったのですよ。それを書こうと思います。定家はみずから神になったのです」
神になった定家。それは三島由紀夫にほかならない。

小室直樹
「三島由紀夫と天皇」より

358:名無しさん@お腹いっぱい。
08/12/01 00:31:59
「定家はみずから神になったのです」
これは何を暗示しているのだろうか。
仮面劇の能だが、仮面をつけるのがシテ(主役)である。シテは、神もしくは亡霊である。
亡霊をシテにして、いわば恋を回想させる夢幻能は、能の理想だといわれる。
死から、生をみるのである。時間や空間を超えたものだ。
三島由紀夫が、定家を書こうと考えたとき、やはり能の「定家」が頭にあったに違いない。

小室直樹
「三島由紀夫と天皇」より

359:名無しさん@お腹いっぱい。
08/12/01 00:32:40
現代では、生の世界と死の世界は、隔絶したものにとらえられている。だが、かつて(中世)は、死者は生の世界にも立ち入っていた。
定家は神になって、生の世界に立ち入ろうとした。そう考えた三島由紀夫ではないだろうか。
生の世界にあっては成就できない事柄を、死の世界に往くことによって可能たらしめようとしたのが、三島由紀夫だった。
…あえて死の世界へ往き、守ろうとした存在があったのだ。

小室直樹
「三島由紀夫と天皇」より

360:名無しさん@お腹いっぱい。
08/12/06 16:51:04
三島由紀夫に影響を受けたと指摘されているアーティストの一人にウィリアム・フォーサイス(バレエダンサー、振付家)がいますが、
1991年に初演された彼のバレエ『失われた委曲』(ザ・ロスト・オブ・スモール・ディテール)は、
三島の『奔馬』の次の一節をテーマに美をラディカルに呈示し、構築的であり幾何学的な構造を持っている三島的な神話世界を表しています。
「時の流れは、崇高なものを、なしくずしに、滑稽なものに変えてゆく。何が蝕まれるのだろう。
もしそれが外側から蝕まれてゆくのだとすれば、もともと崇高は外側をおおい、滑稽が内側の核をなしていたのだろうか。
あるいは、崇高がすべてであって、ただ外側に滑稽の塵が降り積ったにすぎぬのだろうか」

フォーサイスは記者の「なぜ三島のテキストを引用したのか」という質問に、
「三島を読んだとき、三島の方が僕のバレエを引用しているのかと思った」と答えたそうです。

361:名無しさん@お腹いっぱい。
08/12/22 11:13:55
(「共産党」を「民主党」に置き換えると現代にも通用する)

『わたしにとっての共産党』三島由紀夫

日本共産党と自民党は同じだ。どちらも議会主義、憲法擁護を表看板にし、それでは何もできないことを知つてゐる。
理想を放棄してゐるんだ。また大衆社会といふ白痴美の女をねらふ二人の男にたとへられる。
二人ともメガネをかけて一見、紳士風。男性化粧品をふんだんに使つて「結婚しても決して暴力はふるひませんよ」といつてゐる。
ただ、この勝負、共産党のほうが、女の財産をねらひ、骨までしやぶらうとしてゐるだけ有利かもしれない。


362:名無しさん@お腹いっぱい。
08/12/27 15:17:05
皇居参賀・日の丸小旗配布奉仕の御案内を申し上げます。

☆集合時間 1月2日 午前8時20分
☆集合場所 本部テント前(馬場先濠堤・行幸通り側)
☆晴雨に拘わらず実施致します。
☆皇居と東京駅を結ぶ行幸通りに於いて、緑色の帽子を被りながら奉仕致します。
☆参加希望者は不二歌道會(03-3401-0963)または三澤浩一(090-2622-4242)まで御一報願います。

☆開閉門ならびに御立ちの時刻は下記の通りです。
[開門―09時30分]
1回目―10時10分
2回目―11時00分
3回目―11時50分
4回目―13時00分
5回目―13時50分(以降記帳は15時30分まで)
[閉門―15時10分]

363:名無しさん@お腹いっぱい。
09/01/04 13:37:48
西尾幹二の三島由紀夫論
『三島由紀夫の死と私』(PHP刊、上製。1500円)発売中

364:名無しさん@お腹いっぱい。
09/01/08 10:44:49
川端康成氏を囲んで (三島由紀夫 伊藤整)1/3 -3/3
URLリンク(www.nicovideo.jp)
URLリンク(www.nicovideo.jp)
URLリンク(www.nicovideo.jp)

365:名無しさん@お腹いっぱい。
09/01/17 23:31:49
▲川端康成と三島由紀夫の関係の堤堯氏の指摘

堤堯氏は雑誌『WiLL』2007年1月号の「ある編集者のオデッセイ」で、三島、川端両氏の間にノーベル賞を巡ってすさまじい確執があったことを書き記しています。

「まあ、運がいいんでしょう。拾いものみたいなものですからね」との鼎談での川端の発言は受賞を謙遜していますが、
ノーベル賞獲得への猛烈な執念を押し隠したもので、その執念を知る三島はどんな気持ちで聞いていたことでしょう。
鼎談の二日前でノーベル賞を受賞する前日の昭和43年10月16日、川端は三島に次の手紙を出しています。

「拝啓 春の海(春の雪ではなく!)奔馬 過日無上の感動にてまことに至福に存じました・・・」
鼎談の時までに、三島がこの手紙に目通ししていたのであれば、川端の雑駁な誤記を胸に深く畳んで収録に臨んでいたのです。

366:名無しさん@お腹いっぱい。
09/01/17 23:32:44
受賞発表の17日候補者である三島は毎日新聞に待機して発表を待っていました。川端受賞の報を受けるとその場で祝辞の稿を書き上げます。

「川端康成氏の受賞は、日本の誇りであり、日本文学の名誉である。これにまさる慶びはない。
川端氏は日本文学のもっともあえかな、もっとも幽玄な伝統を受け継ぎつつ、一方つねにこの危うい近代化をいそいできた国の精神の危機の尖端を歩いて来られた。
その白刃渡りのような緊迫した精神史は、いつもなよやかな繊細な文体に包まれ、氏の近代の絶望は、かならず古典的な美の静謐に融かし込まれていた。
ノーベル文学賞が、氏の完璧な作品の制作と、その内面との、文学者としてのもっとも真摯な戦いに与えられたことの意義はまことに大きい。
それはひとり川端氏のみでなく、千数百年にわたる日本の文学伝統と、同時に、日本の近代文学者の苦闘に対して与えられたものと感じられるからである」

実に格調高く、日本人作家としてともに受賞をよろこんでいる気持ちが伝わってきます。
しかしタペストリーの表糸のような、明朗優美な表現とはトーンの異なる、陰影を帯びた鋭利な裏糸が縫い込まれた件りが次に現れます。

367:名無しさん@お腹いっぱい。
09/01/17 23:33:36
「人間に対する真の愛情とは?
ここに氏の文学の、表面にあらわれぬ深い主題がある。
すなわち、古典的な優雅な文体の下に、氏の文学には、近代文学のもっとも先鋭な主題『そもそも人間が人間を愛することができるか?』という設問が隠れているからである」

『そもそも川端は人間を愛することができるのか?』
『常に師川端を立て、文学上はもちろん私生活の部分でも細やかな配慮の塊のような弟子三島を愛することができるのか?』と読み替えると、とても鋭利な川端への問いかけとなります。

368:名無しさん@お腹いっぱい。
09/01/17 23:34:26
更にこう続きます。

「スエーデンに紹介された氏の作品は『雪国』、『千羽鶴』、『古都』の三篇の由であるが、この中に氏の近年の傑作『眠れる美女』が含まれていないのは残念である」

『眠れる美女』(昭和36年)を、これほど熱意を入れて評価する文壇人、評論家は何人いたのでしょう。三島だけではなかったでしょうか。
翌日のテレビ収録でも「『眠れる美女』なんてのは傑作だと思うんですがね」と牽強付会的に、この作品名を挙げています。このしつこさは異常です。
毎日新聞の三島の祝辞を読んで川端は内心ビックリし、収録時も面を食らったことでしょう。
三島が川端への祝辞記事や鼎談での発言で、『眠れる美女』の作品名を執拗に挙げたのはなぜなのか、奇妙な観をぬぐえません。

369:名無しさん@お腹いっぱい。
09/01/17 23:35:16
▲『眠れる美女』に関して

元文芸春秋編集長の堤氏は『眠れる美女』の三島代作説を肯定しています。
もし「代作」なら作品はどのように完成されたのでしょう?
三島がモチーフを提供しただけなのか、下書き的な草稿を作成したのか、川端のモチーフを元に、あるいは川端が書きかけたものを三島が完成させたのか・・・。そういう共作的なものだったのか?
川端作品を三島が「代作」した証拠はありません。その必要も事情も見当たりません。しかしそれにも拘わらず、文壇・出版界に根強く代作説は流布しています。

370:名無しさん@お腹いっぱい。
09/01/17 23:47:06
▲「川端康成氏を囲んで」の会話

川端 ― (私の作品を)面白がる人は非常に面白がる。思いも懸けない小説みたいなものを読んだ気がするんじゃないんでしょうか。

三島 ― 私がこれから楽しみにしておりますのはね、川端さんの御作が、これを機会に向こうでどんどん(翻訳されて)出ると思うんですね。
たとえば『眠れる美女』なんてのは傑作だと思うんですがね。
川端さんの作品で非常に構成的でしょう。

371:名無しさん@お腹いっぱい。
09/01/17 23:47:53
▲最後の川端康成と三島由紀夫の手紙

昭和47年4月梓(三島の父親)は川端から、彼(川端)が自死する直前に長い手紙を受け取っています。
しかし
「その内容についてはもちろん絶対にノーコメントですが、川端さんのまったく意外な点が実によく表れていて興味をひかれました。
とまれ家宝にして永く大切に保存してゆきたいと思っています」
と封印され公になっていません。
これが「眠れる美女」の三島代作説や川端の三島への思いを明らかにしてくれる(カギとなる)可能性があります。

昭和45年7月8付で三島が富士の演習場から川端に投函した鉛筆書きの手紙がありました。
これは親族(川端の)により焼却されたそうです。

372:名無しさん@お腹いっぱい。
09/01/23 23:14:18
憲法第九条はGHQのニューリーダー(ユダヤ人共産主義者)によって
作られた売国憲法である。憲法第九条を擁護する者は国家を解体し、日
本を共産主義へ移行させようという悪魔の夢を抱いている売国奴である。

373:名無しさん@お腹いっぱい。
09/01/25 00:07:40
『これでいいのか日本の防衛』三島由紀夫

Q:自衛隊が存在しなければ、日本は侵略されると思ひますか?

三島由紀夫:もちろん侵略される。日本はこれまで、ただの一日でも、力に守られなかつた平和を持つたことがない。
侵略に対処するには力しかない。

374:名無しさん@お腹いっぱい。
09/02/04 22:56:03
…例へば、右翼といふやうな党派性は、あの人(三島由紀夫)の精神には全く関係がないのに、事件がさういふ言葉を誘ふ。
事件が事故並みに物的に見られるから、これに冠せる言葉も物的に扱はれるわけでせう。事件を抽象的事件として感受し直知する事が易しくない事から来てゐる。
いろいろと事件の講釈をするが、実は皆知らず知らずのうちに事件を事故並みに物的に扱つてゐるといふ事があると思ふ。
事件が、わが国の歴史とか伝統とかいふ問題に深く関係してゐる事は言ふまでもないが、それにしたつて、この事件の象徴性とは、この文学者の自分だけが責任を背負ひ込んだ個性的な歴史経験の創り出したものだ。
さうでなければ、どうして確かに他人であり、孤独でもある私を動かす力が、それに備つてゐるだらうか。

小林秀雄
「感想」より

375:名無しさん@お腹いっぱい。
09/02/04 22:56:25
思想の力は、現在あるものを、それが実生活であれ、理論であれ、ともかく現在在るものを超克し、これに離別しようとするところにある。

エンペドクレスは、永年の思索の結果、肉体は滅びても精神は滅びないといふ結論に到達し、噴火口に身を投じた。
狂人の愚行と笑へるほどしつかりした生き物は残念ながら僕等人類の仲間にはゐないのである。

実生活を離れて思想はない。併し、実生活に要求しない様な思想は、動物の頭に宿つてゐるだけである。

小林秀雄
「文学者の思想と実生活」より

376:名無しさん@お腹いっぱい。
09/02/09 15:55:48
「まさか、死ぬとは!すごいジョックだ。自分もずっと演説を聞いていたが、若い隊員の野次でほとんど聞き取れなかった。―死を賭けた言葉なら静かに聞いてやればよかった。」

陸上幕僚T三佐
三島自決直後の談話

377:名無しさん@お腹いっぱい。
09/02/09 16:03:27
「三島の自決を知ったあとの隊員たちの反応はガラリと変った。だれもが、ことばを濁し、複雑な表情でおし黙ったまま、放心したようであった。
まさか自決するとは思っていなかったのだろう。その衝撃は、大きいようだ。」

自衛隊の最高幹部
三島自決の日の談話

378:名無しさん@お腹いっぱい。
09/02/09 16:26:29
バルコニーで絶叫する三島由紀夫の訴えをちゃんと聞いてやりたい気がした。
ところどころ、話が野次のため聴取できない個所があるが、三島のいうことも一理あるのではないかと心情的に理解した。
野次がだんだん増して行った。舌打ちをして振り返った。
…やるせなかった。無性にせつなくなってきた。
現憲法下に異邦人として国民から長い間白眼視されてきた我々自衛隊員は祖国防衛の任に当たる自衛隊の存在について、大なり小なり、隊員同士で不満はもっているはずなのに―。
…部隊別に整列させ、三島の話を聞かせるべきで、たとえ、暴徒によるものであっても、いったん命令で集合をかけた以上正規の手順をふむべきだ。
こんなありさまの自衛隊が、日本を守る軍隊であるとはおこがましいと思った。
三島がんばれ!…心の中でそう叫んだ。

K陸曹
三島演説を振り返って

379:名無しさん@お腹いっぱい。
09/02/19 14:26:09
●北方領土で長期目標を提議した森田烈士

森田必勝氏の論文は今から丁度40年前に書かれたものです。
同論から、北方領土問題に向けられた森田氏を含めた当時の保守派民族主義学生運動のうねりを感得することができます。
森田氏は民族主義運動の学生仲間と札幌、根室などを訪問して、現地の人々と交わり復帰運動の現状を探ります。
そこから自分たちの推し進めている学生運動が北方領土問題とどう取り組めるか、どんな役割が果たせるかを自分たちの「使命感」を持って真剣に模索します。
民族主義運動として、その存在をかけて何がやれるかを熱心に追究します。
論文のタイトルにあるように、森田氏は「北方領土復帰運動」を「民族運動の起爆剤」にしようと志向しています。
森田氏は北方領土に関して、政府も漁民も立場上言えないような主張を代弁することが学生としてできないかを現地で実直に思案します。
エリート学生(当時の大学進学率は低かった)として、高踏的に復帰運動を俯瞰しようとはしません。地に脚のついた立ち位置をとろうとします。

380:名無しさん@お腹いっぱい。
09/02/19 14:27:03
現地では、まず復帰運動に関わる漁民ら住民との微妙なギャップを知らされます。
森田氏らは「全千島、南樺太奪還」のスローガンを掲げているのに対して、彼らは「国後、択捉、歯舞、色丹返還」の違いがありました。
政府と地元で行われている官製運動の形態と、それらの限界にも目を向けます。
「領土に対してもっと厳粛な気持ちになって、たとえ一片の土くれ一塊の岩石であっても、我が国の領土ならばこれを守り抜いてゆく、即ち領土に対する厳粛な継続者であるということを民族の遺言に植えつける必要があると思う。
こういうことから私は、北方問題は南方問題でも同じように言えますが、これは “民族の遺言運動だ”と言いたい」
という北海道庁領土対策本部長の言葉に森田氏は感じます。
「(北方領土問題の解決は)極めて悠長だが重要で」、「世代から世代へ、親から子へと受け継がせていかない限りこの民族の怒りの火は消えてしまう」 と森田氏は思うからです。

381:名無しさん@お腹いっぱい。
09/02/19 14:27:42
●迸る領土返還への情熱と愛国心

森田氏は「北方の島々がまだ当分還ってこないとすれば、長期的、持久戦的視野も重要だ」と指摘します。
それから40年経て北方の島々は還ってきていません。進展も見ていません。
進展はありませんが、北方領土問題でソ連やロシアとの交渉に長年あたってきた諸氏はいます。過去十数年間の交渉の実態を知る資料のひとつとして、2006年上梓された『北方領土「特命交渉」』があります。

森田氏は自問します。
私たちは何のために「北方領土復帰運動」をおこなうのだろうか、と。
「たとえ、ソ連が何十年居座ろうとも、われわれは日本民族の闘いとして、この運動を続ける」と根室市での懇談会で、ある老人の発した言葉に森田氏は揺すぶられます。
いっさいの理屈を超えたところに「北方領土復帰運動」があるという老人の発言は明快そのものです。森田氏が老人の心意を直観したのは言うまでもありません。
親子の間の愛について理屈を説いて説明する必要がないように、「日本民族」はそれを育んでくれた「日本領土」への愛しみがあります。両者が一体であることに理屈はないのです。

382:名無しさん@お腹いっぱい。
09/02/19 14:28:20
何者かに民族が領土から剥がされ、その一体性が奪われたのなら、領土を奪い返して愛を回復することは当然です。
奪われた北方領土を取り戻そうとするのは日本民族の本源的な情動です。
森田氏は、「この老人の一言に、おそらく私たちすべての立場は代表される」と深く感動します。
森田氏にはこのように魂の叫びに共感する感性があります。
森田氏は1960年代後半当時の国際情勢をつぶさに分析しています。
それと北方問題を照応させ、この運動は長丁場になると的確に押さえます。
「北方領土復帰運動」を、「失われた民族心の回復と、祖国への誇りの回復」 と位置づけ、「この闘いを勝ち抜くのである」と宣します。
森田論文が発表された昭和43年(1968年)当時、民族主義学生運動という熱いうねりがありました。
この学生運動が真剣、真摯であったのはその時代の様相を反映していたのでしょう。

383:名無しさん@お腹いっぱい。
09/02/19 21:31:25

【MAD】椎名林檎 メロウ  三島由紀夫に捧ぐ
URLリンク(www.nicovideo.jp)

● メロウ ●

橙色は止まらない
黄色を探して乗り込め

お前はきっとナイフを使う僕に恐怖を覚える
蔑んでくれ

僕は何処迄も真摯なのだ“至って普通さ”

いま群れ為す背中
お前が僕よりイッちゃっているのだ
狂っている ―そうだろう?

意識は希望に素直じゃあない
回避するなんて止めておけ
お前の弁護をしているマシンをぶっ壊してあげるよ
引き攣ってくれ
僕は此処でお前に云うのだ“愛しているさ”
いま赤く染めた
お前が僕よりイッちゃっているのだ
狂っている ―そうだろう?

美しい予感・目に映る全て・儚き事象

要らぬ もう 要らぬ
嗚呼・・・

384:名無しさん@お腹いっぱい。
09/02/20 15:39:59
2chスレに駐在する三島信者のオバサンは
三島美化のためなら平気で真偽の定かでないコピペをするからな。
しかも時にそれに混ぜて三島美化の作り話までさも真実の記事のように掲載する
から恐ろしい。

385:名無しさん@お腹いっぱい。
09/02/20 17:00:25
私のは、ちゃんと出典書いてるし、ほとんど三島由紀夫全集からの引用です。
あんたが三島を知らないから嘘にみえるだけ。

386:名無しさん@お腹いっぱい。
09/02/27 11:29:10
平成2年11月25日
「題名のない音楽会」より

ワグナー「トリスタンとイゾルデ」前奏曲と愛の死
演奏 東京フェスティバルオーケストラ

(黛) 三島さん、あなたがこの世を去られてから、ちょうど二十年の歳月が流れました。長いようでもあり、短いようでもあります。
二十年前、あなたのあの壮烈な死の直後、私はこの「題名のない音楽会」であなたへの弔辞を捧げました。そのなかで私はこう言いました。
「三島さん、あなたが自らの死によって訴えたかったこと、それはあの檄文の最後にある言葉「我々の愛する歴史と伝統の、国日本を日本の真の姿に戻そう。生命尊重のみで魂が死んでもいいのか。」

この言葉にあなたの思いは集約されていると私は思います。最後のバルコニーの演説でも冒頭にあなたはこう言っている。
日本は経済的繁栄に現を抜かして精神的には空っぽになってしまった。君たち、それがわかるか、と。
自衛隊の存在も含めて潔癖なあなたは政治的ごまかしを許すことができなかった。

387:名無しさん@お腹いっぱい。
09/02/27 11:33:17
現在の日本が世界に冠たる経済的繁栄を誇りながら、それに反比例して政治の腐敗とごまかし、精神の不在と荒廃、人間の疎外と断絶、こういった憂うべき事態を深めつつあることは心ある人々の認めるところでしょう。
明治の文明開化以来、西欧流の物質主義が日本文化を支える精神主義を危殆に瀕せしめている。
あなたが自ら畢生の大作と呼んだ最後の作品「豊饒の海」であなたは唯識論と輪廻転生という東洋の思想を踏まえて、この風潮に文学的というよりはむしろ哲学的な鉄槌を下している。
あの作品の最後の部分で主人公が蝉時雨の降るような尼寺で、意外な結末に茫然と立ち尽くすあたりはまさに無の境地としか言えません。
文学ならば無で済みます。しかし、現実はそれでは済まない。
あなたは自らの命をわざわざ人が犬死にと評するような一見、愚劣な方法で劇的に絶つことにより、心ある人々に一大衝撃を与えた。まさに皮肉で逆説好きな、いかにもあなたらしい芸術的なやり方でした。

388:名無しさん@お腹いっぱい。
09/02/27 11:37:01
あなたがもし、政治家だったとしたら、こんな方法は絶対にとらなかったでしょう。
あなたが意図したことはだから、自衛隊に決起を促すクーデターではなかった。心ある人々の魂にぐさりと突き刺さる精神のクーデターだったのです。

(間)
♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪

三島さん、二十年前、あなたがあの壮烈な死を遂げられた直後、私は「題名のない音楽会」でいま言ったような弔辞を捧げました。
そして、あなたが自らの死を以て暗示してくれた精神的クーデターは近い将来、必ず起こるはずだから、どうか、あなたのこよなく愛したこのワグナーを聴きながら、幽明境を異にした天界で日本の将来を期待とともに見守っていて下さい。

このようにお願いをしました。それから二十年。日本は変わったでしょうか!
残念なことに、本当に残念なことに少しも変わってはいないのです。あなたが、死を賭して訴えた自衛隊の問題にしても未だに決着はついていません。
三島さん、あなたの名前は今でも一種のタブーです。あなたの数々の作品は芸術的には高く評価され、あなたの才能を疑う人間はいないけれど、あなたの思想は依然として危険視されています。

389:名無しさん@お腹いっぱい。
09/02/27 11:41:54
いまの日本は、二十年前、あなたがいみじくも予言した通り
「私はこれからの日本に希望が持てない。このままいったら日本は無くなってしまう。そのかわりに無機的な、空っぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜け目がない、ある経済的大国が極東の一角に残るだろう。
それでもいいと思っている人たちと私は口をきく気にもなれない」。
こういったあなたの言葉通りが現実なのです。本当に残念なことです。
三島さん、あなたがいなくなってからの二十年は、あなたが望んでいたような二十年ではありませんでした。また、これから先の日本が果たしてどうなるのか、誰にも予断はできません。
しかし、今までの二十年と同じくあまり期待のできない将来であることは、おぼろげながら予測できそうです。
ともあれ、いま、幽明境を異にしたあなたに私ができることといえば、あなたの好きだったこの曲を捧げることくらいでしょう。この曲がうたっている死とはかり合えるほどの重さを持った愛の尊さをあなたと一緒にかみしめましょう。
その愛の対象が果たして人間なのか、祖国なのか、民族なのか、天皇なのか、はたまた自分自身なのか、それはいま問わないことにしましょう。
三島さん、どうか安らかに眠って下さい。

♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪
(万雷の拍手)

390:名無しさん@お腹いっぱい。
09/03/03 00:10:38
戦後二十二年間、私は原爆について発言しなかつた。…
第一に、原爆に関しては、体験した者と体験しない者、被曝者と被曝しなかつた者といふ二つの立場以外、絶対ありえないからだ。
これがベトナム論などと根本的に違ふ点であり、そのことを忘れた発言はすべてウソである。
被曝しなかつた者が、いくら「おかはいさうに」と同情してみせても、そんなことで心慰められる被曝者は一人もゐない。
…広島に“新型爆弾”が投下されたとき、私は東大法学部の学生であつた。
…それが原爆だと知つたのは数日後のこと、たしか教授の口を通じてだつた。
世界の終りだ、と思つた。この世界終末観は、その後の私の文学の唯一の母体をなすものでもある。

三島由紀夫
「私の中のヒロシマ―原爆の日によせて」より

391:名無しさん@お腹いっぱい。
09/03/03 00:11:01
ヒロシマ。ナチのユダヤ人虐殺。まぎれもなくそれは史上、二大虐殺行為である。だが、日本人は「過ちは二度とくりかへしません」といつた。
原爆に対する日本人の民族的憤激を正当に表現した文学は、終戦の詔勅の「五内為ニ裂ク」といふ一節以外に、私は知らない。
そのかはり日本人は、八月十五日を転機に最大の屈辱を最大の誇りに切りかへるといふ奇妙な転換をやつてのけた。
一つはおのれの傷口を誇りにする“ヒロシマ平和運動”であり、もう一つは東京オリンピックに象徴される工業力誇示である。
だが、そのことで民族的憤激は解決したことになるだらうか。

三島由紀夫
「私の中のヒロシマ―原爆の日によせて」より

392:名無しさん@お腹いっぱい。
09/03/03 00:11:28
いま、日本は工業化、都市化の道を進んでゐる。明らかに“核”をつくる文化を受入れて生きてゐる。
日本は核時代に向ふほかない。単なる被曝国として、手を汚さずに生きて行けるものではない。
核大国は、多かれ少なかれ、良心の痛みをおさへながら核を作つてゐる。彼らは言ひわけなしに、それを作ることができない。
良心の呵責なしに作りうるのは、唯一の被曝国・日本以外にない。われわれは新しい核時代に、輝かしい特権をもつて対処すべきではないのか。
そのための新しい政治的論理を確立すべきではないのか。日本人は、ここで民族的憤激を思ひ起すべきではないのか。

三島由紀夫
「私の中のヒロシマ―原爆の日によせて」より

393:名無しさん@お腹いっぱい。
09/03/03 00:11:54
戦後二十二年間、平和はまさに米ソの核均衛の上に保たれてゐた。
だか、お互ひの核ドウカツだけで均衛が保たれたかといふと、さうは思へない。
第二次大戦中、広島で原爆が使はれたといふ事実、たくさんの人が死に、今も肉体的、精神的に苦しんでゐる人がゐるといふ事実がなかつたとしたら、観念的にいくら原爆の悲惨さがわかつてゐても、必ず使はれたらう。
人間とは本来、さういふものである。
…将来、小型爆弾が使はれる可能性は、皆無ではないだらう。
…だが、いちばん危険なのは、防衛力としてのABM(弾道弾迎撃ミサイル)が開発されて、攻撃力としてのICBM(大陸間弾道弾)との均衛が成立したとき、
つまり大国がICBMに対して自国の安全を守れるといふ考へに達した時であらう。

三島由紀夫
「私の中のヒロシマ―原爆の日によせて」より

394:名無しさん@お腹いっぱい。
09/03/09 22:37:56
三島由紀夫 インタビュー
URLリンク(www.nicovideo.jp)

395:名無しさん@お腹いっぱい。
09/03/12 23:54:29
三島由紀夫さんの《詩の朗読レコード》「天と海」が発売されたことについて、今では知っている方も少ない。
…このレコードの制作当時、私は大手のPR会社に勤務しており、このレコードに関する企画、制作、PRなどに深く関与していた。
…三島さんは「キミが勤めている会社のためだったら断るが、キミの個人的な頼みでやるのなら引き受けてもいいよ」と快く返事をしてくれた。
私が三島さんに知己を得たのは、学生時代にさかのぼる。当時流行していたボディビルジムでの出会いが契機となり、氏との数奇な縁が始まった。
…詩は朗読する本人にお任せすることになり、三島さんは浅野晃氏の「天と海」という長編を選んだ。
この詩の内容は、詩人で大学教授でもあった浅野氏が、学徒動員で出征し、南方の地に散っていった教え子たちの英霊に捧げる鎮魂歌であった。

川瀬賢三
「『天と海』レコード化のころ」より

396:名無しさん@お腹いっぱい。
09/03/12 23:55:45
この仕事を始めるに当たって三島さんは、「今回の制作は、私は単なる朗読の演技者であるから、全てキミの指示に従うので注文があれば遠慮なく言って欲しい」と念を押された。
…このLP盤の制作には半年ほどを要し、サラリーマン時代の私には苛酷な毎日だった。
…深夜のスタジオで、山本(直純)氏が作曲した音楽テープをバックに、独りアナブースの中で、緊張の面持ちでマイクに向かう三島さんは、まるで尊い命を南方に散らしていった若き英霊の魂が乗り移ったかの如く、鬼気迫る迫真の演技であった。
三島さんが、精魂込めて朗読したこのレコードは、現在では“幻の名盤”となり、再発売されていない。誠に残念としか言い様がない。
今は三島さんの全ての好意に感謝し、ひたすらご冥福を祈るのみである。

川瀬賢三
「『天と海』レコード化のころ」より

397:名無しさん@お腹いっぱい。
09/03/13 00:21:24
こわい

398:名無しさん@お腹いっぱい。
09/03/16 10:48:52
あーあ、今回の独立宣言を作るという話は、どうも企画倒れに終わりそうだな。
そう思いながら、新潮学芸賞を受賞した徳岡孝夫さんの「五衰の人―三島由紀夫私記」を読んでいたら、なんと、びったりの文章が出てきた。
四半世紀も前、三島由紀夫が自決したときの「檄」の一部にこういうところがある。
「われわれは戦後の日本が経済的繁栄にうつつを抜かし、国の大本を忘れ、国民精神を失ひ、本を正さずして末に走り、その場しのぎと偽善に陥り、自ら魂の空白状態へ落ち込んでゆくのを見た。
政治は矛盾の糊塗、自己の保身、権力欲、偽善にのみささがられ、国家百年の大計は外国に委ね、敗戦の汚辱は払拭されずにただごまかされ、日本人自ら日本の歴史と伝統を潰してゆくのを歯噛みしながら見てゐなければならなかつた。」
まさに、今の日本そのものじゃないか。まずこの一文を、日本の独立宣言文の冒頭に掲げるところから始めようかと思ったよ。

ビートたけし
「憲法爆破」より

399:名無しさん@お腹いっぱい。
09/03/16 16:02:23
一九六七年(昭和四十二年)春、四十二歳の三島氏は一人で四十五日間、自衛隊に体験入隊し、国防の必要性を感じ、祖国防衛隊的な組織を作ろうと政治家や財界人に働きかけたのですが成功しませんでした。
三島氏は自ら学生を集め、自衛隊に体験入隊させて祖国防衛隊を作り、のちに「楯の会」という名前を付けました。
三島氏は熱心に働きかけたのに本気にならなかった多くの財界人を見て、「財界人は一見、天皇主義者だけで、利益のために簡単に変節する連中だ」と絶望していました。

井上豊夫
「果し得ていない約束 三島由紀夫が遺せしもの」より

400:名無しさん@お腹いっぱい。
09/03/16 16:04:10
三島氏は政治活動で最も大切なのは「金銭の出どころ」だと言っていました。
約百名とはいえ、「楯の会」運動を続けるための費用はすべて三島氏個人が負担しており、外部に寄付を依頼することはありませんでした。
三島氏の事件から六年後の一九七六年(昭和五十一年)に明るみに出た「ロッキード事件」では、「自称愛国者」児玉誉士夫氏は米国ロッキード社と田中角栄首相のパイプ役として働き、アメリカ側から巨額の謝礼を受けていたことが判明し、愛国者の仮面を剥がされました。
三島氏は大卒の初任給が五万円以下の時代に、年間八百万円もの私財を「楯の会」のために使い、外部に資金援助を一切依頼せず、運動の純粋性を守り通したのでした。
三島氏が自ら自衛隊に体験入隊したあと、「祖国防衛隊構想」を財界人に説いて回ったそうですが、資本家たちは一見「天皇主義者」のように見えても、自己の経済的利益のためなら簡単に裏切る人々だと実感したそうで、以後、財界の資金援助を受けようとはしませんでした。

井上豊夫
「果し得ていない約束 三島由紀夫が遺せしもの」より

401:名無しさん@お腹いっぱい。
09/03/16 16:05:13
「楯の会」はたった百名の小さな組織でしたが権力に媚びることなく、既成右翼との接触もなく終わったのは資金の出どころが明確だったおかげだと思います。
三島氏の金銭に対する考え方は清潔で、納税することは国民として当たり前で、「自分の払った税金が自衛隊の戦闘機のタイヤ一本分くらいになっていると思うと嬉しく思うし、税金は安いくらいだと思う」と言っていました。
以前に瑶子夫人からお聞きしたところによると、インドへ旅行した折に大理石の美しいテーブルを見つけ、名前を入れてもらう約束で注文したらしいのですが、
奥さんが半額だけ現地で払い、残りは商品が着いてから払えばと勧めたのに、「僕はそんなのは嫌だ」と言って全額を現地で払ったそうです。
注文後、一年ほど商品が着かず、奥さんは心配したそうですが、無事到着し、今も南馬込の三島邸の庭先に置かれていると思います。

井上豊夫
「果し得ていない約束 三島由紀夫が遺せしもの」より

402:名無しさん@お腹いっぱい。
09/03/27 11:59:49
『週刊新潮』と『週刊文春』が偶然にも三島関連記事

 今週発売の週刊誌にいくつか三島由紀夫の記事があります。

ひとつは週刊文春の、゛皇室ジャーナリストが覗き見た三島由紀夫の生首゛という現場写真のない「家政婦は見た」風な平板な記事です。
クゥデタが進行している現場室内を一記者が覗き見ていたとは自衛隊の体たらくさが窺われます。
五人の決起部隊は人質にした益田総監が自決することを案じましたがまったく杞憂でした。
生々しい現場の様子は、ヘンリー・スコット・ストークス氏の『THE LIFE AND DEATH OF MISHIMA』のギリシャ語版193ページを見開いた左側の一葉の写真にあります。英語版、日本語版にはありません。三島氏と森田氏の首が並べられ、断ち斬られた首の断面から下も写っています。

403:名無しさん@お腹いっぱい。
09/03/27 12:03:58
もうひとつは週刊新潮の゛「美智子さまと三島由紀夫」のお見合いは「小料理屋」で行われた゛という記事です。
毎日新聞のバンコック特派員だった徳岡孝夫氏が昭和42年インドからの帰途そこに立ち寄った三島から ゛僕は美智子さんとお見合いしたことがあるんですよ゛と聞いたそうです。
「家族一緒に歌舞伎座かどこかで芝居を見て、食事をしたんだそうです」と徳岡氏は述べています。
如何なタイトルかと思い精読していませんが徳岡氏は三島評伝『五衰の人』にバンコックでの三島について詳しく(悪所通いの件まで)書いていますが、美智子さまとのお見合いの話がその時三島から出たと書かれていたか手元にないのでわかりません。
記事のタイトルにある「小料理屋」とは銀座六丁目の小さいながらも高級官僚御用達だった割烹「井上」で、ここの女将がかつて新潮の記者に「三島さんと美智子さまはウチの二階でお見合いしたんだよ」と語っていたそうです。
徳岡氏の話と繋げると三島と美智子さまは歌舞伎座からこの「井上」に回ったのでしょうか。「井上」は平成五年の時点で土地と建物が塩尻市に寄付されていますからもう営業はしていません。
歌舞伎座も来年取り壊されます。
記事は「昭和45年11月25日、新宿の自衛隊市ヶ谷駐屯地で三島由紀夫は割腹事件を起した。美智子さまは、その報せをどのような思いで聞かれたのだろうか」と結ばれています。
お見合いに臨んだ両家の生存者は今や美智子さまだけです。

404:名無しさん@お腹いっぱい。
09/04/17 14:01:33
 ケント・ギルバート氏を招いて「私の卒論もミシマ・ユキオだった」

 弁護士、タレントとして活躍のケント・ギルバートさんを招いて公開講座です。
 じつはケントさん、たいへんな親日家であることはご承知の通りでしょうが、卒論がミシマ・ユキオだった。そのあたりから日本文化と米国文化の違いなどを雑談もまじえて語っていただきます。
        記
とき      4月24日(金曜日) 午後六時半(六時開場)
ところ     市ヶ谷「アルカディア市ヶ谷」四階会議室
講師      ケント・ギルバート
演題      「私の卒論もミシマだった」(仮題)。
会費      2000円(会場分担金として)。賛助会員ならびに学生=1000円
        △
終わってから近くの居酒屋で「懇親会」があります。別途会費3000円を予定。これは希望者のみです。

405:名無しさん@お腹いっぱい。
09/04/17 14:06:32
 ケント・ギルバート氏から篤いメッセージが届きました

 「なぜ私は三島由紀夫『春の雪』に惹かれたのか?

大学一年生のときに、教会からの指示で日本へ伝道に行くように言われ、選ぶことも断ることもできないまま日本に渡った。そこで日本語を学び、帰国後は大学で日本文学を学んだ。
モルモン教徒として厳しい戒律の中で生活していたとき、三島由紀夫の「春の雪」と出会い、自由奔放に生きる主人公の姿に感銘して三島由紀夫を読むようになった。
英訳本は知りうる限り全て、後には日本語版で可能な限り読破した。学生時代、三島に関する論文も書いた。
大学時代、最初は英訳本を読んでいたが、だんだん日本語版で読むようになった。
1975年、沖縄海洋博覧会のときにスタッフとして招聘され、再び日本の地を踏む。その頃はある程度自由に日本語を操ることができるようになっていた。
大学に戻って法律大学院(ロースクール)に通っていたが、同時に日本文学学科の日本語教師を兼任していた。
モルモン教は自死を厳しく戒めているが、それは「私の世界」での自死であり、三島由紀夫の死は、モルモン教が規定している自死をはるかに上回る死である。
教徒である私(ケント)自身、三島の死の意味を、今尚考え続けている。
三島の死を考えるとき、天皇の存在を抜きには考えられないのだろうが、「究極の価値」ということなのか、と漠然と感じている。
残念ながら「文化防衛論」をまだ読んでいないので私(ケント)にはまだ天皇の本質的意味を理解できずにいる。
三島由紀夫も、時代の戒律の中で生き続けたが、作品の中では自由に、奔放に人間模様を描いている。人の生き方、存在を、もっともっと三島から学ぶべきことがあるのではないだろうか。
英語の世界(アメリカ)で、最も知名度の高い日本文学者は間違いなく三島由紀夫である。それは、作品の完成度の高さに由来すると思う。
川端文学は、結論がはっきりとしない。遠藤文学はキリスト教を題材にしているが故の評価である。それ以外はほとんど知られていない。
川端よりも三島こそがノーベル文学賞にふさわしい作家であると思っているが、なぜ三島でなく川端だったのかについても疑問に感じている。それを解明したい。

406:名無しさん@お腹いっぱい。
09/04/24 17:03:21
四谷三丁目近くの通称「河童池」と呼ばれる湿地帯近辺に住んでいる鉄筋屋の息子がゲイだそうです。
国立競技場のトレーニング・センターへ通っていたことがあるらしいので、
このアホ息子を見かけた人もいるかも知れませんが・・・(同競技場の水泳教室にも通っていたとか)・・・
人並みに日本国内の大学へ入れないために、仕方無くアメリカの三流大学へ
「語学研修」のようなかたちで送り出されたそうですけれど、その後はグレてしまって
たいへんなありさまだとか。
参考までに

407:名無しさん@お腹いっぱい。
09/05/07 23:54:07
あなたの手の傷はけっして治らないだろう
僕は信じてさえいればいいと思ってた


あなたと一生距てられたぼくがここにいる
キリストの血か、それとも僕の心臓の鼓動?

僕の愛は禁じられた色彩を帯びる
僕の生はもう一度あなたを信じる

無意味な歳月が瞬時に過ぎ
無数の人々がよろこんで命をあなたに捧げる
生き残るものは何もないのか?

自分の中にわきおこる感情を処理する術を覚えようと
自分の中に埋められた土くれに手をつっこむ

僕の愛は禁じられた色彩を帯びる
僕の生はもう一度あなたを信じる

足もとの土すら信じきれず
それでも全てのことに盲目的な信仰を示そうとしながら
何度も同じ地点にたち戻ってしまう

あなたと一生距てられたぼくがここにいる
キリストの血か、それとも心の変化?

僕の愛は禁じられた色彩を帯びる
僕の生はもう一度あなたを信じる

デヴィッド・シルビアン&坂本龍一
「禁じられた色彩」(三島由紀夫「禁色」からインスパイア)より

408:名無しさん@お腹いっぱい。
09/05/12 18:02:26
三島由紀夫、本名平岡公威氏は、府中市多摩霊園十区一種十三側三十二番、平岡家の墓碑の元においでになる。
…私が墓参に行くと、かつては真紅であったろうと思われる薔薇がドライフラワー状態になって手向けられてあった。
…「真紅の薔薇」には忘れ得ぬ記憶がある。
昭和四十五年十一月二十五日。
陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地で割腹された翌日、検死の済んだ御遺体が、詰めかけた人々で騒然としている御自宅に戻られた。
パテオに屹立していたアポロンの立像の脚元に三十本余りの真紅の薔薇が文字どおり放り投げられて散乱していた。
鎌倉の御自宅から駆けつけて来られた川端康成氏が線香をあげられたあと、その光景を凝っと視ておられ「薔薇って怖いね」と私の耳許で呟やかれた掠れ声が今も鮮明である。眼に薔薇の炎。耳に巨匠の声。―

増田元臣
「美しい人間の本性」より

409:名無しさん@お腹いっぱい。
09/05/12 18:04:44
三島さんの交誼を頂く事になったきっかけは、私が未だ慶應義塾大学の塾生だった時である。
私は幼年期から映画に取り憑かれており、塾生でありながら、増田貴光というペンネームで書いていた「映画の友」という月刊誌の寄稿文を映画好きの三島さんが読んで下さった事にある。
その月の私のコラムは「ヴィスコンティの美は禁色にあり」と題したもので、その時初めて手紙を頂いた。手紙の御礼に御自宅に赴いた私を、三島さんは楽しげにもてなして下さった。
…数日後三島さんから二通目の手紙が届いた。差し出し名は平岡公威となっており、その内容はざっと次のようなものだった。
「今後、君と付き合ってゆくにあたり、先生という敬称はやめて欲しい。君との友情に距離感が生じるようで寂しいではないか―」そして文通するについての差し出し名は平岡公威にする、と書かれてあった。
以来私も三島さんへの手紙は本名の増田元臣とした。

増田元臣
「美しい人間の本性」より

410:名無しさん@お腹いっぱい。
09/05/12 18:07:24
私が映画評論家として米国に滞在していた時、「憂国」の映画が完成したという連絡を頂き、急遽帰国した。原作、脚本、監督、主演すべて三島さん自身の作品だった。
三島さんは私独りの為に、三島さんと親交の深かった葛井欣士郎氏の劇場で「憂国」を観せて下さった。
試写が了り私が泣き濡れた顔で廊下に出て行くと、葛井氏となにやら談笑していた三島さんが驚かれた様子で、
「ほとんどが割腹シーンで占められているこの映画で、何故そのように悲しむのか」と訊かれたので、
「この映画は三島さんのダイイング・メッセージと解釈致しましたので」と私はお応えした。
その事があって以来、私は三島さんとの数々の思い出で日々を送った。

増田元臣
「美しい人間の本性」より

411:名無しさん@お腹いっぱい。
09/05/12 18:08:54
特に、三島さんがイタリアに取材に行く時と、私がローマのチネチッタ・スタジオのフェリーニとのコンタクトの時が一致して、私がお供をする形になった時のことである。
私達がフォロ・ロマーノの遺跡に立った時三島さんは冗談めかして、
「もし私がハドリアヌス帝だとしたら、君はアンティノウスになれるか」
と尋ねられたので、私は、
「勿論です!」と勢い込んで即答した。
あの時の三島さんの嬉しげなお顔は、忘れる事が出来ない。
「三島由紀夫文学」については周知である。しかし、平岡公威、という美しい人間の本性は、深海の如く神秘で、容易に理解することは出来ないだろう。

増田元臣
「美しい人間の本性」より

412:名無しさん@お腹いっぱい。
09/05/12 18:12:26
なぜ三島由紀夫wwwww

413:名無しさん@お腹いっぱい。
09/05/16 12:55:54






兵役逃れのバカ三島由紀夫は石ぶつけられて死ねよ

兵役逃れのバカ基地害が『復古主義』『愛国』『国防』『右翼』だっておwwwwww

まずお前が兵隊に行けや、卑怯者。何でコイツを非国民扱いしないんだ?

三島は結局、下民は好きなだけ戦争で殺してもいい体制を作って貴族になりたいだけの下衆、人民弾圧思想者だ

コイツの本は燃やして、出版禁止とすべき。

414:名無しさん@お腹いっぱい。
09/05/16 12:57:07
いいか屑ども

次スレタイに『兵役逃れ』『クソ華族』と入れろ 分かったな

人民弾圧と搾取と特権階級支配体制を目論む卑劣な非人間、先祖代々汚物のバカ三島由紀夫は性病野郎だ

415:名無しさん@お腹いっぱい。
09/05/16 12:59:38


こいつ、自分は特権階級者だから兵役逃れたいニダwwwwwwwって逃亡した奴じゃん





なぁ~にが『盾の会』だよwwwwwwwwww

自衛隊兵士も、卑劣漢の臭いを嗅ぎ取って、嘲笑したらしいじゃんwww
素晴らしい


三島由紀夫はコンクリ詰めにして北朝鮮に流すべき

416:名無しさん@お腹いっぱい。
09/05/16 14:56:29
天皇護持ってだけで、復古主義だの貴族だのって決めつけるって、どんだけ脳足りんなんだろ。
三島の著者も作品も一つも読んでない証拠だね。きちがい反日がバカ丸出しだわ。

417:名無しさん@お腹いっぱい。
09/05/16 16:03:49
>>416
兵役逃れという実践でもって絶対平和主義を体現なされた三島由紀夫教祖さま
兵役逃れという実践でもって絶対平和主義を体現なされた三島由紀夫教祖さま
兵役逃れという実践でもって絶対平和主義を体現なされた三島由紀夫教祖さま
兵役逃れという実践でもって絶対平和主義を体現なされた三島由紀夫教祖さま
兵役逃れという実践でもって絶対平和主義を体現なされた三島由紀夫教祖さま
兵役逃れという実践でもって絶対平和主義を体現なされた三島由紀夫教祖さま


反戦思想者の私も三島さまを崇拝してます

418:名無しさん@お腹いっぱい。
09/05/16 16:06:11
当時、病気で兵役につけない人でも非国民呼ばわりで弾圧されたのに、
華族の倅の三島さまは兵役逃れしても何の不利益もありませんでした

戦後は国防、9条廃止、天皇護持について勇ましく語っておられます


まさに、私が尊敬する牟田口中将のような方だと感銘を受けました

419:名無しさん@お腹いっぱい。
09/05/16 16:13:16
キャリア官僚の息子の三島由紀夫は、徴兵検査の時風邪を慢性病と誤診した軍医に黙秘してだまして兵役を逃れた

キャリア官僚の息子の三島由紀夫は、徴兵検査の時風邪を慢性病と誤診した軍医に黙秘してだまして兵役を逃れた

キャリア官僚の息子の三島由紀夫は、徴兵検査の時風邪を慢性病と誤診した軍医に黙秘してだまして兵役を逃れた

キャリア官僚の息子の三島由紀夫は、徴兵検査の時風邪を慢性病と誤診した軍医に黙秘してだまして兵役を逃れた

URLリンク(ja.wikipedia.org)



おーい 盾の会会員さん 説明してくだされ(笑)

420:名無しさん@お腹いっぱい。
09/05/16 16:55:26
三島の父親はキャリア官僚でもないし、華族でもないよ。兵役逃れじゃなくて医者の誤診。
ネットの捏造情報を盾にしてるバカな中国共産党のスパイがご苦労様でした。

421:名無しさん@お腹いっぱい。
09/05/16 16:59:54
>>420
ババアが華族だったんだろ?

ちゃんと兵役についてから大口叩きましょうね^^

キャリア官僚の息子の三島由紀夫は、徴兵検査の時風邪を慢性病と誤診した軍医に黙秘してだまして兵役を逃れた
URLリンク(ja.wikipedia.org)

422:名無しさん@お腹いっぱい。
09/05/16 17:03:57
何で三島由紀夫教祖さまは兵隊に行かないの??


おいおい、まさか偉大なる三島閣下が仮病なんてことは無いよなぁ?

423:名無しさん@お腹いっぱい。
09/05/16 17:05:47






424:名無しさん@お腹いっぱい。
09/05/16 17:14:15
こういう荒らし見てるとますます日本は憲法改正しないといけないと思う。

425:名無しさん@お腹いっぱい。
09/05/16 17:16:48
キャリア官僚の息子の三島由紀夫は、徴兵検査の時風邪を慢性病と誤診した軍医に黙秘してだまして兵役を逃れた

キャリア官僚の息子の三島由紀夫は、徴兵検査の時風邪を慢性病と誤診した軍医に黙秘してだまして兵役を逃れた

キャリア官僚の息子の三島由紀夫は、徴兵検査の時風邪を慢性病と誤診した軍医に黙秘してだまして兵役を逃れた

キャリア官僚の息子の三島由紀夫は、徴兵検査の時風邪を慢性病と誤診した軍医に黙秘してだまして兵役を逃れた

URLリンク(ja.wikipedia.org)



伝統(笑) 皇室(笑) 盾(笑) 決起(笑) 国体(笑)

426:名無しさん@お腹いっぱい。
09/05/16 17:27:21
熱や肺の診察は騙せないよ。

427:名無しさん@お腹いっぱい。
09/05/16 17:30:59
>>424
三島スレに来て邪魔しに来るのは護憲の中国共産党スパイだからね。

428:名無しさん@お腹いっぱい。
09/05/16 17:33:06
兵役逃れという実践でもって絶対平和主義を体現なされた三島由紀夫教祖さま
兵役逃れという実践でもって絶対平和主義を体現なされた三島由紀夫教祖さま
兵役逃れという実践でもって絶対平和主義を体現なされた三島由紀夫教祖さま
兵役逃れという実践でもって絶対平和主義を体現なされた三島由紀夫教祖さま
兵役逃れという実践でもって絶対平和主義を体現なされた三島由紀夫教祖さま
兵役逃れという実践でもって絶対平和主義を体現なされた三島由紀夫教祖さま


反戦思想者の私も三島さまを崇拝してます

429:名無しさん@お腹いっぱい。
09/05/16 17:42:10
絶対安全な場所から軍国主義思想を唱えてる奴なんて誰が信用するんだw


戦場に行って反戦主義になった人

戦場から逃亡して軍国主義になった馬鹿

↑人間の恥・三島は過酷な戦場で戦った兵士に土下座して首釣れ

430:名無しさん@お腹いっぱい。
09/05/16 17:44:11
愛国だ国防だと大声で言いながら、『皇軍』から逃げた三島は所詮オナニー野郎。

愛国だ国防だと大声で言いながら、『皇軍』から逃げた三島は所詮オナニー野郎。

431:名無しさん@お腹いっぱい。
09/05/16 21:33:21
三島は国防や憲法については論じてますが、愛国とは叫んでないし軍国主義でもありません。むしろ愛国という言葉は嫌いと言ってます。
三島を批判するなら、もっと三島の論文を読んでから出直してください。次元が低すぎて話になりませんよ。

432:名無しさん@お腹いっぱい。
09/05/18 10:49:03
私は作家として三島由紀夫とは何んの接点もなかった。そう言っていいにちがいない。
彼がすぐれた文学者であったことは私にも判っている。なみなみならぬ、ケンランたる才能の持ち主であったことも心得ている。
たとえば、「自決」前年の「蘭陵王」―ああいう作品はなかなか書けるものではない。
しかし、人間には好みというものがある。文学の好みにおいて、私は彼と接点がなかった、そう言えばいいだろう。
(中略)
とにかく好みというものがある。私には読んでいるとお尻の下がむずがゆくなって読み通せない作家がある。
いい作家かも知れないが、それを重々判っていても、駄目だ。三島由紀夫にはそんなことはなかった。けっこう読めた。

小田実
「三島由紀夫との接点」から

433:名無しさん@お腹いっぱい。
09/05/18 10:49:55
思想家としての接点はどうか。
…考えてみると、彼はあのころ大学の時計塔にたてこもった「過激派」の学生にいたく共感し、学生は学生で、彼が「自決」したとき、われわれは負けたと言ったものだ。
…そこでも私が彼と接点がなかったことは、彼の「自決」後、ある雑誌のインタビューで、私は彼の死についてしゃべった―
そのインタビュー記事の題名は、「私は畳の上で死にたい」。それがすべてを言いあらわしている。

小田実
「三島由紀夫との接点」から

434:名無しさん@お腹いっぱい。
09/05/18 10:50:40
しかし、接点がひとつあった。確実にあったと思う。
私はそのころベトナム反戦運動に精を出していた。
…私はこの「ただの市民」の運動を自分で考えてやり出し、自分でそれなりに力も時間も金も出してやった。そして、小説もとにかく書いていた。
三島も「楯の会」で同じことをしていた。彼は「楯の会」を自分で考えてやり出し、力と時間と金も出し、小説も書きながらやっていた。
それが二人の接点だった。そのころも私はそう思っていたし、今も思っている。
ついでにもうひとつ言っておけば、そうした意味での接点を私が感じとったのは、あとにも先にも、彼ひとりだ。

小田実
「三島由紀夫との接点」から

435:名無しさん@お腹いっぱい。
09/05/23 23:46:13
田母神塾 #02
URLリンク(www.nicovideo.jp)

436:名無しさん@お腹いっぱい
09/06/02 01:55:56
「見出された恋」読んだ方、面白かったですか?
文章が難解だって噂で聞いたんで

437:名無しさん@お腹いっぱい。
09/06/02 11:01:17
難解ってほどでもないですよ。
文章も優雅で、三島と満佐子さんのことが描かれていて興味深かったよ。満佐子さんにフラれた三島が気の毒でした。

438:名無しさん@お腹いっぱい。
09/06/02 16:56:55
三島由紀夫の愚かさのほとんどがアンチ三島由紀夫板に凝縮されていますね
徴兵忌避から三島思想が実は生長の家という宗教の思想であったこと
三島の割腹自殺は現人神思想によるもので、自決することによって
天皇と三島が一体化するという図々しい思想であったこと

ついでに三島が右翼思想になったのはノーベル賞が関係している
三島が「宴のあと」でノーベル賞を逃したとき、ドナルドキーンは審査員が
三島は若いし左翼思想だろうからだめだ。といい加減なことを言って三島の作品を退けたことを
三島に告げたら、あらら熱心な憂国者になりましたとさ。
バカなんだよね。そもそも日本のノーベル賞は敗戦国にも適当に受賞を散らさないと
不公平だろってことで、日本の文壇の権威に与えられることは決まってたのに、
三島は馬鹿だからドナルドの言を信じきって過激憂国アッピール!ww
三島はノーベル賞欲しかったんだねwドナルドもそう語ってるし、ノーベル賞が三島にいってれば
三島は死ななかった語っているね

ちなみに楯の会はゲイ三島が自分好みの若者を集めた集団でまともなものじゃなかった
三島は自決する道連れが欲しかっただけなんだ

439:名無しさん@お腹いっぱい。
09/06/02 16:59:23
三島信者さん早く早く!火消し急がないとどんどん火が燃え移っちゃうよw

440:名無しさん@お腹いっぱい。
09/06/02 22:00:55
>>408-411
あの増田貴光が三島と交渉を持っていたとは知りませんでした。
出典を教えてください。

441:名無しさん@お腹いっぱい。
09/06/02 23:00:14
>>438
ネットアカヒが脳内妄想ご苦労さまでした。全部前提が間違ってます。

442:名無しさん@お腹いっぱい。
09/06/02 23:02:17
>>440
全集に付録されてる月報です。

443:名無しさん@お腹いっぱい。
09/06/02 23:08:40
>>442
ありがとうございます。探してみます。

444:名無しさん@お腹いっぱい。
09/06/02 23:18:04
>>438
ちなみに、三島の右翼的思想は子供のときからずっとあるよ。
三島の少年時代のノートや手紙を知らない半可通が無知の恥さらしてご苦労さま。

445:名無しさん@お腹いっぱい。
09/06/02 23:21:41
> 三島は自決する道連れが欲しかっただけなんだ

これも違う。三島は最初は一人で自決するつもりだったが
森田があまりに熱心に「私も死にます」と言い張るから仕方なく森田にも自決を許可したのだ。

446:名無しさん@お腹いっぱい。
09/06/02 23:22:47
>>443
全集第34巻に付録されてる月報ですよ。

447:名無しさん@お腹いっぱい。
09/06/02 23:27:03
>>446
2003年に出た『決定版 三島由紀夫全集』第34巻ですか。重ね重ね、情報ありがとうございます。

448:名無しさん@お腹いっぱい
09/06/03 00:34:47
>>437
ありがとうございます。
早速、これから注文します。

449:名無しさん@お腹いっぱい。
09/06/03 00:45:40
平岡威一郎は開成学園出身だが大学は東大法学部?

450:名無しさん@お腹いっぱい。
09/06/03 11:13:25
>>449
威一郎さんは大学へは進学しなかったんじゃないかな。
真偽は定かじゃないですが、他のスレで誰かが言ってました。

451:名無しさん@お腹いっぱい。
09/06/03 12:36:31
開成なのに大学に行かないってかなり珍しいね。よほど成績が悪かったのか。

452:名無しさん@お腹いっぱい。
09/06/03 13:08:56
若者を道連れにして人生台無しにさせて自分は格好よく割腹ですか
多くの罪なき自衛隊に切りつけて何が武士だよ。武士はそんな卑怯な真似はしません

徴兵逃れの卑怯ものにふさわしい卑怯な最後だね
本当は徴兵行きたかったのに当日になってゴホゴホ咳でていけなかったお( ^ω^)
徴兵逃れした奴は大体戦後こうやって言い逃れしたんだねw

三島は子供のころから右翼的思想だった?ぷっwww
当時はみ~んな日記でも天皇万歳だったんだよw
三島が右翼的行動が目立ってきたのは「宴のあと」が落選して
ドナルドキーンに「三島は右翼じゃないから落選した」と聞かされてからだねwww
欲しかったみたいだねノーベル賞www残念三島無念の自決( ^ω^)

三島&三島信者「悔しいのう、ノーベル賞を涎たらして欲しがってたのがばれて、徴兵忌避もばれて、
        ライフワークの豊饒の海も結局生長の家思想で片付けられて、悔しいのう」
( ^ω^)
おっおっおっおっw火消し&負け惜しみ頑張れ!このスレもう見ないからw

三島信者「もうスレ見ないんじゃ反撃できない…勝ち逃げされた…悔しいのう、一生懸命釣ってみたけどやっぱり来ないのう、悔しいのう」

453:名無しさん@お腹いっぱい。
09/06/03 13:41:20
>>451
真偽は定かじゃないから本当に行ってないかは不明です。

454:名無しさん@お腹いっぱい。
09/06/03 13:50:42
>>451
ちなみに、平岡威一郎さんは三島の映画論文を編集した本を出してるよ。
映画「春の雪」のエンドロールに名前があったかな。

455:名無しさん@お腹いっぱい。
09/06/03 13:54:42
>>452
ネットアカヒが恣意解釈のかまってバカでご苦労さまでした。毎度つまんなすぎて聞きあきたわ。

456:名無しさん@お腹いっぱい。
09/06/03 14:36:43
南馬込の三島の家は冨田浩司氏と結婚した紀子さん一家が住んでいるので
いま威一郎さんは目黒に住んでいるらしい

457:名無しさん@お腹いっぱい。
09/06/03 15:12:32
三島というのは個人の筆名に過ぎないのに平岡瑤子は三島瑤子を名乗り、
平岡威一郎は三島威一郎を名乗っている。こんな奇妙な例は他にはないのではないか。

津島美知子が太宰美知子を名乗り、津島園子が太宰園子を名乗ったという話は聞いたことがない。

458:名無しさん@お腹いっぱい。
09/06/05 11:57:42
>>457
公私と分けて「三島」にしてるんじゃないかな。


459:名無しさん@お腹いっぱい。
09/06/05 19:17:29
むかし紀子さんの顔写真が写真週刊誌に載っていたが面長で三島そっくりだったね。
丸顔の瑤子さんには似なかったらしい。

460:名無しさん@お腹いっぱい。
09/06/05 19:31:23
四方田犬彦によると、中上健次は平岡瑤子に会った後で
「まったく、三島由紀夫ともあろう男がなんであんな醜い女と結婚したんだ」と蔭で嘆いていたらしい

461:名無しさん@お腹いっぱい。
09/06/05 22:12:46
>>459
へ~見たいな。

>>460
夫人の写真、何点か見るけど特に醜くはないよ。
文学風和風美人タイプじゃないけど、ハムスターや猫を可愛がる三島好みの猫顔、丸顔だね。

462:名無しさん@お腹いっぱい。
09/06/05 22:37:23
北杜夫は独身時代、瑤子さんから「北さんはなぜ結婚なさらないの」と訊かれて
「結婚するつもりだったんですが、奥さんを見たら勇気がなくなりました」と答えた。
そのとき同席していた三島は困った顔をして、瑤子さんに「北さんは物事をズケズケ言うので有名な人だから」ととりなした。

463:名無しさん@お腹いっぱい。
09/06/06 00:41:52
>>462
又聞きレベルや作り話じゃないなら出典ぐらい出せば?
北杜夫って、三島関連にほとんど出ない名前だから友達でもないでもない、ただの作家の知り合いでしょう。
そんなのが、たまたま客で呼ばれて言う言葉にしたらずいぶん不自然だね。

464:名無しさん@お腹いっぱい。
09/06/06 00:53:29
>>462
それから、あやふやな作り話で三島由紀夫以外の有名人でもない人をネットで中傷するような書き込みすると、
今は訴えられて書類送検されることもあるから注意した方がいいですよ。
その程度じゃ大丈夫だろうけどさ。

465:名無しさん@お腹いっぱい。
09/06/06 01:18:45
>>452
よく読むと、全く前後関係もめちゃめちゃだし、デタラメ解釈をここまで都合よく貼り合わせたもんだわ。
ドナルド・キーンから「極左と間違えられてノーベル賞落とされた」と聞かされたのは、三島が自衛隊活動しはじめてから、だいぶ後の話。
そのもっと前から、とっくに自衛隊に体験入隊して祖国防衛隊を作ってます。
それに「宴のあと」書いた頃の年には、まだノーベル賞の候補になってもないし、審査されてないから、
ドナルド・キーンがその時点で、何も言えるわけないしね。タイムスリップする以外は。


466:名無しさん@お腹いっぱい。
09/06/06 01:25:27
>>463
へえ、「マンボウ交友録」も読んでない知ったか野郎がシタリ顔でこんなスレに出入りしてるんだ。呆れ返った酢豆腐だね。
三島が奥野健男を介して北杜夫と知り合った最初の晩、文章の仮名遣いの間違いを北からしつこく追及されて激怒し
「天才だろうが何だろうが、俺はあんな無礼な奴は絶対に認めん!」と奥野に怒鳴った話とか、自分の小説の欠点を三島から
ズバズバ指摘された北が「いや、あれを書いたときはたまたま鬱だったので」と言い訳しようとしたら三島が憤慨して
「文学には躁も鬱もない!」と電話口で怒鳴った話とか、面白い逸話がたくさん出ているから読んでみれば?
キミに人の文章をまともに読む力があれば、の話だけど。

> 友達でもないでもない

意味不明。「友達でもなんでもない」と書きたかったのかね。何をムキになって慌てているのか不可解。

467:名無しさん@お腹いっぱい。
09/06/06 01:31:20
>>464
それから、あやふやな法知識で「訴えられて書類送検される」などと騒いでいると
逆にキミ自身の無知が露呈して笑いものにされてしまうから注意した方がいいですよ。
もう手遅れだけど。

468:名無しさん@お腹いっぱい。
09/06/06 02:02:16
>>466
普通そんなマイナーな作家の本なんか読んでる人いないよ。よほどの北杜夫ファンじゃない限り。
北杜夫なんて三島由紀夫を知ってから初めて存在を知ったしね。
その逸話を読んで、北杜夫ファンが女々しいつまらない逆恨みの粘着ですか?

469:名無しさん@お腹いっぱい。
09/06/06 02:14:29
>>467
別にそんな程度のことで笑い者にするほどのバカにこんなとこで笑われも、痛くも痒くもないよ、くだらない(笑)

470:名無しさん@お腹いっぱい。
09/06/06 14:29:09
>>468
> 普通そんなマイナーな作家の本なんか読んでる人いないよ。よほどの北杜夫ファンじゃない限り。

ほらほら、頭が悪くて何も言い返せないからといって「普通」とか「マイナー」とかいった曖昧で無意味な言葉の中に逃げ込んではいけないね。
お前は何を以て「普通」、何を以て「マイナー」とほざいてるんだ? こういう具体的な内容がない日本語は「ボクちゃんは頭の中が空っぽで
何も考えていない人間です」ということ以外何も表現していないに等しい。そんな人間がなぜ三島スレにいるのか不思議だね。
芥川賞作家かつベストセラー作家の北杜夫の著書を読んでいないというのはお前の無知と不勉強の証明にこそなれ開き直りの口実にはならないよ。
せめて池田得太郎ぐらいのレベルだったら一般的に「マイナー」と呼んでも異議は出ないかもしれないがね。

> 北杜夫なんて三島由紀夫を知ってから初めて存在を知ったしね。

なるほどなるほど。ことほど左様にお前は無知で愚鈍で文学的素養がないわけだ。でもお前がバカで日本語が不自由なのは
お前にきちんとした読書環境を与えてやらなかったお前の親のせいであって俺のせいじゃないんだよね。
そういう悲惨な自分語りはチラシの裏にでも書いていて欲しいね。

> その逸話を読んで、北杜夫ファンが女々しいつまらない逆恨みの粘着ですか?

ますますもって支離滅裂、ますますもって意味不明。俺は北杜夫の本「も」読んではいるが別にファンではないしファンと名乗った憶えもない。
「逆恨み」と言われても誰に逆恨みする必要があるのか判らんね。むしろ、三島文学に何の関心も理解もない一介の下賤なゴシップマニア(つまりお前のことね)が
好い気になってウンチクを披瀝していたらあべこべに不勉強をたしなめられて面目を失い、粘着逆恨みして意味不明な言い訳を並べているのが現況だね(笑)

471:名無しさん@お腹いっぱい。
09/06/06 14:31:18
>>469
「こんなとこで笑われも」か。痛いところを衝かれて余裕がなくなるとtypoが多くなるらしいね(笑)

472:名無しさん@お腹いっぱい。
09/06/06 14:37:57
おっと、一つ勘違い。>>462の逸話は『人間とマンボウ』(中公文庫)所収「表面的な思い出など─三島由紀夫氏」だった。
これは訂正する。

473:名無しさん@お腹いっぱい。
09/06/06 16:18:54
>>470
三島の文学に何の関心もないゴシップマニアはあなたでしょう。
自分のレスを顧みたら?
そんな細かい北杜夫とのごちゃごちゃした話なんか、三島の文学とは関係ありませんからね。
私は三島の文学作品はほぼ読んでますよ。文庫本は全部持ってるし、全集もいくつか持ってます。

それから、はっきり言って私の周りでは北杜夫を知ってる人はほとんどいませんよ。
芥川賞なんかとって昔話題になってたとしても、今現在読まれでなければ知らない人が多いのは当然でしょう。


474:名無しさん@お腹いっぱい。
09/06/06 23:54:51
>>473
横レススマソ。
三島の全集読んだりしたからって、必ずしもいい読者とは限らんよ。
読む人が読めば、長編ひとつでもその作家の真価がわかるし、
何編読んでもその作家の真価がわからず、ただ全作品読んだというだけで
得意顔で悪い評論文書いてる評論家ってたくさんいるから。

あと、北杜夫のことはわからないけど、現在読まれていないからって
取るに足らない作家だと決めつけるのはよくないよ。
そうやって文学は大衆化して衰退していったから

475:名無しさん@お腹いっぱい。
09/06/07 11:18:03
>>474
いい読者かどうかが問題にしてるんじゃなくて、三島文学に興味がないとデタラメなレッテル貼られたから、
ちゃんと三島文学作品を好きで読んでるって事実を言っただけ。
北杜夫のことも、作家の質のことまで私は言及してませんよ。
ただ現在読まれてない、って事実を述べただけです。
大衆がどうのいってるけど、昔だって芥川賞をとってそれが話題で大衆に読まれたんでしょうに。
その後、ミーハー以外の文学読みの人々に支持されていれば、多少は作品自体が何らかの形で語られて残るはずだと思いますが。

476:名無しさん@お腹いっぱい。
09/06/07 15:20:54
>>475
そうとも限らない。最近は文学が売れないせいか、大衆に知名度の低い作品は良作であっても
どんどん廃版になってるからな。
荷風の作品や鴎外の史伝も文庫なら岩波とかで集めるしかないって感じだし。
大手出版社は売れる村上春樹とか刷りまくるのに

このままじゃ谷崎は細雪と痴人の愛、川端は雪国と伊豆の踊り子といったように、大衆に「代表作」として認識
されているものだけが残って、ほかの作品が文庫では廃版になるんじゃないかと思う
実際荷風や泉鏡花はそういう煽りを受けてるような気がする

大衆化が悪いわけじゃないけど、大衆化されて出版社が売上重視になると、
やっぱ売れない文学は煽りを受けるよ

477:名無しさん@お腹いっぱい。
09/06/08 11:20:57
>>476
文学自体が読まれてないから、あまり知られていない作家でも良作があるのは当然でしょう。
だけど、それらの作家たちは、そういうふうに文学読みの人々の間やコアなファンの間で文庫絶版を惜しまれたりして、古本や何らかの形で作品が語られてますよ。

478:名無しさん@お腹いっぱい。
09/06/08 11:35:24
私は一度だけ三島由紀夫さんから葉書を頂戴したことがある。
葉書に十行足らずの簡潔な内容の便りで、私の住所がわからないため、私の著書の出版社経由で届いたのだった。
…葉書の消印は昭和三十六年五月一日。
「抒情の批判―日本的美意識の構造試論」は、当時新たに生まれたばかりだった出版社晶文社から刊行された、私のごく早い時期の著書で、
奥付によると、刊行は昭和三十六年四月二十日となっている。
つまり、三島さんはこの本が書店に並んだのとほとんど同時に、これを購入してくれていたのだった。
のみならず、三島さんは彼が発行同人(?)の一人でもあったらしい雑誌『風景』、さらに『東京新聞』書評欄でも「抒情の批判」を激賞してくれた。
それは何千部かの本がどんどん売れていくという、喜ばしい椿事を生んだ。

大岡信
「一度だけの便り」より

479:名無しさん@お腹いっぱい。
09/06/08 11:37:27
『風景』所収のものは三島さんの「日記」中、四月二十七日(木)付の一文である。
…もしこれらを読んだ時私が三島さんにそれに見合うだけの熱烈な礼状を書いていたとしたら、私のその後の人生は
多少とも変った流れになっていたかもしれない。
第一、本が書店に出まわるのとほぼ同時に銀座の本屋さんでこれを買い、〈匆々に帰宅してこれを読んだ〉と三島さんは書く。
そして〈本の副題の「日本的美意識の構造試論」の展開である「保田輿重郎ノート」といふ長文の評論を、
身も心も惹き込まれて読み、まだ会ったこともない大岡氏に、オマージュの葉書を書いた〉と三島さんはいう。
現在このような形で、自分より若い物書き、それも現代詩などというものを作っている人間に対して、熱烈というしかない
〈オマージュ〉を捧げてくれる文筆家などいるだろうか。

大岡信
「一度だけの便り」より

480:名無しさん@お腹いっぱい。
09/06/08 11:38:57
三島さんは十代のころから保田与重郎を読み、その〈謎語的文体〉に〈いつも拒絶されるやうな不快と同時に快感を味はつた〉と書く。
それは数歳年少だった私自身が感じていたものと、かなり近かった。
…三島さんが私に示された非常な好意も、戦後社会に対してどうしてもしっくりしないものを感じ続けていた精神が、
〈生の充溢感と死との結合は、久しいあひだ私の美学の中心であつた〉(「日記」)と、いわば晴れて堂々と
言い切る機会を得た満足感が、伴っていたのかもしれない。
残念だったことは、三島さんに直接お会いして、この時の礼を申しあげ、三島さんの戯曲についての賞賛的感想をのべる機会を、
永久に失ってしまったことである。

大岡信
「一度だけの便り」より

481:名無しさん@お腹いっぱい。
09/06/08 14:22:30
>>477
だから、良作文学より村上春樹とか石田衣良の方が読まれちゃってる現状が
よくないと思うんだよ
文学コアにしか読まれない、古本屋めぐりしないといけない、プレミアの値段がつく
とかそういうのって、読みもしないで書棚に珍しい本集めて悦に入ってる、俗な読書家でしょう
大衆に浸透して本当にいいものは残るっていうなら、戦後の日本人を嘆いてた三島はどうなるんだよ
大衆は所詮大衆であって、見識のあるものもいれば、ないものもいる、当てにならないものでしょ

というか、スレ違いでした、文学の未来を考える的なスレ探します

482:名無しさん@お腹いっぱい。
09/06/08 23:18:25
>>481
文学板でまた会いませう。

483:名無しさん@お腹いっぱい。
09/06/09 01:51:20
>>481
三島信者のババアは相手にしない方がいい
どうせ「文学読んでる私は知的」、「文学の中でも三島を読む私は知性溢れて感受性豊か」
「三島読んで今の日本の欠点を語れる私は頭がいい」そんな虚栄心だけで読んでんだろ
頭が悪いのに虚栄心の塊、仕事もしないニート、もう三十路も後半でお顔も醜い独身ババア。
三島の作品はそういう見栄っ張りの正味馬鹿にジャストフィットする。

現実世界じゃだぁ~れもババアの戯言に付き合ってくれないから、
毎日毎日ネット三昧の悲しい人生なんだよそのババアは


484:名無しさん@お腹いっぱい。
09/06/09 05:14:23
>>483
他人への煽りは己の自己嫌悪の裏返しにすぎない。

485:名無しさん@お腹いっぱい。
09/06/09 05:21:36
北杜夫(笑)

486:名無しさん@お腹いっぱい。
09/06/09 11:20:29
>>483
それに粘着してるあなたは私よりさらに暇人でしょうね。
名無しで書いてる私を識別できるほどまで、三島ファンでもないのに、スレをずっとガン見しているわけだから。ご苦労さまです。

487:名無しさん@お腹いっぱい。
09/06/09 15:56:19
文学の未来を語るスレはなさそうですね・・・
ヤフーのトピックにあったけど、村上春樹の新刊がやたら売れてるそうな
有名だからノルウェイの森、アフターダークっていう小説読んだけど面白くなかったな
これ文学っていうのか?って思いました正直

488:名無しさん@お腹いっぱい。
09/06/10 10:26:32
>>487
村上春樹は図書館でパラパラめくって拾い読みしたけど、じっくり読むほどでもなさそうだったから読んでないや。
私は日本語自体を堪能できる三島の「春の雪」「金閣寺」が好きです。

489:名無しさん@お腹いっぱい。
09/06/15 20:45:44
>>487
春樹の売れてるはKinKi Kidsのオリコン連続1位やジャニの初登場1位と同じ操作の売れてる詐欺

490:名無しさん@お腹いっぱい。
09/06/15 22:35:17
村上春樹てそんなにおもしろいの?
読んだことないんだけど
三島みたいにおもしろいのかな?

491:赤蜥蜴
09/06/18 00:23:47
>>490
三島由紀夫がラフマニノフかラヴェルだとしたら、
村上春樹はスガシカオって感じぢゃないかすら(笑)
BGM程度のそこそこ耳ざわりのいい、自分で買うほどでもない曲みたいなもんよ。

492:名無しさん@お腹いっぱい。
09/06/20 11:54:48
「日本語の堪能な留学生が入ってくる」というので、室の者全員が待機していると、
「平岡です。よろしくお願いします」といって現れたのが、何と三島氏だった。
昭和四十二年四月十九日のことだった。
彼は、久留米の陸上自衛隊幹部候補生学校で、その春防衛大や一般大学を卒業して入校したばかりの候補生を視察した後、
我々が教育を受けている富士学校普通科上級課程に「戦術の勉強をしたい」との目的で途中から加わってきたのだった。
…誰もが三島氏の研修目的を詮索したり、文学や芸術の話を持ち出したりすることもなく、ひとりの友人として自然に接したせいか、
すぐに打ち解け、室の雰囲気は一段と明るくなり、女性談義に花を咲かせたりした。
私はこの室の室長兼班長だったが、これに加え三島氏の対番学生(学友として寝食を共にしてお世話する係)を命ぜられた。

菊地勝夫
「三島氏の感激と挫折」より

493:名無しさん@お腹いっぱい。
09/06/20 11:55:35
教場では平岡学生と私は一番後方の長机に並んで座り、教官から出される問題を一緒に考えた。
…三島氏は問題の意味するところや私が作る案の内容の細部を真剣に聞き、自分でも
「連隊長の作戦命令の方針」を起案して発表したこともあった。
彼の案は、自衛隊の専門用語や文書の形式にとらわれていない実に力強い雅びな表現で、
固定観念に固まっている我々には、はっとさせられるものがあり、教室の雰囲気を和らげてくれた。
…夜は室で談笑したり、腹筋運動にエキスパンダーを使用したトレーニングをしたり、
ある夜は自演の映画「憂国」をクラスの全員に見せてくれたり、私といっしょに洗濯をしたりした。
当時の洗濯はまだ洗濯板に固形石鹸の時代だったので、固形石鹸をシャツにつけていた三島氏の
子供っぽい仕草が今でも目に見えるようだ。

菊地勝夫
「三島氏の感激と挫折」より

494:名無しさん@お腹いっぱい。
09/06/20 11:56:34
入校後一週間ぐらい過ぎた日に、私と話がしたいというので、彼が原稿を書いたり、東京から来る客と
応対したりするために充てられていた個室で、真剣な話を三時間以上も続けた。
「私は日本男子として国防に参加する名誉ある権利を有する。従って貴方たちは私に教える責任がある」
と彼は切り出し、次々と質問してきた。
その主な質問は、「クーデター」「憲法」「治安出勤」「徴兵制度」「シビリアンコントロール」についてだった。
その真剣さに私は、彼の入隊の本当の目的は、七十年安保に向かって騒然としつつある国内情勢に鑑み、
特に防衛大出身の幹部クラスの考え方や心意気、精密度などを肌で確認することにあったのではなかろうかと思った。

菊地勝夫
「三島氏の感激と挫折」より

495:名無しさん@お腹いっぱい。
09/06/20 11:57:27
彼はその後、同じ富士学校で教育中の幹部レンジャー課程の学生として自衛隊で最も厳しい訓練を体験し、
爽やかな印象を残して去っていった。
以後、三島氏は「檄」文に表現されたような感激を自衛隊で体験していくことになる。
三島氏は民間防衛を荷う祖国防衛隊を組織する夢を抱き、四十三年春、まず厳選された学生三十名を連れて
富士教導連隊で一ヶ月間の訓練を受けることからはじめた。
自衛隊にとっては三島氏のような知識人に自衛隊を理解してもらうことは歓迎すべきことであり、さらに、将来、
国の広い分野でリーダーとして活躍するであろう大学生の体験入隊は、特に当時の状況から願ってもないことであって、
マスコミによって潰されないように配慮して受け入れたものである。

菊地勝夫
「三島氏の感激と挫折」より

496:名無しさん@お腹いっぱい。
09/06/20 12:05:54
しかし、全国組織を目指した祖国防衛隊の構想は、政財界の協力が得られずに挫折し、自分の力で世話のできる
少数精鋭の「縦の会」へと展開していく。
そして彼は彼なりの情勢分析により、自衛隊が治安出勤する事態が来ると信じるようになる。
「縦の会」は自衛隊の尖兵としてデモ隊に突入し、あるいは皇居に乱入する暴徒に体当たりで斬り死にする
という考えに変わっていったものと思われる。
だが、四十四年の一〇・二一反戦デーの騒乱で、自衛隊の治安出勤は起こりえないと見てとった時、ほんとうの挫折を味わい、
三島氏は自衛隊にとって象徴的な場所で、自衛官たちに心の叫びで訴え、武士の最期を遂げたのだった。

菊地勝夫
「三島氏の感激と挫折」より

497:名無しさん@お腹いっぱい。
09/06/24 16:08:51
私が松濤二丁目のこの商家に嫁いだのは昭和二十二年の春のことです。当時は、近隣一帯は空襲で一面焼け野原になったままでした。
…私は二十三年に長女を産み、その子を連れてよくご近所を散歩したものです。
その折、始終三島さんの家(「平岡」という表札でした)の前を通りました。
…洋館のほうの二階の窓によく三島さんをお見かけしました。
夕方になると電気スタンドが点っていて、その光の中で白いシャツを着た三島さん(白がとてもお好きだったようです)が
いつも何か書きものをなさっていました。
人に聞くと「あの人はいまに小説家になる偉い方だ」という話でしたが、当時は私は三島由紀夫という名前は知りませんでした。
東大に行っている時分に小説を書いて一躍有名になった人ということで、とにかくいつ行ってみても、
机に座って仕事をしておられたのが印象深いのです。

原義穂
「渋谷大山町の頃の三島さん」より

498:名無しさん@お腹いっぱい。
09/06/24 16:11:09
私の家はタバコを商っていましたので、お父さまも三島さんもよくタバコを買いに見えました。
…息子さんの三島さんはよく「光」をお求めになりました。
もっともあの頃はまだ銘柄も少なかったうえに極端な品薄で選り好みなどできませんから、「光」がなければ
何でもお買いになりましたが。
どこかにお出かけになる前に立ち寄り、買ってすぐ一本抜き取ってお吸いになるというのが、あの方の習慣でした。
タバコを受け取るその手が細くて華奢だったのをよく覚えています。
それにしても三島さんはおしゃれでした。
戦後間もなくの頃ですから、おしゃれをしている人などあまり見かけることはなかったのですが、
三島さんはいつもピシッと決めていて一分の隙もなく、大山町あたりでさえすごく目立ちました。

原義穂
「渋谷大山町の頃の三島さん」より

499:名無しさん@お腹いっぱい。
09/06/24 16:12:38
夏など、真白の詰襟、真白の半ズボン、真白のハイソックス、真白の靴という、上から下まで白ずくめのいでたち。
たまに帽子をかぶっていることもありました。サファリ帽というのでしょうか、猟の時に使うような帽子で、
外国にでもいらしたことのある方かと思っていました。
服装だけでなく、三島さんはすごく清潔感のある方でした。
手もほんとにきれいでしたし、お顔なんか毎日当たるんでしょうね、頬など青白く見えるくらいでした。
いつもポマードのいい匂いをさせていました。でも、無駄口をたたくようなことはほとんどなく、
どちらかといえば「謹厳実直」という印象を受けました。
…ご一家が住んでおられた借家も今は取り壊されてなくなり、このあたりもずいぶんさま変わりしました。

原義穂
「渋谷大山町の頃の三島さん」より

500:名無しさん@お腹いっぱい。
09/07/01 11:53:13
三島さんの葬儀の日の少し前、実行委員会の打合わせがあった。
…式の段取り、各委員の仕事の分担、注意事項の検討、弔辞を読む方々の紹介があった。
その時、御父上が突然私を指名された。
思いもかけない発言に私は動転し、そのような大任の資格が私には無いと辞退した。
すると川端先生が例の鋭い目で、「資格のある人間はどこにも居ません。おやりなさい」と宣言された。
当日、私は緊張と悲しみに耐えながら弔辞を読んだ。
「私のこれまでの人生で、最高の喜びは、三島さん、あなたにお会い出来たことであり、
最大の悲しみは、あなたを喪って今ここにこうして立っていることです……」と。
私が三島由紀夫という名を識ったのは、昭和十九年、書店で見つけた「花ざかりの森」で、何故かすがすがしい感じがした。
戦後、雑誌『人間』で「煙草」を読んだ時、私はすぐ「花ざかりの森」を思い出した。

藤井浩明
「私の勲章」より

501:名無しさん@お腹いっぱい。
09/07/01 11:54:10
終戦前の昭和二十年一月、私は中島飛行機小泉工場へ勤労動員され、戦闘機を造っていた。
私たちの寮の隣りに東大法学部の学生たちがいた。
その中に三島さんがいて、明日をも知れぬ状況の中で、後に発表された小説「中世」を書き続けていたことを、
ずっと後で知って驚いた。
二十五歳までに戦争で死ぬものと覚悟していた私たちが、生きながらえて後に親交を結ぶとは……
不思議な運命を感ぜずにいられない。
私が初めて三島さんに対面したのは、昭和三十一年、「永すぎた春」映画化の交渉の時である。
…私は既に大映企画部にいて三島作品の映画化を夢見ていた。
緑ヶ丘の平岡邸で眷恋の人に対面した時、私は自信に満ち溢れた、それでいて折目正しいこの青年作家に圧倒された。
以来、私は三島文学の映画化に挑戦していった。
「金閣寺」(「炎上」)、「お嬢さん」「剣」「獣の戯れ」「憂国」「複雑な彼」「音楽」「鹿鳴館」。
そして、三島さん主演の「からっ風野郎」等。

藤井浩明
「私の勲章」より

502:名無しさん@お腹いっぱい。
09/07/01 11:55:39
「炎上」のシナリオ作業が難行している時、三島さんが「創作ノート」を見せて下さった。
絢爛たる文学が構築されてゆくプロセスが明解に読み取れ、目が開ける想いがした。
この映画は三島さんから最大の讃辞を頂き、以来、私は三島さんとの交友を深めていった。
時折、三島邸の書斎で話し込むことがあった。
私は天才的文章の錬金術師の仕事場へ忍び込んだような気持で、よく文学のことを質問した。
三島さんは門外漢の私に丁寧に誠実に答えて下さった。
当時のメモを繰ってみると、例えば「憂国」の製作準備をしていた年など、年間七十回も会っていた。
…「からっ風野郎」の後、日仏合作映画のため市川崑監督と私はパリへ飛んだ。
思いもかけず三島さんが空港へ見送りに来られた。
たまたま別便で発つ永田雅一大映社長がいた。社長は私を別室に呼んだ。
「お前のような若造を天下の三島が見送りに来る訳がない。それはお前が大映の社員だからだ。俺に感謝しろ」と。
ワンマン社長は大の三島ファンで、明らかに私に嫉妬しているのだ。三島さんには万人をひきつける魅力があった。

藤井浩明
「私の勲章」より

503:名無しさん@お腹いっぱい。
09/07/01 11:56:52
死の四日前、三島さんからいくら晩くても電話が欲しい旨の伝言があった。
深夜帰宅した私は電話で話した。
「憂国」がイタリアで上映され大好評だと伝えると、三島さんは大そう喜んで詳しいことを調べて欲しいと言った。
四日後に死を決意していることを知る由もない私は、連休明けに報告しますと約束した。
電話を切ってから、三島さんが「さようなら」と仰言ったことが何故か気に懸った。
いつもは快活に話してさっと切る人が……。
〈藤井氏はいついかなる場合にも、この作品に対する完全な愛着と信頼を少しでも失ふことがなかつた。
それがスタッフ全員をどれだけ力づけたかわからない〉
三島さんが「憂国 映画版」に書いて下さった文章は私の勲章である。
三十年祭の遺影の前に佇みながら、三島さんが以前、暇が出来たらポルトガルの鄙びた漁村を舞台に
映画を作ろうと話して下さったことを思い出した。
いつの日か私はその海辺で映画を撮影したいと思っている……。

藤井浩明
「私の勲章」より

504:名無しさん@お腹いっぱい。
09/07/07 12:49:50
主人比呂志は一九八一年の秋に逝った。
…三島さんと比呂志は、文学座時代の演劇の仕事を通じて、約十二年間のおつき合いがあった。
…後年の「黒蜥蜴」(六三年)は、三島さん脚色、演出は松浦竹夫さんで、比呂志は探偵明智小五郎、女賊は水谷八重子さんだった。
終演後、ロビーで今は亡き顔見知りの方々と談笑されていた三島さんは私を見付け近寄って来られ
「今夜の芥川さんは、六代目(尾上菊五郎)のようでしたよ」と仰言った。
帰宅後主人に伝えると「三島一流の皮肉だよ」と苦笑して云う。
その時は解らなかったが、あとで三島さんの評論集「美の襲撃」を読むと比呂志の言葉が理解できた。
三島さんが、不世出の名女形として高く評価していた六世中村歌右衛門と、六代目菊五郎についての、比較論めいた文章にぶつかる。

芥川瑠璃子
「鮮やかに甦るあの頃」より

505:名無しさん@お腹いっぱい。
09/07/07 12:51:33
ながい劇団関係のおつき合いともなると、さまざまな出来ごとがあり、三島さんも比呂志も文学座を離れることになった。
…三島さんは比呂志宛に、数多くの署名入りのご著書を贈ってくださり、私も時々借りては読んだ。
「美しい星」(新潮社)の読後、何やら興奮した比呂志は三島さんにお電話した。
劇化したい旨の相談だったらしいが、長電話に辟易されたのか断られた様子。
その時は迚も残念そうだったが、常々うちで三島さんのことが話題になったりするとき「三島、あれは天才だよ」は変らなかった。

芥川瑠璃子
「鮮やかに甦るあの頃」より

506:名無しさん@お腹いっぱい。
09/07/07 12:52:50
…後年、三島さんがお亡くなりになる一ヶ月前に、浪曼劇場で「薔薇と海賊」が再演された。
終演後に三島さんが涙を浮べ「海賊だらけになっちゃった」と呟かれたという。
同じ頃、学習院時代の先輩で「赤絵」の同人誌などで親交のあった、早逝された東氏を悼み
「東文彦作品集」(講談社)のために序文を書き、刊行の労をとられたという。
一流の皮肉や、あの有名な高笑いのかげに、「三島由紀夫十代書簡集」の頃の面影が浮ぶ。純粋な心情とあたたかさを想う。
三島さん没後、夫人の要請をうけて、主人は病躯を押して「サド侯爵夫人」を演出。
逝く二年前には「道成寺」も演出したが、「源氏供養」は念願のみで終ってしまった。
―三島さんと主人の過した、さまざまな演劇の世界、時の流れは今も消えず、折々の想念のなかに、
いまも鮮やかに甦りをつづけている。

芥川瑠璃子
「鮮やかに甦るあの頃」より

507:名無しさん@お腹いっぱい。
09/07/13 15:16:20
一九七〇年の秋、私たち三島の友人は、いつになく彼と頻繁に顔を合わせた。
当時、私は、「仮面の告白」と「潮騒」の翻訳者メレディス・ウェザビーと一緒に住んでいた。
そこに、写真家の矢頭保や、時には俳優のヨシ笈田が顔を出した。みんな三島とは旧知の間柄だった。
…日本は何処かへ行ってしまった、姿が見えなくなり、消えてしまった、僕はそう思うね、という三島の言葉を私は覚えている。
まさか、探し回ってみれば、日本はまだまだいろんなところに残っているはずだよ、と私は笑みを浮かべながら応えた。
三島は真顔で首を振った。
三島が冗談を言っているのだという思いを捨てきれなかった私は、日本を救う道はあるのかね、と訊ねてみた。
「ないね。もはや救いようがない」と三島は言った。
その言葉を聞いて、三島が冗談を言っているのではなく、大真面目なのがわかった。

ドナルド・リチー
「三島の思い出―最後の真の侍―」より

508:名無しさん@お腹いっぱい。
09/07/13 15:17:56
私は、三島が、合理主義一辺倒で、精神性を蔑ろにし、ぬるま湯に漬かったような現代日本の姿に嫌悪を催すようになり、
秩序の整っていた往時を懐かしんでいるのを知っていた。
以前、私がからかって、「楯の会」を三島のボーイスカウトだと発言したとき、三島は笑っていたが、
「数少ない彼らボーイスカウトと僕は、秩序を保つ核となるんだ」と言った。
あなたが社会の秩序を決めることができるというの、と私が訊ねると、三島は厳粛な顔で頷いた。
「あなたは誇大妄想狂だ。あなたは天皇を超えた存在だとでも」と私が冗談まじりに言うと、
三島はにこりともせずに、「そうなんだ」と言った。
私が三島に最後に会ったのは、彼の死の二、三週間まえだった。
晩餐に私たち友人を「クレッセント」に招待してくれ、食事中、何回となく西郷隆盛の話題―隆盛の最後の日々や
自決の前に隆盛を処断した親友について―にもどっていった。

ドナルド・リチー
「三島の思い出―最後の真の侍―」より

509:名無しさん@お腹いっぱい。
09/07/13 15:18:47
三島が言うには、西郷は自分では革命に失敗したことを知っていた。
武士道のあるべき姿を確立しているつもりでいたが、親政府は官僚主義に屈していたのである。
次いで、三島は、西郷の行動の美しさ、すべてが失敗に帰し、望みがすべて絶たれたとき、
西郷がとった伝統に則った自決の作法の美しさについて滔々と話し始めた。
「西郷は最後の真の侍だ」と三島が言ったのを記憶している。
だが、こう言いながらも、三島本人は自分こそ最後の侍だということを自覚していた。
今にして、私にもそのことは理解できる。
たぶん、三島はしゃべりながら、西郷に憧れて自分が企てたことを私たち友人が悟る瞬間を思い描いていたのだろう。

ドナルド・リチー
「三島の思い出―最後の真の侍―」より

510:名無しさん@お腹いっぱい。
09/07/13 15:19:32
そう思うのは、小説家としての三島は、作品の登場人物の人生ばかりか、友人の人生まで操っていたような節があるからだ。
…私たちは、三島の人生で演ずる、それぞれの役を振り当てられている。
たとえば、ドナルド・キーンは、三島の人生でもっとも重要な外国の文学上のかけがえのない友人であり、
文学や翻訳の問題点について議論できる相手だった。
私はというと、キーン氏に比べてたいした役割を担ってはいない。
私は外国人の傍観者で、三島が噂話をしたり、考えをぶつけたり、胸の内を打ち明けたりする存在だった。

ドナルド・リチー
「三島の思い出―最後の真の侍―」より

511:名無しさん@お腹いっぱい。
09/07/13 15:22:23
さらに、三島の死―彼が亡くなったという事実と自決したということ―
に対する私たちの反応においても私たちが演ずる役が決まっていたのである。
たぶん私の唯一の台詞は―「いや、違う。最後の侍は三島自身なのだ」
それが三島が私のために考えてくれた台詞かそうでないかはわからないが、三島が真の侍だったことは確かだ。
三島は、あるがままの物とそうあらねばならない物とを比較し、世間の無関心にもかかわらず、
自分でより良いと考える基準に従って生きる芯の強さを持っていた。
三島はまた、その基準に従って、侍本来のやり方で、死ぬ強さをも持ち合わせていた。

ドナルド・リチー
「三島の思い出―最後の真の侍―」より

512:名無しさん@お腹いっぱい。
09/07/14 23:25:04
ぼくがはじめて例のアポロン像のある三島邸に招待されて行ったとき、ニーチェの「悲劇の誕生」の話が出たが、
おそらく若い頃に読んだにちがいないニーチェの言葉をすらすら述べる三島の記憶力のよさに驚嘆させられた。
〈個体化は悪の根源であり、芸術とは個体化の束縛を破りうるという喜ばしい希望のことであり、
融合帰一をあらためて回復することへの予感である〉(「悲劇の誕生」)
というニーチェの言葉こそ、三島が最晩年に目指していたことそのものではなかろうか。

伊藤勝彦
「三島由紀夫の死の哲学」より

513:名無しさん@お腹いっぱい。
09/07/14 23:25:50
ミダス王がシレノスを追いつめ、人間にとってもっとも善いことは何であるかと問いつめたところ、
〈もっとも善いことは御身にとってまったく手が届かぬことだ。それは生まれてこないことだ。
次善のことは―すぐ死ぬことだ〉(同)。〈生よりも死が望ましい〉
というアポロン神学のテーゼ(この謎めいた言葉)をプラトンの描くソクラテスが解き明かそうとした。
「パイドン」には、〈哲学とは死の訓練である〉とあるが、
楯の会のメンバーと一緒に三島が死の訓練にはげんだという点においてプラトン的であるといってもいいだろう。

伊藤勝彦
「三島由紀夫の死の哲学」より

514:名無しさん@お腹いっぱい。
09/07/14 23:27:02
「対話・思想の発生―ヒューマニズムを超えて」(昭42・11番町書房)の中で、三島はぼくに対して、
〈…自分の信じていないもののために死ぬというアイロニーは、とっても魅惑的なアイロニーなんだよ。
…そして、自分が天皇陛下万歳と言って死ねば、そのアイロニーは完結するんだよ。…〉
…と語っている。たんなるイリュージョンのために人間は死ねるものではない。
三島は「人がそのために死ぬことができるような絶対者」つまり、「生命以上の価値」が
この世に存在しなければならないというゾルレン(当為)の論理に忠実であった。
…〈人がそのために死ねるもの、ある絶対的価値の存在を証明するためには、
そのために死んでみせる以外に道はない〉
このような不可解な死の哲学が三島由紀夫にとりつき、彼を自決へと直行させたのである。

伊藤勝彦
「三島由紀夫の死の哲学」より

515:名無しさん@お腹いっぱい。
09/07/16 11:17:59
三島由紀夫が小さな出版社の名前を付けた話はあまり知られていない。
三島には終戦の年の十月に勤労動員の疲れから腸チフスに罹って亡くなった妹がいた。
…たまたま私の家内がその妹の美津子と女学校時代の同窓だった。
母倭文重からその話を聞いた三島は
「あなたの奥さん、うちの妹と同級だったんですって……よかったらいちど遊びにいらっしゃいませんか」と言った。
そのころ家内は月刊の俳句雑誌『俳句とエッセイ』のほか、詩集や演劇関係の本を出す小さな出版社をはじめる準備をすすめていた。
後日揃って大森の新居に伺って、ロココ風の客間で歓談のとき三島は「こんどの出版社の名前は何んていうの」と聞いた。
私がいくつかの候補の中から牧神と牧羊の名前をあげたとき、三島はズバリ「牧羊社がいいね」と言った。
このとき家内の要望を容れて大判の色紙を用意し、墨痕鮮やかに「牧羊社」と揮毫をしてそのわきに三島由紀夫と署名した。
こんな縁で命名の儀式は思いがけなくトントン調子に行われた。

川島勝
「三島由紀夫の豪華本」より

516:名無しさん@お腹いっぱい。
09/07/16 11:18:51
…書斎に通されたとき、私は書棚に並んでいる一冊の本が目にとまった。
堅牢な黒い外函の中にベージュ色のフランス装の本が繭玉のようにひっそりと収まっていた。
ルミイ・グウルモン著、ジョルジュ・エスパニヤ画の「シモーヌ」堀口大学訳の詩画集であった。
三島は「これ学生のころからの愛蔵本ですよ。いつかぼくもこんな本を作りたいね。『岬にての物語』なんか
ぴったりと思うんだがね」といたずらっぽく言って爆笑した。
…この日は夕方までお邪魔をした。庭続きに住む両親の平岡梓夫妻も招んで、瑶子夫人の手料理の歓待を受けた。
…三島は父親と同席のときはたいてい聞き役に回っていたが、この日はとくに妹美津子と家内を重ねて当時のことを
思い出していたのか心なしか寡黙にみえた。

川島勝
「三島由紀夫の豪華本」より


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